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親鸞

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2019年1月23日 (水) 03:07時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

しんらん

親鸞聖人 熊皮の御影

 (1173-1262)浄土真宗の開祖。日野有範(ありのり)の長子。『御伝鈔』によれば、九歳の時に慈鎮(じちん)和尚(かしょう)慈円)について出家し、範宴(はんねん)と名のられたという。

以後二十年間、比叡山で修学されたが、その間には常行三昧(じょうぎょうざんまいどう)堂僧をつとめておられたとみられている。

建仁元年(1201)二十九歳の時、比叡山を下り、六角堂に参篭し、九十五日の暁、聖徳太子の夢告をうけて、吉水に法然上人を訪ね、その門弟となられた。元久元年(1204)比叡山の圧力に対して法然上人が提出された「七箇条制誡(しちかじょうせいかい)」に、「僧綽空(しゃっくう)」と署名されている。

翌元久二年(1205)『選択集(せんじゃくしゅう)』の付属を許されてこれを書写し、法然上人の真影(しんねい)を図画した。また夢告により、綽空の名を善信と改められたという。

建永二年(承元元年・1207)念仏弾圧によって、法然上人や同輩数名とともに罪せられ、越後(現在の新潟県)に流された。恵信尼公と結ばれたのはこの地であったといわれる。建暦元年(1211)赦免(しゃめん)され、建保二年(1214)、妻子とともに常陸(ひたち)(現在の茨城県)に移住し、関東で伝道の生活をおくられた。六十二、三歳の頃、京都に帰られたが、その理由は明らかでない。

建長初年の頃から、関東の門弟中に法義の混乱が生じたため、息男慈信(じしんぼう)善鸞(ぜんらん)を遣わされたが、かえって異義を生じ、建長八年(1256)善鸞を義絶された。

弘長二年(1262)十一月二十八日、弟尋有(じんう)の坊舎で、九十年の生涯を終えられた。なお、弘長二年の十一月二十八日は、新暦では一月十六日になるので、西暦一二六三年とする説もある[1]。その撰述は、主著『教行信証』をはじめとして、『文類聚鈔(もんるいじゅしょう)』『愚禿鈔(ぐとくしょう)』『二門偈』『三帖和讃』『三経往生文類』『銘文』『一多証文』『唯信鈔文意』など数多い。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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  1. 親鸞聖人が入滅された日は、弘長2年(1262)11月28日(グレゴリオ暦換算 1263年1月16日)である。明治5年(1872)に天保暦(太陰太陽暦、いわゆる旧暦)から新暦(グレゴリオ暦、後にユリウス暦)に移行したので、宗派により、旧暦の日付で行われる場合(11月28日)と新暦に換算した1月16日に営まれる場合がある。(明治6年(1973)の11月28日は、新暦に換算すれば1月16日に当たる)
    このため、御開山の入滅を旧暦で1262年と表記する場合と1263年と表記する場合がある。