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補註3

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
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3機・衆生

 とは、法(教法)に対する言葉である。つまり、仏の教えをこうむるべき対象であり、法によって救済されるべきものをいう。

 一般に機と衆生は同じような意味で用いられているが、衆生有情(うじょう))は、「生きとし生けるもの」という意味であり、その衆生が教法に対したときに機といわれるのである。

 真宗の聖教(しょうぎょう)における機の用例には種々の意味がある。まず「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり」(行巻 202)とは、教法を受けるべき衆生が千差万別であることをあらわしている。また「正機(しょうき)たる悪凡夫(あくぼんぶ)」(口伝鈔(くでんしょう)十九)とは、法(阿弥陀仏の救済)の(まさ)しきめあてが、悪人(罪悪深重(じんじゅう)の凡夫)であることをあらわし、「正定聚(しょうじょうじゅ)の機」(信巻・標挙(ひょうこ))とは、本願の法を正しく受けて、必ず仏になるべき身に定まっていることをあらわしている。

 このうち、阿弥陀仏の救済のめあてが悪人であるという場合の悪機とは、『歎異抄(たんにしょう)』()に、「いづれの行もおよびがたき身」とあるように、仏になるべき能力も素質もそなわっていないもののことである。仏道を修行するについて、すぐれた能力・素質をそなえた人々が上根(じょうこん)とよばれるのに対し、また下根(げこん)といわれるのも同じ意味である。

 このような悪人とは、阿弥陀仏の教法を信受してはじめて知らされることがらであって、これを機の深信(じんしん)という。善導(ぜんどう)大師(だいし)は機の深信を表す文に、「決定(けつじょう)して深く、自身は現にこれ罪悪生死(しょうじ)の凡夫、曠劫(こうごう)よりこのかたつねに(もっ)し、つねに流転して、出離(しゅつり)の縁あることなしと信ず」(信巻・本、引文)といわれている。

 また「金剛の信心は絶対不二の機なり」(行巻 199)とあるのは、信心のことを機といったものである。これは法(阿弥陀仏の救済の力)が機たる衆生に至り届いたのが信であるから、信心を法に対して機とよぶのである。

 南無阿弥陀仏の六字に、行(必ずたすけるという阿弥陀仏の法)も信(南無とたのむ機)も成就されていることを、蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)機法一体の南無阿弥陀仏といわれるのも同じ意味である。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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