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「無明」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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2020年11月16日 (月) 21:20時点における版

むみょう

 【左訓】「煩悩の王を無明といふなり」(異本)(浄土 P.572)

 梵語アヴィドヤー(avidyā)の漢訳。真理に暗く、道理事象を明らかに理解できない精神状態をいう。最も根本的な煩悩。迷いの根源。また浄土真宗では、本願を疑い仏智を明らかに信じないことを無明という場合もある。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

むみょう 無明

 梵語アヴィディヤー (avidyā) の意訳。愚痴・無知ともいう。真理に暗く、縁起道理を知らないことをいう。あらゆる煩悩の根源となるもの。十二因縁の第一支。三毒の一。
浄土真宗では、本願を疑い仏智を明らかに信じないことを無明という場合もある。(浄土真宗辞典)

法然聖人は、

かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏霊薬腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。(選択集 P.1258)

と、無明を治する良薬は念仏であるとされていた。

浄土真宗では、仏教で一般にいわれている真如法性に背反する愚痴を痴無明とし、本願を疑うことを疑無明として、無明を二種に考察する。真如法性に背くことも、真如の顕現である本願に背くことも、どちらも人間の虚妄分別を基礎としているので本質的には同じとされる。そして、痴無明(根本無明)は死ぬまで無くならないが、疑無明は阿弥陀仏選択本願信受した時(一念)に止み、もはや生死に惑うことはないとする。まさに「信心の定まるとき往生また定まるなり」であった。(御消息 P.735)

疑情
疑蓋
性徳修徳
オンライン版 仏教辞典より転送

無明

 avidyā (S)、漢語「無明」(むめい、明無し)は目が見えない意味。
 vidyā (S)は、「knowledge, learning, science, right knowledge」などと訳されているように、正しく知ることという意味の名詞である。その否定形であるから、正しく知ることができないという意味になる。ものごとをありのまま見ない不如実知見のことである。このような意味から、「本能」という解釈をすることもある。
 vidyāの本である動詞は√vidであり、「know, understand, learn, find out」である。

 「ア(a-)」はパーリ語・サンスクリット語ともに否定辞である。このことから和辻哲郎博士は、当時西洋哲学界で流行っていた論理実証主義の影響下、「無明」を単なる「智の欠如態」だとした。ただの欠如態が生きとし生けるものを衝き動かす動力源だというのはまったく理解に苦しむ。生きとし生けるものの生存の原点の何か、これが無明だと論じていた東京大学印度哲学科の木村泰賢博士は、和辻氏から厳しく論難され、その論難が論理実証主義の実態(原文)を見ない悪しき臆断だと反論を試みたが、四十代半ばに病を得て急逝された。問題はあいまいなまま、今も何とも後味の悪さが残る。

 仏教語としての無明〈むみょう〉は、人生や事物の真相に明らかでないこと。すべては無常であり固定的なものはなにもない(無我)という事実に無知なこと。この無明がもとで固執の念(我見)をおこし、さらに種々の煩悩の発生の元となる。
 迷いの根本で、愚癡(moha)とも言われ、貪欲瞋恚と合わせて三毒と言われる。

十二縁起の無明

 また、十二因縁の第1支とされ、無明を縁として・…・老死諸法が生じ、無明が滅すれば、それらの諸法は滅するという。
 十二縁起の無明支を解釈して、『阿含経』では仏教の真理(四諦)に対する無智であるとし、渇愛と表裏の関係にあるものと見る。
 説一切有部では十二縁起を三世両重の因果を説くものと見て、無明をもって過去の煩悩の位における五薀を指すとし、その位の諸煩悩中で無明のはたらきが最もすぐれているから無明と名づけるという。
 唯識では二世一重の因果で解釈し、無明ととはなどの五果の種子を引く能引支であって、そのうちで第六意識と相応する癡で善悪のをおこすものを無明とする。

初期仏教

無明こそ最大の汚れである。比丘たちよ、この汚れを捨てて、汚れなき者となれ。  法句経 243

倶舎論

無明とは能く真実の義を見るを障うるが故に称して瞑となす。    〔T29-161c〕

阿毘達磨大毘婆沙論

 無明について、不達〈ふたつ〉・不解〈ふげ〉・不了〈ふりょう〉と定義している。

無明是何義。答不達不解不了是無明義。〔T27.0129b〕

瑜伽師地論

 諸々の事象を正しく了知しないことを無明とする。
 さらに「相応無明」と「独行無明」の2種を説く。相応無明は、貪など他の煩悩と結合するもの。独行無明(または不共〈ふぐう〉無明)は、他の煩悩と結合せず、ただ四諦などの道理を知らず愚闇なことをいう。

又此無明總有二種。一煩惱相應無明。二獨行無明。非無愚癡而起諸惑。〔T30.0622a〕

有部や唯識

 有部や唯識では無明を相応〈そうおう〉無明と不共〈ふぐう〉無明との二無明に分ける。前者はなどの根本煩悩と相応して共に起こるもの、後者は相応しないで起こるものである。
 不共無明はひとりで起こるから独頭〈どくず〉無明ともいう。ただし、唯識では不共無明をさらに恒行〈ごうぎょう〉不共無明と独行〈どくぎょう〉不共無明とに分ける。前者は第七末那識と相応する無明で、貪などの根本煩悩と相応して起こるものではあるが、すべての凡夫の心につねにたえまなくはたらく点で第六意識と相応する無明と異なるから、それ故に不共と称するとし、後者は第六意識と相応する無明で、他の根本煩悩と相応しないでひとりで起こるから不共と称するとする。この独行不共無明を、随煩悩と倶に起こらないで独り起こるか否かによって、さらに主独行無明と非主独行無明とに分ける。
 また唯識では無明を種子現行とに分け、常に衆生につき随い、第八阿頼耶識の中にかくれ眠っている無明の種子を随眠〈ずいみん〉無明といい、これに対して現れて現在にはたらく無明の現行を、衆生にまといつき衆生を縛りつけて、生死(迷いの世界)につなぎとめる意味から纏〈てん〉無明という。この纏無明には相応と不共とがあるから、随眠・纏・相応・不共の4種となり、これを四種無明(四無明)と名づける。
 また根本と枝末と、共と不共と、相応と不相応と、迷理と迷事と、独頭と倶行〈くぎょう〉と、覆業〈ふくごう〉と発業〈ほつごう〉と、種子子時と行業果〈ぎょうごうか〉と惑との15種の無明に分けることもある。

勝鬘経

 『勝鬘経』には、見惑および三界修惑である貪などと相応する相応無明を四住地の惑(見一切住地・欲愛住地・色愛〈しきあい〉住地・有愛〈うあい〉住地の4で、はじめの一は見惑、あとの三は三界の修惑を意味する)と名づけ、独行不共の無明を無始無明住地の惑とし(合わせて五住地の惑)、この無明住地はすべての煩悩の起こる根本で、ただ如来の菩提智〈ぼだいち〉だけがこれを断ちうるとする。

大智度論

 徳女は仏に申しあげていいました、
 「世尊よ、この幻の実相はその根本が存在しないにもかかわらず、しかも聞くことも見ることもできるのです。」
 仏はいいました、
 「無明もまたそれと同様である。それは内にあるのでもなく、外にあるのでもなく、内と外とにあるのでもなく、先世から後世に至り、今世から後世に至るのでもなく、また実体もなく、生ずるものも滅するものも存在しないにもかかわらず、しかも無明の因縁によって諸行が生じ、ないし多く苦の集まりが生じるのである。幻がやむと、幻としてつくり出されたものも消えてなくなるように、無明の場合にもやはり同様であって、無明が尽きると、行もまた尽き、ないし多くの苦の集まりもみな尽きるのである。」   〔vol.6 T25-101c〕
  • 無明―行―識―名色―六入―触―受―愛―取―有―生―老死という十二因縁のあとには、必ずいわゆる憂悲苦悩という苦の無まりがともなう。

起信論

 『大乗起信論』では無明は「不覚」であるとし、この不覚を根本無明と枝末〈しまつ〉無明との2無明に分ける。
 根本無明は根本不覚、無始の無明、元品〈がんぼん〉の無明、忽然念起〈こつねんき〉の無明ともいわれ、また元初の一念ともいう。即ち真如平等の理に了達しないが故に、忽然として差別対立の念が起動するその元初であって、諸々の煩悩の元始であり、迷妄のはじめであるから、他の煩悩に由って生じたものではない。それ故に「忽然」という。極めて微細〈みさい〉であり、そのために心王(こころ)と心所(心のはたらき)とを区別することのできない状態である。これは即ち無始無明住地の惑にほかならないと見られる。
 枝末無明は枝末不覚ともいわれ、根本無明によって起こされた末梢的な染汚心で、三細六麁の惑業である。

一法界に達せざるを以ての故に、心に相応せずして、忽然として念の起こるを名づけて無明となす。    〔T32-577c〕

大乗義章

癡闇之心體無慧明故。曰無明。〔T44 p.547a〕

 これから、無明の体は愚痴の煩悩である。愚痴であるから、一切の業煩悩を起こす。

摩訶止観

 中国の天台大師智顗は『摩訶止観』 の中で、の3諦・3観によって、それぞれ見思〈けんじ〉・塵沙〈じんじゃ〉無明の三惑を断つとし、無明とは非有非空の理に迷い、中道を抑えるものとする。
 この無明を断つのに、別教では十廻向で伏し、初地以上の十二階位で十二品の無明(まとめて十二品の無明があるとする)を断ちおわるとする。この場合、十廻向の最後の第十廻向で初めの無明を断って初地に入るが、この初めの無明をまた三品に分けて断つから、これを三品〈さんぼん〉の無明という。
 円教では初住以上の四十二階位で四十二品の無明(まとめて四十二品の無明があるとする)を断ちおわるが、この場合第五十一位である等覚の最後心で妙覚智が顕れ、それによって断たれる最後の無明を、元品の無明、無始の無明、最後品の無明という。ただしこれは一往の説で、実は円教では三観には順序次第を立てず、一心をもって観ずるのであるから、三惑は同体で同時に断たれるという。

教証

「癡」と同じ。事理において愚にして、之に了達しない精神状態を言う。

 無明を縁として行あり、乃至純大苦聚集あり。無明滅するが故に行滅し、乃至純大苦聚集滅す。  〔雑阿含経12、T2.0098b〕
 癡を縁として行あり。  〔長阿含経、10、大縁経〕

これらは、無明は能く行の縁となり、乃至苦果があることを説いている。
 無明の語義に対して、

 問う、何が故に無明と名づくる、無明は是れ何の義なりや。答う、不達、不解、不了、是れ無明の義なり。問う、若し爾らば無明を除きて諸余の法も亦不達不解不了なり、何が故に無明と名づけざる。答う、若し亦不達不解不了にして愚痴を以て自相と為すものは是れ無明なり。余の法は爾らざるが故に無明に非ず。  〔毘婆沙論25、T27.0129b〕
 無明とは所智の事に於いて善巧なること能わず、彼彼の処に於いて正しく了知せず。  〔瑜伽師地論、84〕

この二つの解釈は、不達不解不了であって、しかも愚痴を自相とするものを無明としている。
 ただし、説一切有部では、十二因縁は三世両重の因果を説いたものだとするから、その中の無明は総じて過去の煩悩を指して言う。

 云何が無明なる、謂く過去の煩悩の位なり。  〔毘婆沙論、23〕
 宿生の中に於ける諸の煩悩の位より今の果熟に至るまでを総じて無明と謂う。彼れと無明と倶時に行ずるが故に、無明の力に由りて彼れ現行するが故なり。王の行くに導従なきに非ざるも、王は但だ勝るゝが故に総じて王行くと謂うが如し。  〔倶舎論9、T29.0048b〕

このように、過去宿生のうちの諸々の煩悩の位から現在の5果の熟するまでを、総じて無明支と名づけたものである。この位のの中にさまざまな煩悩があるとはいえ、無明のはたらき(用)がもっとも勝っているので、無明の名を立てている。

 一に能引支とは謂く無明と行となり、能く識等の五果の種を引くが故なり。此の中、無明は唯能く正しく後世を感ずる善悪の業を発する者のみを取る。即ち彼の所発を乃ち名づけて行と為す。  〔成唯識論、8〕

 無明には、相応無明、不共無明の別がある。

 見苦所断に十の無明あり、七は是れ遍行なり、即ち五見と疑との相応及び不共無明なり。三は非遍行なり、即ち貪瞋慢相応の無明なり。見集所断に七の無明あり、四は是れ遍行なり、即ち二見と疑との相応及び不共無明なり。三は非遍行なり、即ち貪瞋慢相応の無明なり。  〔毘婆沙論、18〕
 此の無明に総じて二種あり、一に煩悩相応の無明、二に独行の無明なり。愚痴なくして而も諸惑を起こすに非ず、是の故に貪等の余惑と相応する所有の無明を煩悩相応無明と名づく。若し貪等の諸の煩悩纏なく、但だ苦等の諸諦の境中に於いて不如理作意の力に由るが故に、鈍慧の士夫補特伽羅の諸の不如実簡択の覆障纏裹闇昧等の心所の性を独行無明と名づく。  〔瑜伽師地論、58〕

 これは、貪等の諸惑と相応する無明を相応無明と言い、貪等と相応せず、ただ苦集滅道の四諦の境において如実に簡択せず、覆障闇昧の性のものを独行の無明とするのである。
 この中で、『勝鬘経』には相応無明を四住地煩悩と名づけて、独行無明を無始無明住地とする。同経の一乗章に

 煩悩に二種あり、何等をか二となす、謂く住地の煩悩及び起煩悩なり。住地に四種あり、何等をか四となす、謂く見一処住地、欲愛住地、色愛住地、有愛住地なり。此の四種の住地は一切の起煩悩を生ず、起とは刹那の心と刹那に相応す。世尊、心不相応の無始無明住地あり、世尊、此の四住地の力は一切上煩悩の依種なるも、無明住地に比すれば算数譬喩の及ぶ能わざる所なり。‥‥是の如く無明住地の力は有愛数の四住地に於いて其の力最も勝る。恒沙等の数の上煩悩の依にして、亦四種の煩悩をして久しく住せしむ。阿羅漢辟支仏の智の断ずる能わざる所、唯如来の菩提智の能く断ずる所なり。  〔勝鬘経 一乗章〕

 これは、見所断および三界修所断の貪等と相応する無明を四住地の煩悩と名づけ、心不相応の独行不共の無明を無始無明住地とし、無明住地は一切煩悩の根本であって、ただ如来の菩提智のみよくこれを断ずることができることを明らかにしている。
 また『大乗起信論』に六染心をあげて、前の執相応染、不断相応染、分別智相応染の3を相応無明とし、後の現色不相応染、能見心不相応染、根本業不相応染の3を不相応とするのも、これと同じ意味と見られる。この論では相応・不相応の意義を解釈して

 相応の義と言うは、謂く心と念とは法異にして染浄差別するも、而も知相縁相同じきが故なり。不相応の義とは、謂く心に即する不覚にして常に別異なく、知相縁相を同じくせざるが故なり。  〔大乗起信論〕

これは、相応無明は心と相応した無明であるから、心とその体に別異があるが、不相応無明は心に即することがないので、心と無明の体に別がないとするのである。この説は、元々華厳の三界一心の説に基づいて説かれたものである。

 又是の念を作す、如実に第一義を知らざるが故に無明あり、無明より起る業是を行と名づく。‥‥又是の念を作す、三界は虚妄にして但だ是れ心の作なり、十二縁分は是れ皆心に依る。  〔旧華厳経、25、十地品〕
又作是念。三界虚妄。但是心作。十二縁分。是皆依心。所以者何。隨事生欲心。是心即是識。事是行。行誑心故名無明。〔大方廣佛華嚴經 佛馱跋陀羅譯、T09.0558c〕

これは三界十二縁起の相は但だ心の所作であることを明かしたもので、起信論や唯識などの教義は、全てこれに依憑して起こったものである。とりわけ『起信論』に不相応無明を心に即する不覚とするのは、この経に出る心をもって阿梨耶識とみなし、この識を真妄和合とすることによる。つまり、阿梨耶識を無明の依止とする意味であろう。
 しかし、唯識では阿梨耶識を無覆無記の異熟識としてみているので、第7阿陀那識を執識と名づけて、無明は阿陀那識をもって依止とするのである。

 此の無明は若し依止を離れば則ち有ることを得ず、此の無明の依止は若し阿陀那識を離れば別体あることなし。  〔梁訳摂大乗論釈、1〕
 阿陀那とは、此の方に正翻して名づけて無解となす、体は是れ無明癡闇の心なるが故なり。  〔大乗義章、3末、八識義〕

 また、『成唯識論』第5では、不共無明に恒行不共、独行不共の2種があるとして、独行不共は余識にもあるが、恒行不共はただ第7末那識にのみあり、この無明は無始以来恒行して真義智を障げるから恒行と謂うのだとし、同じく第7識をその体とすると言う。要するに、無明は癡闇の本性であって、その体もつまり癡と別ではない。だから、『婆沙論』などには、これを貪等とともに十使、九結、四暴流、三漏、三不善根などの一つとするのだが、諸経では十二因縁の第一として説いているので、したがって無明をもって生老病死の本元、一切煩悩の根本として、また共不共の二種の中、不共独行を無明の正体として、これを他の見修所断の相応諸煩悩と区別して、諸諦の第一義を覆障する元初の迷妄であって、ただ如来の菩提智のみが断ずることができる、とすることになったのである。
 『摩訶止観』第6上などに、見思塵沙無明の三惑を分けて、そのなかで無明をもって中道第一義諦に惑う界外の別惑として、別教には十回向にこれを伏して、初地以上妙覚に至って12品の無明を断じ、圓教では初住以上妙覚に至って42品の無明を断ずるとする。最後品の無明を元品の無明と名づけたのは、『勝鬘経』などの説を承けたものであって、無明に関してもっとも精緻な分類をしたものと言えるだろう。