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浄土和讃(国宝本)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2021年11月11日 (木) 22:50時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

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真宗高田派に伝持されてきた「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」の異本。昭和28年に国宝に指定されたので「国宝本」と呼称する。かっては御開山の真筆とされてきたが、一部を除き現在では真仏上人の筆であろうとされる。なお「註釈版」所収の和讃は、蓮如さんが吉崎時代に開版されたものであり、その底本は不明である。
この和讃の表示順は「文明本和讃」との対応の為に「文明本」に従っている。「国宝本」のオリジナルの表示順序は和讃の番号順である。

浄土和讃(国宝本)→原文

浄土和讃

『称讚浄土経』言 玄奘三蔵訳 「仮使経於百千倶胝那由多劫、以其无量百千倶胝那由多舌、一一舌上出无量声、讚其功徳、亦不能尽。」[1][文]

冠頭讃[2]

(正五)
弥陀の名号となえつゝ
信心まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり


(正一二)
誓願不思議をうたがひて
御名を称する往生は
宮殿のうちに五百歳
むなしくすぐとぞときたまふ

徳号列示

『讚阿弥陀仏偈』曰 曇鸞和尚造


南无阿弥陀仏 釈名『无量寿傍経』 奉賛亦曰安養


成仏已来歴十劫
寿命方将无有量
法身光輪徧法界
照世盲冥故頂礼


【一】又号无量光
【二】真実明
【三】又号无辺光
【四】平等覚
【五】又号无㝵光
【六】難思議
【七】又号无対光
【八】畢竟依
【九】又号光炎王
【十】大応供
【十一】又号清浄光
【十二】又号歓喜光
【十三】大安慰
【十四】又号智慧光
【十五】又号不断光
【十六】又号難思光
【十七】又号无称光
【十八】号超日月光
【十九】无等等
【二十】広大会
【廿一】大心海
【廿二】无上尊
【廿三】平等力
【廿四】大心力
【廿五】无称仏
【廿六】婆伽婆
【廿七】講堂
【廿八】清浄大摂受
【廿九】不可思議尊
【三十】道場樹
【卅一】真无量
【卅二】清浄楽
【卅三】本願功徳聚
【卅四】清浄勲
【卅五】功徳蔵
【卅六】无極尊
【卅七】南无不可思議光
已上阿弥陀如来尊号[已上略抄之]


『十住毗婆沙論』曰
【一】自在人 我礼 【二】清浄人 帰命 【三】无量徳W称讚

讃阿弥陀仏偈和讃

讚阿弥陀仏偈和讚
愚禿親鸞作
南无阿弥陀仏


(一)
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり


(二)
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かぶらぬものはなし
真実明に帰命せよ


(三)
解脱の光輪きわもなし
光触かぶるものはみな
有無をはなるとのべたまふ
平等覚に帰命せよ


(四)
光雲无㝵如虚空
一切の有㝵にさわりなし
光沢かぶらぬものぞなき
難思議帰命せよ[3]


(五)
清浄光明ならびなし
遇斯光のゆえなれば
一切の業繫ものぞこりぬ
畢竟依帰命せよ


(六)
仏光照耀最第一
光炎王仏となづけたり
三塗の黒闇ひらくなり
大応供帰命せよ


(七)
道光明朗超絶せり
清浄光仏となづけたり
ひとたび光照かぶるもの
業垢をのぞき解脱をう


(八)
慈光はるかにかぶらしめ
ひかりのいたるところには
法喜をうとぞのべたまふ
大安慰帰命せよ


(九)
无明の闇を破するゆへ
智慧光仏となづけたり
一切諸仏・三乗衆
ともに嘆誉したまへり


(一〇)
光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆへなれば
心不断にて往生す


(一一)
仏光惻量なきゆへに
難思光仏となづけたり
諸仏は往生嘆じつゝ
弥陀の功徳を称せしむ


(一二)
神光の離相をとかざれば
无称光仏となづけたり
因光成仏のひかりおば
諸仏の嘆ずるところなり


(一三)
光明月日に勝過して
超日月光となづけたり
釈迦嘆じてなほつきず
无等等帰命せよ


(一四)
弥陀初会の聖衆は
算数のおよぶことぞなき
浄土をねがはむひとはみな
広大会帰命せよ


(一五)
安楽无量の大菩薩は
一生補処にいたるなり
普賢の徳に帰してこそ
穢国にかならず化するなれ


(一六)
十方衆生のためにとて
如来の法蔵あつめてぞ
本願弘誓帰せしむる
大心海に帰命せよ


(一七)
観音・勢志もろともに
慈光世界を照曜し
有縁を度してしばらくも
休息あることなかりけり


(一八)
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかへりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし


(一九)
神力自在なることは
惻量すべきことぞなき
不思議の徳をあつめたり
无上尊帰命せよ


(二〇)
安楽声聞・菩薩衆
人天智慧ほがらかに
身相荘厳殊異なし
他方に順じて名をつらぬ


(二一)
顔容端政たぐひなし
精微妙軀非人天
虚无之身无極体
平等力帰命せよ


(二二)
安楽国をねがふひと
正定聚にこそ住すなれ
邪定・不定聚くにゝなし
諸仏讚嘆したまへり


(二三)
十方諸有の衆生は
阿弥陀至徳のみなをきゝ
真実信心いたりなば
おほきに所聞を慶喜せむ


(二四)
若不生者のちかひゆへ
信楽まことにときいたり
一念慶喜するひとは
往生かならずさだまりぬ


(二五)
安楽仏土の依正は
法蔵願力のなせるなり
天上天下にたぐひなし
大心力帰命せよ


(二六)
安楽国土の荘厳は
釈迦无㝵の大弁才
とくともつきじとのべたまふ
无称仏帰命せよ


(二七)
已今当の往生は
この土の衆生のみならず
十方仏土よりきたる
无量无数不可計なり


(二八)
阿弥陀仏のみなをきゝ
歓喜賛仰せしむれば
功徳の宝を具足して
一念大利无上なり


(二九)
たとひ大千世界に
みてらむ火おもすぎゆきて
仏のみなをきくひとは
ながく不退にかなふなり


(三〇)
神力无極の阿弥陀は
无量の諸仏ほめたまふ
東方恒沙の仏国より
无数の菩薩ゆきたまふ


(三一)
自余の九方の仏国も
菩薩の往覲またおなじ
釈迦牟尼如来偈をときて
无量の功徳をほめたまふ


(三二)
諸来の无量菩薩衆
徳本うえむためにとて
恭敬をいたし歌嘆す
みなひと婆伽婆帰命せよ


(三三)
七宝講堂道場樹
方便化身の浄土なり
十方来生きわもなし
講堂道場礼すべし


(三四)
妙土広大超数限
本願荘厳よりおこる
清浄大摂受に
稽首帰命せしむべし


(三五)
自利利他円満して
帰命方便巧荘厳
こゝろもことばもたえたれば
不可思議尊帰命せよ


(三六)
神力本願及満足
明了堅固究竟願
慈悲方便不思議なり
真无量帰命せよ


(三七)
宝林・宝樹微妙音
自然清和の伎楽にて
哀婉雅亮すぐれたり
清浄楽帰命せよ


(三八)
七宝樹林くにゝみつ
光耀たがひに映発す
華・菓・枝・葉またおなじ
本願功徳聚帰命せよ


(三九)
清風宝樹をふくときは
いつゝの音声いだしつゝ
宮商和して自然なり
清浄勲を礼すべし


(四〇)
一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
光明てらしてほがらかに
いたらぬところはさらになし


(四一)
一一のはなのなかよりは
三十六百千億の
仏身もひかりもひとしくて
相好金山のごとくなり


(四二)
相好ごとに百千の
ひかりを十方にはなちてぞ
つねに妙法ときひろめ
衆生を仏道にいらしむる


(四三)
七宝の宝池いさぎよく
八功徳水みちみてり
无漏の依果不思議なり
功徳蔵帰命せよ


(四四)
三塗苦難ながくとぢ
但有自然快楽音
このゆへ安楽となづけたり
无極尊帰命せよ


(四五)
十方三世の无量慧
おなじく一如に乗じてぞ
二智円満道平等
摂化随縁不思議なり


(四六)
弥陀の浄土に帰しぬれば
すなわち諸仏に帰するなり
一心をもちて一仏を
ほむるは无㝵人をほむるなり


(四七)
信心歓喜慶所聞
乃曁一念至心者
南无不可思議光仏
頭面に礼したてまつれ


(四八)
仏恵功徳をほめしめて
十方の有縁にきかしめむ
信心すでにえむひとは
つねに仏恩報ずべし


已上四十八首
愚禿釈親鸞作


阿弥陀如来 観世音菩薩 大勢至菩薩


釈迦牟尼仏 富楼那尊者 大目犍連 阿難尊者 


頻婆沙羅王 韋提夫人 耆婆大臣 月光大臣


提婆尊者 阿闍世王 行雨大臣 守門者

大経讃

浄土和讚 愚禿親鸞作


『大経』意 二十二首


(四九)
尊者阿難座よりたち
世尊の威光を瞻仰し
生希有心とおどろかし
未曽見とぞあやしみし


(五〇)
如来の光瑞希有にして
阿難はなはだこゝろよく
如是之義ととえりしに
出世の本意あらはせり


(五一)
大寂定にいりたまひ
如来の光顔たえにして
阿難の慧見をみそなはし
問斯慧義とほめたまふ


(五二)
如来興世の本意には
本願真実ひらきてぞ
難値難見とときたまひ
猶霊瑞華としめしける


(五三)
弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫とときたれど
塵点久遠劫よりも
ひさしき仏とみえたまふ


(五四)
南无不可思議光仏
饒王仏のみもとにて
十方浄土のなかよりぞ
本願選択摂取する


(五五)
无㝵光仏のひかりには
清浄・歓喜・智慧光
その徳不可思議にして
十方諸有を利益せり


(五六)
至心・信楽・欲生と
十方の諸有をすゝめてぞ
不思議の誓願あらわして
真実報土の因とする


(五七)
真実信心うるひとは
すなわち定聚のかずにいる
不退のくらゐに住すれば
かならず滅度にいたらしむ


(五八)
諸仏の大悲ふかければ
仏智の不思議をあらわして
変成男子の願をたて
女人成仏ちかひたり


(五九)
至心・発願・欲生と
十方衆生を方便し
衆善の仮門ひらきてぞ
現其人前と願じける


(六〇)
臨終現前の願により
釈迦は諸善をことごとく
『観経』一部にあらわして
定散諸機をすゝめけり


(六一)
諸善万行ことごとく
至心発願せるゆへに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり


(六二)
至心・回向・欲生と
十方衆生を方便し
名号の真門ひらきてぞ
不果遂者と願じける


(六三)
果遂の願によりてこそ
釈迦は善本徳本を
『弥陀経』にあらわして
一乗の機をすゝめける


(六四)
定散自力の称名は
果遂のちかひに帰してこそ
おしえざれども自然に
真如の門に転入する


(六五)
安楽浄土をねがひつゝ
他力の信をえぬひとは
仏智不思議をうたがひて
辺地懈慢にとまるなり


(六六)
如来の興世あひがたく
諸仏の経道きゝがたし
菩薩の勝法きくことも
无量劫にもまれらなり


(六七)
善知識にあふことも
おしふることもまたかたし
よくきくこともかたければ
行ずることもなほかたし


(六八)
一代諸教の信よりも
弘願の信楽なほかたし
難中之難とときたまひ
无過此難とのべたまふ


(六九)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ要門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ


(七〇)
聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとゞまりて
諸有に流転のみとぞなる
悲願の一乗帰命せよ


已上『大経』意

観経讃

『観経』意 九首


(七一)
恩徳広大釈迦如来
韋提夫人に勅してぞ
光台現国のそのなかに
安楽世界をえらばしむ


(七二)
頻婆沙羅王勅せしめ
宿因その期をまたずして
仙人殺害のむくひには
七重のむろにとぢられき


(七三)
阿闍世王は瞋怒して
我母是賊としめしてぞ
無道にはゝを害せむと
つるぎをぬきてむかひける


(七四)
耆婆・月光ねむごろに
是栴陀羅とはぢしめて
不宜住此と奏してぞ
闍王の逆心いさめける


(七五)
耆婆大臣おさえてぞ
却行而退せしめつゝ
闍王つるぎをすてしめて
韋提をみやに禁じける


(七六)
弥陀・釈迦方便して
阿難・目連・富楼那・韋提
達多・闍王・頻婆沙羅
耆婆・月光・行雨等


(七七)
大聖おのおのもろともに
凡愚底下のつみびとを
逆悪もらさぬ誓願に
方便引入せしめけり


(七八)
釈迦韋提方便して
浄土の機縁熟すれば
行雨大臣証として
闍王逆害興ぜしむ


(七九)
定散諸機各別の
自力の三心ひるがへし
如来利他の信心に
通入せむとねがふべし


已上『観経』意

弥陀経讃

『弥陀経』意 五首


(八〇)
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなわし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる


(八一)
恒沙塵数の如来は
万行の少善きらいつゝ
名号不思議の信心を
ひとしくひとえにすゝめたり


(八二)
十方恒沙の諸仏は
極難信ののりをとき
五濁悪世のためにとて
証成護念せしめたり


(八三)
諸仏の護念証成は
悲願成就のゆへなれば
金剛心をえむひとは
弥陀の大恩報ずべし


(八四)
五濁悪時悪世界
濁悪邪見の衆生には
弥陀の名号あたえてぞ
恒沙の信心すゝめたる


已上『弥陀経』意

諸経讃

諸経意弥陀仏和讚 九首


(八五)
无明の大夜をあわれみて
法身の光輪きわもなく
无㝵光仏としめしてぞ
安養界に影現する


(八六)
久遠実成阿弥陀仏
五濁の凡愚をあわれみて
釈迦牟尼仏としめしてぞ
迦邪城には応現する


(八七)
百千倶胝劫をへて
百千倶胝のしたをいだし
したごと无量のこゑをして
弥陀をほめむになほつきじ


(八八)
大聖易往とときたまふ
浄土をうたがふ衆生おば
無眼人とぞなづけたる
無耳人とぞのべたまふ


(八九)
无上上は真解脱
真解脱は如来なり
真解脱にいたるにぞ
无愛无疑とはあらはるゝ


(九〇)
平等心をうるときを
一子地となづけたり
一子地は仏性なり
安養にいたりてさとるべし


(九一)
如来すなわち涅槃なり
涅槃を仏性となづけたり
凡地にしてはさとられず
安養にいたりて証すべし


(九二)
歓喜信心無疑者おば
与諸如来等ととく
大信心は仏性なり
仏性すなわち如来なり


(九三)
衆生有㝵のさとりにて
无㝵の仏智をうたがへば
曽婆羅頻陀落地獄にて
多劫衆苦にしづむなり


已上諸経意

現世利益讃

現世の利益和讚 十五首


(九四)
阿弥陀如来来化して
息災延命のためにとて
『金光明』の「寿量品」
ときおきたまへるみのりなり


(九五)
山家の伝教大師は
国土人民をあわれみて
七難消滅の誦文には
南无阿弥陀仏ととなえしむ


(九六)
一切の功徳にすぐれたる
南无阿弥陀仏をとなふれば
三世の重障みなながら
かならず転じて軽微なり


(九七)
南无阿弥陀仏をとなふれば
このよの利益きわもなし
流転輪回のつみきえて
定業中夭のぞこりぬ


(九八)
南无阿弥陀仏をとなふれば
梵王・帝釈帰敬す
諸天善神ことごとく
よるひるつねにまもるなり


(九九)
南无阿弥陀仏をとなふれば
四天大王もろともに
よるひるつねにまもりつゝ
よろづの悪鬼をちかづけず


(一〇〇)
南无阿弥陀仏をとなふれば
堅牢地祇は尊敬す
かげとかたちのごとくにて
よるひるつねにまもるなり


(一〇一)
南无阿弥陀仏をとなふれば
難陀・跋難大竜等
无量の竜神尊敬し
よるひるつねにまもるなり


(一〇二)
南无阿弥陀仏をとなふれば
炎魔法王尊敬す
五道冥官みなともに
よるひるつねにまもるなり


(一〇三)
南无阿弥陀仏をとなふれば
他化天の大魔王
釈迦牟尼仏のみまへにて
まもらむとこそちかひしか


(一〇七)
天神・地祇はことごとく
善鬼神となづけたり
これらの善神みなともに
念仏のひとをまもるなり


(一〇八)
願力不思議の信心は
大菩提心なりければ
天地にみてる悪鬼神
みなことごとくおそるなり


(一〇四)
南无阿弥陀仏をとなふれば
観音・勢至はもろともに
恒沙塵数の菩薩と
かげのごとくにみにそえり


(一〇五)
无㝵光仏のひかりには
无数の阿弥陀ましまして
化仏おのおの无数の
光明无量无辺なり


(一〇六)
南无阿弥陀仏をとなふれば
十方无量の諸仏は
百重千重囲繞して
よろこびまもりたまふなり


已上現世利益
已上弥陀一百八首 釈親鸞作

勢至讃

『首楞厳経』によりて大執至菩薩和讚したてまつる


(一〇九)
勢志念仏円通えて
五十二菩薩もろともに
すなわち座よりたゝしめて
仏足を頂礼せしめつゝ


(一一〇)
教主世尊にまふさしむ
往昔恒河沙劫に
仏よにいでたまへりき
无量光となづけたり


(一一一)
十二の如来あひつぎて
十二劫をへたまへり
最後の如来をなづけてぞ
超日月光とまふしける


(一一二)
超日月光このみには
念仏三昧おしえしむ
十方の如来衆生を
一子のごとくに憐念す


(一一三)
子の母をおもふごとくにて
衆生仏を憶すれば
現前当来とおからず
如来を拝見うたがはず


(一一四)
染香人のそのみには
香気あるがごとくなり
これをすなわちなづけては
香光荘厳とまふすなり


(一一五)
われもと因地にありしとき
念仏の心をもちてこそ
无生忍にはいりしかば
いまこの娑婆界にして


(一一六)
念仏のひとを摂してこそ
浄土に帰せしむるなり
大勢至菩薩の
大恩ふかく報ずべし


已上大勢至菩薩


源空聖人之御本地也


『経』(首楞厳 経巻五)言、
「我本因地 以念仏心
入无生忍 今於此界
摂念仏人 帰於浄土。」


  1. 仮使(たと)ひ百千倶胝那由多劫を経て、その無量百千倶胝那由多の舌を以て、一一の舌の上に無量の声を出して、其の功徳を讃ずるも、亦尽くすこと能はず。「諸経讃」(八七)に
    百千倶胝劫をへて
    百千倶胝のしたをいだし
    したごと无量のこゑをして
    弥陀をほめむになほつきじ
    とある。
  2. 文明本との対応の為にここに表示。正五は国宝本の正像末和讃の五首目といふこと。正一二も同じ。
  3. 「文明本」では「難思議帰命せよ」になっている。以下十二光にも同じ。当和讃(国宝本)では「」なっていて主体は仏である。しかして文明本のように「を」とするならば対象を選択する主体は私であるように思える。なお『尊号真像銘文』には「帰命と申すは如来の勅命したがふこころなり」とあり如来が主語である。もっとも、したがう心といふ表現は約生である。