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ぎょう-しん 行信
 
ぎょう-しん 行信
  
 真宗の用語。一般仏教では心行というのにあたる。普通には、「行」とはさとりに至るための実践、「信」とは信心を意味するが、真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めないから、固有の解釈をする。<br />
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 真宗の用語。一般仏教では[[心行]]というのにあたる。普通には、「'''[[行]]'''」とはさとりに至るための実践、「'''[[信]]'''」とは[[信心]]を意味するが、真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めないから、固有の解釈をする。<br />
即ち、行を{{DotUL|さとりにおもむかせるもの}}という意に解して、衆生をして信じさせ称えさせる根源となっている如来の救済力の具体的な現れとしての[[名号]]のことを「行」、その名号のはたらきによって起こされた信心のことを「信」といい、その信心にもよおされて衆生が称える念仏のことも「行」という。<br />
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即ち、行を{{DotUL|さとりにおもむかせるもの}}という意に解して、衆生をして信じさせ称えさせる根源となっている如来の救済力の'''具体的な現れ'''としての[[名号]]のことを「[[行]]」、その名号のはたらきによって起こされた[[信心]]のことを「[[信]]」といい、その信心にもよおされて衆生が称える念仏のことも「[[行]]」という。<br />
この行・信はいずれも如来のはたらきであるから[[大行]]・[[大信]]といい、衆生にとっては信がさとりに至る唯一の原因であるとする。 (仏教学辞典)
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この行・信はいずれも如来のはたらきであるから'''[[大行]]''''''[[大信]]'''といい、衆生にとっては信がさとりに至る唯一の原因であるとする。 (仏教学辞典)
 
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「行巻」の「正信念仏偈」の序に、
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と述べられている。阿弥陀如来から回向される行と信であるから、[[補註10|大行]]、[[補註11|大信]]というのである。<br />
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行信とは『無量寿経』の、第十七願で誓われた「行」と第十八願で誓われた「信」をいう。「行巻」には、
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: おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。( [[行巻#no101|行巻 P.202]])
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と、第十七願の真実の'''[[行]]'''と第十八願の真実の'''[[信]]'''の「行信」とある。方便の行信は「化巻」で説かれている。
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と'''大行'''を〔なんまんだぶ〕を称えることであると定義されている。阿弥陀如来から回向される[[行]]と[[信]]であるから、[[補註10|大行]]、[[補註11|大信]]というのである。<br />
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: しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。 ([[信巻本#no18|信巻 P.229]])
 
: しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。 ([[信巻本#no18|信巻 P.229]])
と述べられている。行信とは『歎異鈔』に「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」([[歎異抄#no12|歎異抄 P.839]])といわれているように、実に単純明快なのであるが、この行信を学問的に考究することを「行信論」といい、本派の教学は行信論が「行信半学」というぐらい大きな位置を占めている。<br />
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法然聖人は、第十八願と第十七願の関係を『三部経大意』で、
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と述べられている。[[行信]]とは『歎異鈔』に「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」([[歎異抄#no12|歎異抄 P.839]])といわれているように、「本願を信じ」という「[[信]]」と「念仏を申さば」という「[[行]]」の実に単純明快な理論である。この[[行信]]を学問的に考究することを「行信論」といい、[[三業惑乱]]以後の本派の教学はこの行信論が「行信半学」というぐらい大きな位置を占めている。例すれば、「[[能行]]」とか「[[所行]]」のような論議が展開されるのだが、部派仏教の「阿毘達磨論」のような煩瑣な教学に陥り、愚直に、なんまんだぶを称えるご法義を疎外するおそれもあるかもである。<br />
:つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八願の願これなり。
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法然聖人は、[[第十八願]]と[[第十七願]]の関係を『三部経大意』で、
:その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。([[三部経大意#観無量寿経|三部経大意P.784]])
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{{Inyou2|
とされておられた。御開山はこの意を承けられて、第十八願の「乃至十念」を第十七願の「咨嗟称我名(咨嗟し我が名を称せよ)」の、'''諸仏の教位'''においてみておられたのである。<br />
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:つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、[[念仏往生の願]]をたてたまへり。'''[[第十八願]]'''の願これなり。
以下に、第十七願と第十八願を挙げておく。
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:その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、'''[[第十七願|第十七の願]]'''これなり。このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。([[三部経大意#観無量寿経|三部経大意P.784]])
 
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《行》第十七願(諸仏称名の願)
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とされておられた。御開山はこの意を承けられて、[[第十八願]]の「[[乃至十念]]」を[[第十七願]]の「<kana>咨嗟称我名(ししゃしょう-がみょう)</kana>(咨嗟し我が名を称せよ)」の、'''諸仏の教位'''においてみておられたのである。<br />
:たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。
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《信》第十八願(至心信楽の願)
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:たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。
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:→[[行信不離]]
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:→[[トーク:行信不離]]
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:→[[行]]
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:→[[信]]
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:→[[信行]]
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:→[[心行]]
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:→[[大行]]
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:→[[大信]]
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:→[[四法]]
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:→[[選択本願]]
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:→[[第十七願]]
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:→[[第十八願]]
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2020年8月30日 (日) 16:01時点における版

ぎょう-しん 行信

 真宗の用語。一般仏教では心行というのにあたる。普通には、「」とはさとりに至るための実践、「」とは信心を意味するが、真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めないから、固有の解釈をする。
即ち、行をさとりにおもむかせるものという意に解して、衆生をして信じさせ称えさせる根源となっている如来の救済力の具体的な現れとしての名号のことを「」、その名号のはたらきによって起こされた信心のことを「」といい、その信心にもよおされて衆生が称える念仏のことも「」という。
この行・信はいずれも如来のはたらきであるから大行大信といい、衆生にとっては信がさとりに至る唯一の原因であるとする。 (仏教学辞典)

「行巻」の「正信念仏偈」の序に、

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。( 行巻 P.202)

と、第十七願の真実のと第十八願の真実のの「行信」とある。方便の行信は「化巻」で説かれている。

御開山は行について『大経』流通分の弥勒付属の文、

仏、弥勒に語りたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり。(大経 P.81)

にある乃至一念の文に拠って「行巻」で一声が無上の功徳である「行一念釈」をされ、信については本願成就文

あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(大経 P.41)

の、乃至一念の文に拠って「信巻」で信心が初めて開発する時の「信一念釈」をされた。これを本願力回向の大行大信とされた。
大行大信とは、「行巻」冒頭に、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。(行巻 P.141)

大行を〔なんまんだぶ〕を称えることであると定義されている。阿弥陀如来から回向されるであるから、大行大信というのである。
行信とは、第十八願の「乃至十念」を諸仏の教位として、第十七願で誓われた称名大行第十八願で誓われた三心即一の大信をいう。→三一問答
「総序」には

たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序 P.132)

とあり 「行巻」の「正信念仏偈」偈前の文には、

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願行信なり。( 行巻 P.202)

とある。この行と信は阿弥陀如来より回向された行信であることを、「信巻」に、

 しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。 (信巻 P.229)

と述べられている。行信とは『歎異鈔』に「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄 P.839)といわれているように、「本願を信じ」という「」と「念仏を申さば」という「」の実に単純明快な理論である。この行信を学問的に考究することを「行信論」といい、三業惑乱以後の本派の教学はこの行信論が「行信半学」というぐらい大きな位置を占めている。例すれば、「能行」とか「所行」のような論議が展開されるのだが、部派仏教の「阿毘達磨論」のような煩瑣な教学に陥り、愚直に、なんまんだぶを称えるご法義を疎外するおそれもあるかもである。
法然聖人は、第十八願第十七願の関係を『三部経大意』で、

つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八願の願これなり。
その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。(三部経大意P.784)

とされておられた。御開山はこの意を承けられて、第十八願の「乃至十念」を第十七願の「咨嗟称我名(ししゃしょう-がみょう)(咨嗟し我が名を称せよ)」の、諸仏の教位においてみておられたのである。

行信不離
トーク:行信不離
信行
心行
大行
大信
四法
選択本願
第十七願
第十八願

132,186,187,202,392,951,974