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現代語 総序

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

現代語 総序

出典:梯實圓著 教行信証「教行の巻」第一刷 発行:本願寺出版社
このページは、聖典と一体化してこそ意味があるので転載禁止です。

(1)

 ひそかに想うに、人の思いをはるかに超えて万人を包む広大な本願は、渡りがたい苦悩の海を渡したまう大いなる船であり、すべての人をさわりなく救いたまう阿弥陀仏の光明は、私たちの無智の闇をやぶって、心に真実の明るさをもたらす、太陽のように輝く智慧の徳そのものです。

 それゆえ浄土の教えを説くべき機縁が熟するや、提婆達多は、阿闍世太子をそそのかして父王殺害という逆悪をおこさせ、それによって浄土往生の行業(念仏) を授けるにふさわしい救済の対象が現れたので、釈迦如来は葦提希夫人に、安養浄土を願生すべきところとして選定せしめられたのでした。

 この 『観無量寿経』 の教説によって、大悲還相の菩薩たちは、仮に提婆や阿闍世や、葦提希となって我らの前に現れ、阿弥陀仏が苦しみ悩むすべてのものを平等に救おうとされていることを知らせ、仏陀の大悲は、五逆罪や謗法のもの、さらには成仏の縁が絶えているといわれる一闡提を正しき救いの対象として、それに真実の道を恵み与えようと思し召していることがわかります。

 それゆえ自他不二、生死一如とさとりきわめた阿弥陀仏の無上の徳を円かに具えている名号は、人びとの煩悩悪業をそのままさとりの徳にかえていく智慧のはたらきをもっており、阿弥陀仏よりたまわった金剛堅固の信心は、私たちの疑いを除いて、さとりを完成させるはたらきをもつ真理そのものであることがわかります。

 こういうわけですから、浄土真宗は、下劣な凡夫も行いやすい真実の教法であり、どのような愚かなものも易く、しかも速やかに往生することのできる成仏の近道です。釈尊がその一代に説かれたさまざまな教えのなかで、この海のような広大無辺な徳をもつ本願の教法に勝るものはありません。

 煩悩に汚れた穢土を厭い、清らかな涅槃の浄土を願いながら、自力のはからいをまじえて本願を疑うから、歩むべき行道に迷い、まことの信心の何たるかを知らずに惑い続け、心は迷妄に閉ざされて暗く、さとらねばならない大切な事柄についてはあまりにも無知であり、しかも身に具えた悪は重く、障りの多いものは、とりわけ浄土往生を勧めたまう釈迦如来の発遣を仰ぎ信じ、最も勝れたさとりへの道である本願に帰依して、如来よりたまわったこの行にひたすら奉え、ひとえにこの信心を崇めなさい。

 ああ、このような力強い本願力には、いくたび生を重ねても値(あ)いたてまつることは難く、清らかな真実の信心は、無量劫を経ても、獲る機会はなかった。思いがけなくも、いま行信を獲、本願を信じ、念仏をもうす身になったものは、遠い過去世からの阿弥陀仏のお育てのご縁に思いを致して慶べ。もしまた、このたびも疑いの綱に覆い隠されて本願の法をいただかないようなことがあれば、ふたたびまた永劫の迷いを続けねばなりません。

 誠なる仰せではありませんか、私たちを摂め取って捨てぬとの真実の言葉、世にたぐいなき正法は。この真実の教えを、はからいなく聞き受けて、決して疑いためらってはなりません。

 ここに愚禿釈の親鷲は、まことに慶ばしいことに、遇いがたいインド・西域の聖典をはじめ、中国・日本の祖師たちの御釈にいま遇わせていただくことができ、聞きがたい教えをすでに聞かせていただくことができました。これによって浄土真宗の教行証のおみのりを敬い信じ、ことに如来の恩徳の深いことを知らせていただきました。そこで、聞かせていただいたおみのりをこころから慶び、わが身に獲させていただいている教えをたたえさせていただくために、この書を著すのです。


以下は本願寺出版の現代語の総序


 わたしなりに考えてみると、思いはかることのできない阿弥陀仏の本願は、渡ることのできない迷いの海を渡してくださる大きな船であり、何ものにもさまたげられないその光明は、煩悩の闇を破ってくださる智慧の輝きである。

 ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは、菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来の慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものを救おうとお思いになったのである。

 このようなわけで、浄土の教えは凡夫にも修めやすいまことの教えなのであり、愚かなものにも往きやすい近道なのである。釈尊が説かれた教えの中で、この浄土の教えに及ぶものはない。

 煩悩に汚れた世界を捨てて清らかなさとりの世界を願いながら、行に迷い信に惑い、心が暗く知るところが少なく、罪が重くさわりが多いものは、とりわけ釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこのもっともすぐれたまことの道に帰して、ひとえにこの行につかえ、ただこの信を尊ぶがよい。

 ああ、この大いなる本願は、いくたび生を重ねてもあえるものではなく、まことの信心はどれだけ時を経ても得ることはできない。思いがけずこの真実の行と真実の信を得たなら、遠く過去からの因縁をよろこべ。もしまた、このたび疑いの網におおわれたなら、もとのように果てしなく長い間迷い続けなければならないであろう。 如来の本願のなんとまことであることか。摂め取ってお捨てにならないという真実の仰せである。世に超えてたぐいまれな正しい法である。この本願のいわれを聞いて、疑いためらってはならない。

 ここに愚禿釈の親鸞は、よろこばしいことに、インド・西域の聖典、中国・日本の祖師方の解釈に、遇いがたいのに今遇うことができ、聞きがたいのにすでに聞くことができた。そしてこの真実の教・行・証の法を心から信じ、如来の恩徳の深いことを明らかに知った。

そこで聞かせていただいたところをよろこび、得させていただいたところをたたえるのである。