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「自利・利他」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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<kana>自益益他(じやく-やくた)</kana>、自利利人、<kana>自行(じぎょう)</kana>化他ともいう。自利とは自らを利するの意で、努力勉励して修道の功を積み、それによりもたらされる善い効果の利得を自分一個に受け取ることをいい、利他とは他を利するの意で、自己の利得のためでなく諸々の[[有情]]の[[救済]]のためにつくすことをいう。<br />
 
<kana>自益益他(じやく-やくた)</kana>、自利利人、<kana>自行(じぎょう)</kana>化他ともいう。自利とは自らを利するの意で、努力勉励して修道の功を積み、それによりもたらされる善い効果の利得を自分一個に受け取ることをいい、利他とは他を利するの意で、自己の利得のためでなく諸々の[[有情]]の[[救済]]のためにつくすことをいう。<br />
 
この両者を合わせて二利といい、両者を完全に両立させた勝れた状態が[[大乗]]仏教の目的とする仏の世界で、これを自利利他円満という(これに対して[[小乗]]は自利にかたよっているとされる)。
 
この両者を合わせて二利といい、両者を完全に両立させた勝れた状態が[[大乗]]仏教の目的とする仏の世界で、これを自利利他円満という(これに対して[[小乗]]は自利にかたよっているとされる)。
曇鸞の浄土論註巻下では利他と他利とを区別して、利他とは仏からいう場合であり、他利とは衆生からいう場合であるとし〈→[[他利利他の深義]]〉、親鸞はこの意を承けて、自利を[[自力]]、利他を[[他力]]の意に用いることがある。即ち愚禿鈔巻下では、至誠心(真実心)に二種、即ち衆生がまことをこめて起こす真実心と、仏が衆生を救いたいと願って起こす真実心とがあるとし、前者を自力の真実心の意で[[自利真実]]、後者を他力の真実心の意で[[利他真実]]とし、合わせて二利真実という。(仏教学辞典)
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曇鸞の浄土論註巻下では利他と他利とを区別して、利他とは仏からいう場合であり、他利とは衆生からいう場合であるとし〈→[[他利利他の深義]]〉、親鸞はこの意を承けて、自利を[[自力]]、利他を[[他力]]の意に用いることがある。即ち愚禿鈔巻下では、至誠心(真実心)に二種、即ち衆生がまことをこめて起こす真実心と、仏が衆生を救いたいと願って起こす真実心とがあるとし、前者を自力の真実心の意で[[自利真実]]、後者を他力の真実心の意で[[利他真実]]とし、合わせて二利真実という。([[愚禿下#no48|愚禿下 P.519]]) (仏教学辞典)
 
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2018年6月25日 (月) 12:46時点における版

じり・りた

 →自利 利他  (化巻 P.381)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

じり 自利(利他)

自益益他(じやく-やくた)、自利利人、自行(じぎょう)化他ともいう。自利とは自らを利するの意で、努力勉励して修道の功を積み、それによりもたらされる善い効果の利得を自分一個に受け取ることをいい、利他とは他を利するの意で、自己の利得のためでなく諸々の有情救済のためにつくすことをいう。
この両者を合わせて二利といい、両者を完全に両立させた勝れた状態が大乗仏教の目的とする仏の世界で、これを自利利他円満という(これに対して小乗は自利にかたよっているとされる)。 曇鸞の浄土論註巻下では利他と他利とを区別して、利他とは仏からいう場合であり、他利とは衆生からいう場合であるとし〈→他利利他の深義〉、親鸞はこの意を承けて、自利を自力、利他を他力の意に用いることがある。即ち愚禿鈔巻下では、至誠心(真実心)に二種、即ち衆生がまことをこめて起こす真実心と、仏が衆生を救いたいと願って起こす真実心とがあるとし、前者を自力の真実心の意で自利真実、後者を他力の真実心の意で利他真実とし、合わせて二利真実という。(愚禿下 P.519) (仏教学辞典)

上求菩提・下化衆生
四弘誓願
菩薩
自利真実
利他真実