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誹謗正法

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

ひほう-しょうぼう

 仏の正しき教法をそしり、その真実性を否定すること。 →謗法 (大経 P.18散善義 P.494要集 P.1147)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

誹も謗も〔そし-る〕と読み、けなしたり中傷すること。→、→
『浄土真宗辞典』(本願寺出版社)の「誹謗正法」の項には、

ひほう-しょうぼう 誹謗正法

略して謗法ともいう。仏の教えをそしり、正しい真理をないがしろにすること。五逆より重い罪とされる。『大経』第十八願には「ただ五逆と誹謗正法とをば除く(唯除五逆誹謗正法)」(18)と説かれている。→抑止門 →唯除五逆誹謗正法 (浄土真宗辞典)

と、ある。

御開山は、この誹謗五逆について「信巻」末で、曇鸞大師の『論註』八番問答(p.296)と、善導大師の「散善義」抑止門釈(p.302)を引文して考察されておられる。
『論註』では『観経』下品下生に

「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。」(観経 p.115)

という五逆・十悪の者であっても、南無阿弥陀仏と仏名を十称して往生したと説かれている。しかし『無量寿経』第十八願には、「ただ五逆と誹謗正法とをば除く(唯除五逆誹謗正法)」とあるので、正法を誹謗する者は往生できないとする。曇鸞大師は、この経意の違いを釈し、そもそも阿弥陀仏の法を誹謗している者が、その法によって往生できる筈がない、と、いわれている。まさに「また水にあらざるの氷、煙なきの火を求めんがごとし」である。(信巻 P.297)
これに対して善導大師は「散善義」抑止門釈で、

四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障 極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。(p.302)

と、『無量寿経』の唯除五逆誹謗正法の文は、謗法・五逆を抑止する為に説かれたのだとされた。この釈を「抑止門」という。 御開山は、また次下に『法事讃』を引き、

仏願力をもつて、五逆と十悪と罪滅し生ずることを得しむ。謗法・闡提、回心すればみな往く(p.303)

と、謗法・闡提であった者でも「回心すればみな往く(回心皆往)」とされておられる。
御開山は、『尊号真像銘文』で、

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。』(p.644)

とされて、「十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり」とされておられるのも「回心すればみな往く」という意でもあろう。ともあれ、五逆と誹謗正法が往生できるか出来ないかを論ずるより、自らの回心(信心)を問うことが大問題であるのはいうまでもないことである。