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親鸞聖人御消息 (下)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2017年6月25日 (日) 19:55時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (御消息集(9))

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親鸞聖人御消息

   親鸞聖人御消息


御消息集 広本(6)略本(1)

(18)

 なにごとよりは、如来の御本願のひろまらせたまひて候ふこと、かへすがへすめでたく、うれしく候ふ。そのことに、おのおのところどころに、われはといふことをおもうて、あらそふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。京にも一念・多念なんど申すあらそふことのおほく候ふやうにあること、さらさら候ふべからず。

 ただ詮ずるところは、『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力』、この御ふみどもをよくよくつねにみて、その御こころにたがへずおはしますべし。いづかたのひとびとにも、このこころを仰せられ候ふべし。なほおぼつかなきことあらば、今日まで生きて候へば、わざともこれへたづねたまふべし。また便にも仰せたまふべし。鹿島・行方、そのならびのひとびとにも、このこころをよくよく仰せらるべし。一念・多念のあらそひなんどのやうに、詮なきこと、論じごとをのみ申しあはれて候ふぞかし、よくよくつつしむべきことなり。あなかしこ、あなかしこ。

 かやうのことをこころえぬひとびとは、そのこととなきことを申しあはれて候ふぞ、よくよくつつしみたまふべし。かへすがへす。

   二月三日             親鸞


御消息集 広本(18)略本(10)

(19)

 諸仏称名の願(第十七願)と申し、諸仏咨嗟の願(同)と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめんときこえて候ふ。『弥陀経』の十方諸仏の証誠のやうにてきこえたり。詮ずるところは、方便の御誓願と信じまゐらせ候ふ。念仏往生の願(第十八願)は如来の往相回向の正業・正因なりとみえて候ふ。まことの信心あるひとは、等正覚の弥勒とひとしければ、如来とひとしとも、諸仏のほめさせたまひたりとこそ、きこえて候へ。また弥陀の本願を信じ候ひぬるうへには、義なきを義とすとこそ大師聖人(法然)の仰せにて候へ。

 かやうに義の候ふらんかぎりは、他力にはあらず、自力なりときこえて候ふ。また他力と申すは、仏智不思議にて候ふなるときに、煩悩具足の凡夫の無上覚のさとりを得候ふなることをば、仏と仏のみ御はからひなり、さらに行者のはからひにあらず候ふ。しかれば、義なきを義とすと候ふなり。義と申すことは自力のひとのはからひを申すなり。

他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり。このひとびとの仰せのやうは、これにはつやつやとしらぬことにて候へば、とかく申すべきにあらず候ふ。また「来」の字は、衆生利益のためには、きたると申す、方便なり。さとりをひらきては、かへると申す。ときにしたがひて、きたるともかへるとも申すとみえて候ふ。なにごともなにごとも、またまた申すべく候ふ。

   二月九日             親鸞

  慶西御坊 御返事


末灯鈔(7)真蹟

(20)

無碍光如来の慈悲光明に摂取せられまゐらせ候ふゆゑ、名号をとなへつ
つ不退の位に入り定まり候ひなんには、この身のために摂取不捨をはじめ
てたづぬべきにはあらずとおぼえられて候ふ。そのうへ『華厳経』に、
聞此法歓喜信心無疑者 速成無上道与諸如来等」と仰せられて候ふ。ま
た第十七の願に「十方無量の諸仏にほめとなへられん」と仰せられて候
ふ。また願成就の文(大経・下)に、「十方恒沙の諸仏」と仰
せられて候ふ
は、信心の人とこころえて候ふ。この人はすなはちこの世より如来とひと
しとおぼえられ候ふ。このほかは凡夫のはからひをばもちゐず候ふなり。
このやうをこまかに仰せかぶりたまふべく候ふ。恐々謹言。

    二月十二日           浄信

 如来の誓願を信ずる心の定まるときと申すは、摂取不捨の利益にあづかるゆゑに不退の位に定まると御こころえ候ふべし。真実信心の定まると申すも、金剛信心の定まると申すも、摂取不捨のゆゑに申すなり。さればこそ、無上覚にいたるべき心のおこると申すなり。これを不退の位とも正定聚の位に入るとも申し、等正覚にいたるとも申すなり。このこころの定まるを、十方諸仏のよろこびて、諸仏の御こころにひとしとほめたまふなり。このゆゑに、まことの信心の人をば、諸仏とひとしと申すなり。また補処の弥勒とおなじとも申すなり。

 この世にて真実信心の人をまもらせたまへばこそ、『阿弥陀経』には、「十方恒沙の諸仏護念す」(意)とは申すことにて候へ。安楽浄土へ往生してのちは、まもりたまふと申すことにては候はず。娑婆世界に居たるほど護念すとは申すことなり。信心まことなる人のこころを、十方恒沙の如来のほめたまへば、仏とひとしとは申すことなり。

 また他力と申すことは、義なきを義とすと申すなり。義と申すことは、行者のおのおののはからふことを義とは申すなり。如来の誓願は不可思議にましますゆゑに、仏と仏との御はからひなり、凡夫のはからひにあらず。補処の弥勒菩薩をはじめとして、仏智の不思議をはからふべき人は候はず。しかれば、如 来の誓願には義なきを義とすとは、大師聖人(源空)の仰せに候ひき。このこころのほかには往生に要るべきこと候はずとこころえて、まかりすぎ候へば、人の仰せごとにはいらぬものにて候ふなり。諸事恐々謹言。

                    親鸞(花押)


末灯鈔』(21)

(21)

 安楽浄土に入りはつれば、すなはち大涅槃をさとるとも、また無上覚をさとるとも、滅度にいたるとも申すは、御名こそかはりたるやうなれども、これみな法身と申す仏のさとりをひらくべき正因に、弥陀仏の御ちかひを、法蔵菩薩われらに回向したまへるを、往相の回向と申すなり。この回向せさせたまへる願を、念仏往生の願(第十八願)とは申すなり。この念仏往生の願を一向に信じてふたごころなきを、一向専修とは申すなり。如来二種の回向と申すことは、この二種の回向の願を信じ、ふたごころなきを、真実の信心と申す。この真実の信心のおこることは、釈迦・弥陀の二尊の御はからひよりおこりたりとしらせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。


真 蹟

(22)

 いやをんなのこと、文書きてまゐらせられ候ふなり。いまだ居所もなくて、わびゐて候ふなり、あさましくあさましく、もてあつかひて、いかにすべしともなくて候ふなり。あなかしこ。

   三月二十八日           (花押)

  わうごぜんへ            しんらん


末灯鈔(9)

(23)

 誓願・名号同一の事

 御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さては、この御不審しかるべしともおぼえず候ふ。そのゆゑは、誓願・名号と申してかはりたること候はず。誓願をはなれたる名号も候はず、名号をはなれたる誓願も候はず候ふ。かく申し候ふも、はからひにて候ふなり。ただ誓願を不思議と信じ、また名号を不思議と一念信じとなへつるうへは、なんでふわがはからひをいたすべきききわけ、しりわくるなどわづらはしくは仰せられ候ふやらん。これみなひがことにて候ふなり。ただ不思議と信じつるうへは、とかく御はからひあるべからず候ふ。往生の業には、わたくしのはからひはあるまじく候ふなり。あなかしこ、あなか しこ。

 ただ如来にまかせまゐらせおはしますべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

   五月五日             親鸞

  教名御房

 [端書にいはく]

 この文をもつて、ひとびとにもみせまゐらせさせたまふべく候ふ。他力には義なきを義とすとは申し候ふなり。


末灯鈔(10)

(24)

 仏智不思議と信ずべき事
 御文くはしくうけたまはり候ひぬ。さては御法門の御不審に、一念発起のとき、無碍の心光摂護せられまゐらせ候ふゆゑに、つね浄土の業因決定すと仰せられ候ふ。これめでたく候ふ。かくめでたくは仰せ候へども、これみなわたくしの御はからひになりぬとおぼえ候ふ。ただ不思議と信ぜさせたまひ候ひぬるうへは、わづらはしきはからひあるべからず候ふ。

 またある人の候ふなること出世のこころおほく浄土の業因すくなしと候ふなるは、こころえがたく候ふ。出世と候ふも、浄土の業因と候ふも、みなひとつにて候ふなり。すべてこれ、なまじひなる御はからひと存じ候ふ。仏智不思議と信ぜさせたまひ候ひなば、別にわづらはしく、とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただひとびとのとかく申し候はんことをば、御不審あるべからず候ふ。ただ如来の誓願にまかせまゐらせたまふべく候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。

   五月五日             親鸞[御判]

  浄信御房へ

 [袖書にいはく]


  他力と申し候ふは、とかくのはからひなきを申し候ふなり。


御消息集 広本(7)略本(2)

(25)  六月一日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては、鎌倉にての御訴へのやうは、おろおろうけたまはりて候ふこの御文にたがはずうけたまはりて候ひしに、別のことはよも候はじとおもひ候ひしに、御くだりうれしく候ふ。

 おほかたはこの訴へのやうは、御身ひとりのことにはあらず候ふ。すべて浄土の念仏者のことなり。このやうは、故聖人(源空)の御とき、この身どものやうやうに申され候ひしことなり。こともあたらしき訴へにても候はず。性信坊ひとりの沙汰あるべきことにはあらず。念仏申さんひとは、みなおなじこころに御沙汰あるべきことなり。御身をわらひまうすべきことにはあらず候ふべし。念仏者のものにこころえぬは性信坊のとがに申しなされんは、きはまれるひがことに候ふべし。念仏申さんひとは、性信坊のかたうどにこそなりあはせたまふべけれ。

 母・姉・妹なんどやうやうに申さるることは、ふるごとにて候ふ。さればとて、念仏をとどめられ候ひしが、世に曲事のおこり候ひしかば、それにつけても念仏をふかくたのみて、世のいのりに、こころにいれて、申しあはせたまふべしとぞおぼえ候ふ。

 御文のやう、おほかたの陳状、よく御はからひども候ひけり。うれしく候ふ。詮じ候ふところは、御身にかぎらず念仏申さんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために念仏を申しあはせたまひ候はば、めでたう候ふべし。往生を不定におぼしめさんひとは、まづわが身の往生をおぼしめして、御念仏候ふべし。わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとぞ、おぼえ候ふ。よくよく御案候ふべし。このほかは別の御はからひあるべしとはおぼえず候ふ。

 なほなほ、疾く御くだりの候ふこそ、うれしう候へ。よくよく御こころにいれて、往生一定とおもひさだめられ候ひなば、仏の御恩をおぼしめさんには、異事は候ふべからず。御念仏をこころにいれて申させたまふべしとおぼえ候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

   七月九日             親鸞

  性信御坊


末灯鈔(12)

(26)

 尋ね仰せられ候ふ念仏の不審の事。念仏往生と信ずる人は、辺地の往生とてきらはれ候ふらんこと、おほかたこころえがたく候ふ。そのゆゑは、弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。本願他力をふかく信ぜんともがらは、なにごとにかは辺地の往生にて候ふべき。このやうをよくよく御こころえ候うて御念仏候ふべし。

 この身は、いまは、としきはまりて候へば、さだめてさきだちて往生し候はんずれば、浄土にてかならずかならずまちまゐらせ候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。

   七月十三日            親鸞

  有阿弥陀仏[御返事]


御消息集(9)

(27)

 まづよろづの仏・菩薩をかろしめまゐらせ、よろづの神祇・冥道をあなづりすてたてまつると申すこと、この事ゆめゆめなきことなり。世々生々に無量無辺の諸仏・菩薩の利益によりて、よろづの善を修行せしかども、自力にては生死を出でずありしゆゑに、曠劫多生のあひだ、諸仏・菩薩の御すすめによりて、いままうあひがたき弥陀の御ちかひにあひまゐらせて候ふ御恩をしらずして、よろづの仏・菩薩をあだに申さんは、ふかき御恩をしらず候ふべし。仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよろづの神は、かげのかたちに添へるがごとくして、まもらせたまふことにて候へば、念仏を信じたる身にて、天地の神をすてまうさんとおもふこと、ゆめゆめなきことなり。

 神祇等だにもすてられたまはず。いかにいはんや、よろづの仏・菩薩をあだにも申し、おろかにおもひまゐらせ候ふべしや。よろづの仏をおろかに申さば、念仏を信ぜず、弥陀の御名をとなへぬ身にてこそ候はんずれ。詮ずるところは、そらごとを申し、ひがことをことにふれて、念仏のひとびとに仰せられつけて、念仏をとどめんとするところの領家地頭名主の御はからひどもの候ふらんこと、よくよくやうあるべきことなり
そのゆゑは、釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)とたしかに釈しおかせたまひたり。この世のならひにて念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主やうあることにてこそ候はめ、とかく申すべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをばあはれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろに申して、さまたげなさんを、たすけさせたまふべしとこそ、ふるきひとは申され候ひしか。よくよく御たづねあるべきことなり。

 つぎに、念仏せさせたまふひとびとのこと、弥陀の御ちかひは煩悩具足のひとのためなりと信ぜられ候ふは、めでたきやうなり。ただしわるきもののためなりとて、ことさらにひがことをこころにもおもひ、身にも口にも申すべしとは、浄土宗に申すことならねば、ひとびとにもかたること候はず。おほかたは、煩悩具足の身にて、こころをもとどめがたく候ひながら、往生を疑はずせんとおぼしめすべしとこそ、師も善知識も申すことにて候ふに、かかるわるき身なれば、ひがことをことさらに好みて、念仏のひとびとのさはりとなり、師のためにも善知識のためにも、とがとなさせたまふべしと申すことは、ゆめゆめなきことなり。弥陀の御ちかひにまうあひがたくしてあひまゐらせて、仏恩を報じまゐらせんとこそおぼしめすべきに、念仏をとどめらるることに沙汰しなされて候ふらんこそ、かへすがへすこころえず候ふ。あさましきことに候ふ。ひとびとのひがざまに御こころえどもの候ふゆゑ、あるべくもなきことどもきこえ候ふ。申すばかりなく候ふ。ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。よくよく御はからひども候ふべし。なほなほ念仏せさせたまふひとびと、よくよくこの文を御覧じ説かせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。

   九月二日             親鸞

  念仏の人々御中へくあ

御消息集』(10)

(28)

 文書きてまゐらせ候ふ。この文を、ひとびとにも読みてきかせたまふべし。

 遠江の尼御前の御こころにいれて御沙汰候ふらん、かへすがへすめでた はれにおぼえ候ふ。よくよく京よりよろこび申すよしを申したまふべし。

 信願坊が申すやう、かへすがへす不便のことなり。わるき身なればとて、ことさらにひがことを好みて、師のため善知識のためにあしきことを沙汰し、念仏のひとびとのためにとがとなるべきことをしらずは、仏恩をしらず、よくよくはからひたまふべし。

 また、ものにくるうて死にけんひとびとのことをもちて、信願坊がことを、よしあしと申すべきにはあらず、念仏するひとの死にやうも、身より病をするひとは、往生のやうを申すべからず。こころより病をするひとは天魔ともなり、地獄にもおつることにて候ふべし。こころよりおこる病と身よりおこる病とは、かはるべければ、こころよりおこりて死ぬるひとのことを、よくよく御はからひ候ふべし。

 信願坊が申すやうは、凡夫のならひなれば、わるきこそなればとて、おもふまじきことを好み、身にもすまじきことをし、口にもいふまじきことを申すべきやうに申され候ふこそ、信願坊が申しやうとはこころえず候ふ。往生にさはりなければとて、ひがことを好むべしとは申したること候はず。かへすがへ す、こころえずおぼえ候ふ。

 詮ずるところ、ひがこと申さんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなり候はめ、すべてよろづの念仏者のさまたげとなるべしとはおぼえず候ふ。

 また念仏をとどめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなり候はめ。よろづの念仏するひとのとがとなるべしとはおぼえず候ふ。「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃・下)と、まのあたり善導の御をしへ候ふぞかし。釈迦如来は、「名無眼人、名無耳人」と説かせたまひて候ふぞかし。かやうなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにても候ふらん。

 それはかのひとをにくまずして、念仏をひとびと申してたすけんと、おもひあはせたまへとこそおぼえ候へ。あなかしこ、あなかしこ。

   九月二日             親鸞

  慈信坊 御返事

 入信坊・真浄坊・法信坊にもこの文を読みきかせたまふべし。かへすがへす不便のことに候ふ。性信坊には春のぼりて候ひしに、よくよく申して候ふ。 くげどのにも、よくよくよろこび申したまふべし。このひとびとのひがことを申しあうて候へばとて、道理をば失はれ候はじとこそおぼえ候へ。世間の事にも、さることの候ふぞかし。領家・地頭・名主のひがことすればとて、百姓をまどはすことは候はぬぞかし。仏法をばやぶるひとなし。仏法者のやぶるにたとへたるには、「獅子の身中の虫の獅子をくらふがごとし」(梵網経・意)と候へば、念仏者をば仏法者のやぶりさまたげ候ふなり。よくよくこころえたまふべし。なほなほ御文には申しつくすべくも候はず。


血脈文集(4)

(29)

 武蔵よりとて、しむの入道どのと申す人と、正念房と申す人の王番にのぼらせたまひて候ふとておはしまして候ふ。みまゐらせて候ふ。御念仏の御こころざしおはしますと候へば、ことにうれしうめでたうおぼえ候ふ。御すすめと候ふ。かへすがへすうれしうあはれに候ふ。なほなほ、よくよくすすめまゐらせて、信心かはらぬやうに人々に申させたまふべし。如来の御ちかひのうへに、釈尊の御ことなり。また十方恒沙の諸仏の御証誠なり。信心はかはらじとおもひ候へども、やうやうにかはりあはせたまひて候ふこと、ことになげきおもひ候ふ。よくよくすすめまゐらせたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

   九月七日             親鸞

  性信御房

 念仏のあひだのことゆゑに、御沙汰どものやうやうにきこえ候ふに、こころやすくならせたまひて候ふと、この人々の御ものがたり候へば、ことにめでたううれしう候ふ。なにごともなにごとも申しつくしがたく候ふ。いのち候はば、またまた申し候ふべく候ふ。


末灯鈔(13)真蹟

(30)

 尋ね仰せられて候ふ摂取不捨のことは、『般舟三昧行道往生讃』と申すに仰せられて候ふをみまゐらせて候へば、「釈迦如来・弥陀仏、われらが慈悲の父母にて、さまざまの方便にて、われらが無上信心をばひらきおこさせたまふ」と候へば、まことの信心の定まることは、釈迦・弥陀の御はからひとみえて候ふ。往生の心疑なくなり候ふは、摂取せられまゐらするゆゑとみえて候ふ。

摂取のうへには、ともかくも行者のはからひあるべからず候ふ。浄土へ往生するまでは不退の位にておはしまし候へば、正定聚の位となづけておはしますことにて候ふなり。まことの信心をば、釈迦如来・弥陀如来二尊の御はからひにて発起せしめたまひ候ふとみえて候へば、信心の定まると申すは摂取にあづかるときにて候ふなり。そののちは正定聚の位にて、まことに浄土へ生るるまでは候ふべしとみえ候ふなり。ともかくも行者のはからひをちりばかりもあるべからず候へばこそ、他力と申すことにて候へ。あなかしこ、あなかしこ。

   十月六日            親鸞

  しのぶの御房の御返事


御消息集(17)

(31)

 ひとびとの仰せられて候ふ十二光仏の御ことのやう、書きしるしてくだしまゐらせ候ふ。くはしく書きまゐらせ候ふべきやうも候はず。おろおろ書きしるして候ふ。

 詮ずるところは、無碍光仏と申しまゐらせ候ふことをとせさせたまふべく候ふ。無碍光仏は、よろづのもののあさましきわるきことにはさはりなくたすけさせたまはん料に、無碍光仏と申すとしらせたまふべく候ふ。あなかしこ、 あなかしこ。

   十月二十一日           親鸞

  唯信御坊 御返事


末灯鈔(15)真蹟

(32)

 尋ね仰せられて候ふこと、かへすがへすめでたう候ふ。まことの信心をえたる人は、すでに仏に成らせたまふべき御身となりておはしますゆゑに、「如来とひとしき人」と経(華厳経)に説かれ候ふなり。弥勒はいまだ仏に成りたまはねども、このたびかならずかならず仏に成りたまふべきによりて、弥勒をばすでに弥勒仏と申し候ふなり。その定に、真実信心をえたる人をば、如来とひとしと仰せられて候ふなり。また承信房の、弥勒とひとしと候ふも、ひがことには候はねども、他力によりて信をえてよろこぶこころは如来とひとしと候ふを、自力なりと候ふらんは、いますこし承信房の御こころの底のゆきつかぬやうにきこえ候ふこそ、よくよく御案候ふべくや候ふらん。自力のこころにて、わが身は如来とひとしと候ふらんは、まことにあしう候ふべし。他力の信心のゆゑに、浄信房のよろこばせたまひ候ふらんは、なにかは自力にて候ふべき。

よくよく御はからひ候ふべし。このやうは、この人々にくはしう申して候ふ。

承信の御房にとひまゐらせさせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。

   十月二十一日           親鸞

  浄信御房 御返事


御消息集 広本(11),略本(6)

(33)

 九月二十七日の御文、くはしくみ候ひぬ。さては御こころざしの銭五貫文、十一月九日にたまはりて候ふ。

 さてはゐなかのひとびと、みなとしごろ念仏せしは、いたづらごとにてありけりとて、かたがたひとびとやうやうに申すなることこそ、かへすがへす不便のことにきこえ候へ。やうやうの文どもを書きてもてるを、いかにみなして候ふやらん。かへすがへすおぼつかなく候ふ。

 慈信坊のくだりて、わがききたる法文こそまことにてはあれ、日ごろの念仏は、みないたづらごとなりと候へばとて、おほぶの中太郎の方のひとは九十なん人とかや、みな慈信坊の方へとて中太郎入道をすてたるとかやきき候ふ。いかなるやうにてさやうには候ふぞ。詮ずるところ、信心の定まらざりけるとき き候ふ。いかやうなることにて、さほどにおほくのひとびとのたぢろき候ふらん。不便のやうときき候ふ。またかやうのきこえなんど候へば、そらごともおほく候ふべし。また親鸞も偏頗あるものときき候へば、ちからを尽して『唯信鈔』・『後世物語』・『自力他力の文』のこころども、二河の譬喩なんど書きて、かたがたへ、ひとびとにくだして候ふも、みなそらごとになりて候ふときこえ候ふは、いかやうにすすめられたるやらん。不可思議のことときき候ふこそ、不便に候へ。よくよくきかせたまふべし。あなかしこ、あなかしこ。

   十一月九日            親鸞

  慈信御坊

 真仏坊・性信坊・入信坊、このひとびとのこと、うけたまはり候ふ。かへすがへす、なげきおぼえ候へども、ちからおよばず候ふ。また余のひとびとのおなじこころならず候ふらんも、ちからおよばず候ふ。ひとびとのおなじこころならず候へば、とかく申すにおよばず。いまはひとのうへも申すべきにあらず候ふ。よくよくこころえたまふべし。

                    親鸞

  慈信御坊


御消息集(善性本)(7)

(34)

ある人のいはく
往生の業因は一念発起信心のとき、無碍の心光に摂護せられまゐらせ候ひぬれば同一なり。
このゆゑに不審なし。このゆゑに、はじめてまた信・不信を論じ尋ねまうすべきにあらずとなり。
このゆゑに他力なり、義なきがなかの義となり。ただ無明なることおほはるる煩悩ばかりとなり。
恐々 謹言。
     十一月一日
                   専信上

 仰せ候ふところの往生の業因は、真実信心をうるとき摂取不捨にあづかるとおもへば、かならずかならず如来の誓願に住すと、悲願にみえたり。「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」(大経・上)と誓ひたまへり。

正定聚に信心の人は住したまへりとおぼしめし候ひなば、行者のはからひのなきゆゑに、義なきを義とすと他力をば申すなり。善とも悪とも、浄とも穢とも、行者のはからひなき身とならせたまひて候へばこそ、義なきを義とすとは申すことにて候へ。

 十七の願に「わがなをとなへられん」と誓ひたまひて、十八の願に、「信心まことならば、もし生れずは仏に成らじ」と誓ひたまへり。十七・十八の悲願みなまことならば、正定聚の願(第十一願)はせんなく候ふべきか。補処の弥勒におなじ位に信心の人はならせたまふゆゑに、摂取不捨とは定められて候へ。このゆゑに、他力と申すは行者のはからひのちりばかりもいらぬなり。かるがゆゑに義なきを義とすと申すなり。このほかにまた申すべきことなし、ただ仏にまかせまゐらせたまへと、大師聖人(源空)のみことにて候へ。

   十一月十八日           親鸞

  専信御坊 御報


真 蹟

(35)

                「御返事(花押)」

 常陸の人々の御中へ、この文をみせさせたまへ。すこしもかはらず候ふ。この文にすぐべからず候へば、この文をくにの人々、おなじこころに候はんずらん。あなかしこ、あなかしこ。

   十一月十一日           (花押)

  いまごぜんのはは


真 蹟

(36)

 このいまごぜんのははの、たのむかたもなく、そらうをもちて候はばこそ、譲りもし候はめ。せんしに候ひなば、くにの人々いとほしうせさせたまふべく候ふ。この文を書く常陸の人々をたのみまゐらせて候へば、申しおきてあはれみあはせたまふべく候ふ。この文をごらんあるべく候ふ。このそくしやうばうにも、すぐべきやうもなきものにて候へば、申しおくべきやうも候はず。身のかなはず、わびしう候ふことは、ただこのこと、おなじことにて候ふ。ときにこのそくしやうばうにも、申しおかず候ふ。常陸の人々ばかりぞ、このものどもをも、御あはれみ、あはれ候ふべからん。いとほしう、人々あはれみおぼしめすべし。この文にて、人々おなじ御こころに候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。

   十一月十二日


                ぜんしん(花押)

  常陸の人々の御中へ

   常陸の人々の御中へ        (花押)


末灯鈔(16)

(37)

 なによりも聖教のをしへをもしらず、また浄土宗のまことのそこをもしらずして、不可思議の放逸無慚のものどものなかに、悪はおもふさまにふるまふべしと仰せられ候ふなるこそ、かへすがへすあるべくも候はず。北の郡にありし善証房といひしものに、つひにあひむつるることなくてやみにしをばみざりけるにや。凡夫なればとて、なにごともおもふさまならば、ぬすみをもし、人をもころしなんどすべきかは。もとぬすみごころあらん人も、極楽をねがひ念仏を申すほどのことになりなば、もとひがうたるこころをもおもひなほしてこそあるべきに、そのしるしもなからんひとびとに、悪くるしからずいふこと、ゆめゆめあるべからず候ふ。煩悩にくるはされて、おもはざるほかにすまじきことをもふるまひ、いふまじきことをもいひ、おもふまじきことをもおもふにてこそあれ。さはらぬことなればとて、ひとのためにもはらぐろく、すまじきことをもし、いふまじきことをもいはば、煩悩にくるはされたる儀にはあらで、わざとすまじきことをもせば、かへすがへすあるまじきことなり。

 鹿島・行方のひとびとのあしからんことをばいひとどめ、その辺の人々の、ことにひがみたることをば制したまはばこそこの辺より出できたるしるしにては候はめ。ふるまひはなにともこころにまかせよといひつると候ふらん、あさましきことに候ふ。この世のわろきをもすて、あさましきことをもせざらんこそ、世をいとひ念仏申すことにては候へ。としごろ念仏するひとなんどの、ひとのためにあしきことをし、またいひもせば、世をいとふしるしもなし。

 されば善導の御をしへには、「悪をこのむ人をばつつしんでとほざかれ」(散善義・意)とこそ、至誠心のなかにはをしへおかせおはしまして候へ。いつかわがこころのわろきにまかせてふるまへとは候ふ。おほかた経釈をもしらず、如来の御ことをもしらぬ身に、ゆめゆめその沙汰あるべくも候はずあなかしこ、あなかしこ。

   十一月二十四日          親鸞



末灯鈔(17)

(38)

 他力のなかには自力と申すことは候ふときき候ひき。他力のなかにまた他力と申すことはきき候はず。他力のなかに自力と申すことは、雑行雑修・定心念仏・散心念仏をこころがけられて候ふひとびとは、他力のなかの自力のひとびとなり。他力のなかにまた他力と申すことはうけたまはり候はず。なにごとも専信房のしばらくも居たらんと候へば、そのとき申し候ふべし。あなかしこ、あなかしこ。銭二十貫文、たしかにたしかに給はり候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

   十一月二十五日          親鸞


末灯鈔(18)

(39)

 御たづね候ふことは、弥陀他力の回向の誓願にあひたてまつりて、真実の信心をたまはりてよろこぶこころの定まるとき、摂取して捨てられまゐらせざるゆゑに、金剛心になるときを正定聚の位に住すとも申す。弥勒菩薩とおなじ位になるとも説かれて候ふめり。弥勒とひとつ位になるゆゑに、信心まことなるひとを、仏にひとしとも申す。

 また諸仏の真実信心をえてよろこぶをば、まことによろこびて、われとひとしきものなりと説かせたまひて候ふなり。『大経』(下)には、釈尊のみことばに「見敬得大慶則我善親友」とよろこばせたまひ候へば、信心をえたるひとは諸仏とひとしと説かれて候ふめり。また弥勒をば、すでに仏に成らせたまはんことあるべきにならせたまひて候へばとて、弥勒仏と申すなり。しかればすでに他力の信をえたるひとをも、仏とひとしと申すべしとみえたり。御疑あるべからず候ふ。

 御同行の「臨終を期して」と仰せられ候ふらんは、ちからおよばぬことなり。信心まことにならせたまひて候ふひとは、誓願の利益にて候ふうへに、摂取して捨てずと候へば、来迎臨終を期せさせたまふべからずとこそおぼえ候へ。いまだ信心定まらざらんひとは、臨終をも期し来迎をもまたせたまふべし。

 この御文主の御名は随信房と仰せられ候はば、めでたく候ふべし。この御文の書きやうめでたく候ふ。御同行の仰せられやうはこころえず候ふ。それをばちからおよばず候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

   十一月二十六日          親鸞

  随信御房


真 蹟

(40)

 このゑん仏ばう、くだられ候ふ。こころざしのふかく候ふゆゑに、主などにもしられまうさずして、のぼられて候ふぞ、こころにいれて、主などにも、仰せられ候ふべく候ふ。この十日の夜、せうまうにあうて候ふ。この御ばうよくよくたづね候ひて候ふなり。こころざしありがたきやうに候ふぞ、さだめてこのやうは申され候はんずらん、よくよくきかせたまふべく候ふ。なにごともなにごともいそがしさに、くはしう申さず候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

   十二月十五日           (花押)

  真仏御房へ


御消息集 広本(8),略本(3)

(41)

 護念坊のたよりに、教忍御坊より銭二百文、御こころざしのものたまはりて候ふ。さきに念仏のすすめのもの、かたがたの御中よりとて、たしかにたまはりて候ひき。ひとびとによろこび申させたまふべく候ふ。この御返事にて、おなじ御こころに申させたまふべく候ふ。

 さてはこの御たづね候ふことは、まことによき御疑どもにて候ふべし。まづ一念にて往生の業因はたれりと申し候ふは、まことにさるべきことにて候ふべし。さればとて、一念のほかに念仏を申すまじきことには候はず。そのやうは『唯信鈔』にくはしく候ふ。よくよく御覧候ふべし。一念のほかにあまるところの念仏は、十方の衆生に回向すべしと候ふも、さるべきことにて候ふべし。十方の衆生に回向すればとて、二念・三念せんは往生にあしきこととおぼしめされ候はば、ひがことにて候ふべし。念仏往生の本願とこそ仰せられて候へば、おほく申さんも、一念・一称も、往生すべしとこそうけたまはりて候へ。かならず一念ばかりにて往生すといひて、多念をせんは往生すまじきと申すことは、ゆめゆめあるまじきことなり。『唯信鈔』をよくよく御覧候ふべし。

 また有念無念と申すことは、他力の法文にはあらぬことにて候ふ。聖道門に申すことにて候ふなり。みな自力聖道の法文なり。阿弥陀如来の選択本願念仏は、有念の義にもあらず、無念の義にもあらずと申し候ふなり。いかなるひと申し候ふとも、ゆめゆめもちゐさせたまふべからず候ふ。聖道に申すことを、あしざまにききなして、浄土宗に申すにてぞ候ふらん。さらさらゆめゆめ、もちゐさせたまふまじく候ふ。また慶喜と申し候ふことは、他力の信心をえて往生を一定してんずとよろこぶこころを申すなり。常陸国中の念仏者のなかに有念・無念の念仏沙汰のきこえ候ふは、ひがことに候ふと申し候ひにき。

ただ詮ずるところは、他力のやうは行者のはからひにてはあらず候へば、有念にあらず、無念にあらずと申すことを、あしうききなして、有念・無念なんど申し候ひけるとおぼえ候ふ。弥陀の選択本願は行者のはからひの候はねばこそ、ひとへに他力とは申すことにて候へ。一念こそよけれ、多念こそよけれなんど申すことも、ゆめゆめあるべからず候ふ。なほなほ一念のほかにあまるところの御念仏を法界衆生に回向すと候ふは、釈迦・弥陀如来の御恩を報じまゐらせんとて、十方衆生に回向せられ候ふらんは、さるべく候へども、二念・三念申して往生せんひとを、ひがこととは候ふべからず。よくよく『唯信鈔』を御覧候ふべし。念仏往生の御ちかひなれば、一念・十念も往生はひがことにあらずとおぼしめすべきなり。あなかしこ、あなかしこ。

   十二月二十六日          親鸞

  教忍御坊 御返事


末灯鈔(22)

(42)

 『宝号経』にのたまはく、「弥陀の本願は行にあらず、善にあらず、ただ仏名をたもつなり」。名号はこれ善なり行なり、行といふは善をするについていふことばなり。本願はもとより仏の御約束とこころえぬるには、善にあらず行にあらざるなり。かるがゆゑに他力とは申すなり。本願の名号は能生する因なり、能生の因といふは、すなはちこれ父なり。大悲の光明はこれ所生の縁なり。所生の縁といふはすなはちこれ母なり。


御消息集 広本(13),略本(8)

(43)

 くだらせたまひてのち、なにごとか候ふらん。この源藤四郎殿におもはざるにあひまゐらせて候ふ。便のうれしさに申し候ふ。そののちなにごとか候ふ。

 念仏の訴へのこと、しづまりて候ふよし、かたがたよりうけたまはり候へば、うれしうこそ候へ。いまはよくよく念仏もひろまり候はんずらんとよろこびいりて候ふ。

 これにつけても御身のはいま定まらせたまひたり。念仏を御こころにいれてつねに申して、念仏そしらんひとびと、この世・のちの世までのことを、いのりあはせたまふべく候ふ。御身どもの料は、御念仏はいまはなにかはせさせたまふべき。ただひがうたる世のひとびとをいのり、弥陀の御ちかひにいれとおぼしめしあはば、仏の御恩を報じまゐらせたまふになり候ふべし。よくよく御こころにいれて申しあはせたまふべく候ふ。聖人(源空)の二十五日の御念仏も、詮ずるところは、かやうの邪見のものをたすけんにこそ、申しあはせたまへと申すことにて候へば、よくよく念仏そしらんひとをたすかれとおぼしめして、念仏しあはせたまふべく候ふ。

 またなにごとも、度々便には申し候ひき。源藤四郎殿の便にうれしうて申し候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

 入西御坊のかたへも申したう候へども、おなじことなれば、このやうをつたへたまふべく候ふ。あなかしこ、あなかしこ。

                    親鸞

  性信御坊へ