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「獲得名号自然法爾」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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「名」字は、因位のときのなを名といふ。<br />
 
「名」字は、因位のときのなを名といふ。<br />
 
「號」字は、果位のときのなを號といふ。<br />
 
「號」字は、果位のときのなを號といふ。<br />
「自然」といふは、[自]はおのづからといふ、行者のはからいにあらず、しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず、如來のちかひにてあるがゆへに。「法爾」といふは、この如來のおむちかひなるがゆへに、しからしむを法爾といふ。法爾は、このおむちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひなきをもて、この法のとくのゆへに、しからしむといふなり。すべて、人のはじめてはからはざるなり。このゆへに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむといふことばなり。<br />
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「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからいにあらず、しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず、如來のちかひにてあるがゆへに。「法爾」といふは、この如來のおむちかひなるがゆへに、しからしむを法爾といふ。法爾は、このおむちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひなきをもて、この法のとくのゆへに、しからしむといふなり。すべて、人のはじめてはからはざるなり。このゆへに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむといふことばなり。<br />
  
 
彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿彌陀とたのませたまひて、むかへむとはからはせたまひたるによりて、行者のよからむともあしからむともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝて候。ちかひのやうは、无上佛にならしめむとちかひたまへるなり。无上佛とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに、自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせむとて、はじめて彌陀佛とぞときゝならひて候。みだ佛は、自然のやうをしらせむれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。
 
彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿彌陀とたのませたまひて、むかへむとはからはせたまひたるによりて、行者のよからむともあしからむともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝて候。ちかひのやうは、无上佛にならしめむとちかひたまへるなり。无上佛とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに、自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせむとて、はじめて彌陀佛とぞときゝならひて候。みだ佛は、自然のやうをしらせむれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。

2017年11月7日 (火) 10:00時点における版

  • 顕智書写本(浄土真宗聖典全書二 p773)


「獲」字は、因位のときうるを獲といふ。
「得」字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。
「名」字は、因位のときのなを名といふ。
「號」字は、果位のときのなを號といふ。
「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからいにあらず、しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからいにあらず、如來のちかひにてあるがゆへに。「法爾」といふは、この如來のおむちかひなるがゆへに、しからしむを法爾といふ。法爾は、このおむちかひなりけるゆへに、すべて行者のはからひなきをもて、この法のとくのゆへに、しからしむといふなり。すべて、人のはじめてはからはざるなり。このゆへに、他力には義なきを義とすとしるべしとなり。「自然」といふは、もとよりしからしむといふことばなり。

彌陀佛の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南无阿彌陀とたのませたまひて、むかへむとはからはせたまひたるによりて、行者のよからむともあしからむともおもはぬを、自然とはまふすぞときゝて候。ちかひのやうは、无上佛にならしめむとちかひたまへるなり。无上佛とまふすは、かたちもなくまします。かたちのましまさぬゆへに、自然とはまふすなり。かたちましますとしめすときには、无上涅槃とはまふさず。かたちもましまさぬやうをしらせむとて、はじめて彌陀佛とぞときゝならひて候。みだ佛は、自然のやうをしらせむれうなり。この道理をこゝろえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは佛智の不思議にてあるなり。

愚禿親驚八十六歳   
正嘉二歳戊午十二月日、善法坊僧都御坊、三條とみのこうぢの御坊にて、聖人にあいまいらせてのきゝがき、そのとき顕智これをかくなり。