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「顕浄土方便化身土文類 (本)」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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<font color="red">編集中</font>
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==仏説観無量寿経==
+
  
仏説観無量寿経
+
<div style="border:solid #555 1px;background:#F5F5F5;padding:1.5em;margin:0 auto 1em auto; font-size:110%" >
 +
<span id="P--374"></span>
 +
==化身土文類六(本)==
 +
     [無量寿仏観経の意なり]
  
   宋元嘉中畺良耶舎訳
+
     至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}
  
==序分==
+
     [阿弥陀経の意なり]
===発起序===
+
 
 +
     至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}
 +
<span id="P--375"></span>
 +
 
 +
==顕浄土方便化身土文類 六 ==
 +
 
 +
                           愚禿釈親鸞集
 +
 
 +
==総釈 化身土を明かす==
 
<span id="no1"></span>
 
<span id="no1"></span>
[[仏説 観無量寿経#no1|(1)]]<br>
+
:[[現代語 化巻#A--1|【1】]] つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、[[真身観]]の仏これなり。土は[[観経の浄土|『観経』の浄土]]これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち[[懈慢界]]これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
如是我聞。一時仏在王舎城耆闍崛山中。<br>
+
 
与大比丘衆 千二百五十人倶。<br>
+
==要門釈、第十九願開説、観経の意==
菩薩三万二千。文殊師利法王子而為上首。
+
 
===禁父縁===
+
 
<span id="no2"></span>
 
<span id="no2"></span>
[[仏説 観無量寿経#no2|(2)]]<br>
+
:[[現代語 化巻#A--2|【2】]] しかるに[[濁世]]の群萌、[[穢悪の含識]]、いまし[[九十五種の邪道]]を出でて、[[半満権実|半満・権実]]の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
爾時王舎大城 有一太子。名阿闍世。<br>
+
随順調達悪友之教 収執父王頻婆娑羅 幽閉置於七重室内 制諸群臣一不得往。<br>
+
国大夫人 名韋提希。恭敬大王 澡浴清浄 以酥蜜和麨用塗其身 諸瓔珞中盛蒲桃漿 密以上王。<br>
+
  
爾<span id="P--108"></span>時大王 食麨飲漿 求水漱口。<br>
+
:偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく[[諸有海]]を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願<span id="P--376"></span>と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
漱口畢已 合掌恭敬向耆闍崛山 遥礼世尊而作是言 「大目犍連 是吾親友。願興慈悲 授我八戒」。<br>
+
時目犍連 如鷹・隼飛 疾至王所。日日如是 授王八戒。<br>
+
世尊亦遣尊者富楼那 為王説法 如是時間経三七日 王食麨蜜 得聞法故顔色和悦。<br>
+
===禁母縁===
+
<span id="no3"></span>
+
[[仏説 観無量寿経#no3|(3)]]<br>
+
時阿闍世 問守門者 「父王今者猶存在耶」。<br>
+
時守門人白言 「大王 国大夫人 身塗麨蜜 瓔珞盛漿 持用上王。<br>
+
沙門目連及富楼那 従空而来 為王説法 不可禁制」。<br>
+
時阿闍世 聞此語已 「怒其母曰 我母是賊。与賊為伴。沙門悪人。<span id="P--109"></span>
+
幻惑呪術 令此悪王多日不死」。<br>
+
即執利剣 欲害其母。<br>
+
時有一臣 名曰月光。聡明多智。及与耆婆為 王作礼白言。<br>
+
「大王 臣聞毘陀論経説 劫初已来 有諸悪王 貪国位故 殺害其父 一万八千。<br>
+
未曾聞有 無道害母。王今為此殺逆之事 汚刹利種。臣不忍聞。是栴陀羅。不宜住此時」。<br>
+
  
二大臣説此語竟 以手按剣 却行而退。時阿闍世 驚怖惶懼告耆婆言。「汝不為我耶」。<br>
+
===経文引証===
耆婆白言 「大王慎莫害母」。<br>
+
<span id="no3"></span>
王聞此語 懺悔求救。即便捨剣 止不害母。勅語内官 閉置深宮不令復出。
+
[[現代語 化巻#A--3|【3】]] ここをもつて『大経』(上)の願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、[[もろもろの功徳]]を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と[[囲繞]]してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。
  
<span id="P--110"></span>
 
===厭苦縁===
 
 
<span id="no4"></span>
 
<span id="no4"></span>
[[仏説 観無量寿経#no4|(4)]]<br>
+
====『悲華経』諸菩薩本授記品の文====
時韋提希 被幽閉已 愁憂憔悴。<br>
+
[[現代語 化巻#A--4|【4】]] 『悲華経』の「[[大施品]]」にのたまはく、「願はくはわれ阿耨多羅三藐三菩提を成りをはらんに、その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心を発し、もろもろの善根を修して、わが界に生ぜんと欲はんもの、臨終のとき、われまさに大衆と囲繞して、その人の前に現ずべし。
遥向耆闍崛山 為仏作礼而作是言 「如来世尊在昔之時 恒遣阿難来慰問我。
+
我今愁憂。世尊威重 無由得見。願遣目連 尊者阿難与 我相見」。<br>
+
作是語已 悲泣雨涙 遥向仏礼。<br>
+
未挙頭頃 爾時世尊 在耆闍崛山 知韋提希心之所念 即勅大目犍連 及以阿難 従空而来 仏従耆闍崛山 没於王宮出。<br>
+
時韋提希 礼已挙頭 見世尊釈迦牟尼仏。<br>
+
身紫金色 坐百宝蓮華 目連侍左阿難在右。釈梵護世諸天在虚空中 普雨天華持用供養。<br>
+
時韋提希 見仏世<span id="P--111"></span>尊 自絶瓔珞挙身投地 号泣向仏白言 「世尊 我宿何罪生此悪子。世尊復有何等因縁 与提婆達多 共為眷属。
+
===欣浄縁===
+
<span id="no5"></span>
+
[[仏説 観無量寿経#no5|(5)]]<br>
+
唯願世尊 為我 広説無憂悩処。我当往生。<br>
+
不楽 閻浮提濁悪世也。<br>
+
此濁悪処 地獄・餓鬼・畜生盈満 多不善聚。<br>
+
願我未来 不聞悪声 不見悪人。<br>
+
今向世尊 五体投地 求哀懺悔。<br>
+
唯願仏日 '''教我観於清浄業処'''」。<ref>清浄業処とは本願によって成就された報土であるとする。</ref><br>
+
  
爾時世尊 放眉間光。其光金色。遍照十方無量世界 還住仏頂 化為金台。如須弥山。<br>
+
その人、われを見て、すなはちわが前にして心に歓喜を得ん。われを見るをもつてのゆゑに、もろもろの障碍を離れて、すなはち身を捨ててわが界に来生せしめん」と。{以上}
十方諸<span id="P--112"></span>仏 浄妙国土 皆於中現。<br>
+
 
或有国土 七宝合成。復有国土 純是蓮華。<br>
+
<span id="no5"></span>
復有国土 如自在天宮。<br>
+
====成就文指示====
復有国土 如玻瓈鏡。十方国土 皆於中現有。<br>
+
:[[現代語 化巻#A--5|【5】]] この願(第十九願)成就の文は、すなはち三輩の文これなり、『観経』の定散九品の文これなり。
如是等無量諸仏国土。厳顕可観。令韋提希見。<br>
+
  
時韋提希 白仏言。<br>
 
世尊是諸仏土 雖復清浄皆有光明 我今楽生 極楽世界 阿弥陀仏所。<br>
 
唯願世尊 '''教我思惟 教我正受'''。<ref>思惟とは方便で正受とは金剛の真心であるとする。</ref><br>
 
===散善顕行縁===
 
 
<span id="no6"></span>
 
<span id="no6"></span>
[[仏説 観無量寿経#no6|(6)]]<br>
+
====化身土の証文 化土の相を明かす====
爾時世尊 即便微笑 有五色光 従仏口出。一一光照頻婆娑羅頂。<br>
+
[[現代語 化巻#A--6|【6】]] また『大経』(上)にのたまはく、「また無量寿仏のその道場樹は、高さ<span id="P--377"></span>四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・[[持海輪宝]]の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。{乃至}
爾時大王 雖在幽閉 心眼無障 遥見世尊 頭面作礼 自然増進 成阿那含。
+
 
 +
阿難、もしかの国の人・天、この樹を見るものは三法忍を得ん。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなりと。{乃至}また[[講堂]]・[[精舎]]・宮殿・楼観、みな七宝をもつて荘厳し、自然に化成せり。また真珠・[[明月摩尼]]衆宝をもつて、もつて[[交露]]とす、その上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。十由旬、あるいは二十・三十乃至百千由旬なり。[[縦広深浅]]、おのおのみな[[一等]]なり。八功徳水、[[湛然として盈満せり]]。清浄香潔にして味はひ甘露のごとし」と。
  
 
<span id="no7"></span>
 
<span id="no7"></span>
[[仏説 観無量寿経#no7|(7)]]<br>
+
 
爾時世尊 告韋提希 汝今知不 阿弥<span id="P--113"></span>陀仏 去此不遠。<br>
+
====『大経』『如来会』の疑城胎宮の文====
汝当繋念 '''諦観彼国浄業成者'''。<ref>諦観彼国浄業成者とは、本願成就の尽十方無碍光如来を観知することとされた。この場合の「観」とは観経の観ではなく、「願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり」(『一念多念証文』p.691)とある。</ref><br>
+
=====『大無量寿経』(巻下)胎化得失の文=====
我今為汝 '''広説衆譬'''<ref>広説衆譬(広くもろもろの譬へを説く)。すなわちすなはち定善十三観は譬えであるとする。</ref> 亦令未来世一切凡夫 欲修浄業者 得生西方極楽国土。<br>
+
 
欲生彼国者 当修三福。<br>
+
[[現代語 化巻#A--7|【7】]] またのたまはく(大経・下)、「それ胎生のものは、処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにして、もろもろの快楽を受くること忉利天上のごとし。またみな自然なり。
一者孝養父母 奉事師長 慈心不殺 修十善業。<br>
+
そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁あつてか、かの国の人民、[[胎生化生|胎生・化生]]なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生ありて、<span id="P--378"></span>疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。[[仏智…|仏智]]・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。
二者受持三帰 具足衆戒 不犯威儀。<br>
+
 
三者発菩提心 深信因果 読誦大乗 勧進行者。<br>
+
しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆゑにかの国土にはこれを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし、かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに、その胎生のものはみな智慧なきなり〉と。{乃至}
如此三事名為浄業。<br>
+
 
仏告韋提希 汝今知不。此三種業 過去・未来・現在 三世諸仏浄業正因。
+
仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種々に荘厳し[[床帳を張設し]]、もろもろの[[繒幡]]を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに[[金鎖]]をもつてせん〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その[[本の罪]]を識りて、深くみづから[[悔責]]して、かの処を離るることを求めん。{乃至}弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。{以上抄出}<span id="P--379"></span>
===定善示観縁===
+
 
 
<span id="no8"></span>
 
<span id="no8"></span>
[[仏説 観無量寿経#no8|(8)]]<br>
+
=====『無量寿如来会』(巻下)胎化得失の文=====
仏告阿難及韋提希 諦聴諦聴 善思念之。<br>
+
[[現代語 化巻#A--8|【8】]] 『如来会』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・[[普遍智]]・不思議智・[[無等智]]・[[威徳智]]・[[広大智]]を希求せん。'''みづからの善根において信を生ずることあたはず'''
如来 今者為未来世 一切衆生<span id="P--114"></span>
+
 
為煩悩賊之所害者 説清浄業。<br>
+
この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。{乃至}阿逸多(弥勒)、なんぢ[[殊勝智のもの]]を観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに、[[かの蓮華…趺座せん|かの蓮華]]のなかに化生することを受けて[[結跏趺座]]せん。なんぢ[[下劣の輩]]を観ずるに、{乃至}
善哉 韋提希 快問此事。<br>
+
もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに[[因なくして…奉事せん|因なくして]]無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。'''みづからの善根において信を生ずることあたはず'''。仏の名を聞くによりて[[信心]]を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、[[華胎]]のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}
阿難 汝当受持 広為多衆宣説仏語。<br>
+
如来 今者 教韋提希及未来世一切衆生 観於西方極楽世界。<br>
+
以仏力故 当得見彼清浄国土 如執明鏡 自見面像。<br>
+
見彼国土 極妙楽事 心歓喜故 応時即得無生法忍。<br>
+
仏告韋提希 '''汝是凡夫心想羸劣'''<ref>汝是凡夫心想羸劣(なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣なり)。凡夫を指して、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなりとする。「彰す」であるから経文の上には見えないが義としてあるということ。悪人正機という言い方はされておられないことに注意。</ref> 未得天眼 不能遠観。<br>
+
'''諸仏如来有異方便'''<ref>諸仏如来有異方便(諸仏如来に異の方便まします)。すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり、とされる。経文の上に方便であると顕かに現れているので「顕す」とされた。</ref> 令汝得見。<br>
+
時韋提希 白仏言 世尊。<br>
+
如我今者 '''以仏力故見彼国土''' '''若仏滅後諸衆生等''' 濁悪不善 五苦所逼 云何当見 阿弥陀仏極楽世界<br>
+
<span id="P--115"></span>
+
  
==正宗分==
 
===定善===
 
====日想観====
 
 
<span id="no9"></span>
 
<span id="no9"></span>
[[仏説 観無量寿経#no9|(9)]]<br>
+
====『大経』『如来会』の不可称計の文====
仏告韋提希 汝及衆生 応当専心繋念一処 想於西方。<br>
+
=====『大無量寿経』(巻下)十方来生の文=====
云何作想。凡作想者 一切衆生 自非生盲 有目之徒 皆見日没。<br>
+
[[現代語 化巻#A--9|【9】]] 『大経』(下)にのたまはく、「もろもろの[[小行の菩薩…少功徳を修習するもの|小行の菩薩]]、および少功徳を<span id="P--380"></span>修習するもの、[[称計]]すべからず。みなまさに往生すべし」と。
当起想念 正坐西向 諦観於日 令心堅住 専想不移 見日欲没 状如懸鼓。<br>
+
 
既見日已 閉目開目 皆令明了。<br>
+
是為日想 名曰初観。<br>
+
====水想観====
+
 
<span id="no10"></span>
 
<span id="no10"></span>
[[仏説 観無量寿経#no10|(10)]]<br>
+
=====無量寿如来会』(巻下)胎化得失の文=====
次作水想。<br>
+
[[現代語 化巻#A--10|【10】]] またのたまはく(如来会・下)、「いはんや余の菩薩、少善根によりて、かの国に生ずるもの称計すべからず」と。{以上}
見水澄清 亦令明了無分散意。<br>
+
 
既見水已 当起氷想。見氷映徹 作瑠璃想。<br>
+
===釈文引証===
此想成已 見瑠璃地 内外映徹。<br>
+
下有金剛七宝金幢 擎瑠璃地。<br>
+
其幢 八方八楞具足。<br>
+
一一方面 百宝<span id="P--116"></span>所成。<br>
+
一一宝珠有千光明。<br>
+
一一光明八万四千色。<br>
+
映瑠璃地 如億千日。不可具見。<br>
+
瑠璃地上 以黄金縄 雑廁間錯 以七宝界 分斉分明。<br>
+
一一宝中有五百色光。其光如華。又似星月。<br>
+
懸処虚空 成光明台。楼閣千万 百宝合成。<br>
+
於台両辺 各有百億華幢 無量楽器。以為荘厳。<br>
+
八種清風 従光明出 鼓此楽器 演説 苦・空・無常・無我之音。<br>
+
是為水想 名第二観。<br>
+
====地観====
+
 
<span id="no11"></span>
 
<span id="no11"></span>
[[仏説 観無量寿経#no11|(11)]]<br>
+
=====善導『観経疏』定善義(地相観)の文=====
此想成時 一一観之 極令了了。<br>
+
[[現代語 化巻#A--11|【11】]] 光明寺(善導)の釈([[観経疏 定善義_(七祖)#P--412|定善義 412]])にいはく、「華に含みていまだ出でず。あるいは[[辺界]]に生じ、あるいは[[宮胎]]に堕せん」と。{以上}
閉目開目不令散失。唯除睡時 恒憶此事。<br>
+
 
如此想者 名為 粗見極楽国地。<br>
+
若得三昧 見彼国地了了分明。不可具説。<br>
+
<span id="P--117"></span>
+
是為地想 名第三観。<br>
+
仏告阿難 汝持仏語 為未来世一切大衆 欲脱苦者 説是観地法。<br>
+
若観是地者 除八十億劫生死之罪 捨身他世必生浄国。心得無疑。<br>
+
作是観者 名為正観。若他観者 名為邪観。<br>
+
====宝樹観====
+
 
<span id="no12"></span>
 
<span id="no12"></span>
[[仏説 観無量寿経#no12|(12)]]<br>
+
=====憬興『述文賛』(巻下)の文=====
仏告阿難及韋提希 地想成已 次観宝樹観。<br>
+
[[現代語 化巻#A--12|【12】]] 憬興師のいはく(述文賛)、「仏智を疑ふによりて、かの国に生れて、辺地にありといへども、[[聖化の事を被らず]]。もし胎生せばよろしくこれを重く捨つべし」と。{以上}
宝樹者 一一観之 作七重行樹想。一一樹高八千由旬。<br>
+
 
其諸宝樹 七宝華葉 無不具足。<br>
+
一一華葉 作異宝色。瑠璃色中 出金色光 玻瓈色中 出紅色光 碼碯色中 出硨磲光 硨磲<span id="P--118"></span>色中 出緑真珠光 珊瑚・琥珀 一切衆宝以為映飾。<br>
+
妙真珠網 弥覆樹上。<br>
+
一一樹上 有七重網。一一網間 有五百億 妙華宮殿。如梵王宮。<br>
+
諸天童子 自然在中。<br>
+
一一童子 五百億釈迦毘楞伽摩尼宝 以為瓔珞。其摩尼光 照百由旬。<br>
+
猶如和合百億日月。不可具名。<br>
+
衆宝間錯 色中上者。<br>
+
此諸宝樹 行行相当 葉葉相次。於衆葉間 生諸妙華。<br>
+
華上自然有七宝果。<br>
+
一一樹葉 縦広正等 二十五由旬。<br>
+
其葉千色 有百種画。如天瓔珞。<br>
+
有衆妙華。作閻浮檀金色 如旋火輪 婉転葉間。<br>
+
涌生諸果 如帝釈瓶。<br>
+
有大光明 化成幢旛・無量宝<span id="P--119"></span>蓋。<br>
+
是宝蓋中 映現三千大千世界 一切仏事。<br>
+
十方仏国亦於中現。<br>
+
見此樹已 亦当次第一一観之。<br>
+
観見 樹茎・枝葉・華果 皆令分明。<br>
+
是為樹想 名第四観。<br>
+
====宝池観====
+
 
<span id="no13"></span>
 
<span id="no13"></span>
[[仏説 観無量寿経#no13|(13)]]<br>
+
=====源信『往生要集』(巻下末)の文=====
次当想水。想水者 極楽国土 有八池水。一一池水 七宝所成。其宝柔軟。<br>
+
[[現代語 化巻#A--13|【13】]] 首楞厳院(源信)の『要集』([[往生要集下巻_(七祖)#P--1126|下 一一二六]])に、感禅師(懐感)の釈([[群疑論]])を引きていはく、「問ふ。『菩薩処胎経』の[[第二]]に説かく、〈西方この閻浮提を去ること、十二億那由他に懈慢界あり。{乃至}意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生ぜんと欲ふもの、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生ずることあたはず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず〉と、云々。この『経』をもつて[[准難]]するに、生ずることを得べしやと。
従如意珠王生 分為十四支。一一支 作七宝色。黄金為渠 渠下皆以雑色金剛 以為底沙。<br>
+
 
一一水中 有六十億七宝蓮華。<br>
+
答ふ。『群疑論』に善導和尚の[[前の文]]を引きて、この難を釈して、またみづから[[助成]]していはく、〈この『経』の下の文にいはく、《なにをもつてのゆゑに、みな懈慢によりて執心牢固ならず》と。ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢<span id="P--381"></span>の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち[[執心牢固]]にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また[[報の浄土]]に生ずるものはきはめて少なし。[[化の浄土]]のなかに生ずるものは少なからず。ゆゑに『経』の別説、実に相違せざるなり〉」と。{以上略抄}
一一蓮華 団円正等十二由旬。<br>
+
 
其摩尼水 流注華間 尋樹上下。<br>
+
===結勧===
其声微妙 演説 苦・空・無常・無我・諸波羅蜜。<br>
+
復有 讃歎諸仏相好者。<br>
+
如意珠王<span id="P--120"></span>涌出金色 微妙光明。<br>
+
其光 化為百宝色鳥。和鳴哀雅 常讃念仏 念法 念僧。<br>
+
是為八功徳水想 名第五観。<br>
+
====宝楼観====
+
 
<span id="no14"></span>
 
<span id="no14"></span>
[[仏説 観無量寿経#no14|(14)]]<br>
+
:[[現代語 化巻#A--14|【14】]] しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、[[念仏証拠門のなかに…|念仏証拠門(往生要集・下)のなかに]]、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが[[能]]を思量せよとなり、知るべし。
衆宝国土 一一界上 有五百億宝楼閣。<br>
+
 
其楼閣中 有無量諸天 作天伎楽。<br>
+
===三経隠顕問答 隠顕釈===
又有楽器 懸処虚空 如天宝幢 不鼓自鳴。<br>
+
 
此衆音中 皆説 念仏 念法 念比丘僧。此想成已 名為粗見極楽世界 宝樹・宝地・宝池。是為総観想 名第六観。<br>
+
若見此者 除無量億劫極重悪業 命終之後 必生彼国。<br>
+
作是観者 名為正観。若他観者 名為邪観。<br>
+
====華座観====
+
 
<span id="no15"></span>
 
<span id="no15"></span>
[[仏説 観無量寿経#no15|(15)]]<br>
+
:[[現代語 化巻#A--15|【15】]] 問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
仏告阿難及韋提希 諦聴諦聴善思念之。<br>
+
 
仏当為汝 分別解説 除苦悩法。<span id="P--121"></span><br>
+
:答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、[[顕彰隠密]]の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに[[二善]]・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は[[自利・利他|自利]]各別にして、[[自利・利他|利他]]の一心にあらず。[[如来の異の方便]]、[[欣慕浄土の善根]]なり。これはこの経の意なり。<span id="P--382"></span>
汝等憶持 広為大衆 分別解説。<br>
+
 
説是語時 無量寿仏 住立空中。観世音・大勢至 是二大士 侍立左右。<br>
+
:すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を[[演暢]]す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、[[釈迦微笑の素懐]]を彰す。[[韋提別選の正意]]によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。
光明熾盛 不可具見。<br>
+
====十三文例====
百千閻浮檀金色 不得為比。<br>
+
: ここをもつて『経』(観経)には、「[[教我観於…|教我観於]]清浄業処」といへり。
時韋提希 見無量寿仏已 接足作礼 白仏言。<br>
+
:「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
世尊 我今因仏力故 得見無量寿仏及二菩薩。未来衆生 当云何 観無量寿仏及二菩薩。<br>
+
:「[[教我思惟]]」といふは、すなはち方便なり。
仏告韋提希 欲観彼仏者 当起想。<br>
+
:「[[教我正受]]」といふは、すなはち金剛の真心なり。
念於七宝地上 作蓮華想。令其蓮華一一葉 作百宝色。有八万四千脈。猶如天画。<br>
+
:「[[諦観彼国…|諦観彼国浄業成者]]」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
脈有八万四千光 了了分明 皆令得見。華葉小者 縦広二百五十由旬。<br>
+
:「[[広説衆譬]]」といへり、すなはち十三観これなり。
如是蓮華 有八万四千葉。一一葉間 各有百<span id="P--122"></span>億摩尼珠王 以為映飾。<br>
+
:「[[汝是凡夫…|汝是凡夫心想羸劣]]」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
一一摩尼 放千光明。其光 如蓋七宝合成。遍覆地上。<br>
+
:「[[諸仏如来…|諸仏如来有異方便]]」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
釈迦毘楞伽宝 以為其台。此蓮華台 八万 金剛・甄叔迦宝。梵摩尼宝・妙真珠網 以為交飾於。其台上自然而有四柱宝幢。<br>
+
:「[[以仏力故…|以仏力故見彼国土]]」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
一一宝幢 如百千万億須弥山。<br>
+
:「[[若仏滅後…|若仏滅後諸衆生等]]」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
幢上宝幔 如夜摩天宮。有五百億微妙宝珠 以為映飾。<br>
+
:「[[若有合者…|若有合者名為粗想]]」といへり、これ定<span id="P--383"></span>観成じがたきことを顕すなり。
一一宝珠 有八万四千光。<br>
+
:「[[於現身中…|於現身中得念仏三昧]]」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
一一光作 八万四千異種金色。<br>
+
:「[[発三種心…|発三種心即便往生]]」といへり。
一一金色 遍其宝土 処処変化 各作異相。<br>
+
:また「[[復有三種…|復有三種衆生当得往生]]」といへり。これらの文によるに、三輩について[[三種の三心]]あり、また[[二種の往生]]あり。
或為金剛台 或作真珠網 或作雑華雲。<br>
+
:
於十方面 随意変現 施作仏事。<br>
+
: まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。
是為華座想 名第七観。<br>
+
 
仏告阿難 如此妙華 是本法蔵比丘<span id="P--123"></span>願力所成。<br>
+
 
若欲念彼仏者 当先作此華座想。作此想時 不得雑観。<br>
+
皆応一一観之。一一葉 一一珠 一一光 一一台 一一幢 皆令分明 如於鏡中 自見面像。<br>
+
此想成者 滅除五万劫生死之罪 必定当生極楽世界。<br>
+
作是観者 名為正観 若他観者 名為邪観。<br>
+
====像観====
+
 
<span id="no16"></span>
 
<span id="no16"></span>
[[仏説 観無量寿経#no16|(16)]]<br>
+
 
仏告阿難及韋提希 見此事已 次当想仏。所以者何。<br>
+
===釈文引証 隠顕釈の引文===
諸仏如来 是法界身。入一切衆生心想中。<br>
+
====善導大師の釈十四文====
是故 汝等心想仏時 是心即是三十二相八十随形好 是心作仏。是心是仏。<br>
+
=====要弘二門=====
諸仏正遍知海 従心想生。是故応当一心繋念 諦<span id="P--124"></span>観彼仏 多陀阿伽度・阿羅訶・三藐三仏陀。<br>
+
 
想彼仏者 先当想像。閉目・開目 見一宝像 如閻浮檀金色 坐彼華上。<br>
+
[[現代語 化巻#A--16|【16】]] しかれば光明寺の和尚(善導)のいはく([[観経疏 玄義分_(七祖)#P--300|玄義分 三〇〇]])、「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑに、すなはち広く浄土の要門を開く。安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰す。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。定はすなはち[[慮りを…|慮りを]]息めてもつて心を凝らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願せよとなり。弘願といふは『大経』の説のごとし」といへり。<span id="P--384"></span>
見像坐已 心眼得開 了了分明 見極楽国 七宝荘厳 宝地・宝池・宝樹行列 諸天宝幔 弥覆其上 衆宝羅網 満虚空中。<br>
+
 
見如此事 極令明了 如観掌中。<br>
+
見此事已 復当更 作一大蓮華 在仏左辺。<br>
+
如前蓮華 等無有異。<br>
+
復作一大蓮華 在仏右辺。<br>
+
想一観世音菩薩像 坐左華座。亦放金光 如前(仏)無異。想一大勢至菩薩像 坐右華座。此想成時 仏・菩薩像 皆放光明。<br>
+
其光金色 照諸宝樹。一一樹下 復有三蓮華。<br>
+
諸蓮華<span id="P--125"></span>上 各有一仏・二菩薩像 遍満彼国。<br>
+
此想成時 行者 当聞 水流・光明及諸宝樹・鳧・鴈・鴛鴦 皆説妙法 出定・入定 恒聞妙法。<br>
+
行者所聞 出定之時 憶持不捨。令与修多羅合。<br>
+
若不合者 名為妄想。若有合者 名為麁想 見極楽世界。<br>
+
是為像想 名第八観。<br>
+
作是観者 除無量億劫 生死之罪 '''於現身中得念仏三昧'''。<br>
+
====真身観====
+
 
<span id="no17"></span>
 
<span id="no17"></span>
[[仏説 観無量寿経#no17|(17)]]<br>
+
=====念観両宗=====
仏告阿難及韋提希 此想成已 次当更観 無量寿仏 身相光明。<br>
+
 
阿難当知 無量寿仏身 如百千万億夜摩天閻 浮檀金色。<br>
+
[[現代語 化巻#A--17|【17】]] またいはく([[観経疏 玄義分_(七祖)#P--305|玄義分 三〇五]])、「[[いまこの観経は…|いまこの『観経』は]]すなはち観仏三昧をもつて宗とす、また念仏三昧をもつて宗とす。一心に[[回願]]して浄土に往生するを体とす。教の[[大小|大・小]]といふは、問うていはく、この経は二蔵のなかには、いづれの蔵にか摂する、[[二教]]のなかには、いづれの教にか収むるやと。答へていはく、いまこの『観経』は菩薩蔵に収む。頓教の摂なり」と。
仏身高 六十万億那由他恒河沙由旬。<br>
+
眉間白毫 右旋婉転 如<span id="P--126"></span>五須弥山。<br>
+
仏眼如四大海水。青白分明。<br>
+
身諸毛孔 演出光明。如須弥山。彼仏円光 如百億三千大千世界。<br>
+
於円光中 有百万億那由他恒河沙化仏。<br>
+
一一化仏 亦有 衆多無数化菩薩 以為侍者。<br>
+
無量寿仏 有八万四千相。<br>
+
一一相 各有八万四千随形好。<br>
+
一一好 復有八万四千光明。<br>
+
一一光明 遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨。<br>
+
其光明相好 及与化仏 不可具説。<br>
+
但当憶想 令心眼見。<br>
+
見此事者 即見十方一切諸仏。以見諸仏故 名念仏三昧。<br>
+
作是観者 名観一切仏身。以観仏身故 亦見仏心。仏心者大慈悲是。<br>
+
以無縁<span id="P--127"></span>慈 摂諸衆生。<br>
+
作此観者 捨身他世生諸仏前 得無生忍。<br>
+
是故智者 応当繋心 諦観無量寿仏。<br>
+
  
観無量寿仏者 従一相好入。但観眉間 白毫極令明了。<br>
 
見眉間白毫者 八万四千相好 自然当現。<br>
 
見無量寿仏者 即見十方無量諸仏。<br>
 
得見無量諸仏故 諸仏現前授記。<br>
 
是為遍 観一切色身想 名第九観。<br>
 
作此観者 名為正観。<br>
 
若他観者 名為邪観。<br>
 
====観音観====
 
 
<span id="no18"></span>
 
<span id="no18"></span>
[[仏説 観無量寿経#no18|(18)]]<br>
+
=====如是の三釈=====
仏告阿難及韋提希 見無量寿仏了了分明已 次復当観観世音菩薩。<br>
+
 
此菩薩身長 八十万億那由他由旬。身紫金色。<br>
+
[[現代語 化巻#A--18|【18】]] またいはく([[観経疏 序分義_(七祖)#P--336|序分義 三三六]])、「また[[如是]]といふは、すなはちこれは法を指す、[[定散両門]]なり。是はすなはち定むる辞なり。機、行ずればかならず益す。これは如来の所説の言、[[錯謬]]なきことを明かす。ゆゑに如是と名づく。また如といふは衆生の意のごとしとなり。心の[[所楽]]に随ひて、仏すなはちこれを度したまふ。[[機教相応]]せるをまた称して是とす。ゆゑに如是といふ。また如是といふは、如来の所説を明かさんと欲す。
頂有肉髻。項有円光。面各百<span id="P--128"></span>千由旬。<br>
+
 
其円光中 有五百化仏 如釈迦牟尼仏。<br>
+
[[漸]]を説くことは漸のごとし、[[頓]]を説くことは頓のごとし。相を説くことは相のごとし、空を説くことは空のごとし。[[人法]]を説くこと人法のごとし、[[天法]]を説くこと天法のごとし。[[小]]を説くこと小のごとし、[[大]]を説くこと大のごとし。凡を説くこと凡のごとし、聖を説くこと聖のごとし。因を説くこと因のごとし、果を説くこと果のごとし。苦を説くこと苦<span id="P--385"></span>のごとし、楽を説くこと楽のごとし。遠を説くこと遠のごとし、近を説くこと近のごとし。同を説くこと同のごとし、別を説くこと別のごとし。浄を説くこと浄のごとし、穢を説くこと穢のごとし。一切の法を説くこと千差万別なり。如来の観知、[[歴々了然]]として、心に随ひて行を起して、おのおの益すること同じからず。[[業果法然…|業果法然]]としてすべて錯失なし、また称して是とす。ゆゑに如是といふ」と。
一一化仏 有五百化菩薩 無量諸天 以為侍者。<br>
+
 
挙身光中 五道衆生一切色相 皆於中現。<br>
+
頂上毘楞伽摩尼宝。以為天冠。其天冠中 有一立化仏。<br>
+
高二十五由旬。観世音菩薩面 如閻浮檀金色。<br>
+
眉間毫相 備七宝色。流出八万四千種光明。<br>
+
一一光明 有無量無数百千化仏。<br>
+
一一化仏 無数化菩薩 以為侍者。変現自在 満十方世界。譬如紅蓮華色。<br>
+
有八十億光明 以為瓔珞。其瓔珞中 普現一切諸荘厳事。手掌 作五百億雑蓮華色。<br>
+
手十指端 一一指端 有八万四千画。猶<span id="P--129"></span>如印文。<br>
+
一一画 有八万四千色。<br>
+
一一色 有八万四千光。其光柔軟 普照一切 以此宝手 接引衆生。<br>
+
挙足時 足下有千輻輪相。自然化 成五百億光明台。<br>
+
下足時 有金剛摩尼華 布散一切 莫不弥満。其余身相・衆好 具足如仏無異。<br>
+
唯頂上肉髻 及無見頂相 不及世尊。<br>
+
是為観観世音菩薩 真実色身想。名第十観。<br>
+
仏告阿難 若有欲観観世音菩薩者 当作是観。作是観者 不遇諸禍。<br>
+
浄除業障 除無数劫生死之罪。如此菩薩 但聞其名 獲無量福。<br>
+
何況諦観。若有欲観観世音菩薩者 先観頂上肉髻 次観天冠。<br>
+
其余衆相 亦<span id="P--130"></span>次第観之 亦令明了 如観掌中。作是観者 名為正観。若他観者 名為邪観。<br>
+
====勢至観====
+
 
<span id="no19"></span>
 
<span id="no19"></span>
[[仏説 観無量寿経#no19|(19)]]<br>
+
=====自開散善=====
次復応観大勢至菩薩。此菩薩身量大小 亦如観世音。<br>
+
[[現代語 化巻#A--19|【19】]] またいはく([[観経疏 序分義_(七祖)#P--381|序分義 三八一]])、「〈欲生彼国者〉より、下〈名為浄業〉に至るまでこのかたは、まさしく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。これをもつて如来方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまへり」と。
円光面 各百二十五由旬。照二百五十由旬。挙身光明 照十方国 作紫金色。有縁衆生 皆悉得見。但見此菩薩 一毛孔光 即見十方無量諸仏 浄妙光明。<br>
+
 
是故号此菩薩 名無辺光。以智慧光 普照一切 令離三塗 得無上力。<br>
+
是故号此菩薩 名大勢至。此菩薩天冠 有五百宝華。<br>
+
一一宝華有五百宝台。一一台中十方諸仏 浄妙国土広長之相 皆於中現。<br>
+
頂上肉髻 如鉢頭摩華。於肉髻上 有<span id="P--131"></span>一宝瓶 盛諸光明 普現仏事。<br>
+
余諸身相 如観世音 等無有異。此菩薩行時 十方世界 一切震動。<br>
+
当地動処 有五百億宝華。<br>
+
一一宝華荘厳 高顕如極楽世界。<br>
+
此菩薩坐時 七宝国土一時動揺 従下方金光仏刹 乃至上方 光明王仏刹 於其中間 無量塵数分身無量寿仏 分身観世音・大勢至 皆悉雲集極楽国土。<br>
+
側塞空中 坐蓮華座 演説妙法 度苦衆生。<br>
+
作此観者 名為正観 若他観者 名為邪観。<br>
+
見大勢至菩薩 是為観大勢至色身想 名第十一観観。<br>
+
此菩薩者 除無数劫阿僧祇生死之罪。作是観者 不処胞胎 常遊<span id="P--132"></span>諸仏浄妙国土。<br>
+
此観成已 名為具足 観観世音・大勢至。<br>
+
====普観====
+
 
<span id="no20"></span>
 
<span id="no20"></span>
[[仏説 観無量寿経#no20|(20)]]<br>
+
=====隠顕釈の引文=====
見此事時 当起自心 生於西方極楽世界 於蓮華中結跏趺坐 作蓮華合想 作蓮華開想。蓮華開時 有五百色光。来照身 想眼目。開想見仏菩薩 満虚空中。水・鳥・樹林 及与諸仏所出音声 皆演妙法。与十二部経合 出定之時 憶持不失。見此事已 名見無量寿仏 極楽世界。<br>
+
======至誠心釈======
是為普観想 名第十二観。<br>
+
[[現代語 化巻#A--20|【20】]] またいはく([[観経疏 散善義_(七祖)#P--456|散善義 四五六]])、「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。自利真実といふは、また二種あり。
無量寿仏化身無数 与観世音・大勢至 常来至 此行人之所。<br>
+
 
====雑想観====
+
一つには、真実心のうちに自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住座臥に、一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくせんと想ふ。
 +
 
 +
二つには、真実心のうち<span id="P--386"></span>に自他・[[凡聖]]等の善を勤修す。真実心のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪のことを毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、つつしんでこれを遠ざかれ、また[[随喜]]せざれとなり。また真実心のうちの身業に、合掌し、礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し、観察し、憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨すと。{乃至}
 +
 
 +
 また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。{乃至}[[また深心の深信とは]]、決定して[[自心を建立して]]、教に順じて修行し、永く[[疑錯]]を除きて、一切の[[別解別行|別解・別行]]・[[異学異見異執|異学・異見・異執]]のために[[退失傾動]]せられざるなりと。{乃至}
 +
 
 +
 次に行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるものは、<span id="P--387"></span>これを正行と名づく。なにものかこれや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の[[二報荘厳]]を専注し思想し観察し憶念する。もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼する。
 +
 
 +
もし口に称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せばすなはち一心にもつぱら讃嘆供養する。これを名づけて正とす。またこの正のなかについて、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるものは、これを[[正定の業]]と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によるは、すなはち名づけて助業とす。
 +
 
 +
この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修するは、心つねに親近し、憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずるは、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、すべて[[疎雑の行]]と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。
 +
 
 +
 三つには回向発願心。回向発願心といふは、過去および今生の身口意業に修するところの[[世出世の善根|世・出世の善根]]、および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもつて、ことごとくみ<span id="P--388"></span>な真実の深信の心のうちに回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づくるなり」と。
 +
 
 
<span id="no21"></span>
 
<span id="no21"></span>
[[仏説 観無量寿経#no21|(21)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--21|【21】]] またいはく([[観経疏 序分義_(七祖)#P--338|序分義 三三八]])、「[[定善は…縁なり|定善は]][[観]]を示す縁なり」と。
仏告阿難及韋提希 若欲至心 生西方者 先当観於 一 丈六像 在池水上。<span id="P--133"></span>如先所説 無量寿仏身量無辺 非是凡夫心力 所及。<br>
+
 
然 彼如来宿願力故 有憶想者 必得成就。<br>
+
但想仏像 得無量福。何況 観仏具足身相。<br>
+
阿弥陀仏 神通如意 於十方国変現自在。或現大身満虚空中 或現小身丈六 八尺。<br>
+
所現之形 皆真金色 円光化仏及宝蓮華如上所説。<br>
+
観世音菩薩及大勢至 於一切処身同。衆生但観首相 知是観世音知 是大勢至。此二菩薩 助阿弥陀仏 普化一切。<br>
+
是為雑想観 名第十三観。<br>
+
===散善===
+
====上品上生====
+
 
<span id="no22"></span>
 
<span id="no22"></span>
[[仏説 観無量寿経#no22|(22)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--22|【22】]] またいはく(同)、「[[散善は…縁なり|散善は]][[行]]を顕す縁なり」と。
仏告阿難及韋提希 上品上生者 若有衆生願生彼国者 '''発三種心即便<span id="P--134"></span>往生'''。何等為三。一者至誠心 二者深心 三者廻向発願心。具三心者 必生彼国。'''復有三種衆生当得往生'''。何等為三。<br>
+
 
一者 慈心不殺 具諸戒行。<br>
+
二者 読誦大乗方等経典。<br>
+
三者 修行六念。<br>
+
廻向発願 願生彼国。具此功徳 一日乃至七日 即得往生。<br>
+
生彼国時 此人精進勇猛故 阿弥陀如来 与観世音・大勢至・無数化仏・百千比丘・声聞大衆・無数諸天・七宝宮殿。<br>
+
観世音菩薩 執金剛台 与大勢至菩薩 至行者前。<br>
+
阿弥陀仏 放大光明 照行者身 与諸菩薩 授手迎接。<br>
+
観世音・大勢至 与無数菩薩 讃歎行者 勧進其心。<br>
+
行者見<span id="P--135"></span>已 歓喜踊躍 自見其身 乗金剛台。<br>
+
随従仏後 如弾指頃 往生彼国。生彼国已 見仏色身 衆相具足 見諸菩薩 色相具足。<br>
+
光明宝林 演説妙法。聞已即悟無生法忍。経須臾間 歴事諸仏 遍十方界 於諸仏前 次第授記。<br>
+
還到本国 得無量百千陀羅尼門 是名上品上生者。<br>
+
====上品中生====
+
 
<span id="no23"></span>
 
<span id="no23"></span>
[[仏説 観無量寿経#no23|(23)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--23|【23】]] またいはく([[観経疏 散善義_(七祖)#P--501|散善義 五〇一]])、「浄土の要逢ひがたし」と。[文]{抄出}
上品中生者 不必受持読誦方等経典 善解義趣 於第一義 心不驚動。<br>
+
 
深信因果 不謗大乗。以此功徳 廻向願求 生極楽国。<br>
+
行此行者 命欲終時 阿弥陀仏与観世音・大勢至・無量大衆 眷属囲繞 持紫金台 至行者前。<br>
+
讃言<span id="P--136"></span> 法子汝行大乗解 第一義。<br>
+
是故我今来 迎接汝。与千化仏一時授手。<br>
+
行者自見 坐紫金台。合掌・叉手讃歎諸仏。<br>
+
如一念頃 即生彼国七宝池中。<br>
+
此紫金台 如大宝華。経宿則開。行者身 作紫磨金色。<br>
+
足下亦有七宝蓮華。仏及菩薩 倶時放光明 照行者身 目即開明。<br>
+
因前宿習 普聞衆声 純説甚深第一義諦。即下金台 礼仏合掌 讃歎世尊。経於七日 応時 即於阿耨多羅三藐三菩提 得不退転・<br>
+
応時 即能飛行 遍至十方 歴事諸仏。<br>
+
於諸仏所 修諸三昧。<br>
+
経一小劫 得無生忍 現前授記。<br>
+
是名上品中生者。<br>
+
<span id="P--137"></span>
+
====上品下生====
+
 
<span id="no24"></span>
 
<span id="no24"></span>
[[仏説 観無量寿経#no24|(24)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--24|【24】]] またいはく([[往生礼讃_(七祖)#P--654|礼讃 六五四]])、「『観経』の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。なんらをか三つとする。一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し[[称揚]]す、意業にかの仏を専念し観察す。およそ三業を起すに、かならず真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。{乃至}三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、ゆゑに回向発願心と名づく。この三心を具してかならず生ずることを得るなり。もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべしと。{乃至}
上品下生者 亦信因果不謗大乗。<br>
+
 
但発無上道心 以此功徳廻向 願求生極楽国。<br>
+
 また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して[[仏果]]を求む、すなはちこれ自利なり。衆生を教化して[[未来際]]を尽す、すなはちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために[[繋縛]]せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回し<span id="P--389"></span>て、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到りをはりて、さらに畏るるところなけん。上のごときの四修、[[自然任運]]にして、自利利他具足せざることなしと、知るべし」と。
行者命欲終時 阿弥陀仏及観世音・大勢至 与諸眷属 持金蓮華 化作五百化仏 来迎此人。<br>
+
 
五百化仏 一時授手 讃言<br>
+
法子汝今清浄 発無上道心。我来迎汝。<br>
+
見此事時 即自見身 坐金蓮華。坐已華合。<br>
+
随世尊後 即得往生 七宝池中。<br>
+
一日一夜 蓮華乃開 七日之中乃得見仏。<br>
+
雖見仏身 於衆相好 心不明了。<br>
+
於三七日後 乃了了見。<br>
+
聞衆音声 皆演妙法。<br>
+
遊歴十方 供養諸仏。於諸仏前 聞甚深法。<br>
+
経三小劫 得百法明門 住歓喜地。<br>
+
是名上<span id="P--138"></span>品下生者。<br>
+
是名上輩生想 名第十四観。<br>
+
====中品上生====
+
 
<span id="no25"></span>
 
<span id="no25"></span>
[[仏説 観無量寿経#no25|(25)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--25|【25】]] またいはく([[往生礼讃_(七祖)#P--659|礼讃 六五九]])、「もし[[専]]を捨てて[[雑業]]を修せんとするものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。なにをもつてのゆゑに、いまし[[雑縁]]乱動す、正念を失するによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるがゆゑに、教と相違せるがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、[[係念]]相続せざるがゆゑに、[[憶想]]間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、[[貪瞋諸見]]の煩悩来り間断するがゆゑに、慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑに。懺悔に三品あり。{乃至}
仏告阿難 及韋提希 中品上生者 若有衆生 受持五戒 持八戒斎 修行諸戒 不造五逆 無衆過患。<br>
+
 
以此善根廻向 願求生於西方極楽世界。<br>
+
 上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔のうちより血を流し、眼のうちより血出すをば上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、[[遍身]]に熱き汗毛孔より出づ、眼のうちより血の流るるをば中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼のうちより涙出づるをば下品の懺悔と名づく。これらの三品、<span id="P--390"></span>差別ありといへども、これ久しく[[解脱分]]の善根を種ゑたる人なり。今生に法を敬ひ、人を重くし、身命を惜しまず、乃至小罪ももし懺すれば、すなはちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懺すれば、久近を問はず、所有の重障みなたちまちに滅尽せしむることを致す。もしかくのごとくせざれば、たとひ日夜十二時、急に走むれども、つひにこれ益なし。[[差うて…知んぬべし|差うて]]なさざるものは知んぬべし。流涙・流血等にあたはずといへども、ただよく[[真心徹到]]するものは、すなはち上と同じ」と。{以上}
臨命終時 阿弥陀仏 与諸比丘・眷属囲繞 放金色光 至其人所。<br>
+
 
演説 苦・空・無常・無我 讃歎出家得離衆苦。<br>
+
行者見已 心大歓喜。<br>
+
自見己身 坐蓮華台。<br>
+
長跪合掌 為仏作。礼未挙頭頃 即得往生極楽世界 蓮華尋開。<br>
+
当華敷時 聞衆音声 讃歎四諦。<br>
+
応時 即得阿羅漢道。三明・六通 具八解脱。<br>
+
是名中品上生者。<br>
+
<span id="P--139"></span>
+
====中品中生====
+
 
<span id="no26"></span>
 
<span id="no26"></span>
[[仏説 観無量寿経#no26|(26)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--26|【26】]] またいはく([[観念法門_(七祖)#P--618|観念法門 六一八]])、「すべて[[余の雑業]]の行者を照摂すと論ぜず」と。
中品中生者 若有衆生 若一日一夜 受持八戒斎 若一日一夜 持沙弥戒 若一日一夜持具足戒 威儀無欠。<br>
+
 
以此功徳廻向 願求生極楽国。<br>
+
戒香熏修 如此行者 命欲終時 見阿弥陀仏与諸眷属 放金色光 持七宝蓮華 至行者前。<br>
+
行者自聞 空中有声讃言。<br>
+
善男子 如汝善人。随順 三世諸仏教 故 我来迎汝。<br>
+
行者自見 坐蓮華上。<br>
+
蓮華即合 生於西方極楽世界 在宝池中。<br>
+
経於七日 蓮華乃敷。華既敷已 開目合掌 讃歎世尊 聞法歓喜 得須陀洹 経半劫已 成阿羅漢。<br>
+
是名中品中生<span id="P--140"></span>者。<br>
+
====中品下生====
+
 
<span id="no27"></span>
 
<span id="no27"></span>
[[仏説 観無量寿経#no27|(27)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--27|【27】]] またいはく([[法事讃_(七祖)#P--575|法事讃・下 五七五]])、「如来五濁に出現して、宜しきに随ひて方便して群萌を化したまふ。あるいは[[多聞]]にして[[得度]]すと説き、あるいは少しき解りて三明を証すと説く。あるいは[[福慧]]ならべて障を除くと教へ、あるいは[[禅念]]して座して思量せよと教ふ。種々の法門みな解脱す」と。
中品下生者 若有善男子・善女人 孝養父母 行世仁慈。此人命欲終 時 遇善知識為其 広説阿弥陀仏国土楽事 亦説法蔵比丘 四十八願聞。<br>
+
 
此事已尋 即命終。譬如壮士 屈伸臂頃 即生西方極楽世界。<br>
+
生経七日 遇観世音及大勢至 聞法 歓喜 経一小劫 成阿羅漢。<br>
+
是名中品下生者。<br>
+
是名中輩生想 名第十五観。<br>
+
====下品上生====
+
 
<span id="no28"></span>
 
<span id="no28"></span>
[[仏説 観無量寿経#no28|(28)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--28|【28】]] またいはく([[般舟讃_(七祖)#P--719|般舟讃 七一九]])、「万劫功を修せんことまことに続きがたし。一時に煩悩百たび千たび間はる。もし娑婆にして[[法忍]]を証せんことを待たば、六道にして恒沙の劫にもいまだ期あらじ。門々不同なるを漸教と名づく。万劫苦<span id="P--391"></span>行して無生を証す。[[畢命を期として]]もつぱら念仏すべし。須臾に命断ゆれば、仏迎へ将てまします。[[一食の…|一食の]]時なほ間あり、いかんが万劫貪瞋せざらん。貪瞋は人・天を受くる路を障ふ。[[三悪四趣|三悪・四趣]]のうちに身を安んず」と。{抄要}
仏告阿難及韋提希 下品上生者 或有衆生 作衆悪業。<br>
+
 
雖不誹謗方等経典 如此愚人 多造衆悪 無有慙愧。<br>
+
命欲終時 遇善知識 為讃大乗十二部<span id="P--141"></span>経 首題名字。<br>
+
以聞如是 諸経名故 除却千劫極重悪業。<br>
+
智者復 教合掌叉手 称南無阿弥陀仏 称仏名故 除五十億劫 生死之罪。<br>
+
爾時彼仏 即遣 化仏・化観世音・化大勢至 至行者前 讃言善男子 汝称仏名故 諸罪消滅 我来迎汝。<br>
+
作是語已 行者即見化仏光明 遍満其室。<br>
+
見已歓喜 即便命終乗宝蓮華 随化仏後 生宝池中。<br>
+
経七七日 蓮華乃敷。当華敷時 大悲観世音菩薩及大勢至 放大光明 住其人前 為説甚深十二部経。<br>
+
聞已信解 発無上道心。経十小劫 具百法明門 得入初地。<br>
+
是名下品上生者 得聞仏名・法<span id="P--142"></span>名及聞僧名。聞三宝名 即得往生。<br>
+
====下品中生====
+
 
<span id="no29"></span>
 
<span id="no29"></span>
[[仏説 観無量寿経#no29|(29)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--29|【29】]] またいはく([[般舟讃_(七祖)#P--791|般舟讃 七九一]])、「定散ともに回して宝国に入れ。すなはちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなはちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり」と。{以上}
仏告阿難及韋提希 下品中生者 或有衆生 毀犯五戒八戒 及具足戒。<br>
+
 
如此愚人 偸僧祇物 盗現前僧物 不浄説法 無有慙愧 以諸悪業 而自荘厳。<br>
+
如此罪人 以悪業故 応堕地獄。命欲終時 地獄衆火 一時倶至。<br>
+
遇 善知識以大慈悲 為説阿弥陀仏十力威徳 広説彼仏光明神力 亦讃 戒・定・慧・解脱・解脱知見。<br>
+
此人聞已 除八十億劫 生死之罪。地獄猛火 化為清涼風 吹諸天華。<br>
+
華上 皆有 化仏・菩薩 迎接此人。<br>
+
如一念頃 即得往生。<br>
+
七宝池中蓮<span id="P--143"></span>華之内 経於六劫 蓮華乃敷。当華敷時 観世音大勢至 以梵音声 安慰彼人 為説大乗甚深経典。<br>
+
聞此法已 応時即発無上道心。<br>
+
是名下品中生者。<br>
+
====下品下生====
+
 
<span id="no30"></span>
 
<span id="no30"></span>
[[仏説 観無量寿経#no30|(30)]]<br>
+
 
仏告阿難及韋提希 下品下生者 或有衆生 作不善業 五逆・十悪 具諸不善。<br>
+
====曇鸞『論註』成上起下の文====
如此愚人 以悪業故 応堕悪道 経歴多劫 受苦無窮。<br>
+
 
如此愚人 臨命終時 遇善知識 種種安慰 為説妙法 教令念仏。<br>
+
[[現代語 化巻#A--30|【30】]] 『論の註』([[浄土論註_(七祖)#P--56|上 五六]])にいはく、「二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。ゆゑに不実の功徳と名づく」と。{以上}
此人苦逼 不遑念仏。<br>
+
 
善友告言 汝若不能念者 応称無量寿仏。<br>
+
如是 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。<br>
+
称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪。<br>
+
命終之時 見金蓮<span id="P--144"></span>華 猶如日輪 住其人前。<br>
+
如一念頃 即得往生極楽世界。於蓮華中 満十二大劫 蓮華方開。<br>
+
観世音・大勢至 以大悲音声 為其 広説 諸法実相 除滅罪法。<br>
+
聞已歓喜 応時 即発菩提之心。<br>
+
是名下品下生者。<br>
+
是名下輩生想 名第十六観。<br>
+
==得益分==
+
 
<span id="no31"></span>
 
<span id="no31"></span>
[[仏説 観無量寿経#no31|(31)]]<br>
+
====道綽『安楽集』の二文====
説是語時 韋提希 与五百侍女 聞仏所説 応時即 見極楽世界 広長之相。<br>
+
 
得見 仏身及二菩薩 心生歓喜 歎未曾有。<br>
+
[[現代語 化巻#A--31|【31】]] 『安楽集』([[安楽集_(七祖)#P--241|上 二四一]])にいはく、「『大集経』の〈月蔵分〉を引きていはく、〈わが末法の時のなかに、億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて、通入すべき路なり」と。
廓然大悟 得無生忍。五百侍女 発阿耨多羅三藐三菩提心 願生彼国。<br>
+
 
世尊 悉記皆当往生 生彼国已 得諸仏現前三昧。<br>
+
無量諸天 発無上道<span id="P--145"></span>心。<br>
+
==流通分==
+
 
<span id="no32"></span>
 
<span id="no32"></span>
[[仏説 観無量寿経#no32|(32)]]<br>
+
[[現代語 化巻#A--32|【32】]] またいはく([[安楽集_(七祖)#P--274|同・下 二七四]])、「いまだ一万劫を満たざるこのかたは、つねにい<span id="P--392"></span>
爾時阿難 即従座起 前白仏言世尊。<br>
+
まだ火宅を勉れず、顛倒墜堕するがゆゑに。おのおの功を用ゐることは至りて重く、獲る報は偽なり」と。{以上}
当何名 此経此法之要 当云何受持。<br>
+
 
仏告阿難 此経名観極楽国土 無量寿仏 観世音菩薩大勢至菩薩 亦名浄除業障 生諸仏前。<br>
+
===三経通顕(真仮分判)===
汝当受持 無令忘失行此三昧者 現身得見 無量寿仏及二大士。<br>
+
若善男子善女人 但聞仏名二菩薩名 除無量劫生死之罪。何況憶念。<br>
+
'''若念仏者 当知此人。是人中分陀利華。'''観世音菩薩・大勢至菩薩 為其勝友。当坐道場 生諸仏家。<br>
+
仏告阿難 '''汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名。'''<br>
+
仏 説此語時 尊者目<span id="P--146"></span>犍連・阿難及韋提希等 聞仏所説 皆大歓喜。<br>
+
  
==耆闍分==
 
 
<span id="no33"></span>
 
<span id="no33"></span>
[[仏説 観無量寿経#no33|(33)]]<br>
+
:[[現代語 化巻#A--33|【33】]] しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
爾時世尊 足歩虚空 還耆闍崛山。<br>
+
爾時阿難 広為大衆 説如上事 無量諸天及竜・夜叉 聞仏所説 皆大歓喜 礼仏而退。<br>
+
  
;仏説観無量寿経
+
: これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より[[正助雑の三行|正・助・雑の三行]]を出せり。この正助のなかについて、専修あり雑修あり。機について二種あり。一つには[[定機]]、二つには[[散機]]なり。また二種の三心あり。
</div>
+
:また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つ<span id="P--393"></span>には[[即往生]]、二つには[[便往生]]なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。
 +
:またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世[[能化]]の釈迦[[善逝]]、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。『観経』には「深心」と説けり、諸機の浅信に対せるがゆゑに深とのたまへるなり。『小本』(小経)には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。
  
<references/>
+
====門余釈====
 +
 
 +
<span id="no34"></span>
 +
:[[現代語 化巻#A--34|【34】]] 宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」([[観経疏 玄義分_(七祖)#P--300|玄義分 三〇〇]])といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、[[息慮凝心]]のゆゑに。散心行じがたし、[[廃悪修善]]のゆゑに。<span id="P--394"></span>ここをもつて[[立相住心]]なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、[[法眼]]いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや[[無相離念]]まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、[[術通]]なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。「[[門余]]」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。
 +
 
 +
====通判一代====
 +
<span id="no35"></span>
 +
=====聖浄二門釈=====
 +
======聖道門の意義======
 +
:[[現代語 化巻#A--35|【35】]] おほよそ[[一代の教]]について、この界のうちにして[[入聖得果]]するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、[[権実|権・実]]、[[顕密|顕・密]]、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、[[利他教化…|利他教化]]地、方便権門の道路なり。
 +
======浄土門の意義======
 +
:安養[[浄刹]]にして[[入聖証果]]するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
 +
======正助雑釈======
 +
:正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の[[五種]]これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
 +
======横超釈======
 +
:横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、<span id="P--395"></span>これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
 +
 
 +
<span id="no36"></span>
 +
 
 +
=====雑行釈=====
 +
:[[現代語 化巻#A--36|【36】]] それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の[[解行]]、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、[[回心回向の善]]なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
 +
:また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、[[定散心]]雑するがゆゑに雑心といふなり。
 +
:また正・助について専修あり雑修あり。この雑修について専心あり雑心あり。専修について二種あり。
 +
:一つにはただ仏名を称す、二つには五専あり。この行業について専心あり雑心あり。五専とは、一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専称、五つには専讃嘆なり。これを五専修と名づく。専修、その言一つにして、その<span id="P--396"></span>意これ異なり。すなはちこれ定専修なり、また散専修なり。
 +
:専心とは、五正行をもつぱらにして、二心なきがゆゑに専心といふ。すなはちこれ定専心なり、またこれ散専心なり。雑修とは、助正兼行するがゆゑに雑修といふ。雑心とは、定散の心雑するがゆゑに雑心といふなり、知るべし。
 +
 
 +
: おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。
 +
:[[経家]]によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。[[仮門の教]]、[[欣慕の釈]]、これいよいよあきらかなり。
 +
 
 +
: 二経の三心、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり。三心一異の義、答へをはんぬ。<span id="P--397"></span>
 +
 
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===三経融会問答===
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<span id="no37"></span>
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:[[現代語 化巻#A--37|【37】]] また問ふ。『大本』(大経)と『観経』の三心と、『小本』(小経)の一心と、一異いかんぞや。
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: 答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。[二十願なり]機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。
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:『観経』に[[准知]]するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
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:顕といふは、経家は一切諸行の少善を[[嫌貶]]して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「[[多善根…|多善根]]・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「[[無過念仏…|無過念仏]]往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
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:これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を[[光闡]]して、無碍の大信心海に帰せしめ<span id="P--398"></span>んと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた[[恒沙の信]]なり。ゆゑに甚難といへるなり。
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:釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ[[隠彰の義]]を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心[[堅牢]]にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの[[無問自説経]]なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて[[四依弘経の大士]]、[[三朝浄土の宗師]]、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
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:三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起す<span id="P--399"></span>るがゆゑに。真実の[[楽邦]]はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。三経一心の義、答へをはんぬ。
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==真門釈(第二十願開説『小経』の意)==
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:[[現代語 化巻#A--38|【38】]] それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの[[助正間雑の心]]をもつて名号を称念す。まことに[[教は頓…|教は頓]]にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと[[果遂の誓]][この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。すでにして悲<span id="P--400"></span>願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく、また至心回向の願と名づくべきなり。
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===善本の経文証===
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[[現代語 化巻#A--39|【39】]] ここをもつて『大経』(上)の願(第二十願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、[[もろもろの徳本を植ゑて]]、心を至し回向して、わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。
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[[現代語 化巻#A--40|【40】]] またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。
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[[現代語 化巻#A--41|【41】]] またのたまはく(同・下)、「もしひと善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲ん」と。{以上}
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[[現代語 化巻#A--42|【42】]] 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、無量国のなかの所有の衆生、わが名を説かんを聞きて、[[もつておのれが善根として]]極楽に回向せん。もし生れずは菩提を取らじ」と。{以上}
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[[現代語 化巻#A--43|【43】]] 『平等覚経』(二)にのたまはく、「この功徳あるにあらざる人は、こ<span id="P--401"></span>の経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの正法を聞く。悪と驕慢と[[蔽]]と懈怠とは、もつて[[この法]]を信ずること難し。[[宿世]]のときに仏を見たてまつれるもの、楽みて世尊の教を[[聴聞]]せん。人の命まれに得べし。仏は世にましませどもはなはだ値ひがたし。[[信慧…|信慧]]ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ」と。{以上}
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[[現代語 化巻#A--44|【44】]] 『観経』にのたまはく、「仏阿難に告げたまはく、〈[[なんぢ…|なんぢ]]よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。{以上}
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[[現代語 化巻#A--45|【45】]] 『阿弥陀経』にのたまはく、「[[少善根福徳]]の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を[[執持]]せよ」と。{以上}
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===善本の釈文証===
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[[現代語 化巻#A--46|【46】]] 光明寺の和尚(善導)のいはく([[観経疏 定善義_(七祖)#P--437|定善義 四三七
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]])、「自余の衆行、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく[[比挍]]にあらざるなり。このゆゑに、諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願のなかのごとき、〈ただ弥陀の名号を専念して生ずることを得〉と明かす。また『弥陀経』のなかのごとし、〈一日・七日弥陀の名号を専念して生ずること<span id="P--402"></span>を得〉と。また十方恒沙の諸仏の[[証誠]]虚しからざるなり。またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、〈ただ名号を専念して生ずることを得〉と標す。この例一つにあらざるなり。広く念仏三昧を顕しをはんぬ」と。
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[[現代語 化巻#A--47|【47】]] またいはく([[観経疏 散善義_(七祖)#P--457|散善義 四五七]])、「また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信せよと。{乃至}諸仏は言行あひ違失したまはず。たとひ釈迦一切凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後さだめてかの国に生るるといふは、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、[[同体の大悲]]のゆゑに。一仏の所化はすなはちこれ一切仏の化なり。
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一切仏の化はすなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、{乃至}また一切凡夫を勧めて〈一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば、さだめて往生を得ん〉と。次下の文にいはく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を讃めたまはく、〈よく五濁悪時・悪世界・[[悪衆生]]・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励して称念せしむれば、かならず往生を得〉と。すなはちその証なり。ま<span id="P--403"></span>た十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことをおそれて、すなはちともに同心・同時におのおの[[舌相を出して]]、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを[[人]]について信を立つと名づくるなり」と。{抄要}
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[[現代語 化巻#A--48|【48】]] またいはく([[観経疏 散善義_(七祖)#P--490|散善義 四九〇]])、「しかるに仏願の意を望むには、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義、疾きことは[[雑散の業]]には同じからず。この経および諸部のなかに、処々に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるをまさに[[要益]]とせんとするなり、知るべし」と。
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[[現代語 化巻#A--49|【49】]] またいはく([[観経疏 散善義_(七祖)#P--500|同 五〇〇]])、「〈[[仏告阿難…|仏告阿難]]汝好持是語〉より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、[[遐代]]に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称するにあり」と。<span id="P--404"></span>
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[[現代語 化巻#A--50|【50】]] またいはく([[法事讃_(七祖)#P--564|法事讃・下 五六四]])、「極楽は無為涅槃の界なり。[[随縁の雑善]]、おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、[[要法]]を選びて教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」と。
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[[現代語 化巻#A--51|【51】]] またいはく([[法事讃_(七祖)#P--584|同・下 五八四]])、「[[劫尽きなん…|劫尽きなん]]と欲するとき、五濁盛んなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。もつぱらにしてもつぱらなれと指授して[[西路]]に帰せしめしに、他のために破壊せられて還りて故のごとし。曠劫よりこのかたつねにかくのごとし。これ今生に始めてみづから悟るにあらず。まさしくよき強縁に遇はざるによりて、輪廻して得度しがたからしむることを致す」と。
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[[現代語 化巻#A--52|【52】]] またいはく([[法事讃_(七祖)#P--575|同・下 五七五]])、「種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上[[一形]]を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と。
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[[現代語 化巻#A--53|【53】]] またいはく([[般舟讃_(七祖)#P--721|般舟讃 七二一]])、「一切如来方便を設けたまふこと、また今日の釈迦尊に同じ。機に随ひて法を説くにみな益を蒙る。おのおの悟解を得て真門に入れと。{乃至}仏教多門にして[[八万四]]なり。まさしく衆生の機不同なるがためな<span id="P--405"></span>り。安身常住の処を覓めんと欲はば、まづ要行を求めて真門に入れ」と。
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[[現代語 化巻#A--54|【54】]] またいはく([[往生礼讃_(七祖)#P--660|六六〇]])[智昇師の『[[礼懺儀]]』の文にいはく光明寺(善導)の『礼讃』なり]「それこのごろ、みづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして[[専雑]]、異あり。ただ意をもつぱらにしてなさしむれば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざれば、千がなかに一もなし」と。{以上}
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[[現代語 化巻#A--55|【55】]] 元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・[[礼誦]]・座禅・[[懺念]]・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く[[襄陽の石碑の経]]の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。{以上}
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[[現代語 化巻#A--56|【56】]] [[孤山]]の『疏』(阿弥陀経義疏)にいはく、「執持名号とは、執はいはく執<span id="P--406"></span>受なり、持はいはく住持なり。信力のゆゑに執受心にあり、念力のゆゑに住持して忘れず」と。{以上}
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===勧信経文証(別引)===
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[[現代語 化巻#A--57|【57】]] 『大本』(大経・下)にのたまはく、「如来の[[興世]]、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の[[経道]]、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなしき、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」と。{以上}
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[[現代語 化巻#A--58|【58】]] 『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。〈一切の[[梵行]]の因は善知識なり。一切梵行の因無量なりといへども、善知識を説けば、すなはちすでに[[摂尽]]しぬ〉。わが所説のごとし、〈一切の悪行は邪見なり。一切悪行の因無量なりといへども、もし邪見を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉。あるいは説かく、〈阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといへども、もし信心を説けばすなはちすでに摂尽しぬ〉」と。<span id="P--407"></span>
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[[現代語 化巻#A--59|【59】]] またのたまはく(同・迦葉品)、「善男子、[[信]]に二種あり。一つには信、二つには[[求]]なり。かくのごときの人、また信ありといへども、推求にあたはざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。信にまた二種あり。一つには[[聞]]より生ず、二つには[[思]]より生ず。この人の信心、聞よりして生じて思より生ぜざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには[[道]]あることを信ず、二つには[[得者]]を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏法僧ありといはん、これを信正と名づく。
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因果なく、[[三宝の性異なり]]と言ひて、もろもろの邪語、富蘭那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏法僧宝を信ずといへども、[[三宝同一の性相]]を信ぜず。因果を信ずといへども得者を信ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。この人、不具足信を成就すと。{乃至}善男子、四つの善事あり、悪果を獲得せん。なんらをか四つとする。一つには[[勝他]]のためのゆゑに経典を読誦す。二つには[[利養]]のためのゆゑに禁戒を受持せん。三つには[[他属]]のためのゆゑにして布施を行ぜん。四つには非想非非想処のためのゆゑに[[繋念思惟]]せん。この四つの善事、悪果報を得ん。もし人、かくのごときの四事を修習せん、これを、没<span id="P--408"></span>して没しをはりて還りて出づ、出でをはりて還りて没すと名づく。なんがゆゑぞ没と名づくる、三有を楽ふがゆゑに。なんがゆゑぞ出と名づくる、[[明]]を見るをもつてのゆゑに。明はすなはちこれ[[戒施定|戒・施・定]]を聞くなり。なにをもつてのゆゑに還りて出没するや。邪見を増長し驕慢を生ずるがゆゑに。このゆゑに、われ経のなかにおいて偈を説かく、〈もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する。この人は涅槃道を迷失するなり。これを[[暫出還復没]]と名づく。黒闇生死海を行じて、解脱を得といへども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く。これを暫出還復没と名づく〉と。
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 如来にすなはち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は[[常楽我浄]]なし、無為涅槃は常楽我浄あり。〔乃至〕この人深くこの[[二種の戒]]ともに善果ありと信ず。このゆゑに名づけて戒不具足となす。この人は信・戒の二事を具せず。所修の多聞もまた不具足なり。いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、[[読誦に…なけん|読誦に]]あたはずして他のために解説するは、利益するところなけん。この<span id="P--409"></span>ゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、[[諸有のため]]のゆゑに、[[持読誦説]]せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」と。{略抄}
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[[現代語 化巻#A--60|【60】]] またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。世尊、なにをもつてのゆゑに、つねに三種の[[善調御]]をもつてのゆゑなり。なんらをか三つとする。一つには[[畢竟軟語]]、二つには[[畢竟呵責]]、三つには[[軟語呵責]]なり。この義をもつてのゆゑに、菩薩・諸仏はすなはちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆゑに、善知識と名づく。なにをもつてのゆゑに、病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆゑに。たとへば良医の善き[[八種の術]]のごとし。まづ病相を観ず。相に三種あり。なんらをか三つとする。いはく風・熱・水なり。[[風病・熱病・水病|風病]]の人にはこれに[[蘇油]]を授く。熱病の人にはこれに[[石蜜]]を授く。水病の人にはこれに[[薑湯]]を授く。病根を知るをもつて薬を授くるに、差ゆることを得。ゆゑに良医と名づく。仏および菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。貪欲の病には<span id="P--410"></span>教へて[[骨相を観ぜしむ]]。瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしむ。愚痴の病には[[十二縁相]]を観ぜしむ。この義をもつてのゆゑに諸仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとへば船師のよく人を度するがゆゑに大船師と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもつてのゆゑに善知識と名づく」と。{抄出}
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[[現代語 化巻#A--61|【61】]] 『華厳経』(入法界品・唐訳)にのたまはく、「なんぢ善知識を念ずるに、われを生める、父母のごとし。われを養ふ、乳母のごとし。[[菩提分]]を増長す、衆の疾を医療するがごとし。天の甘露を灑ぐがごとし。日の正道を示すがごとし。月の浄輪を転ずるがごとし」と。
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<span id="no62"></span>
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[[現代語 化巻#A--62|【62】]] またのたまはく(同・入法界品・唐訳)、「如来大慈悲、世間に出現して、あまねくもろもろの衆生のために、[[無上法輪]]を転じたまふ。如来無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。いかんぞもろもろの世間、よく大師の恩を報ぜん」と。{以上}
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===勧信釈文証(別引)===
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[[現代語 化巻#A--63|【63】]] 光明寺の和尚(善導)のいはく([[般舟讃_(七祖)#P--733|般舟讃 七三三]])、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずるこ<span id="P--411"></span>となかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。あるいはいはく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でん。いかんしてか、今日[[宝国]]に至ることを期せん。まことにこれ[[娑婆本師・本師知識|娑婆本師]]の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん。浄土に生ずることを得て慈恩を報ぜよ」と。
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<span id="no64"></span>
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[[現代語 化巻#A--64|【64】]] またいはく([[往生礼讃_(七祖)#P--676|礼讃 六七六]])、「仏の世にはなはだ値ひがたし。人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。[[みづから…|みづから]]信じ、人を教へて信ぜしむること、難きなかにうたたまた難し。大悲弘く[弘の字、智昇法師の『[[懺儀]]』の文なり]あまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る」と。
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<span id="no65"></span>
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[[現代語 化巻#A--65|【65】]] またいはく([[法事讃_(七祖)#P--585|法事讃・下 五八五]])、「[[帰去来]]、[[他郷]]には停まるべからず。仏に従ひて[[本家・本国|本家]]に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の[[行願]]、自然に成ず。悲喜交はり流る。深くみづから度るに、釈迦仏の開悟によらずは、弥陀の[[名願]]いづれの時にか聞かん。<span id="P--412"></span>仏の慈恩を荷なひても、実に報じがたし」と。
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<span id="no66"></span>
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[[現代語 化巻#A--66|【66】]] またいはく([[法事讃_(七祖)#P--591|法事讃・下 五九一]])、「十方六道、同じくこれ輪廻して際なし、[[循々として]][[愛波]]に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくして今すでに得たり。浄土聞きがたくして今すでに聞けり。信心発しがたくして今すでに発せり」と。{以上}
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===真門決釈===
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<span id="no67"></span>
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:[[現代語 化巻#A--67|【67】]] まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。[[業行]]をなすといへども心に[[軽慢]]を生ず。つねに[[名利]]と相応するがゆゑに、[[人我]]おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を[[自障障他]]するがゆゑに」(礼讃)といへり。
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: 悲しきかな、[[垢障の凡愚]]、[[無際]]よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、[[微塵劫]]を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに[[傷嗟]]すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了ら<span id="P--413"></span>ず。[[かの因を…|かの因を]]建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。
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<span id="no68"></span>
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:[[現代語 化巻#A--68|【68】]] ここをもつて愚禿釈の鸞、[[論主・宗師|論主]]の解義を仰ぎ、[[宗師]]の勧化によりて、久しく[[万行諸善の仮門]]を出でて、永く双樹林下の往生を離る。[[善本徳本の真門]]に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、[[選択の願海]]に[[転入]]せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。
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==聖浄二道判と信疑決判==
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:[[現代語 化巻#A--69|【69】]] まことに知んぬ、聖道の諸教は[[在世正法のためにして|在世・正法のためにして]]、まつたく[[像末]]・[[法滅]]の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。
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<span id="no70"></span>
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:[[現代語 化巻#A--70|【70】]] ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには[[聖弟子]]説、<span id="P--414"></span>三つには[[天仙]]説、四つには鬼神説、五つには[[変化]]説なり」(玄義分)と。
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:しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。
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[[現代語 化巻#A--71|【71】]] 『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「[[涅槃に…|涅槃に]]入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日より[[法]]に依りて[[人]]に依らざるべし、[[義]]に依りて[[語]]に依らざるべし、[[智]]に依りて[[識]]に依らざるべし、[[了義経]]に依りて[[不了義]]に依らざるべし。法に依るとは、法に[[十二部]]あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。義に依るとは、義のなかに好悪・罪福・虚実を諍ふことなし、ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人[[指]]をもつて[[月]]を指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。智に依るとは、智はよく善悪を[[籌量]]し分別す。識はつねに楽を求む、[[正要]]に入らず。このゆゑに識に依るべからずといへり。了義経に依るとは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書のなかに仏法第一なり。一切衆のなかに[[比丘僧]]第一なり〉と。無仏世の衆生を、仏これを重罪としたまへり、見仏の善根を種ゑざる人なり」と。{以上}<span id="P--415"></span>
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<span id="no72"></span>
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:[[現代語 化巻#A--72|【72】]] しかれば[[末代の道俗]]、よく四依を知りて法を修すべきなりと。
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:[[現代語 化巻#A--73|【73】]] しかるに正真の教意によつて[[古徳の伝説]]を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・[[異執]]の外教を教誡す。如来涅槃の時代を[[勘決]]して正・像・末法の[[旨際]]を開示す。
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<span id="no74"></span>
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[[現代語 化巻#A--74|【74】]] ここをもつて玄中寺の綽和尚(道綽)のいはく([[安楽集_(七祖)#P--260|安楽集・下 二六〇]])、「しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。当今の凡夫は現に[[信想軽毛]]と名づく、また[[仮名]]といへり、また不定聚と名づく、また[[外の凡夫]]と名づく。いまだ火宅を出でず。なにをもつて知ることを得んと。
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『菩薩瓔珞経』によりて、つぶさに[[入道行位]]を弁ずるに、[[法爾]]なるがゆゑに難行道と名づく」と。
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<span id="no75"></span>
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[[現代語 化巻#A--75|【75】]] またいはく([[安楽集_(七祖)#P--182|同・上 一八二]])、「[[教興の所由]]を明かして、時に約し機に被らしめて浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修しがたく入りがたし。『正法念経』にいはく、〈行者一心に道を求めんとき、つねにまさに時と方便とを観察すべし。もし時を得ざれば方便なし。これを名づけて失とす、利と名づけず。いかんとならば、湿へる木を攅りて、もつて火を求めんに、火得<span id="P--416"></span>べからず、時にあらざるがゆゑに。もし乾れたる薪を折りて、もつて水を覓めんに、水得べからず、智なきがごときのゆゑに〉と。『[[大集の月蔵経]]』にのたまはく、〈仏滅度ののちの第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固なることを得ん。第二の五百年には定を学ぶこと堅固なることを得ん。第三の五百年には多聞読誦を学ぶこと堅固なることを得ん。第四の五百年には塔寺を造立し、福を修し、懺悔すること堅固なることを得ん。第五の五百年には[[白法隠滞]]して多く[[諍訟]]あらん、微しき善法ありて堅固なることを得ん〉と。今の時の衆生を計るに、すなはち仏、世を去りたまひてのちの第四の五百年に当れり。まさしくこれ懺悔し、福を修し、仏の名号を称すべき時のものなり。一念阿弥陀仏を称するに、すなはちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでにしかなり、いはんや常念に修するは、すなはちこれつねに懺悔する人なり」と。
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[[現代語 化巻#A--76|【76】]] またいはく([[安楽集_(七祖)#P--271|安楽集・下 二七一]])、「経の[[住滅]]を弁ぜば、いはく、釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住せんこと<span id="P--417"></span>百年ならん」と。
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<span id="no77"></span>
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[[現代語 化巻#A--77|【77】]] またいはく([[安楽集_(七祖)#P--241|同・上 二四一]])、「『大集経』にのたまはく、〈わが末法の時のなかの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」と。{以上}
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===道俗を勧誡===
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:[[現代語 化巻#A--78|【78】]] しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。
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<span id="no79"></span>
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:[[現代語 化巻#A--79|【79】]] 三時の教を案ずれば、[[如来般涅槃の時代]]を勘ふるに、[[周の…|周の]]第五の主穆王[[五十三年]]壬申に当れり。その壬申よりわが[[元仁元年]][元仁とは[[後堀川院]]諱茂仁の聖代なり]甲申に至るまで、[[二千一百七十三歳]]なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説によるに、すでにもつて末法に入りて[[六百七十三歳]]なり。
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====末法灯明記の文引証====
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[[現代語 化巻#A--80|【80】]] 『末法灯明記』[最澄の製作]を披閲するにいはく、「それ[[一如]]に範衛してもつて化を流すものは[[法王]]、[[四海に…|四海に]]光宅してもつて風を垂るるものは[[仁王]]なり。しかればすなはち仁王・法王、たがひに顕れて[[物を開し]]、[[真諦俗諦|真諦・俗諦]]たがひによりて教を弘む。このゆゑに[[玄籍]][[宇内]]に盈ち、[[嘉猷]]天下に溢てり。ここに愚僧等率して[[天網]]に容り、俯して[[厳科]]を仰ぐ。いまだ[[寧処に…|寧処に]]遑あらず。しかるに法に三時あり、人また三品なり。[[化制]]の旨、時によりて興替す。毀讃の文、人に逐つて取捨す。それ[[三古の運]]、[[減衰]]同じからず。[[後五]]の機、慧悟また異なり。あに一途によつて済はんや、一理について整さんや。ゆゑに正・像・末の旨際を詳らかにして、試みに[[破持僧]]の事を彰さん。なかにおいて三あり。初めには正・像・末を決す。次に破持僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。
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 初めに正・像・末を決するに、諸説を出すこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基、『賢劫経』を引きていはく、〈[[仏涅槃ののち、正法五百年]]、像法一千年ならん。この千五百年ののち、釈迦の法滅尽せん〉と。末法をいはず。余の所説に准ふるに、尼、八敬に順はずして懈怠なるがゆゑに、法更増せず。ゆゑに彼によらず。また『涅槃経』に、〈末法のなかにおいて十二万の<span id="P--419"></span>大菩薩衆ましまして、法を持ちて滅せず〉と。これは上位によるがゆゑにまた同じからず。
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 問ふ。もししからば千五百年のうちの行事いかんぞや。
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 答ふ。『大術経』によるに、〈仏涅槃ののちの初めの五百年には、[[大迦葉]]等の[[七賢聖僧]]、次第に正法を持ちて滅せず、五百年ののち正法滅尽せんと。六百年に至りてのち、九十五種の外道競ひ起らん。馬鳴世に出でてもろもろの外道を伏せん。七百年のうちに、龍樹世に出でて邪見の幡を摧かん。八百年において、比丘[[縦逸]]にして、わづかに一二[[道果]]を得るものあらん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年のうちに、[[不浄観]]を聞かん、瞋恚して欲せじ。千一百年に、[[僧尼嫁娶せん]]、僧[[毘尼]]を毀謗せん。千二百年に、諸僧尼等ともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、[[四部の弟子]]みな猟師のごとし、三宝物を売らん。ここにいはく、千五百年に[[拘睒弥国]]にふたりの僧ありて、たがひに是非を起してつひに殺害せん、よつて教法竜宮に蔵まるなり〉と。『涅槃』の十八および『仁王』等にまたこの文あり。
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これらの経文に準ふるに、千五百年ののち戒・定・慧あることな<span id="P--420"></span>きなり。ゆゑに『大集経』の五十一にいはく、〈わが滅度ののち、初めの五百年には、もろもろの比丘等わが正法において[[解脱堅固]]ならん。[初めに聖果を得るを名づけて解脱とす。]次の五百年には[[禅定堅固]]ならん。次の五百年には[[多聞堅固]]ならん。次の五百年には[[造寺堅固]]ならん。後の五百年には[[闘諍堅固]]ならん、[[白法隠没]]せん〉と、云々。この意、初めの三分の五百年は、次いでのごとく戒・定・慧の三法、堅固に住することを得ん。すなはち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺以後は、ならびにこれ末法なり。ゆゑに基の『般若会の釈』にいはく、〈正法五百年、像法一千年、この千五百年ののち正法滅尽せん〉と。ゆゑに知んぬ、以後はこれ末法に属す。
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 問ふ。もししからば、いまの世は、まさしくいづれの時にか当れるや。
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 答ふ。滅後の年代多説ありといへども、しばらく両説を挙ぐ。一つには[[法上]]師等『[[周異]]』の説によりていはく、〈仏、第五の主、[[穆王満五十三年壬申]]に当りて入滅したまふ〉と。もしこの説によらば、その壬申よりわが[[延暦二十年辛巳]]に至るまで、一千七百五十歳なり。二つには]]費長房等、魯の『[[春秋]]』によらば、仏、周の第二十一の主、[[匡王班四年壬子]]に当りて入滅したまふ。<span id="P--421"></span>もしこの説によらば、その壬子よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。ゆゑに今の時のごときは、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。ゆゑに『大集』にいはく、〈仏涅槃ののち無戒州に満たん〉と、云々。
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 問ふ。諸経律のなかに、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして、みづからもつて傷まんや。
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 答ふ。この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗たれか[[披諷]]せざらん。あに自身の[[邪活]]を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし、いま論ずるところの末法には、ただ[[名字の比丘]]のみあらん。この名字を世の真宝とせん。[[福田]]なからんや。たとひ末法のなかに持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これたれか信ずべきや。
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 問ふ。正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせん<span id="P--422"></span>ことは、聖典に出でたりや。
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 答ふ。『大集』の第九にいはく、〈たとへば真金を[[無価の宝]]とするがごとし。もし真金なくは銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅・鉄・白錫・鉛を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆もつて無上なり。もし余の賢聖衆なくは、[[得定の凡夫]]もつて無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもつて無上とす。もし浄持戒なくは、[[漏戒]]の比丘をもつて無上とす。もし漏戒なくは、[[剃除鬚髪]]して身に袈裟を着たる名字の比丘を無上の宝とす。余の[[九十五種の異道]]に比するに、もつとも第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。なにをもつてのゆゑに、よく身を破る衆生、怖畏するところなるがゆゑに。[[護持…あらんは|護持]]養育して、[[この人]]を安置することあらんは、久しからずして[[忍地]]を得ん〉と。{以上経文}この文のなかに八重の無価あり。いはゆる如来、縁覚・声聞および[[前三果]]、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字、それ次いでのごとし、名づけて正・像・末の時の無価の宝とするなり。初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり。これによりてあきらかに知んぬ、破戒・無戒ことごとくこれ真宝なり。
 +
 
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 問ふ。伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。なんがゆ<span id="P--423"></span>ゑぞ『涅槃』と『大集経』に、《国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に[[三災]]起り、つひに地獄に生ず》と。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。
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しかるに如来、一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に[[両判の失]]あるをや。
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 答ふ。この理しからず。『涅槃』等の経に、しばらく正法の破戒を制す。像・末代の比丘にはあらず。その名同じといへども、時に異あり。時に随ひて[[制許]]す。これ大聖(釈尊)の旨なり。ゆゑに世尊において両判の失ましまさず。
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 問ふ。もししからばなにをもつてか知らん、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像・末の僧にあらずとは。
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 答ふ。引くところの『大集』所説の[[八重の真宝]]のごとし、これその証なり。みな時に当りて無価となすゆゑに。ただし正法の時の破戒比丘は、清浄衆を穢す。ゆゑに仏固く禁制して衆に入れず。しかるゆゑは、『涅槃』の第三にの<span id="P--424"></span>たまはく、〈如来いま無上の正法をもつて、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属したまへり。{乃至}破戒あつて正法を毀るものは、王および大臣、[[四部の衆]]、まさに[[苦治]]すべし。かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。{乃至}これわが弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん〉と。{乃至}かくのごときの制文の法、往々衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり。像・末の教にあらず。しかるゆゑは、像季・末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし。なにをか毀法と名づけん。戒として破すべきなし。たれをか破戒と名づけん。またそのとき大王、行として護るべきなし。なにによりてか三災を出し、および戒慧を失せんや。また像・末には証果の人なし。いかんぞ[[二聖]]に聴護せらるることを明かさん。ゆゑに知んぬ、上の所説はみな正法の世に持戒あるときに約して、破戒あるがゆゑなり。
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 次に像法千年のうちに、初めの五百年には持戒やうやく減じ、破戒やうやく増せん。戒行ありといへども証果なし。ゆゑに『涅槃』の七にのたまはく、〈迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、《世尊、仏の所説のごときは[[四種の魔]]あり。もし魔の所説および仏の所説、われまさにいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。また仏説に随順することあらば、かくのごときらの輩、またいかんが知らん》と。仏、迦葉に告げたまはく、《われ涅槃して七百歳ののちに、これ[[魔波旬]]やうやく起りて、まさにしき<span id="P--425"></span>りにわが正法を壊すべし。たとへば猟師の身に法衣を服せんがごとし。魔波旬もまたまたかくのごとし。比丘像・比丘尼像・優婆塞・優婆夷像とならんこと、またまたかくのごとしと。{乃至}“もろもろの比丘、奴婢、僕使、牛・羊・象・馬、乃至銅鉄釜鍑、大小銅盤、所須のものを受畜し、耕田・種植、販売・市易して、穀米を儲くることを聴すと。かくのごときの衆事、仏、大悲のゆゑに衆生を憐愍してみな畜ふることを聴さん”と。かくのごときの経律は、ことごとくこれ魔説なり》〉と、云々。すでに〈七百歳ののちに波旬やうやく起らん〉といへり。ゆゑに知んぬ、かの時の比丘、やうやく[[八不浄物]]を貪畜せんと。この妄説をなさん、すなはちこれ魔の流なり。これらの経のなかにあきらかに年代を指して、つぶさに行事を説けり。さらに疑ふべからず。それ一文を挙ぐ、余みな準知せよ。
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 次に、像法の後半ばは持戒減少し、破戒巨多ならん。ゆゑに『涅槃』の六に<span id="P--426"></span>のたまはく、{乃至}また『十輪』にのたまはく、〈もしわが法によりて出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずしてみづから沙門と称し、また[[梵行]]にあらずしてみづから梵行と称せん。かくのごときの比丘、よく一切天・竜・夜叉、一切善法功徳の[[伏蔵]]を開示して、衆生の善知識とならん。少欲知足ならずといへども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもつてのゆゑに、よく衆生のために善根を増長せん。もろもろの天・人において善道を開示せん。乃至破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、しかも戒の余才、[[牛黄]]のごとし。
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これ死するものといへども、人ことさらにこれを取る。また[[麝香]]ののちに用あるがごとし〉と、云々。すでに〈[[迦羅林]]のなかに一つの[[鎮頭迦樹]]あり〉といへり。これは像運すでに衰へて、破戒濁世にわづかに一二持戒の比丘あらんに喩ふるなり。またいはく、〈破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、なほ麝香の死して用あるがごとし。衆生の善知識となる〉と。あきらかに知んぬ、このときやうやく破戒を許して世の福田とす。前の『大集』に同じ。
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 次に、像季の後は、まつたくこれ戒なし。仏、時運を知ろしめして、末俗を済はんがために名字の僧を讃めて世の福田としたまへり。また『大集』の五十<span id="P--427"></span>二にのたまはく、〈もし後の末世に、わが法のなかにおいて鬚髪を剃除し、身に袈裟を着たらん名字の比丘、もし[[檀越]]ありて捨施供養をせば、無量の福を得ん〉と。また『賢愚経』にのたまはく、〈もし檀越、将来末世に法尽きんとせんに垂として、まさしく妻を蓄へ、子を侠ましめん四人以上の名字の僧衆、まさに礼敬せんこと、舎利弗・[[大目連]]等のごとくすべし〉と。[[またのたまはく]]、〈もし破戒を打罵し、身に袈裟を着たるを知ることなからん、罪は万億の仏身より血を出すに同じからん。もし衆生ありて、わが法のために剃除鬚髪し袈裟を被服せんは、たとひ戒を持たずとも、かれらはことごとくすでに[[涅槃の…|涅槃の]]印のために印せらるるなり〉と。{乃至}『大悲経』にのたまはく、〈仏、阿難に告げたまはく、《将来世において法滅尽せんと欲せんとき、まさに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得たらんもの、おのれが手に児の臂を牽きて、ともに遊行してかの酒家より酒家に至らん。わが法のなかにおいて[[非梵行]]をなさん。かれら酒の因縁たりといへども、この[[賢劫]]のなかにおいて、まさに千仏ましまして興出したまはんに、わが弟子となるべし。次に、後に弥勒まさにわが処を補ぐべし。乃至最後[[盧至如来]]まで、かくのごとき次第に、なんぢまさに知るべし。阿難わが法のなかにおいて、ただ性のみこれ沙門にして、沙門の行を汚し、みづから沙門と称せん、かたちは沙門に似て、ひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来<span id="P--428"></span>まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、[[無余涅槃]]において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。なにをもつてのゆゑに。
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かくのごとき一切沙門のなかに、乃至ひとたび仏の名を称し、ひとたび信を生ぜんもの、所作の功徳つひに虚設ならじ。われ仏智をもつて法界を測知するがゆゑなり》〉と、云々。{乃至}これらの諸経に、みな年代を指して将来末世の名字の比丘を世の尊師とす。もし正法の時の制文をもつて、末法世の名字の僧を制せんは、教・機あひ乖き、人・法合せず。これによりて『[[律]]』にいはく、
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〈非制を制するは、すなはち三明を断ず。記説するところこれ罪あり〉と。この上に経を引きて配当しをはんぬ。
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 後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし。[[四儀]]乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』にのたまふがごとし。{乃至}また『[[遺教経]]』にのたまはく、{乃至}また『[[法行経]]』にのたまはく、{乃至}『[[鹿子母経]]』にのたまはく、{乃至}また『仁王経』にのたまはく。{乃至}」{以上略抄}
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2012年10月15日 (月) 14:22時点における版

目 次

化身土文類六(本)

     [無量寿仏観経の意なり]

     至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}

     [阿弥陀経の意なり]

     至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}

顕浄土方便化身土文類 六

                           愚禿釈親鸞集

総釈 化身土を明かす

【1】 つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。

要門釈、第十九願開説、観経の意

【2】 しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。
偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。

経文引証

【3】 ここをもつて『大経』(上)の願(第十九願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修し、心を至し発願して、わが国に生ぜんと欲はん。寿終のときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」と。

『悲華経』諸菩薩本授記品の文

【4】 『悲華経』の「大施品」にのたまはく、「願はくはわれ阿耨多羅三藐三菩提を成りをはらんに、その余の無量無辺阿僧祇の諸仏世界の所有の衆生、もし阿耨多羅三藐三菩提心を発し、もろもろの善根を修して、わが界に生ぜんと欲はんもの、臨終のとき、われまさに大衆と囲繞して、その人の前に現ずべし。

その人、われを見て、すなはちわが前にして心に歓喜を得ん。われを見るをもつてのゆゑに、もろもろの障碍を離れて、すなはち身を捨ててわが界に来生せしめん」と。{以上}

成就文指示

【5】 この願(第十九願)成就の文は、すなはち三輩の文これなり、『観経』の定散九品の文これなり。

化身土の証文 化土の相を明かす

【6】 また『大経』(上)にのたまはく、「また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。{乃至}

阿難、もしかの国の人・天、この樹を見るものは三法忍を得ん。一つには音響忍、二つには柔順忍、三つには無生法忍なり。これみな無量寿仏の威神力のゆゑに、本願力のゆゑに、満足願のゆゑに、明了願のゆゑに、堅固願のゆゑに、究竟願のゆゑなりと。{乃至}また講堂精舎・宮殿・楼観、みな七宝をもつて荘厳し、自然に化成せり。また真珠・明月摩尼衆宝をもつて、もつて交露とす、その上に覆蓋せり。内外左右にもろもろの浴池あり。十由旬、あるいは二十・三十乃至百千由旬なり。縦広深浅、おのおのみな一等なり。八功徳水、湛然として盈満せり。清浄香潔にして味はひ甘露のごとし」と。

『大経』『如来会』の疑城胎宮の文

『大無量寿経』(巻下)胎化得失の文

【7】 またのたまはく(大経・下)、「それ胎生のものは、処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにして、もろもろの快楽を受くること忉利天上のごとし。またみな自然なり。 そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁あつてか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑惑の心をもつて、もろもろの功徳を修して、かの国に生ぜんと願ぜん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。

しかもなほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆゑにかの国土にはこれを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし、かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに、その胎生のものはみな智慧なきなり〉と。{乃至}

仏、弥勒に告げたまはく、〈たとへば転輪聖王のごとし。七宝の牢獄あり。種々に荘厳し床帳を張設し、もろもろの繒幡を懸けたらん。もしもろもろの小王子、罪を王に得たらん、すなはちかの獄のうちに内れて、繋ぐに金鎖をもつてせん〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈このもろもろの衆生、またまたかくのごとし。仏智を疑惑するをもつてのゆゑに、かの胎宮に生れん。{乃至}もしこの衆生、その本の罪を識りて、深くみづから悔責して、かの処を離るることを求めん。{乃至}弥勒まさに知るべし、それ菩薩ありて疑惑を生ぜば、大利を失すとす〉」と。{以上抄出}

『無量寿如来会』(巻下)胎化得失の文

【8】 『如来会』(下)にのたまはく、「仏、弥勒に告げたまはく、〈もし衆生ありて、疑悔に随ひて善根を積集して、仏智・普遍智・不思議智・無等智威徳智広大智を希求せん。みづからの善根において信を生ずることあたはず

この因縁をもつて、五百歳において宮殿のうちに住せん。{乃至}阿逸多(弥勒)、なんぢ殊勝智のものを観ずるに、かれは広慧の力によるがゆゑに、かの蓮華のなかに化生することを受けて結跏趺座せん。なんぢ下劣の輩を観ずるに、{乃至} もろもろの功徳を修習することあたはず。ゆゑに因なくして無量寿仏に奉事せん。このもろもろの人等は、みな昔の縁、疑悔をなして致すところなればなり〉と。{乃至}仏、弥勒に告げたまはく、〈かくのごとし、かくのごとし。もし疑悔に随ひて、もろもろの善根を種ゑて、仏智乃至広大智を希求することあらん。みづからの善根において信を生ずることあたはず。仏の名を聞くによりて信心を起すがゆゑに、かの国に生ずといへども、蓮華のうちにして出現することを得ず。かれらの衆生、華胎のうちに処すること、なほ園苑宮殿の想のごとし〉」と。{抄要}

『大経』『如来会』の不可称計の文

『大無量寿経』(巻下)十方来生の文

【9】 『大経』(下)にのたまはく、「もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習するもの、称計すべからず。みなまさに往生すべし」と。

無量寿如来会』(巻下)胎化得失の文

【10】 またのたまはく(如来会・下)、「いはんや余の菩薩、少善根によりて、かの国に生ずるもの称計すべからず」と。{以上}

釈文引証

善導『観経疏』定善義(地相観)の文

【11】 光明寺(善導)の釈(定善義 412)にいはく、「華に含みていまだ出でず。あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕せん」と。{以上}

憬興『述文賛』(巻下)の文

【12】 憬興師のいはく(述文賛)、「仏智を疑ふによりて、かの国に生れて、辺地にありといへども、聖化の事を被らず。もし胎生せばよろしくこれを重く捨つべし」と。{以上}

源信『往生要集』(巻下末)の文

【13】 首楞厳院(源信)の『要集』(下 一一二六)に、感禅師(懐感)の釈(群疑論)を引きていはく、「問ふ。『菩薩処胎経』の第二に説かく、〈西方この閻浮提を去ること、十二億那由他に懈慢界あり。{乃至}意を発せる衆生、阿弥陀仏国に生ぜんと欲ふもの、みな深く懈慢国土に着して、前進んで阿弥陀仏国に生ずることあたはず。億千万の衆、時に一人ありて、よく阿弥陀仏国に生ず〉と、云々。この『経』をもつて准難するに、生ずることを得べしやと。

答ふ。『群疑論』に善導和尚の前の文を引きて、この難を釈して、またみづから助成していはく、〈この『経』の下の文にいはく、《なにをもつてのゆゑに、みな懈慢によりて執心牢固ならず》と。ここに知んぬ、雑修のものは執心不牢の人とす。ゆゑに懈慢国に生ず。もし雑修せずして、もつぱらこの業を行ぜば、これすなはち執心牢固にして、さだめて極楽国に生ぜん。{乃至}また報の浄土に生ずるものはきはめて少なし。化の浄土のなかに生ずるものは少なからず。ゆゑに『経』の別説、実に相違せざるなり〉」と。{以上略抄}

結勧

【14】 しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれがを思量せよとなり、知るべし。

三経隠顕問答 隠顕釈

【15】 問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。
すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

十三文例

 ここをもつて『経』(観経)には、「教我観於清浄業処」といへり。
「清浄業処」といふは、すなはちこれ本願成就の報土なり。
教我思惟」といふは、すなはち方便なり。
教我正受」といふは、すなはち金剛の真心なり。
諦観彼国浄業成者」といへり、本願成就の尽十方無碍光如来を観知すべしとなり。
広説衆譬」といへり、すなはち十三観これなり。
汝是凡夫心想羸劣」といへり、すなはちこれ悪人往生の機たることを彰すなり。
諸仏如来有異方便」といへり、すなはちこれ定散諸善は方便の教たることを顕すなり。
以仏力故見彼国土」といへり、これすなはち他力の意を顕すなり。
若仏滅後諸衆生等」といへり、すなはちこれ未来の衆生、往生の正機たることを顕すなり。
若有合者名為粗想」といへり、これ定観成じがたきことを顕すなり。
於現身中得念仏三昧」といへり、すなはちこれ定観成就の益は、念仏三昧を獲るをもつて観の益とすることを顕す。すなはち観門をもつて方便の教とせるなり。
発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
 まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。


釈文引証 隠顕釈の引文

善導大師の釈十四文

要弘二門

【16】 しかれば光明寺の和尚(善導)のいはく(玄義分 三〇〇)、「しかるに娑婆の化主(釈尊)、その請によるがゆゑに、すなはち広く浄土の要門を開く。安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰す。その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。定はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。散はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願せよとなり。弘願といふは『大経』の説のごとし」といへり。

念観両宗

【17】 またいはく(玄義分 三〇五)、「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗とす、また念仏三昧をもつて宗とす。一心に回願して浄土に往生するを体とす。教の大・小といふは、問うていはく、この経は二蔵のなかには、いづれの蔵にか摂する、二教のなかには、いづれの教にか収むるやと。答へていはく、いまこの『観経』は菩薩蔵に収む。頓教の摂なり」と。

如是の三釈

【18】 またいはく(序分義 三三六)、「また如是といふは、すなはちこれは法を指す、定散両門なり。是はすなはち定むる辞なり。機、行ずればかならず益す。これは如来の所説の言、錯謬なきことを明かす。ゆゑに如是と名づく。また如といふは衆生の意のごとしとなり。心の所楽に随ひて、仏すなはちこれを度したまふ。機教相応せるをまた称して是とす。ゆゑに如是といふ。また如是といふは、如来の所説を明かさんと欲す。

を説くことは漸のごとし、を説くことは頓のごとし。相を説くことは相のごとし、空を説くことは空のごとし。人法を説くこと人法のごとし、天法を説くこと天法のごとし。を説くこと小のごとし、を説くこと大のごとし。凡を説くこと凡のごとし、聖を説くこと聖のごとし。因を説くこと因のごとし、果を説くこと果のごとし。苦を説くこと苦のごとし、楽を説くこと楽のごとし。遠を説くこと遠のごとし、近を説くこと近のごとし。同を説くこと同のごとし、別を説くこと別のごとし。浄を説くこと浄のごとし、穢を説くこと穢のごとし。一切の法を説くこと千差万別なり。如来の観知、歴々了然として、心に随ひて行を起して、おのおの益すること同じからず。業果法然としてすべて錯失なし、また称して是とす。ゆゑに如是といふ」と。

自開散善

【19】 またいはく(序分義 三八一)、「〈欲生彼国者〉より、下〈名為浄業〉に至るまでこのかたは、まさしく三福の行を勧修することを明かす。これは一切衆生の機に二種あることを明かす。一つには定、二つには散なり。もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。これをもつて如来方便して三福を顕開して、もつて散動の根機に応じたまへり」と。

隠顕釈の引文
至誠心釈

【20】 またいはく(散善義 四五六)、「また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。自利真実といふは、また二種あり。

一つには、真実心のうちに自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住座臥に、一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくせんと想ふ。

二つには、真実心のうちに自他・凡聖等の善を勤修す。真実心のうちの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆す。また真実心のうちの口業に、三界・六道等の自他の依正二報の苦悪のことを毀厭す。また一切衆生の三業所為の善を讃嘆す。もし善業にあらずは、つつしんでこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心のうちの身業に、合掌し、礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。また真実心のうちの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨す。また真実心のうちの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し、観察し、憶念して、目の前に現ぜるがごとくす。また真実心のうちの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨すと。{乃至}

 また決定して、釈迦仏、この『観経』に三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して人をして欣慕せしむと深信すと。{乃至}また深心の深信とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行し、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行異学・異見・異執のために退失傾動せられざるなりと。{乃至}

 次に行について信を立てば、しかるに行に二種あり。一つには正行、二つには雑行なり。正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるものは、これを正行と名づく。なにものかこれや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦する。一心にかの国の二報荘厳を専注し思想し観察し憶念する。もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼する。

もし口に称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称せよ。もし讃嘆供養せばすなはち一心にもつぱら讃嘆供養する。これを名づけて正とす。またこの正のなかについて、また二種あり。一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥に時節の久近を問はず、念々に捨てざるものは、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼誦等によるは、すなはち名づけて助業とす。

この正助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修するは、心つねに親近し、憶念断えず、名づけて無間とす。もし後の雑行を行ずるは、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。

 三つには回向発願心。回向発願心といふは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心のうちに回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づくるなり」と。

【21】 またいはく(序分義 三三八)、「定善はを示す縁なり」と。

【22】 またいはく(同)、「散善はを顕す縁なり」と。

【23】 またいはく(散善義 五〇一)、「浄土の要逢ひがたし」と。[文]{抄出}

【24】 またいはく(礼讃 六五四)、「『観経』の説のごとし。まづ三心を具してかならず往生を得。なんらをか三つとする。一つには至誠心。いはゆる身業にかの仏を礼拝す、口業にかの仏を讃嘆し称揚す、意業にかの仏を専念し観察す。およそ三業を起すに、かならず真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。{乃至}三つには回向発願心。所作の一切の善根、ことごとくみな回して往生を願ず、ゆゑに回向発願心と名づく。この三心を具してかならず生ずることを得るなり。もし一心少けぬればすなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべしと。{乃至}

 また菩薩はすでに生死を勉れて、所作の善法回して仏果を求む、すなはちこれ自利なり。衆生を教化して未来際を尽す、すなはちこれ利他なり。しかるに今の時の衆生、ことごとく煩悩のために繋縛せられて、いまだ悪道生死等の苦を勉れず。縁に随ひて行を起して、一切の善根つぶさにすみやかに回して、阿弥陀仏国に往生せんと願ぜん。かの国に到りをはりて、さらに畏るるところなけん。上のごときの四修、自然任運にして、自利利他具足せざることなしと、知るべし」と。

【25】 またいはく(礼讃 六五九)、「もしを捨てて雑業を修せんとするものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。なにをもつてのゆゑに、いまし雑縁乱動す、正念を失するによるがゆゑに、仏の本願と相応せざるがゆゑに、教と相違せるがゆゑに、仏語に順ぜざるがゆゑに、係念相続せざるがゆゑに、憶想間断するがゆゑに、回願慇重真実ならざるがゆゑに、貪瞋諸見の煩悩来り間断するがゆゑに、慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑに。懺悔に三品あり。{乃至}

 上・中・下なり。上品の懺悔とは、身の毛孔のうちより血を流し、眼のうちより血出すをば上品の懺悔と名づく。中品の懺悔とは、遍身に熱き汗毛孔より出づ、眼のうちより血の流るるをば中品の懺悔と名づく。下品の懺悔とは、遍身徹り熱く、眼のうちより涙出づるをば下品の懺悔と名づく。これらの三品、差別ありといへども、これ久しく解脱分の善根を種ゑたる人なり。今生に法を敬ひ、人を重くし、身命を惜しまず、乃至小罪ももし懺すれば、すなはちよく心髄に徹りて、よくかくのごとく懺すれば、久近を問はず、所有の重障みなたちまちに滅尽せしむることを致す。もしかくのごとくせざれば、たとひ日夜十二時、急に走むれども、つひにこれ益なし。差うてなさざるものは知んぬべし。流涙・流血等にあたはずといへども、ただよく真心徹到するものは、すなはち上と同じ」と。{以上}

【26】 またいはく(観念法門 六一八)、「すべて余の雑業の行者を照摂すと論ぜず」と。

【27】 またいはく(法事讃・下 五七五)、「如来五濁に出現して、宜しきに随ひて方便して群萌を化したまふ。あるいは多聞にして得度すと説き、あるいは少しき解りて三明を証すと説く。あるいは福慧ならべて障を除くと教へ、あるいは禅念して座して思量せよと教ふ。種々の法門みな解脱す」と。

【28】 またいはく(般舟讃 七一九)、「万劫功を修せんことまことに続きがたし。一時に煩悩百たび千たび間はる。もし娑婆にして法忍を証せんことを待たば、六道にして恒沙の劫にもいまだ期あらじ。門々不同なるを漸教と名づく。万劫苦行して無生を証す。畢命を期としてもつぱら念仏すべし。須臾に命断ゆれば、仏迎へ将てまします。一食の時なほ間あり、いかんが万劫貪瞋せざらん。貪瞋は人・天を受くる路を障ふ。三悪・四趣のうちに身を安んず」と。{抄要}

【29】 またいはく(般舟讃 七九一)、「定散ともに回して宝国に入れ。すなはちこれ如来の異の方便なり。韋提はすなはちこれ女人の相、貪瞋具足の凡夫の位なり」と。{以上}

曇鸞『論註』成上起下の文

【30】 『論の註』(上 五六)にいはく、「二種の功徳相あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因、もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。ゆゑに不実の功徳と名づく」と。{以上}

道綽『安楽集』の二文

【31】 『安楽集』(上 二四一)にいはく、「『大集経』の〈月蔵分〉を引きていはく、〈わが末法の時のなかに、億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法なり。この五濁悪世には、ただ浄土の一門ありて、通入すべき路なり」と。

【32】 またいはく(同・下 二七四)、「いまだ一万劫を満たざるこのかたは、つねにい まだ火宅を勉れず、顛倒墜堕するがゆゑに。おのおの功を用ゐることは至りて重く、獲る報は偽なり」と。{以上}

三経通顕(真仮分判)

【33】 しかるに、いま『大本』(大経)によるに、真実・方便の願を超発す。また『観経』には、方便・真実の教を顕彰す。『小本』(小経)には、ただ真門を開きて方便の善なし。ここをもつて三経の真実は、選択本願を宗とするなり。また三経の方便は、すなはちこれもろもろの善根を修するを要とするなり。
 これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。この要門より正・助・雑の三行を出せり。この正助のなかについて、専修あり雑修あり。機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり。
また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。
またこの『経』(観経)に真実あり。これすなはち金剛の真心を開きて、摂取不捨を顕さんと欲す。しかれば濁世能化の釈迦善逝、至心信楽の願心を宣説したまふ。報土の真因は信楽を正とするがゆゑなり。ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。『観経』には「深心」と説けり、諸機の浅信に対せるがゆゑに深とのたまへるなり。『小本』(小経)には「一心」とのたまへり、二行雑はることなきがゆゑに一とのたまへるなり。また一心について深あり浅あり。深とは利他真実の心これなり、浅とは定散自利の心これなり。

門余釈

【34】 宗師(善導)の意によるに、「心によりて勝行を起せり。門八万四千に余れり。漸・頓すなはちおのおの所宜に称へり。縁に随ふものすなはちみな解脱を蒙る」(玄義分 三〇〇)といへり。しかるに常没の凡愚、定心修しがたし、息慮凝心のゆゑに。散心行じがたし、廃悪修善のゆゑに。ここをもつて立相住心なほ成じがたきがゆゑに、「たとひ千年の寿を尽すとも、法眼いまだかつて開けず」(定善義)といへり。いかにいはんや無相離念まことに獲がたし。ゆゑに、「如来はるかに末代罪濁の凡夫を知ろしめして、相を立て心を住すとも、なほ得ることあたはじと。いかにいはんや、相を離れて事を求めば、術通なき人の空に居て舎を立てんがごときなり」(同)といへり。「門余」といふは、「門」はすなはち八万四千の仮門なり、「余」はすなはち本願一乗海なり。

通判一代

聖浄二門釈
聖道門の意義
【35】 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
浄土門の意義
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正助雑釈
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超釈
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。

雑行釈
【36】 それ雑行・雑修、その言一つにして、その意これ異なり。雑の言において万行を摂入す。五正行に対して五種の雑行あり。雑の言は、人・天・菩薩等の解行、雑せるがゆゑに雑といへり。もとより往生の因種にあらず、回心回向の善なり。ゆゑに浄土の雑行といふなり。
また雑行について、専行あり専心あり、また雑行あり雑心あり。専行とはもつぱら一善を修す、ゆゑに専行といふ。専心とは回向をもつぱらにするがゆゑに専心といへり。雑行・雑心とは、諸善兼行するがゆゑに雑行といふ、定散心雑するがゆゑに雑心といふなり。
また正・助について専修あり雑修あり。この雑修について専心あり雑心あり。専修について二種あり。
一つにはただ仏名を称す、二つには五専あり。この行業について専心あり雑心あり。五専とは、一つには専礼、二つには専読、三つには専観、四つには専称、五つには専讃嘆なり。これを五専修と名づく。専修、その言一つにして、その意これ異なり。すなはちこれ定専修なり、また散専修なり。
専心とは、五正行をもつぱらにして、二心なきがゆゑに専心といふ。すなはちこれ定専心なり、またこれ散専心なり。雑修とは、助正兼行するがゆゑに雑修といふ。雑心とは、定散の心雑するがゆゑに雑心といふなり、知るべし。
 おほよそ浄土の一切諸行において、綽和尚(道綽)は「万行」(安楽集・下)といひ、導和尚(善導)は「雑行」(散善義)と称す。感禅師(懐感)は「諸行」(群疑論)といへり。信和尚(源信)は感師により、空聖人(源空)は導和尚によりたまふ。
経家によりて師釈を披くに、雑行のなかの雑行雑心・雑行専心・専行雑心あり。また正行のなかの専修専心・専修雑心・雑修雑心は、これみな辺地・胎宮・懈慢界の業因なり。ゆゑに極楽に生ずといへども三宝を見たてまつらず。仏心の光明、余の雑業の行者を照摂せざるなり。仮令の誓願(第十九願)まことに由あるかな。仮門の教欣慕の釈、これいよいよあきらかなり。
 二経の三心、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり。三心一異の義、答へをはんぬ。

三経融会問答

【37】 また問ふ。『大本』(大経)と『観経』の三心と、『小本』(小経)の一心と、一異いかんぞや。
 答ふ。いま方便真門の誓願について、行あり信あり。また真実あり方便あり。願とはすなはち植諸徳本の願これなり。行とはこれに二種あり。一つには善本、二つには徳本なり。信とはすなはち至心・回向・欲生の心これなり。[二十願なり]機について定あり散あり。往生とはこれ難思往生これなり。仏とはすなはち化身なり。土とはすなはち疑城胎宮これなり。
『観経』に准知するに、この『経』(小経)にまた顕彰隠密の義あるべし。
顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。
これはこれこの『経』(小経)の顕の義を示すなり。これすなはち真門のなかの方便なり。彰といふは、真実難信の法を彰す。これすなはち不可思議の願海を光闡して、無碍の大信心海に帰せしめんと欲す。まことに勧めすでに恒沙の勧めなれば、信もまた恒沙の信なり。ゆゑに甚難といへるなり。
釈(法事讃・下)に、「ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」といへり。これはこれ隠彰の義を開くなり。『経』(小経)に「執持」とのたまへり。また「一心」とのたまへり。「執」の言は心堅牢にして移転せざることを彰すなり。「持」の言は不散不失に名づくるなり。「一」の言は無二に名づくるの言なり。「心」の言は真実に名づくるなり。この『経』(小経)は大乗修多羅のなかの無問自説経なり。しかれば如来、世に興出したまふゆゑは、恒沙の諸仏の証護の正意、ただこれにあるなり。ここをもつて四依弘経の大士三朝浄土の宗師、真宗念仏を開きて、濁世の邪偽を導く。
三経の大綱、顕彰隠密の義ありといへども、信心を彰して能入とす。ゆゑに経のはじめに「如是」と称す。「如是」の義はすなはちよく信ずる相なり。いま三経を案ずるに、みなもつて金剛の真心を最要とせり。真心はすなはちこれ大信心なり。大信心は希有・最勝・真妙・清浄なり。なにをもつてのゆゑに、大信心海ははなはだもつて入りがたし、仏力より発起するがゆゑに。真実の楽邦はなはだもつて往き易し、願力によりてすなはち生ずるがゆゑなり。いままさに一心一異の義を談ぜんとす、まさにこの意なるべしと。三経一心の義、答へをはんぬ。

真門釈(第二十願開説『小経』の意)

【38】 それ濁世の道俗、すみやかに円修至徳の真門に入りて、難思往生を願ふべし。真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。しかればすなはち釈迦牟尼仏は、功徳蔵を開演して、十方濁世を勧化したまふ。阿弥陀如来はもと果遂の誓[この果遂の願とは二十願なり]を発して、諸有の群生海を悲引したまへり。すでにして悲願います。植諸徳本の願と名づく、また係念定生の願と名づく、また不果遂者の願と名づく、また至心回向の願と名づくべきなり。

善本の経文証

【39】 ここをもつて『大経』(上)の願(第二十願)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係けて、もろもろの徳本を植ゑて、心を至し回向して、わが国に生ぜんと欲はん、果遂せずは正覚を取らじ」と。

【40】 またのたまはく(同・下)、「この諸智において疑惑して信ぜず、しかるになほ罪福を信じて、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生ず」と。

【41】 またのたまはく(同・下)、「もしひと善本なければ、この経を聞くことを得ず。清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲ん」と。{以上}

【42】 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ成仏せんに、無量国のなかの所有の衆生、わが名を説かんを聞きて、もつておのれが善根として極楽に回向せん。もし生れずは菩提を取らじ」と。{以上}

【43】 『平等覚経』(二)にのたまはく、「この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの正法を聞く。悪と驕慢とと懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。宿世のときに仏を見たてまつれるもの、楽みて世尊の教を聴聞せん。人の命まれに得べし。仏は世にましませどもはなはだ値ひがたし。信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ」と。{以上}

【44】 『観経』にのたまはく、「仏阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。{以上}

【45】 『阿弥陀経』にのたまはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持せよ」と。{以上}

善本の釈文証

【46】 光明寺の和尚(善導)のいはく(定善義 四三七 )、「自余の衆行、これ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比挍にあらざるなり。このゆゑに、諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。『無量寿経』の四十八願のなかのごとき、〈ただ弥陀の名号を専念して生ずることを得〉と明かす。また『弥陀経』のなかのごとし、〈一日・七日弥陀の名号を専念して生ずることを得〉と。また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからざるなり。またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、〈ただ名号を専念して生ずることを得〉と標す。この例一つにあらざるなり。広く念仏三昧を顕しをはんぬ」と。

【47】 またいはく(散善義 四五七)、「また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信せよと。{乃至}諸仏は言行あひ違失したまはず。たとひ釈迦一切凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後さだめてかの国に生るるといふは、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。なにをもつてのゆゑに、同体の大悲のゆゑに。一仏の所化はすなはちこれ一切仏の化なり。

一切仏の化はすなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、{乃至}また一切凡夫を勧めて〈一日・七日、一心にして弥陀の名号を専念すれば、さだめて往生を得ん〉と。次下の文にいはく、十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を讃めたまはく、〈よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪煩悩・悪邪・無信の盛んなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励して称念せしむれば、かならず往生を得〉と。すなはちその証なり。また十方仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんことをおそれて、すなはちともに同心・同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日・七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念すれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説は、一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これをについて信を立つと名づくるなり」と。{抄要}

【48】 またいはく(散善義 四九〇)、「しかるに仏願の意を望むには、ただ正念を勧め、名を称せしむ。往生の義、疾きことは雑散の業には同じからず。この経および諸部のなかに、処々に広く嘆ずるがごときは、勧めて名を称せしむるをまさに要益とせんとするなり、知るべし」と。

【49】 またいはく(同 五〇〇)、「〈仏告阿難汝好持是語〉より以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願の意を望まんには、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称するにあり」と。

【50】 またいはく(法事讃・下 五六四)、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善、おそらくは生じがたし。ゆゑに如来、要法を選びて教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」と。

【51】 またいはく(同・下 五八四)、「劫尽きなんと欲するとき、五濁盛んなり。衆生邪見にしてはなはだ信じがたし。もつぱらにしてもつぱらなれと指授して西路に帰せしめしに、他のために破壊せられて還りて故のごとし。曠劫よりこのかたつねにかくのごとし。これ今生に始めてみづから悟るにあらず。まさしくよき強縁に遇はざるによりて、輪廻して得度しがたからしむることを致す」と。

【52】 またいはく(同・下 五七五)、「種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。ただちに弥陀の弘誓重なれるをもつて、凡夫念ずればすなはち生ぜしむることを致す」と。

【53】 またいはく(般舟讃 七二一)、「一切如来方便を設けたまふこと、また今日の釈迦尊に同じ。機に随ひて法を説くにみな益を蒙る。おのおの悟解を得て真門に入れと。{乃至}仏教多門にして八万四なり。まさしく衆生の機不同なるがためなり。安身常住の処を覓めんと欲はば、まづ要行を求めて真門に入れ」と。

【54】 またいはく(六六〇)[智昇師の『礼懺儀』の文にいはく光明寺(善導)の『礼讃』なり]「それこのごろ、みづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑、異あり。ただ意をもつぱらにしてなさしむれば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修するは至心ならざれば、千がなかに一もなし」と。{以上}

【55】 元照律師の『弥陀経の義疏』にいはく、「如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知んぬ、称名はこれ多善根・多福徳なりと。むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉」と。{以上}

【56】 孤山の『疏』(阿弥陀経義疏)にいはく、「執持名号とは、執はいはく執受なり、持はいはく住持なり。信力のゆゑに執受心にあり、念力のゆゑに住持して忘れず」と。{以上}

勧信経文証(別引)

【57】 『大本』(大経・下)にのたまはく、「如来の興世、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞きよく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽受持すること、難のなかの難、これに過ぎて難きはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなしき、かくのごとく説く、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし」と。{以上}

【58】 『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「経のなかに説くがごとし。〈一切の梵行の因は善知識なり。一切梵行の因無量なりといへども、善知識を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉。わが所説のごとし、〈一切の悪行は邪見なり。一切悪行の因無量なりといへども、もし邪見を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ〉。あるいは説かく、〈阿耨多羅三藐三菩提は信心を因とす。これ菩提の因また無量なりといへども、もし信心を説けばすなはちすでに摂尽しぬ〉」と。

【59】 またのたまはく(同・迦葉品)、「善男子、に二種あり。一つには信、二つにはなり。かくのごときの人、また信ありといへども、推求にあたはざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。信にまた二種あり。一つにはより生ず、二つにはより生ず。この人の信心、聞よりして生じて思より生ぜざる、このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つにはあることを信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道あることを信じて、すべて得道の人あることを信ぜず、これを名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには信正、二つには信邪なり。因果あり、仏法僧ありといはん、これを信正と名づく。

因果なく、三宝の性異なりと言ひて、もろもろの邪語、富蘭那等を信ずる、これを信邪と名づく。この人、仏法僧宝を信ずといへども、三宝同一の性相を信ぜず。因果を信ずといへども得者を信ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。この人、不具足信を成就すと。{乃至}善男子、四つの善事あり、悪果を獲得せん。なんらをか四つとする。一つには勝他のためのゆゑに経典を読誦す。二つには利養のためのゆゑに禁戒を受持せん。三つには他属のためのゆゑにして布施を行ぜん。四つには非想非非想処のためのゆゑに繋念思惟せん。この四つの善事、悪果報を得ん。もし人、かくのごときの四事を修習せん、これを、没して没しをはりて還りて出づ、出でをはりて還りて没すと名づく。なんがゆゑぞ没と名づくる、三有を楽ふがゆゑに。なんがゆゑぞ出と名づくる、を見るをもつてのゆゑに。明はすなはちこれ戒・施・定を聞くなり。なにをもつてのゆゑに還りて出没するや。邪見を増長し驕慢を生ずるがゆゑに。このゆゑに、われ経のなかにおいて偈を説かく、〈もし衆生ありて諸有を楽んで、有のために善悪の業を造作する。この人は涅槃道を迷失するなり。これを暫出還復没と名づく。黒闇生死海を行じて、解脱を得といへども、煩悩を雑するは、この人還りて悪果報を受く。これを暫出還復没と名づく〉と。

 如来にすなはち二種の涅槃あり。一つには有為、二つには無為なり。有為涅槃は常楽我浄なし、無為涅槃は常楽我浄あり。〔乃至〕この人深くこの二種の戒ともに善果ありと信ず。このゆゑに名づけて戒不具足となす。この人は信・戒の二事を具せず。所修の多聞もまた不具足なり。いかなるをか名づけて聞不具足とする。如来の所説は十二部経なり、ただ六部を信じていまだ六部を信ぜず、このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受持すといへども、読誦にあたはずして他のために解説するは、利益するところなけん。このゆゑに名づけて聞不具足とす。またこの六部の経を受けをはりて、論議のためのゆゑに、勝他のためのゆゑに、利養のためのゆゑに、諸有のためのゆゑに、持読誦説せん。このゆゑに名づけて聞不具足とす」と。{略抄}

【60】 またのたまはく(涅槃経・徳王品)、「善男子、第一真実の善知識は、いはゆる菩薩・諸仏なり。世尊、なにをもつてのゆゑに、つねに三種の善調御をもつてのゆゑなり。なんらをか三つとする。一つには畢竟軟語、二つには畢竟呵責、三つには軟語呵責なり。この義をもつてのゆゑに、菩薩・諸仏はすなはちこれ真実の善知識なり。また次に善男子、仏および菩薩を大医とするがゆゑに、善知識と名づく。なにをもつてのゆゑに、病を知りて薬を知る、病に応じて薬を授くるがゆゑに。たとへば良医の善き八種の術のごとし。まづ病相を観ず。相に三種あり。なんらをか三つとする。いはく風・熱・水なり。風病の人にはこれに蘇油を授く。熱病の人にはこれに石蜜を授く。水病の人にはこれに薑湯を授く。病根を知るをもつて薬を授くるに、差ゆることを得。ゆゑに良医と名づく。仏および菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの凡夫の病を知るに三種あり。一つには貪欲、二つには瞋恚、三つには愚痴なり。貪欲の病には教へて骨相を観ぜしむ。瞋恚の病には慈悲の相を観ぜしむ。愚痴の病には十二縁相を観ぜしむ。この義をもつてのゆゑに諸仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとへば船師のよく人を度するがゆゑに大船師と名づくるがごとし。諸仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもつてのゆゑに善知識と名づく」と。{抄出}

【61】 『華厳経』(入法界品・唐訳)にのたまはく、「なんぢ善知識を念ずるに、われを生める、父母のごとし。われを養ふ、乳母のごとし。菩提分を増長す、衆の疾を医療するがごとし。天の甘露を灑ぐがごとし。日の正道を示すがごとし。月の浄輪を転ずるがごとし」と。

【62】 またのたまはく(同・入法界品・唐訳)、「如来大慈悲、世間に出現して、あまねくもろもろの衆生のために、無上法輪を転じたまふ。如来無数劫に勤苦せしことは衆生のためなり。いかんぞもろもろの世間、よく大師の恩を報ぜん」と。{以上}

勧信釈文証(別引)

【63】 光明寺の和尚(善導)のいはく(般舟讃 七三三)、「ただ恨むらくは、衆生の疑ふまじきを疑ふことを。浄土対面してあひ忤はず。弥陀の摂と不摂とを論ずることなかれ。意専心にして回すると回せざるとにあり。あるいはいはく、今より仏果に至るまで、長劫に仏を讃めて慈恩を報ぜん。弥陀の弘誓の力を蒙らずは、いづれの時いづれの劫にか娑婆を出でん。いかんしてか、今日宝国に至ることを期せん。まことにこれ娑婆本師の力なり。もし本師知識の勧めにあらずは、弥陀の浄土いかんしてか入らん。浄土に生ずることを得て慈恩を報ぜよ」と。

【64】 またいはく(礼讃 六七六)、「仏の世にはなはだ値ひがたし。人信慧あること難し。たまたま希有の法を聞くこと、これまたもつとも難しとす。みづから信じ、人を教へて信ぜしむること、難きなかにうたたまた難し。大悲弘く[弘の字、智昇法師の『懺儀』の文なり]あまねく化するは、まことに仏恩を報ずるに成る」と。

【65】 またいはく(法事讃・下 五八五)、「帰去来他郷には停まるべからず。仏に従ひて本家に帰せよ。本国に還りぬれば、一切の行願、自然に成ず。悲喜交はり流る。深くみづから度るに、釈迦仏の開悟によらずは、弥陀の名願いづれの時にか聞かん。仏の慈恩を荷なひても、実に報じがたし」と。

【66】 またいはく(法事讃・下 五九一)、「十方六道、同じくこれ輪廻して際なし、循々として愛波に沈みて苦海に沈む。仏道人身得がたくして今すでに得たり。浄土聞きがたくして今すでに聞けり。信心発しがたくして今すでに発せり」と。{以上}

真門決釈

【67】 まことに知んぬ、専修にして雑心なるものは大慶喜心を獲ず。ゆゑに宗師(善導)は、「かの仏恩を念報することなし。業行をなすといへども心に軽慢を生ず。つねに名利と相応するがゆゑに、人我おのづから覆ひて同行・善知識に親近せざるがゆゑに、楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障障他するがゆゑに」(礼讃)といへり。
 悲しきかな、垢障の凡愚無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。

【68】 ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓(第二十願)、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。

聖浄二道判と信疑決判

【69】 まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。浄土真宗は在世・正法・像末・法滅、濁悪の群萌、斉しく悲引したまふをや。

【70】 ここをもつて経家によりて師釈を披きたるに、「説人の差別を弁ぜば、おほよそ諸経の起説、五種に過ぎず。一つには仏説、二つには聖弟子説、三つには天仙説、四つには鬼神説、五つには変化説なり」(玄義分)と。
しかれば四種の所説は信用にたらず。この三経はすなはち大聖(釈尊)の自説なり。


【71】 『大論』(大智度論)に四依を釈していはく、「涅槃に入りなんとせしとき、もろもろの比丘に語りたまはく、〈今日よりに依りてに依らざるべし、に依りてに依らざるべし、に依りてに依らざるべし、了義経に依りて不了義に依らざるべし。法に依るとは、法に十二部あり、この法に随ふべし、人に随ふべからず。義に依るとは、義のなかに好悪・罪福・虚実を諍ふことなし、ゆゑに語はすでに義を得たり、義は語にあらざるなり。人をもつてを指ふ、もつてわれを示教す、指を看視して月を視ざるがごとし。人語りていはん、《われ指をもつて月を指ふ、なんぢをしてこれを知らしむ、なんぢなんぞ指を看て、しかうして月を視ざるや》と。これまたかくのごとし。語は義の指とす、語は義にあらざるなり。これをもつてのゆゑに、語に依るべからず。智に依るとは、智はよく善悪を籌量し分別す。識はつねに楽を求む、正要に入らず。このゆゑに識に依るべからずといへり。了義経に依るとは、一切智人います、仏第一なり。一切諸経書のなかに仏法第一なり。一切衆のなかに比丘僧第一なり〉と。無仏世の衆生を、仏これを重罪としたまへり、見仏の善根を種ゑざる人なり」と。{以上}


【72】 しかれば末代の道俗、よく四依を知りて法を修すべきなりと。

【73】 しかるに正真の教意によつて古徳の伝説を披く。聖道・浄土の真仮を顕開して、邪偽・異執の外教を教誡す。如来涅槃の時代を勘決して正・像・末法の旨際を開示す。


【74】 ここをもつて玄中寺の綽和尚(道綽)のいはく(安楽集・下 二六〇)、「しかるに修道の身、相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。当今の凡夫は現に信想軽毛と名づく、また仮名といへり、また不定聚と名づく、また外の凡夫と名づく。いまだ火宅を出でず。なにをもつて知ることを得んと。 『菩薩瓔珞経』によりて、つぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆゑに難行道と名づく」と。

【75】 またいはく(同・上 一八二)、「教興の所由を明かして、時に約し機に被らしめて浄土に勧帰することあらば、もし機と教と時と乖けば、修しがたく入りがたし。『正法念経』にいはく、〈行者一心に道を求めんとき、つねにまさに時と方便とを観察すべし。もし時を得ざれば方便なし。これを名づけて失とす、利と名づけず。いかんとならば、湿へる木を攅りて、もつて火を求めんに、火得べからず、時にあらざるがゆゑに。もし乾れたる薪を折りて、もつて水を覓めんに、水得べからず、智なきがごときのゆゑに〉と。『大集の月蔵経』にのたまはく、〈仏滅度ののちの第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固なることを得ん。第二の五百年には定を学ぶこと堅固なることを得ん。第三の五百年には多聞読誦を学ぶこと堅固なることを得ん。第四の五百年には塔寺を造立し、福を修し、懺悔すること堅固なることを得ん。第五の五百年には白法隠滞して多く諍訟あらん、微しき善法ありて堅固なることを得ん〉と。今の時の衆生を計るに、すなはち仏、世を去りたまひてのちの第四の五百年に当れり。まさしくこれ懺悔し、福を修し、仏の名号を称すべき時のものなり。一念阿弥陀仏を称するに、すなはちよく八十億劫の生死の罪を除却せん。一念すでにしかなり、いはんや常念に修するは、すなはちこれつねに懺悔する人なり」と。

【76】 またいはく(安楽集・下 二七一)、「経の住滅を弁ぜば、いはく、釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅せん。如来、痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住せんこと百年ならん」と。

【77】 またいはく(同・上 二四一)、「『大集経』にのたまはく、〈わが末法の時のなかの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人も得るものあらじ〉と。当今は末法にしてこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」と。{以上}

道俗を勧誡

【78】 しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。

【79】 三時の教を案ずれば、如来般涅槃の時代を勘ふるに、周の第五の主穆王五十三年壬申に当れり。その壬申よりわが元仁元年[元仁とは後堀川院諱茂仁の聖代なり]甲申に至るまで、二千一百七十三歳なり。また『賢劫経』・『仁王経』・『涅槃』等の説によるに、すでにもつて末法に入りて六百七十三歳なり。

末法灯明記の文引証

【80】 『末法灯明記』[最澄の製作]を披閲するにいはく、「それ一如に範衛してもつて化を流すものは法王四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり。しかればすなはち仁王・法王、たがひに顕れて物を開し真諦・俗諦たがひによりて教を弘む。このゆゑに玄籍宇内に盈ち、嘉猷天下に溢てり。ここに愚僧等率して天網に容り、俯して厳科を仰ぐ。いまだ寧処に遑あらず。しかるに法に三時あり、人また三品なり。化制の旨、時によりて興替す。毀讃の文、人に逐つて取捨す。それ三古の運減衰同じからず。後五の機、慧悟また異なり。あに一途によつて済はんや、一理について整さんや。ゆゑに正・像・末の旨際を詳らかにして、試みに破持僧の事を彰さん。なかにおいて三あり。初めには正・像・末を決す。次に破持僧の事を定む。後に教を挙げて比例す。

 初めに正・像・末を決するに、諸説を出すこと同じからず。しばらく一説を述せん。大乗基、『賢劫経』を引きていはく、〈仏涅槃ののち、正法五百年、像法一千年ならん。この千五百年ののち、釈迦の法滅尽せん〉と。末法をいはず。余の所説に准ふるに、尼、八敬に順はずして懈怠なるがゆゑに、法更増せず。ゆゑに彼によらず。また『涅槃経』に、〈末法のなかにおいて十二万の大菩薩衆ましまして、法を持ちて滅せず〉と。これは上位によるがゆゑにまた同じからず。

 問ふ。もししからば千五百年のうちの行事いかんぞや。

 答ふ。『大術経』によるに、〈仏涅槃ののちの初めの五百年には、大迦葉等の七賢聖僧、次第に正法を持ちて滅せず、五百年ののち正法滅尽せんと。六百年に至りてのち、九十五種の外道競ひ起らん。馬鳴世に出でてもろもろの外道を伏せん。七百年のうちに、龍樹世に出でて邪見の幡を摧かん。八百年において、比丘縦逸にして、わづかに一二道果を得るものあらん。九百年に至りて、奴を比丘とし、婢を尼とせん。一千年のうちに、不浄観を聞かん、瞋恚して欲せじ。千一百年に、僧尼嫁娶せん、僧毘尼を毀謗せん。千二百年に、諸僧尼等ともに子息あらん。千三百年に、袈裟変じて白からん。千四百年に、四部の弟子みな猟師のごとし、三宝物を売らん。ここにいはく、千五百年に拘睒弥国にふたりの僧ありて、たがひに是非を起してつひに殺害せん、よつて教法竜宮に蔵まるなり〉と。『涅槃』の十八および『仁王』等にまたこの文あり。

これらの経文に準ふるに、千五百年ののち戒・定・慧あることなきなり。ゆゑに『大集経』の五十一にいはく、〈わが滅度ののち、初めの五百年には、もろもろの比丘等わが正法において解脱堅固ならん。[初めに聖果を得るを名づけて解脱とす。]次の五百年には禅定堅固ならん。次の五百年には多聞堅固ならん。次の五百年には造寺堅固ならん。後の五百年には闘諍堅固ならん、白法隠没せん〉と、云々。この意、初めの三分の五百年は、次いでのごとく戒・定・慧の三法、堅固に住することを得ん。すなはち上に引くところの正法五百年、像法一千の二時これなり。造寺以後は、ならびにこれ末法なり。ゆゑに基の『般若会の釈』にいはく、〈正法五百年、像法一千年、この千五百年ののち正法滅尽せん〉と。ゆゑに知んぬ、以後はこれ末法に属す。

 問ふ。もししからば、いまの世は、まさしくいづれの時にか当れるや。

 答ふ。滅後の年代多説ありといへども、しばらく両説を挙ぐ。一つには法上師等『周異』の説によりていはく、〈仏、第五の主、穆王満五十三年壬申に当りて入滅したまふ〉と。もしこの説によらば、その壬申よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千七百五十歳なり。二つには]]費長房等、魯の『春秋』によらば、仏、周の第二十一の主、匡王班四年壬子に当りて入滅したまふ。もしこの説によらば、その壬子よりわが延暦二十年辛巳に至るまで、一千四百十歳なり。ゆゑに今の時のごときは、これ像法最末の時なり。かの時の行事すでに末法に同ぜり。しかればすなはち末法のなかにおいては、ただ言教のみありて行証なけん。もし戒法あらば破戒あるべし。すでに戒法なし、いづれの戒を破せんによりてか破戒あらんや。破戒なほなし、いかにいはんや持戒をや。ゆゑに『大集』にいはく、〈仏涅槃ののち無戒州に満たん〉と、云々。

 問ふ。諸経律のなかに、広く破戒を制して衆に入ることを聴さず。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。しかるにいま重ねて末法を論ずるに、戒なし。あに瘡なくして、みづからもつて傷まんや。

 答ふ。この理しからず。正・像・末法の所有の行事、広く諸経に載せたり。内外の道俗たれか披諷せざらん。あに自身の邪活を貪求して、持国の正法を隠蔽せんや。ただし、いま論ずるところの末法には、ただ名字の比丘のみあらん。この名字を世の真宝とせん。福田なからんや。たとひ末法のなかに持戒あらば、すでにこれ怪異なり、市に虎あらんがごとし。これたれか信ずべきや。

 問ふ。正・像・末の事、すでに衆経に見えたり。末法の名字を世の真宝とせんことは、聖典に出でたりや。

 答ふ。『大集』の第九にいはく、〈たとへば真金を無価の宝とするがごとし。もし真金なくは銀を無価の宝とす。もし銀なくは、鍮石・偽宝を無価とす。もし偽宝なくは、赤白銅・鉄・白錫・鉛を無価とす。かくのごとき一切世間の宝なれども仏法無価なり。もし仏宝ましまさずは、縁覚無上なり。もし縁覚なくは、羅漢無上なり。もし羅漢なくは、余の賢聖衆もつて無上なり。もし余の賢聖衆なくは、得定の凡夫もつて無上とす。もし得定の凡夫なくは、浄持戒をもつて無上とす。もし浄持戒なくは、漏戒の比丘をもつて無上とす。もし漏戒なくは、剃除鬚髪して身に袈裟を着たる名字の比丘を無上の宝とす。余の九十五種の異道に比するに、もつとも第一とす。世の供を受くべし、物のための初めの福田なり。なにをもつてのゆゑに、よく身を破る衆生、怖畏するところなるがゆゑに。護持養育して、この人を安置することあらんは、久しからずして忍地を得ん〉と。{以上経文}この文のなかに八重の無価あり。いはゆる如来、縁覚・声聞および前三果、得定の凡夫、持戒・破戒・無戒名字、それ次いでのごとし、名づけて正・像・末の時の無価の宝とするなり。初めの四つは正法時、次の三つは像法時、後の一つは末法時なり。これによりてあきらかに知んぬ、破戒・無戒ことごとくこれ真宝なり。

 問ふ。伏して前の文を観るに、破戒名字、真宝ならざることなし。なんがゆゑぞ『涅槃』と『大集経』に、《国王・大臣、破戒の僧を供すれば、国に三災起り、つひに地獄に生ず》と。破戒なほしかなり、いかにいはんや無戒をや。 しかるに如来、一つの破戒において、あるいは毀り、あるいは讃む。あに一聖の説に両判の失あるをや。

 答ふ。この理しからず。『涅槃』等の経に、しばらく正法の破戒を制す。像・末代の比丘にはあらず。その名同じといへども、時に異あり。時に随ひて制許す。これ大聖(釈尊)の旨なり。ゆゑに世尊において両判の失ましまさず。

 問ふ。もししからばなにをもつてか知らん、『涅槃』等の経は、ただ正法所有の破戒を制止して、像・末の僧にあらずとは。

 答ふ。引くところの『大集』所説の八重の真宝のごとし、これその証なり。みな時に当りて無価となすゆゑに。ただし正法の時の破戒比丘は、清浄衆を穢す。ゆゑに仏固く禁制して衆に入れず。しかるゆゑは、『涅槃』の第三にのたまはく、〈如来いま無上の正法をもつて、諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼に付属したまへり。{乃至}破戒あつて正法を毀るものは、王および大臣、四部の衆、まさに苦治すべし。かくのごときの王臣等、無量の功徳を得ん。{乃至}これわが弟子なり、真の声聞なり、福を得ること無量ならん〉と。{乃至}かくのごときの制文の法、往々衆多なり。みなこれ正法に明かすところの制文なり。像・末の教にあらず。しかるゆゑは、像季・末法には正法を行ぜざれば、法として毀るべきなし。なにをか毀法と名づけん。戒として破すべきなし。たれをか破戒と名づけん。またそのとき大王、行として護るべきなし。なにによりてか三災を出し、および戒慧を失せんや。また像・末には証果の人なし。いかんぞ二聖に聴護せらるることを明かさん。ゆゑに知んぬ、上の所説はみな正法の世に持戒あるときに約して、破戒あるがゆゑなり。

 次に像法千年のうちに、初めの五百年には持戒やうやく減じ、破戒やうやく増せん。戒行ありといへども証果なし。ゆゑに『涅槃』の七にのたまはく、〈迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、《世尊、仏の所説のごときは四種の魔あり。もし魔の所説および仏の所説、われまさにいかんしてか分別することを得べき。もろもろの衆生ありて魔行に随逐せん。また仏説に随順することあらば、かくのごときらの輩、またいかんが知らん》と。仏、迦葉に告げたまはく、《われ涅槃して七百歳ののちに、これ魔波旬やうやく起りて、まさにしきりにわが正法を壊すべし。たとへば猟師の身に法衣を服せんがごとし。魔波旬もまたまたかくのごとし。比丘像・比丘尼像・優婆塞・優婆夷像とならんこと、またまたかくのごとしと。{乃至}“もろもろの比丘、奴婢、僕使、牛・羊・象・馬、乃至銅鉄釜鍑、大小銅盤、所須のものを受畜し、耕田・種植、販売・市易して、穀米を儲くることを聴すと。かくのごときの衆事、仏、大悲のゆゑに衆生を憐愍してみな畜ふることを聴さん”と。かくのごときの経律は、ことごとくこれ魔説なり》〉と、云々。すでに〈七百歳ののちに波旬やうやく起らん〉といへり。ゆゑに知んぬ、かの時の比丘、やうやく八不浄物を貪畜せんと。この妄説をなさん、すなはちこれ魔の流なり。これらの経のなかにあきらかに年代を指して、つぶさに行事を説けり。さらに疑ふべからず。それ一文を挙ぐ、余みな準知せよ。

 次に、像法の後半ばは持戒減少し、破戒巨多ならん。ゆゑに『涅槃』の六にのたまはく、{乃至}また『十輪』にのたまはく、〈もしわが法によりて出家して悪行を造作せん。これ沙門にあらずしてみづから沙門と称し、また梵行にあらずしてみづから梵行と称せん。かくのごときの比丘、よく一切天・竜・夜叉、一切善法功徳の伏蔵を開示して、衆生の善知識とならん。少欲知足ならずといへども、剃除鬚髪して、法服を被着せん。この因縁をもつてのゆゑに、よく衆生のために善根を増長せん。もろもろの天・人において善道を開示せん。乃至破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、しかも戒の余才、牛黄のごとし。

これ死するものといへども、人ことさらにこれを取る。また麝香ののちに用あるがごとし〉と、云々。すでに〈迦羅林のなかに一つの鎮頭迦樹あり〉といへり。これは像運すでに衰へて、破戒濁世にわづかに一二持戒の比丘あらんに喩ふるなり。またいはく、〈破戒の比丘、これ死せる人なりといへども、なほ麝香の死して用あるがごとし。衆生の善知識となる〉と。あきらかに知んぬ、このときやうやく破戒を許して世の福田とす。前の『大集』に同じ。

 次に、像季の後は、まつたくこれ戒なし。仏、時運を知ろしめして、末俗を済はんがために名字の僧を讃めて世の福田としたまへり。また『大集』の五十二にのたまはく、〈もし後の末世に、わが法のなかにおいて鬚髪を剃除し、身に袈裟を着たらん名字の比丘、もし檀越ありて捨施供養をせば、無量の福を得ん〉と。また『賢愚経』にのたまはく、〈もし檀越、将来末世に法尽きんとせんに垂として、まさしく妻を蓄へ、子を侠ましめん四人以上の名字の僧衆、まさに礼敬せんこと、舎利弗・大目連等のごとくすべし〉と。またのたまはく、〈もし破戒を打罵し、身に袈裟を着たるを知ることなからん、罪は万億の仏身より血を出すに同じからん。もし衆生ありて、わが法のために剃除鬚髪し袈裟を被服せんは、たとひ戒を持たずとも、かれらはことごとくすでに涅槃の印のために印せらるるなり〉と。{乃至}『大悲経』にのたまはく、〈仏、阿難に告げたまはく、《将来世において法滅尽せんと欲せんとき、まさに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得たらんもの、おのれが手に児の臂を牽きて、ともに遊行してかの酒家より酒家に至らん。わが法のなかにおいて非梵行をなさん。かれら酒の因縁たりといへども、この賢劫のなかにおいて、まさに千仏ましまして興出したまはんに、わが弟子となるべし。次に、後に弥勒まさにわが処を補ぐべし。乃至最後盧至如来まで、かくのごとき次第に、なんぢまさに知るべし。阿難わが法のなかにおいて、ただ性のみこれ沙門にして、沙門の行を汚し、みづから沙門と称せん、かたちは沙門に似て、ひさしく袈裟を被着することあらしめんは、賢劫において弥勒を首として乃至盧至如来まで、かのもろもろの沙門、かくのごときの仏の所にして、無余涅槃において次第に涅槃に入ることを得ん。遺余あることなけん。なにをもつてのゆゑに。

かくのごとき一切沙門のなかに、乃至ひとたび仏の名を称し、ひとたび信を生ぜんもの、所作の功徳つひに虚設ならじ。われ仏智をもつて法界を測知するがゆゑなり》〉と、云々。{乃至}これらの諸経に、みな年代を指して将来末世の名字の比丘を世の尊師とす。もし正法の時の制文をもつて、末法世の名字の僧を制せんは、教・機あひ乖き、人・法合せず。これによりて『』にいはく、 〈非制を制するは、すなはち三明を断ず。記説するところこれ罪あり〉と。この上に経を引きて配当しをはんぬ。

 後に教を挙げて比例せば、末法法爾として正法毀壊し、三業記なし。四儀乖くことあらん。しばらく『像法決疑経』にのたまふがごとし。{乃至}また『遺教経』にのたまはく、{乃至}また『法行経』にのたまはく、{乃至}『鹿子母経』にのたまはく、{乃至}また『仁王経』にのたまはく。{乃至}」{以上略抄}