操作

「補註13」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
 
(2人の利用者による、間の8版が非表示)
1行目: 1行目:
<div style="border:solid #fff 1px;background:#FeFeFe;padding:1.5em;margin:0 auto 1em auto; font-size:110%" >
+
{{hotyuu}}
<!--これより上は触らないで-->
+
<b>13 <ruby><rb>同朋</rb><rp>(</rp><rt>どうぼう</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>同行</rb><rp>(</rp><rt>どうぎょう</rt><rp>)</rp></ruby></b>
+
  
 『<ruby><rb>歎異抄</rb><rp>(</rp><rt>たんにしょう</rt><rp>)</rp></ruby>』などでは、<ruby><rb>[[法然]]</rb><rp>(</rp><rt>ほうねん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>上人</rb><rp>(</rp><rt>しょうにん</rt><rp>)</rp></ruby>を同じ師とする門下のともがらのこととされている。<ruby><rb>[[親鸞]]</rb><rp>(</rp><rt>しんらん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>聖人</rb><rp>(</rp><rt>しょうにん</rt><rp>)</rp></ruby>の『<ruby><rb>御消息</rb><rp>(</rp><rt>ごしょうそく</rt><rp>)</rp></ruby>』(三)では、「とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ」などと、<ruby><rb>[[専修念仏]]</rb><rp>(</rp><rt>せんじゅねんぶつ</rt><rp>)</rp></ruby>に生きるものの平等のありようとして使われている。
+
;13 <kana>同朋(どうぼう)</kana><kana>同行(どうぎょう)</kana>
  
 同行とは『<ruby><rb>[[華厳経]]</rb><rp>(</rp><rt>けごんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>』などでは、同じ仏道修行に励むもののこととされている。<ruby><rb>[[天台大師]]</rb><rp>(</rp><rt>てんだいだいし</rt><rp>)</rp></ruby>の『<ruby><rb>[[摩訶止観]]</rb><rp>(</rp><rt>まかしかん</rt><rp>)</rp></ruby>』には、「同行とは(中略)<ruby><rb>切磋</rb><rp>(</rp><rt>せっさ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>琢磨</rb><rp>(</rp><rt>たくま</rt><rp>)</rp></ruby>し、心を同じくし志を<ruby><rb>斉</rb><rp>(</rp><rt>ひと</rt><rp>)</rp></ruby>しくして一船に乗るがごとく、たがひにあひ<ruby><rb>敬重</rb><rp>(</rp><rt>きょうじゅう</rt><rp>)</rp></ruby>して[[世尊]]を<ruby><rb>視</rb><rp>(</rp><rt></rt><rp>)</rp></ruby>るがごとくす」といわれている。また<ruby><rb>[[善導]]</rb><rp>(</rp><rt>ぜんどう</rt><rp>)</rp></ruby>大師は、同じ念仏行に生きるものの意とされ、親鸞聖人の『御消息』には、共に念仏の教えを聞き行ずる人々として「<ruby><rb>御</rb><rp>(</rp><rt>おん</rt><rp>)</rp></ruby>同行」、「とも同朋」といわれ、浄土真宗の信者は心を同じくし、親しんで道を行ずるものとして使われる。親鸞聖人は、「とも同朋にもねんごろに」とか「同行をあなづるな」といわれているが、これは[[阿弥陀仏]]の平等の大悲に包まれて、共に仏子として救われていく念仏者の平等性と互敬の思いを示されたものといえよう。すなわち[[他力]]<ruby><rb>[[回向]]</rb><rp>(</rp><rt>えこう</rt><rp>)</rp></ruby>の一味の信心に生き、同一の念仏に生きるものとして、<ruby><rb>[[正定聚]]</rb><rp>(</rp><rt>しょうじょうじゅ</rt><rp>)</rp></ruby>の位につき、「<ruby><rb>[[弥勒]]</rb><rp>(</rp><rt>みろく</rt><rp>)</rp></ruby>と同じ」、「如来とひとしき」尊い徳に生かされるものとして、互いに信頼と尊敬の念をもって「御同朋、御同行」と敬愛しあって生きるべきことを示されているのである。とくに親鸞聖人は『歎異抄』(五)に、「一切の<ruby><rb>[[有情]]</rb><rp>(</rp><rt>うじょう</rt><rp>)</rp></ruby>はみなもつて<ruby><rb>世々</rb><rp>(</rp><rt>せせ</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>生々</rb><rp>(</rp><rt>しょうじょう</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>父母</rb><rp>(</rp><rt>ぶも</rt><rp>)</rp></ruby>・兄弟なり」といい、念仏者だけでなく、すべての<ruby><rb>[[衆生]]</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょう</rt><rp>)</rp></ruby>は、同じいのちにつらなる父母・兄弟であるとして、同朋の観念を一切衆生にまでひろげ普遍化されている。
+
 『<kana>歎異抄(たんにしょう)</kana>』などでは、<kana>[[法然]](ほうねん)</kana><kana>上人(しょうにん)</kana>を同じ師とする門下のともがらのこととされている。<kana>[[親鸞]](しんらん)</kana><kana>聖人(しょうにん)</kana>の『<kana>御消息(ごしょうそく)</kana>』([[消息上#no3|三 ]])では、「とも[[同朋]]にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ」などと、<kana>[[専修念仏]](せんじゅねんぶつ)</kana>に生きるものの平等のありようとして使われている。
 +
 
 +
 [[同行]]とは『<kana>[[華厳経]](けごんぎょう)</kana>』などでは、同じ仏道修行に励むもののこととされている。<kana>[[天台大師]](てんだいだいし)</kana>の『<kana>[[摩訶止観]](まかしかん)</kana>』には、「同行とは(中略)<kana>切磋(せっさ)</kana><kana>琢磨(たくま)</kana>し、心を同じくし志を<kana>斉(ひと)</kana>しくして一船に乗るがごとく、たがひにあひ<kana>敬重(きょうじゅう)</kana>して[[世尊]]を<kana>視(み)</kana>るがごとくす」といわれている。また<kana>[[善導]](ぜんどう)</kana>大師は、同じ念仏行に生きるものの意とされ、親鸞聖人の『御消息』には、共に念仏の教えを聞き行ずる人々として「<kana>御(おん)</kana>同行」、「とも同朋」といわれ、浄土真宗の信者は心を同じくし、親しんで道を行ずるものとして使われる。親鸞聖人は、「とも同朋にもねんごろに」とか「同行をあなづるな」といわれているが、これは[[阿弥陀仏]]の平等の大悲に包まれて、共に仏子として救われていく念仏者の平等性と互敬の思いを示されたものといえよう。すなわち[[他力]]<kana>[[回向]](えこう)</kana>の[[一味]]の[[信心]]に生き、同一の念仏に生きるものとして、<kana>[[正定聚]](しょうじょうじゅ)</kana>の位につき、「[[便同弥勒|<kana>弥勒(みろく)</kana>と同じ]]」、「如来とひとしき」尊い徳に生かされるものとして、互いに信頼と尊敬の念をもって「御同朋、御同行」と敬愛しあって生きるべきことを示されているのである。とくに親鸞聖人は『歎異抄』([[歎異抄#no5|五]])に、「一切の<kana>[[有情]](うじょう)</kana>はみなもつて<kana>世々(せせ)</kana><kana>生々(しょうじょう)</kana>の<kana>父母(ぶも)</kana>・兄弟なり」といい、念仏者だけでなく、すべての<kana>[[衆生]](しゅじょう)</kana>は、同じいのちにつらなる父母・兄弟であるとして、同朋の観念を一切衆生にまでひろげ普遍化されている。
 +
 
 +
 教団の歴史のなかでは、毎月一定の日に[[道場]]に集合して行う仏事を縁として[[講]]が組織され、同行、同朋として当時の社会身分階層を越えて親しみ、差別を打ち破って同じ信に生きる喜びを一つにする、信仰共同体を生み出して来た。ところが、一方では、社会的分業が進み、職業が固定化し、差別も流動的なものから固定的なものになっていった。そして、封建的身分制が確立した江戸時代に至っては、同朋思想も形骸化し、教団のなかにさえ「<kana>穢寺(えじ)</kana><kana>穢僧(えそう)</kana>」をつくり、御同朋であるべき門徒のなかでも差別をする事実を生み出してきた。さらに昭和に至っても差別温存の姿勢がつづけられていることは大きな誤りである。 ([[消息上#P--740|御消息 P.740]],[[消息上#P--742|P.742]],[[消息下#P--803| P.803]],[[一代記#P--1266|一代記 P.1266]],[[一代記#P--1328|一代記 P.1328]]))
  
 教団の歴史のなかでは、毎月一定の日に道場に集合して行う仏事を縁として[[講]]が組織され、同行、同朋として当時の社会身分階層を越えて親しみ、差別を打ち破って同じ信に生きる喜びを一つにする、信仰共同体を生み出して来た。ところが、一方では、社会的分業が進み、職業が固定化し、差別も流動的なものから固定的なものになっていった。そして、封建的身分制が確立した江戸時代に至っては、同朋思想も形骸化し、教団のなかにさえ「<ruby><rb>穢寺</rb><rp>(</rp><rt>えじ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>穢僧</rb><rp>(</rp><rt>えそう</rt><rp>)</rp></ruby>」をつくり、御同朋であるべき門徒のなかでも差別をする事実を生み出してきた。さらに昭和に至っても差別温存の姿勢がつづけられていることは大きな誤りである。
 
  
</div>
 
 
{{Copyright}}
 
{{Copyright}}
 
----
 
----
 
[[Category:補註]]
 
[[Category:補註]]

2018年5月26日 (土) 06:40時点における最新版

Dharma wheel

補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

13 同朋(どうぼう)同行(どうぎょう)

 『歎異抄(たんにしょう)』などでは、法然(ほうねん)上人(しょうにん)を同じ師とする門下のともがらのこととされている。親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)の『御消息(ごしょうそく)』()では、「とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ」などと、専修念仏(せんじゅねんぶつ)に生きるものの平等のありようとして使われている。

 同行とは『華厳経(けごんぎょう)』などでは、同じ仏道修行に励むもののこととされている。天台大師(てんだいだいし)の『摩訶止観(まかしかん)』には、「同行とは(中略)切磋(せっさ)琢磨(たくま)し、心を同じくし志を(ひと)しくして一船に乗るがごとく、たがひにあひ敬重(きょうじゅう)して世尊()るがごとくす」といわれている。また善導(ぜんどう)大師は、同じ念仏行に生きるものの意とされ、親鸞聖人の『御消息』には、共に念仏の教えを聞き行ずる人々として「(おん)同行」、「とも同朋」といわれ、浄土真宗の信者は心を同じくし、親しんで道を行ずるものとして使われる。親鸞聖人は、「とも同朋にもねんごろに」とか「同行をあなづるな」といわれているが、これは阿弥陀仏の平等の大悲に包まれて、共に仏子として救われていく念仏者の平等性と互敬の思いを示されたものといえよう。すなわち他力回向(えこう)一味信心に生き、同一の念仏に生きるものとして、正定聚(しょうじょうじゅ)の位につき、「弥勒(みろく)と同じ」、「如来とひとしき」尊い徳に生かされるものとして、互いに信頼と尊敬の念をもって「御同朋、御同行」と敬愛しあって生きるべきことを示されているのである。とくに親鸞聖人は『歎異抄』()に、「一切の有情(うじょう)はみなもつて世々(せせ)生々(しょうじょう)父母(ぶも)・兄弟なり」といい、念仏者だけでなく、すべての衆生(しゅじょう)は、同じいのちにつらなる父母・兄弟であるとして、同朋の観念を一切衆生にまでひろげ普遍化されている。

 教団の歴史のなかでは、毎月一定の日に道場に集合して行う仏事を縁としてが組織され、同行、同朋として当時の社会身分階層を越えて親しみ、差別を打ち破って同じ信に生きる喜びを一つにする、信仰共同体を生み出して来た。ところが、一方では、社会的分業が進み、職業が固定化し、差別も流動的なものから固定的なものになっていった。そして、封建的身分制が確立した江戸時代に至っては、同朋思想も形骸化し、教団のなかにさえ「穢寺(えじ)穢僧(えそう)」をつくり、御同朋であるべき門徒のなかでも差別をする事実を生み出してきた。さらに昭和に至っても差別温存の姿勢がつづけられていることは大きな誤りである。 (御消息 P.740,P.742, P.803,一代記 P.1266,一代記 P.1328))


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。