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自性唯心

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年6月3日 (土) 02:00時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

じしょう-ゆいしん

 万有はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする聖道門の考え。

この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、この心を浄土であると主張する。聖道門の立場。(信巻 P.209, 講私記 P.1069)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

自らの性は、ただ信のみ。

 存在するすべての物はその本性についていえば、ただ心の変現にほかならないもので、自己の心以外に何ものもないとする考え。この立場より自己の心性を指して直ちに弥陀といい、その心を浄土であると主張する。  このように弥陀も浄土もともに自己の心の中にあることを「己心(こしん)の弥陀、唯心(ゆいしん)の浄土」、あるいは「己心の浄土、唯心の弥陀」という。御開山はこれを「信巻」別序で、

 しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。(信巻 P.209)

と、自性唯心であり、西方の真実の証(さとり)の世界である浄土を知らないからであると批判しておられる。
浄土門では、この世でのさとりの完成を目指す聖道門と違い、弥陀と浄土が自己の心の外に説かれることの、往生浄土の意義を重視するからである。→指方立相 (『浄土真宗辞典』より抜粋)

このような穢土と浄土の二元的な思想は、自身の煩悩を凝視せず、一元論の観念論に陥っていた本覚法門への批判でもあった。帰すべき浄土をもたない現代人や、浄土真宗の僧侶の中にも、このような輩は多い。

『竜舒増広浄土文』に於ける考察