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「現生十益」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:1.'''冥衆護持の益'''
 
:1.'''冥衆護持の益'''
::「[[冥衆]]」とは、[[凡夫]]にはあらわに見えない[[衆生]]のことで、ここでは観音・勢至、普賢・文殊、弥勒等の諸大菩薩や、一切の善悪の鬼神に至るまですべてを冥衆といわれている。菩薩が、念仏の行者を護りたまうのは当然であるが、[[神祇]]は本来仏教以外の宗教における信仰の対象であった。しかし、神々のなかには、梵天や帝釈天のように仏教に帰依して、生死を離れたものは、その報恩のために仏教と仏教徒を守護するようになる。それを護法善神と呼び、反対に人々に害悪を加え、仏道修行の妨げをする神々を悪鬼神と呼んでいた。聖人は、このような神祇観を日本の神々にも適用されたわけである。
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::「[[冥衆]]」とは、[[凡夫]]にはあらわに見えない[[衆生]]のことで、ここでは[[観世音菩薩|観音]]・[[大勢至菩薩|勢至]]、[[普賢]]・[[文殊師利菩薩|文殊]]、[[弥勒]]等の諸大菩薩や、一切の善悪の鬼神に至るまですべてを冥衆といわれている。菩薩が、念仏の行者を護りたまうのは当然であるが、[[神祇]]は本来仏教以外の宗教における信仰の対象であった。しかし、神々のなかには、梵天や帝釈天のように仏教に帰依して、生死を離れたものは、その報恩のために仏教と仏教徒を守護するようになる。それを護法善神と呼び、反対に人々に害悪を加え、仏道修行の妨げをする神々を悪鬼神と呼んでいた。聖人は、このような神祇観を日本の神々にも適用されたわけである。
 
:2.'''至徳具足の益'''
 
:2.'''至徳具足の益'''
 
::「[[至徳]]」とは、至極の[[功徳]]ということで、仏陀が完成された[[悲智]]円満の徳を言う。如來回向の信楽には、如来の智徳である[[至心]]と、[[大悲]]の徳である[[欲生]]とを具した悲智円満の信心であるからよく往生成仏の因種となることを[[至徳具足]]といわれたのである。
 
::「[[至徳]]」とは、至極の[[功徳]]ということで、仏陀が完成された[[悲智]]円満の徳を言う。如來回向の信楽には、如来の智徳である[[至心]]と、[[大悲]]の徳である[[欲生]]とを具した悲智円満の信心であるからよく往生成仏の因種となることを[[至徳具足]]といわれたのである。
 
:3.'''転悪成善の益'''
 
:3.'''転悪成善の益'''
::これは、如来の無碍の救いの働きを信心の徳として示されたものである。自他の隔てを超え、生死を超えて[[円融無碍]]の悟りの智慧の徳をたまわっている威徳広大の信心には、煩悩の氷を溶かして菩提の水とならしめる徳用がある。そのような徳を得ていることを言う。
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::これは、如来の無碍の救いの働きを信心の徳として示されたものである。自他の隔てを超え、生死を超えて[[円融無碍]]の悟りの[[智慧]]の徳をたまわっている威徳広大の信心には、煩悩の氷を溶かして菩提の水とならしめる徳用がある。そのような徳を得ていることを言う。
 
:4.'''諸仏護念の益'''
 
:4.'''諸仏護念の益'''
 
::信心の行者は、十方無量の諸仏によって常に[[護念]]されている。すなわち、十方の諸仏は阿弥陀仏の本願を[[証誠]]し、人々の疑心を破って信心の行者たらしめ、その信心が退転しないように[[護念]]し、また、行者がさまざまな悪縁を乗り超えて浄土に向かうよう護り続けたまうことをいう。
 
::信心の行者は、十方無量の諸仏によって常に[[護念]]されている。すなわち、十方の諸仏は阿弥陀仏の本願を[[証誠]]し、人々の疑心を破って信心の行者たらしめ、その信心が退転しないように[[護念]]し、また、行者がさまざまな悪縁を乗り超えて浄土に向かうよう護り続けたまうことをいう。
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::本願を信じ、念仏する人を『大経』には「則我善親友」([[大経下#P--47|大経 P.47]]) と讃え、『観経』には念仏者は「人中の分陀利華なり」([[観経#P--117|観経 P.117]]) と称賛されている。善導大師は、その[[分陀利華]]の徳を開いて、[[五種の嘉誉]]を与え、また「真の仏弟子」と讃えられていた。
 
::本願を信じ、念仏する人を『大経』には「則我善親友」([[大経下#P--47|大経 P.47]]) と讃え、『観経』には念仏者は「人中の分陀利華なり」([[観経#P--117|観経 P.117]]) と称賛されている。善導大師は、その[[分陀利華]]の徳を開いて、[[五種の嘉誉]]を与え、また「真の仏弟子」と讃えられていた。
 
:6.'''心光常護の益'''
 
:6.'''心光常護の益'''
::信心の行者が、[[摂取不捨]]の利益に預かることの慶びを挙げられたものである。『観経』には「念仏衆生摂取不捨」([[観経#P--102|観経 P.102]]) と説かれているが、親鸞聖人は、念仏の行者が摂取される時をいえば、念仏往生の本願を信受したとき、すなわち[[信の一念]]であるというので、信心の[[利益]]とみなされたのである。
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::信心の行者が、[[摂取不捨]]の利益に預かることの慶びを挙げられたものである。『観経』には「[[念仏衆生摂取不捨]]」([[観経#P--102|観経 P.102]]) と説かれているが、親鸞聖人は、念仏の行者が[[摂取]]される時をいえば、念仏往生の本願を[[信受]]したとき、すなわち[[信の一念]]であるというので、信心の[[利益]]とみなされたのである。
 
:7.'''心多歓喜の益'''
 
:7.'''心多歓喜の益'''
 
::上に挙げた、心光常護の益を受け、諸仏称讃の益にあずかっているものの心には、何者にも換え難い利益を得た喜びがある。それを宗祖は『十住毘婆沙論』によって「しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく」([[行巻#no71|行巻 P.186]])といわれていた。
 
::上に挙げた、心光常護の益を受け、諸仏称讃の益にあずかっているものの心には、何者にも換え難い利益を得た喜びがある。それを宗祖は『十住毘婆沙論』によって「しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく」([[行巻#no71|行巻 P.186]])といわれていた。
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::それは道綽禅師の『安楽集』下巻に引用された『大悲経』に、阿弥陀仏の大悲を人々に伝え、念仏を勧めるものは「大悲を行ずる人」([[信巻末#P--260|信巻 P.260]]) と讃えられていることから採られた。それは、如来の大悲が、念仏者を拠点として、煩悩の大地に行ぜられていることを意味していた。真宗における伝道の原点を顕している。
 
::それは道綽禅師の『安楽集』下巻に引用された『大悲経』に、阿弥陀仏の大悲を人々に伝え、念仏を勧めるものは「大悲を行ずる人」([[信巻末#P--260|信巻 P.260]]) と讃えられていることから採られた。それは、如来の大悲が、念仏者を拠点として、煩悩の大地に行ぜられていることを意味していた。真宗における伝道の原点を顕している。
 
:10.'''正定聚に入る益'''
 
:10.'''正定聚に入る益'''
::従来は彼土の益と考えられていた[[正定聚]]を、親鸞聖人が現生の利益であると領解されたのには、二つの理由が考えられる。その一つは信心の行者は、現生に於て摂取不捨の利益に預かっているからである、『親鸞聖人御消息』第一条に、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらいに住す」([[消息上#P--735|『註釈版聖典』七三五頁]])といわれたものがそれである。摂取不捨の利益に預かれば、不退転の位につけしめられる。それは必ず往生成仏することに決定している[[正定聚]]の位を意味していたからである。<br />
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::従来は彼土の益と考えられていた[[正定聚]]を、親鸞聖人が現生の利益であると領解されたのには、二つの理由が考えられる。その一つは[[信心]]の行者は、現生に於て[[摂取不捨]]の利益に預かっているからである、『親鸞聖人御消息』第一条に、「真実信心の行人は、[[摂取不捨]]のゆゑに[[正定聚]]のくらいに住す」([[消息上#P--735|『註釈版聖典』七三五頁]])といわれたものがそれである。[[摂取不捨]]の利益に預かれば、[[不退転]]の位につけしめられる。それは必ず往生成仏することに決定している[[正定聚]]の位を意味していたからである。<br />
:: 第二は、如來回向の信心は凡心ではなく不可思議の仏智であるから、信心の行者は、無漏智をそなえた正定聚の機といわれるのである。言い替えれば凡夫でありながら聖者の徳を持つということになる。『入出二門偈』に「煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり」([[二門#P--550|註釈版聖典、五五〇頁]])といわれているように、信心の行者は、凡夫の数には入らない。すなわち、聖者の部類に属するといわれるのである。こうして信心の行者は、煩悩具足の凡夫の身でありながら、頂いている信心の徳義から言えば聖者の仲間にいれしめられているから正定聚の機というのである。こうして信心の行者は、すでに智慧と慈悲を中心とした如来の秩序を真実と受け容れ、如来の秩序下におかれているものということができる。それを如来に摂取されているともいい、[[正定聚]]に入れしめられているともいわれたのである。  →[http://www.gyousin.com/text/rondai/gensyou.html 「現生十益」平成十八年度専精舎論題」]
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:: 第二は、如來回向の[[信心]]は凡心ではなく不可思議の仏智であるから、信心の行者は、[[無漏智]]をそなえた正定聚の機といわれるのである。言い替えれば凡夫でありながら聖者の徳を持つということになる。『入出二門偈』に「煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。この人はすなはち[[凡数の摂]]にあらず、これは人中の[[分陀利華]]なり」([[二門#P--550|註釈版聖典、五五〇頁]])といわれているように、信心の行者は、凡夫の数には入らない。すなわち、聖者の部類に属するといわれるのである。こうして信心の行者は、煩悩具足の凡夫の身でありながら、頂いている[[信心]]の徳義から言えば聖者の仲間にいれしめられているから正定聚の機というのである。こうして信心の行者は、すでに[[智慧]]と[[慈悲]]を中心とした如来の秩序を真実と受け容れ、如来の秩序下におかれているものということができる。それを如来に摂取されているともいい、[[正定聚]]に入れしめられているともいわれたのである。  →[http://www.gyousin.com/text/rondai/gensyou.html 「現生十益」平成十八年度専精舎論題」]
  
 
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2018年2月6日 (火) 23:25時点における版

御開山は「信巻」で真実信心の行人が獲る現生での利益を十種挙げておられていた。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。(信巻 P.251)

「現生十種の利益」は聖典セミナー『教行信証』梯實圓著に詳しいのだが以下は行信教校のHPから転載した。→「現生十益」平成十八年度専精舎論題」

1.冥衆護持の益
冥衆」とは、凡夫にはあらわに見えない衆生のことで、ここでは観音勢至普賢文殊弥勒等の諸大菩薩や、一切の善悪の鬼神に至るまですべてを冥衆といわれている。菩薩が、念仏の行者を護りたまうのは当然であるが、神祇は本来仏教以外の宗教における信仰の対象であった。しかし、神々のなかには、梵天や帝釈天のように仏教に帰依して、生死を離れたものは、その報恩のために仏教と仏教徒を守護するようになる。それを護法善神と呼び、反対に人々に害悪を加え、仏道修行の妨げをする神々を悪鬼神と呼んでいた。聖人は、このような神祇観を日本の神々にも適用されたわけである。
2.至徳具足の益
至徳」とは、至極の功徳ということで、仏陀が完成された悲智円満の徳を言う。如來回向の信楽には、如来の智徳である至心と、大悲の徳である欲生とを具した悲智円満の信心であるからよく往生成仏の因種となることを至徳具足といわれたのである。
3.転悪成善の益
これは、如来の無碍の救いの働きを信心の徳として示されたものである。自他の隔てを超え、生死を超えて円融無碍の悟りの智慧の徳をたまわっている威徳広大の信心には、煩悩の氷を溶かして菩提の水とならしめる徳用がある。そのような徳を得ていることを言う。
4.諸仏護念の益
信心の行者は、十方無量の諸仏によって常に護念されている。すなわち、十方の諸仏は阿弥陀仏の本願を証誠し、人々の疑心を破って信心の行者たらしめ、その信心が退転しないように護念し、また、行者がさまざまな悪縁を乗り超えて浄土に向かうよう護り続けたまうことをいう。
5.諸仏称讃の益
本願を信じ、念仏する人を『大経』には「則我善親友」(大経 P.47) と讃え、『観経』には念仏者は「人中の分陀利華なり」(観経 P.117) と称賛されている。善導大師は、その分陀利華の徳を開いて、五種の嘉誉を与え、また「真の仏弟子」と讃えられていた。
6.心光常護の益
信心の行者が、摂取不捨の利益に預かることの慶びを挙げられたものである。『観経』には「念仏衆生摂取不捨」(観経 P.102) と説かれているが、親鸞聖人は、念仏の行者が摂取される時をいえば、念仏往生の本願を信受したとき、すなわち信の一念であるというので、信心の利益とみなされたのである。
7.心多歓喜の益
上に挙げた、心光常護の益を受け、諸仏称讃の益にあずかっているものの心には、何者にも換え難い利益を得た喜びがある。それを宗祖は『十住毘婆沙論』によって「しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく」(行巻 P.186)といわれていた。
8.知恩報徳の益
知恩報徳とは、阿弥陀仏の恵みに気づき、その恩徳を報謝することであるが、そこには自ずから阿弥陀仏の本願を教授された釈迦・諸仏、さらには祖師方の恩徳を報謝するという意味も含まれている。その報恩の具体的なありさまは、何よりも如来より賜った本願の念仏を相続する自信であり、如来の教法を人に伝える教人信である。
9.常行大悲の益
それは道綽禅師の『安楽集』下巻に引用された『大悲経』に、阿弥陀仏の大悲を人々に伝え、念仏を勧めるものは「大悲を行ずる人」(信巻 P.260) と讃えられていることから採られた。それは、如来の大悲が、念仏者を拠点として、煩悩の大地に行ぜられていることを意味していた。真宗における伝道の原点を顕している。
10.正定聚に入る益
従来は彼土の益と考えられていた正定聚を、親鸞聖人が現生の利益であると領解されたのには、二つの理由が考えられる。その一つは信心の行者は、現生に於て摂取不捨の利益に預かっているからである、『親鸞聖人御消息』第一条に、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらいに住す」(『註釈版聖典』七三五頁)といわれたものがそれである。摂取不捨の利益に預かれば、不退転の位につけしめられる。それは必ず往生成仏することに決定している正定聚の位を意味していたからである。
 第二は、如來回向の信心は凡心ではなく不可思議の仏智であるから、信心の行者は、無漏智をそなえた正定聚の機といわれるのである。言い替えれば凡夫でありながら聖者の徳を持つということになる。『入出二門偈』に「煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり」(註釈版聖典、五五〇頁)といわれているように、信心の行者は、凡夫の数には入らない。すなわち、聖者の部類に属するといわれるのである。こうして信心の行者は、煩悩具足の凡夫の身でありながら、頂いている信心の徳義から言えば聖者の仲間にいれしめられているから正定聚の機というのである。こうして信心の行者は、すでに智慧慈悲を中心とした如来の秩序を真実と受け容れ、如来の秩序下におかれているものということができる。それを如来に摂取されているともいい、正定聚に入れしめられているともいわれたのである。  →「現生十益」平成十八年度専精舎論題」