顕浄土真仏土文類

出典: 浄土真宗聖典プロジェクト『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
2017年12月1日 (金) 15:03時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索


真仏土文類五

     光明無量の願

     寿命無量の願



   

   顕浄土真仏土文類 五

                           愚禿釈親鸞集

直釈

【1】 つつしんで真仏土を案ずれば、仏はすなはちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればすなはち大悲の誓願に酬報するがゆゑに、真の報仏土といふなり。すでにして願います、すなはち光明・寿命の願(第十二・十三願)これなり。

経文証

願文

【2】 『大経』(上 一七)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、光明よく限量ありて、下百千億那由他の諸仏の国を照らさざるに至らば、正覚を取らじ」と。

【3】 また願(第十三願)にのたまはく(同・上 一七)、「たとひわれ仏を得たらんに、寿命よく限量ありて、下百千億那由他の劫に至らば、正覚を取らじ」と。

『大無量寿経』(巻上)の文

【4】 願(第十二・十三願)成就の文にのたまはく(同・上 二九)、「仏、阿難に告げたまはく、〈無量寿仏の威神光明、最尊第一にして、諸仏の光明の及ぶことあたはざるところなり。{乃至}このゆゑに無量寿仏をば無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏と号す。それ衆生ありて、この光に遇ふものは、三垢消滅し、身意柔軟なり。歓喜踊躍し善心生ず。もし三塗勤苦の処にありて、この光明を見れば、みな休息を得てまた苦悩なけん。寿終へてののち、みな解脱を蒙る。無量寿仏の光明顕赫にして、十方諸仏の国土を照耀して聞えざることなし。ただわれいまその光明を称するのみにあらず、一切の諸仏・声聞・縁覚・もろもろの菩薩衆、ことごとくともに嘆誉すること、またまたかくのごとし。もし衆生ありて、その光明の威神功徳を聞きて、日夜に称説し、心を至して断えざれば、意の所願に随ひて、その国に生ずることを得て、もろもろの菩薩・声聞大衆のために、ともにその功徳を嘆誉し称せられん。それしかうしてのち仏道を得るときに至りて、あまねく十方の諸仏・菩薩のために、その光明を嘆ぜられんこと、またいまのごときならん〉と。仏ののたまはく、〈われ無量寿仏の光明威神、巍々殊妙なるを説かんに、昼夜一劫すともなほいまだ尽すことあたはじ〉と。

 仏、阿難に語りたまはく、〈無量寿仏は寿命長久にして、勝計すべからず。なんぢむしろ知らんや。たとひ十方世界の無量の衆生、みな人身を得て、ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、すべてともに集会して、思をもつぱらにし心を一つにして、その智力を竭して、百千万劫においてことごとくともに推算して、その寿命の長遠の数を計へんに、窮尽してその限極を知ることあたはじ〉」と。{抄出}

『無量寿如来会』の願成就文(301-8)

【5】 『無量寿如来会』(上*)にのたまはく、「阿難、この義をもつてのゆゑに、無量寿仏にまた異名まします。いはく、無量光・無辺光・無着光・無碍光・光照王・端厳光・愛光・喜光・可観光・不可思議光・無等光・不可称量光・暎蔽日光・暎蔽月光掩奪日月光なり。かの光明清浄広大にして、あまねく衆生をして身心悦楽せしむ。また一切余の仏刹のうちの天・竜・夜叉・阿修羅等みな歓悦を得しむ」と。{以上}

『平等覚経』(巻二)往覲偈の文

【6】 『無量清浄平等覚経』(二*)[帛延の訳]にのたまはく、「速疾に超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養す」と。{以上}

『大阿弥陀経』(巻上)光明無量の文

【7】 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(上*)[支謙の訳]にのたまはく、「仏ののたまはく、〈阿弥陀仏の光明は最尊第一にして比びなし。諸仏の光明みな及ばざるところなり。八方上下、無央数の諸仏のなかに、仏の頂中の光明、七丈を照らすあり。仏の頂中の光明、一里を照らすあり。{乃至}仏の頂中の光明、二百万仏国を照らすあり〉と。仏ののたまはく、〈もろもろの八方上下、無央数の仏の頂中の光明の炎照するところ、みなかくのごとくなり。阿弥陀仏の頂中の光明の炎照するところ、千万仏国なり。諸仏の光明の照らすところに近遠あるゆゑはいかんとなれば、もとそれ前世の宿命に、を求めて菩薩たりしとき、所願功徳おのおのおのづから大小あり。それしかうしてのち仏になるときに至りて、おのおのみづからこれを得たり。このゆゑに光明うたた同等ならざらしむ。諸仏の威神同等なるならくのみと。自在の意の所欲、作為してあらかじめ計らず。阿弥陀仏の光明の照らすところ最大なり。諸仏の光明みな及ぶことあたはざるところなり〉と。仏、阿弥陀仏の光明の極善なることを称誉したまふ。〈阿弥陀仏の光明は極善にして、善のなかの明好なり。

それ快きこと比びなし、絶殊無極なり。阿弥陀仏の光明は清潔にして瑕穢なく欠減なきなり。阿弥陀仏の光明は殊好なること、日月の明よりも勝れたること、百千億万倍なり。諸仏の光明のなかの極明なり、光明のなかの極好なり、光明のなかの極雄傑なり、光明のなかの快善なり、諸仏のなかの王なり、光明のなかの極尊なり、光明のなかの最明無極なり。もろもろの無数天下の幽冥の処を炎照するに、みなつねに大明なり。諸有の人民・蜎飛蠕動の類、阿弥陀仏の光明を見ざることなきなり。見たてまつるもの慈心歓喜せざるものなけん。

世間の諸有の婬泆瞋怒・愚痴のもの、阿弥陀仏の光明を見たてまつりて、善をなさざるはなきなり。もろもろの泥梨辟茘考掠、勤苦の処にありて、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、至りてみな休止して、また治することを得ざれども、死してのち、憂苦を解脱することを得ざるものはなきなり。阿弥陀仏の光明と名とは、八方上下、無窮無極無央数の諸仏の国に聞かしめたまふ。諸天・人民、聞知せざることなし。聞知せんもの、度脱せざるはなきなり〉と。仏ののたまはく、〈独りわれ、阿弥陀仏の光明を称誉するのみにあらざるなり。八方上下、無央数の仏・辟支仏・菩薩・阿羅漢、称誉するところみなかくのごとし〉と。仏ののたまはく、〈それ人民、善男子・善女人ありて阿弥陀仏の声を聞きて、光明を称誉して、朝暮につねにその光好を称誉して、心を至して断絶せざれば、心の所願にありて、阿弥陀仏国に往生す〉」と。{以上}

『不空羂索経』(巻二一)の文

【8】 『不空羂索神変真言経* にのたまはく、「なんぢ当生の処は、これ阿弥陀仏の清浄報土なり。蓮華より化生して、つねに諸仏を見たてまつる。もろもろの法忍を証せん。寿命無量百千劫数ならん。ただちに阿耨多羅三藐三菩提に至る、また退転せず。われつねに祐護す」と。{以上}

『涅槃経』の文

四相品

【9】 『涅槃経』(四相品*)にのたまはく、「〈また解脱は名づけて虚無といふ。虚無はすなはちこれ解脱なり、解脱はすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ虚無なり、非作の所作なり。{乃至}真解脱は不生不滅なり、このゆゑに解脱はすなはちこれ如来なり。如来またしかなり。不生不滅、不老不死、不破不壊にして有為の法にあらず。この義をもつてのゆゑに、名づけて如来入大涅槃といふ。{乃至}また解脱は無上上と名づく。{乃至}無上上はすなはち真解脱なり、真解脱はすなはちこれ如来なり。{乃至}もし阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得をはりて、無愛無疑なり。無愛無疑はすなはち真解脱なり、真解脱はすなはちこれ如来なり。{乃至}如来はすなはちこれ涅槃なり、涅槃はすなはちこれ無尽なり、無尽はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ決定なり、決定はすなはちこれ阿耨多羅三藐三菩提なり〉と。

 迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、もし涅槃と仏性と決定と如来と、これ一義名ならば、いかんぞ説きて三帰依ありとのたまへるや〉と。仏、迦葉に告げたまはく、〈善男子、一切衆生、生死を怖畏するがゆゑに三帰を求む。三帰をもつてのゆゑに、すなはち仏性と決定と涅槃とを知るなり。善男子、法の名一義異なるあり、法の名義倶異なるあり。名一義異とは、仏の常法の常比丘僧の常なり。涅槃・虚空みなまたこれ常なり。これを名一義異と名づく。名義倶異とは、仏を名づけてとす、法を不覚と名づく、僧を和合と名づく、涅槃を解脱と名づく、虚空を非善と名づく、また無碍と名づく。これを名義倶異とす。善男子、三帰依とはまたまたかくのごとし〉」と。{略出}

四依品

【10】 またのたまはく(涅槃経・四依品*)、「光明は不羸劣に名づく。不羸劣とは名づけて如来といふ。また光明は名づけて智慧とす」と。{以上}

聖行品

【11】 またのたまはく(同・聖行品*)、「善男子、一切有為はみなこれ無常なり。虚空は無為なり、このゆゑに常とす。仏性は無為なり、このゆゑに常とす。虚空はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり、如来はすなはちこれ無為なり、無為はすなはちこれ常なり、常はすなはちこれ法なり、法はすなはちこれ僧なり、僧はすなはち無為なり、無為はすなはちこれ常なり」と。{乃至}

 「善男子、たとへば牛より乳を出す、乳より酪を出す、酪より生蘇を出す、生蘇より熟蘇を出す、熟蘇より醍醐を出す。醍醐最上なり。もし服することあるものは、衆病みな除こる。所有のもろもろの薬、ことごとくそのなかに入るがごとし。善男子、仏もまたかくのごとし。仏より十二部経を出す、十二部経より修多羅を出す、修多羅より方等経を出す、方等経より般若波羅蜜を出す、般若波羅蜜より大涅槃を出す。なほし醍醐のごとし。醍醐といふは仏性に喩ふ。仏性はすなはちこれ如来なり。善男子、かくのごときの義のゆゑに、説きて〈如来所有の功徳、無量無辺不可称計〉とのたまへり」と。{抄出}

梵行品
常 (常住) 

【12】 またのたまはく(涅槃経・梵行品*)、「善男子、道に二種あり。一つには常、二つには無常なり。菩提の相にまた二種あり。一つには常、二つには無常なり。涅槃もまたしかなり。外道の道を名づけて無常とす、内道の道はこれを名づけて常とす。声聞・縁覚所有の菩提を名づけて無常とす、菩薩・諸仏の所有の菩提、これを名づけて常とす。外の解脱は名づけて無常とす。内の解脱はこれを名づけて常とすと。善男子、道と菩提および涅槃と、ことごとく名づけて常とす。一切衆生は、つねに無量の煩悩のために覆はれて、慧眼なきがゆゑに、見ることを得ることあたはず。しかしてもろもろの衆生、見んと欲ふがために戒・定・慧を修す。修行をもつてのゆゑに、道と菩提とおよび涅槃とを見る。これを菩薩の得道菩提涅槃と名づく。道の性相、実に不生滅なり。この義をもつてのゆゑに捉持すべからず。{乃至}道は色像なしといへども見つべし、称量して知んぬべし、しかるに実にありと。{乃至}衆生の心のごときは、これ色にあらず、長にあらず短にあらず、粗にあらず細にあらず、縛にあらず解にあらず、見にあらずといへども、法としてまたこれ有なり」と。{抄出}

徳王品三文
楽 (大楽)

【13】 またのたまはく(涅槃経・徳王品*)、「善男子、大楽あるがゆゑに大涅槃と名づく。涅槃は無楽なり。四楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。なんらをか四つとする。一つには諸楽を断ずるがゆゑに。楽を断ぜざるは、すなはち名づけて苦とす。もし苦あらば大楽と名づけず。楽を断ずるをもつてのゆゑに、すなはち苦あることなけん。無苦無楽をいまし大楽と名づく。涅槃の性は無苦無楽なり。このゆゑに涅槃を名づけて大楽とす。この義をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。また次に善男子、楽に二種あり、一つには凡夫、二つには諸仏なり。凡夫の楽は無常敗壊なり、このゆゑに無楽なり。諸仏は常楽なり、変易あることなきがゆゑに大楽と名づく。また次に善男子、三種のあり。一つには苦受、二つには楽受、三つには不苦不楽受なり。不苦不楽これまた苦とす。涅槃も不苦不楽に同じといへども、しかるに大楽と名づく。大楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。二つには大寂静のゆゑに名づけて大楽とす。涅槃の性これ大寂静なり。なにをもつてのゆゑに、一切憒鬧の法を遠離せるゆゑに。大寂をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。三つには一切智のゆゑに名づけて大楽とす。一切智にあらざるをば大楽と名づけず。諸仏如来は、一切智のゆゑに名づけて大楽とす。大楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。四つには身不壊のゆゑに名づけて大楽とす。身もし壊すべきは、すなはち楽と名づけず。如来の身は金剛にして壊なし。煩悩の身、無常の身にあらざるがゆゑに大楽と名づく。大楽をもつてのゆゑに大涅槃と名づく」と。{以上}

浄 (純浄)

【14】 またのたまはく(涅槃経・徳王品*)、「不可称量不可思議なるがゆゑに、名づけて大般涅槃とすることを得。純浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。

いかんが純浄なる。浄に四種あり。なんらをか四つとする。一つには二十五有を名づけて不浄とす。よく永く断ずるがゆゑに、名づけて浄とすることを得。浄はすなはち涅槃なり。かくのごときの涅槃、また有にしてこれ涅槃と名づくることを得。実にこれ有にあらず。諸仏如来、世俗に随ふがゆゑに涅槃有なりと説きたまへり。たとへば世人の、父にあらざるを父といひ、母にあらざるを母といふ、実に父母にあらずして父母といふがごとし。涅槃もまたしかなり。世俗に随ふがゆゑに、説きて諸仏有にして大涅槃なりとのたまへり。二つには業清浄のゆゑに。一切凡夫の業は、不清浄のゆゑに涅槃なし。諸仏如来は業清浄のゆゑに、ゆゑに大浄と名づく。大浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。三つには身清浄のゆゑに。身もし無常なるをすなはち不浄と名づく。

如来の身は常なるがゆゑに大浄と名づく。大浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。四つには心清浄のゆゑに。心もし有漏なるを名づけて不浄といふ。仏心は無漏なるがゆゑに大浄と名づく。大浄をもつてのゆゑに大涅槃と名づく。善男子、これを善男子・善女人と名づく」と。{抄出}

【15】 またのたまはく(涅槃経・徳王品*)、「善男子、諸仏如来は煩悩起らず、これを涅槃と名づく。所有の智慧、法において無碍なり、これを如来とす。如来はこれ凡夫・声聞・縁覚・菩薩にあらず、これを仏性と名づく。如来は身心智慧、無量無辺阿僧祇の土に遍満したまふに、障碍するところなし、これを虚空と名づく。如来は常住にして変易あることなければ、名づけて実相といふ。

この義をもつてのゆゑに、如来は実に畢竟涅槃にあらざるこれを菩薩と名づく」と。{以上}

迦葉品二文

【16】 またのたまはく(同・迦葉品*)、「迦葉菩薩まうさく、〈世尊、仏性は常なり、なほ虚空のごとし。なんがゆゑぞ如来説きて未来とのたまふやと。如来、もし一闡提の輩、善法なしとのたまはば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あにまさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや〉と。仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く〉と。〈世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや〉と。〈善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。なんぢいふところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業求業施業解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし〉」と。{以上}

【17】 またのたまはく(涅槃経・迦葉品*)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅睺羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。{乃至}善男子、如来よく衆生のかくのごとき上・中・下の根と知ろしめす。このゆゑに仏は具知根力と称せしむ〉と。迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来はこの知根力を具足したまへり。このゆゑによく一切衆生上・中・下の根、利鈍の差別を知ろしめして、人に随ひ、意に随ひ、時に随ふがゆゑに、如来知諸根力と名づけたてまつると。{乃至}あるいは説きて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありといふことあり〉と。{乃至}

 〈如来世尊、国土のためのゆゑに、時節のためのゆゑに、他語のためのゆゑに、人のためのゆゑに、衆根のためのゆゑに、一法のなかにおいて二種の説をなす。一名の法において無量の名を説く、一義のなかにおいて無量の名を説く、無量の義において無量の名を説く。いかんが一名に無量の名を説くや。なほし涅槃のごとし。また涅槃と名づく、また無生と名づく、また無出と名づく、また無作と名づく、また無為と名づく、また帰依と名づく、また窟宅と名づく、また解脱と名づく、また光明と名づく、また灯明と名づく、また彼岸と名づく、また無畏と名づく、また無退と名づく、また安処と名づく、また寂静と名づく、また無相と名づく、また無二と名づく、また一行と名づく、また清涼と名づく、また無闇と名づく、また無碍と名づく、また無諍と名づく、また無濁と名づく、また広大と名づく、また甘露と名づく、また吉祥と名づく。これを一名に無量の名を作ると名づく。いかんが一義に無量の名を説くや。なほし帝釈のごとし。{乃至}いかんが無量の義において無量の名を説くやと。仏・如来の名のごとし。如来の義異名異とす、また阿羅呵と名づく、義異名異なり。また三藐三仏陀と名づく、義異名異なり。また船師と名づく、また導師と名づく、また正覚と名づく、また明行足と名づく、また大師子王と名づく、また沙門と名づく、また婆羅門と名づく、また寂静と名づく、また施主と名づく、また到彼岸と名づく、また大医王と名づく、また大象王と名づく、また大竜王と名づく、また施眼と名づく、また大力士と名づく、また大無畏と名づく、また宝聚と名づく、また商主と名づく、また得解脱と名づく、また大丈夫と名づく、また天人師と名づく、また大分陀利と名づく、また独無等侶と名づく、また大福田と名づく、また大智海と名づく、また無相と名づく、また具足八智と名づく。

かくのごとき一切、義異名異なり。善男子、これを無量義のなかに無量の名を説くと名づく。また一義に無量の名を説くことあり。いはゆるのごとし。また名づけて陰とす、また顛倒と名づく、また名づけてとす、また名づけて四念処とす、また四食と名づく、また四識住処と名づく、また名づけて有とす、また名づけて道とす、また名づけてとす、また名づけて衆生とす、また名づけてとす、また第一義と名づく、また三修と名づく、いはく身・戒・心なり。また因果と名づく、また煩悩と名づく、また解脱と名づく、また十二因縁と名づく、また声聞・辟支仏と名づく、仏をまた地獄・餓鬼・畜生・人・天と名づく、また過去・現在・未来と名づく。これを一義に無量の名を説くと名づく。

善男子、如来世尊、衆生のためのゆゑに、広のなかに略を説く、略のなかに広を説く。第一義諦を説きて世諦とす、世諦の法を説きて第一義諦とす〉」と。{略出}

梵行品

【18】 またのたまはく(涅槃経・梵行品*)、「迦葉またまうさく、〈世尊、第一義諦をまた名づけて道とす、また菩提と名づく、また涅槃と名づく〉」と。{乃至}

【19】 またのたまはく(同・迦葉品*)、「善男子、われ『経』のなかに如来の身を説くに、おほよそ二種あり。一つには生身、二つには法身なり。生身といふは、すなはちこれ方便応化の身なり。かくのごときの身は、これ生老病死、長短黒白、是此是彼、是学無学といふことを得べし。わがもろもろの弟子、この説を聞きをはりて、わが意を解らざれば、唱へていはく、〈如来さだめて仏身はこれ有為の法なりと説かん〉と。法身はすなはちこれ常楽我浄なり。永く一切生老病死、非白非黒、非長非短、非此非彼、非学非無学を離れたまへれば、もし仏の出世および不出世に、つねに動ぜずして変易あることなけん。

善男子、わがもろもろの弟子この説を聞きをはりて、わが意を解らざれば、唱へていはく、〈如来さだめて仏身はこれ無為の法なりと説きたまへり〉」と。

迦葉品二文

【20】 またのたまはく(涅槃経・迦葉品*)、「わが所説の十二部経のごとし。あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。{乃至}

善男子、わが所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。なにをもつてのゆゑに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳等の三昧三千の法門を得たり。このゆゑに了々としてみづから阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知るも、一切衆生さだめて阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。このゆゑにわれ十住の菩薩、少分仏性を見ると説くなり。
善男子、つねに一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはずと。 わが説かくのごとし、なんぢが説またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来あるときは一法のためのゆゑに無量の法を説く」と。{抄出}

師子吼品

【21】 またのたまはく(同・師子吼品*)、「〈一切覚者を名づけて仏性とす。十住の菩薩は名づけて一切覚とすることを得ざるがゆゑに、このゆゑに見るといへども明了ならず。善男子、見に二種あり。一つには眼見、二つには聞見なり

諸仏世尊は眼に仏性を見そなはす、掌のうちにおいて阿摩勒菓を観ずるがごとし。十住の菩薩、仏性を聞見すれども、ことさらに了々ならず。十住の菩薩、ただよくみづからさだめて阿耨多羅三藐三菩提を得ることを知りて、一切衆生はことごとく仏性ありと知ることあたはず。善男子、また眼見あり。諸仏如来なり。十住の菩薩は、仏性を眼見し、また聞見することあり。一切衆生乃至九地までに、仏性を聞見す。菩薩、もし一切衆生ことごとく仏性ありと聞けども、心に信を生ぜざれば、聞見と名づけず〉と。{乃至}

師子吼菩薩摩訶薩まうさく、〈世尊、一切衆生は如来の心相を知ることを得ることあたはず。まさにいかんが観じて知ることを得べきや〉と。〈善男子、一切衆生は実に如来の心相を知ることあたはず。もし観察して知ることを得んと欲はば、二つの因縁あり。一つには眼見、二つには聞見なり。もし如来、所有の身業を見たてまつらんは、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来、所有の口業を観ぜん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし色貌を見たてまつること、一切衆生のともに等しきものなけん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし音声微妙最勝なるを聞かん、衆生所有の音声には同じからじ、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく。もし如来所作の神通を見たてまつらんに、衆生のためとやせん、利養のためとやせん。もし衆生のためにして利養のためにせず、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを眼見と名づく。もし如来を観ずるに、他心智をもつて衆生を観そなはすとき、利養のために説き、衆生のために説かん。もし衆生のためにして利養のためにせざらん、まさに知るべし、これすなはち如来とするなり。これを聞見と名づく〉」と。{略出}

論釈文証

天親『浄土論』一文

【22】 『浄土論』(二九)にいはく、「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」とのたまへり。{以上}

曇鸞大師の釈二文

真土を顕す
清浄功徳文

【23】 『註論』(論註・下 一一一)にいはく、「〈荘厳清浄功徳成就とは、『偈』に、《観彼世界相勝過三界道》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。これいかんが不思議なるや。凡夫人、煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得るに、三界の繋業畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。

性功徳釈文

【24】 またいはく(論註・上 60)、「〈正道の大慈悲は、出世の善根より生ず〉(浄土論)とのたまへり。この二句は、荘厳性功徳成就と名づく。{乃至}
性はこれ本の義なり。いふこころは、これ浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。
またいふこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて積習して成ぜるところなり。また性といふは、これ聖種性なり。序めに法蔵菩薩、世自在王仏の所にして無生忍を悟る。そのときの位を聖種性と名づく。この性のなかにおいて四十八の大願を発して、この土を修起したまへり。すなはち安楽浄土といふ、これかの因の所得なり。果のなかに因を説く。ゆゑに名づけて性とす。
また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり。海の性、一味にして衆流入るものかならず一味となつて、海の味はひ、かれに随ひて改まらざるがごとしとなり。また人身の性不浄なるがゆゑに、種々の妙好色・香・美味、身に入りぬれば、みな不浄となるがごとし。安楽浄土はもろもろの往生のひと、不浄の色なし、不浄の心なし、畢竟じてみな清浄平等無為法身を得しむ。安楽国土清浄の性、成就したまへるをもつてのゆゑなり。

〈正道の大慈悲は出世の善根より生ず〉といふは、平等の大道なり。平等の道を名づけて正道とするゆゑは、平等はこれ諸法の体相なり。諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し。大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに、〈正道大慈悲〉とのたまへり。
慈悲に三縁あり。一つには衆生縁、これ小悲なり。二つには法縁、これ中悲なり。三つには無縁、これ大悲なり。大悲はすなはちこれ出世の善なり。安楽浄土はこの大悲より生ぜるがゆゑなればなり。ゆゑにこの大悲をいひて浄土の根とす。ゆゑに〈出世善根生〉といふなり」と。

大義門功徳釈文

【25】 またいはく(論註・上 七六)、「問うていはく、法蔵菩薩の本願(第十四願)、および龍樹菩薩の所讃(易行品)を尋ぬるに、みなかの国に声聞衆多なるをもつてとするに似たり。これなんの義かあるやと。答へていはく、声聞は実際をもつて証とす。計るにさらによく仏道の根芽を生ずべからず。しかるを仏、本願の不可思議の神力をもつて、摂してかしこに生ぜしむるに、かならずまさにまた神力をもつて、それをして無上道心を生ぜしむべし。たとへば鴆鳥、水に入れば魚蚌ことごとく死す、犀牛これに触るれば死するものみな活るがごとし。かくのごとき生ずべからずして生ぜしむ、このゆゑに奇とすべし。しかるに五不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。仏よく声聞をしてまた無上道心を生ぜしめたまふ。まことに不可思議の至りなり」と。

成就不可思議釈文

【26】 またいはく(論註・下 一〇八)、「不可思議力とは、すべてかの仏国土の十七種荘厳功徳力不可得思議なることを指すなり。諸経に説きてのたまはく、〈五種の不可思議あり。一つには衆生多少不可思議、二つには業力不可思議、三つには竜力不可思議、四つには禅定力不可思議、五つには仏法力不可思議なり〉と。このなかに仏土不可思議に二種の力あり。一つには業力、いはく法蔵菩薩の出世の善根と大願業力の所成なり。二つには正覚の阿弥陀法王のよく住持力をして摂したまふところなり」と。

示現自利利他釈文

【27】 またいはく(同・下 一二二)、「自利利他を示現すといふは、〈略してかの阿弥陀仏の国土の十七種の荘厳功徳成就を説きつ。如来の自身利益大功徳力成就と利益他功徳成就とを示現したまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。〈略〉といふは、かの浄土の功徳無量にして、ただ十七種のみにあらざることを彰すなり。それ須弥を芥子に入れ、毛孔に大海を納む、あに山海の神ならんや、毛芥の力ならんや、能神の人ならくのみ」と。

不虚作住持功徳釈文

【28】 またいはく(論註論註・下 一三〇)、「〈なにものか荘厳不虚作住持功徳成就、『偈』に、《仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳大宝海を満足せしむ》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。{乃至}いふところの〈不虚作住持〉は、本法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによりてなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願あひ符うて、畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ」と。{抄出}

『讃阿弥陀仏偈』の文

【29】 『讃阿弥陀仏偈』(一六一)にいはく、[曇鸞和尚の造]「南無阿弥陀仏[釈して『無量寿傍経』と名づく、讃めたてまつりてまた安養といふ。]

成仏よりこのかた十劫を歴たまへり。寿命まさに量りあることなけん。
法身の光輪、法界に遍じて世の盲冥を照らす、ゆゑに頂礼したてまつる。
智慧の光明量るべからず、ゆゑに仏をまた無量光と号す。
有量の諸相光暁を蒙る、このゆゑに真実明を稽首したてまつる。
解脱の光輪限斉なし、ゆゑに仏をまた無辺光と号す。
光触を蒙るもの有無を離る、このゆゑに平等覚を稽首したてまつる。
光、雲のごとくにして無碍なること虚空のごとし、ゆゑに仏をまた無碍光と号す。
一切の有碍光沢を蒙る、このゆゑに難思議を頂礼したてまつる。
清浄の光明、対あることなし、ゆゑに仏をまた無対光と号す。
この光に遇ふものは業繋除こる、このゆゑに畢竟依を稽首したてまつる。
仏光照耀して最第一なり、ゆゑに仏をまた光炎王と号す。
三塗の黒闇、光啓を蒙る、このゆゑに大応供を頂礼したてまつる。
道光明朗にして色超絶したまへり、ゆゑに仏をまた清浄光と号す。
ひとたび光照を蒙るに罪垢除こり、みな解脱を得しむ、ゆゑに頂礼したてまつる。
慈光はるかに被らしめ安楽を施す、ゆゑに仏をまた歓喜光と号す。
光の至るところの処に法喜を得しむ、大安慰を稽首し頂礼したてまつる。
仏光よく無明の闇を破す、ゆゑに仏をまた智慧光と号す。
一切諸仏三乗衆、ことごとくともに嘆誉す、ゆゑに稽首したてまつる。
光明一切のときにあまねく照らす、ゆゑに仏をまた不断光と号す。
聞光力のゆゑに心断えずして、みな往生を得しむ、ゆゑに頂礼したてまつる。
その光、仏を除きてはよく測ることなけん、ゆゑに仏をまた難思光と号す。
十方諸仏往生を嘆じ、その功徳を称せしむ、ゆゑに稽首したてまつる。
神光は相を離れたること名づくべからず、ゆゑに仏をまた無称光と号す。
光によりて成仏したまふ、光赫然たり、
諸仏の嘆じたまふところなり、ゆゑに頂礼したてまつる。
光明照曜して日月に過ぎたり、ゆゑに仏を超日月光と号す。
釈迦仏嘆じたまふことなほ尽きず、ゆゑにわれ無等等を稽首したてまつると。{乃至}
本師龍樹摩訶薩、形を像始に誕じて頽綱(頽の字、崩なり、破なり、落なり、纏るなり)を理る。
邪扇を関閉して(轍の字、通なり、車なり、跡なり)正轍を開く。これ閻浮提の一切の眼なり。
尊語を伏承して歓喜地にして、阿弥陀に帰して安楽に生ぜしむ。
われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。
やや、願はくは慈光われを護念して、われをして菩提心を失せざらしめたまへ。
われ仏恵功徳の音を讃ず。願はくは十方のもろもろの有縁に聞かしめて、
安楽に往生を得んと欲はんもの、あまねくみな意のごとくして障碍なからしめん。
あらゆる功徳、もしは大小一切に回施して、ともに往生せしめん。
不可思議光に南無し、一心に帰命し、稽首し礼したてまつる。
十方三世の無量慧、同じく一如に乗じて正覚と号す。
二智円満して道平等なり。摂化すること縁に随ふ、まことにそこばくならん。
われ阿弥陀の浄土に帰するは、すなはちこれ諸仏の国に帰命するなり。
われ一心をもつて一仏を讃ず、願はくは十方無碍人に遍ぜん。
かくのごとき十方無量仏、ことごとくおのおの心を至して頭面に礼したてまつるなり」と。{以上抄出}

善導大師の釈六文

報身土を証す
「玄義分」

【30】 光明寺の和尚(善導)いはく(玄義分 三二六)、「問うていはく、弥陀の浄国は、はたこれなりや、これなりとやせんと。答へていはく、これ報にして化にあらず。いかんが知ることを得る。『大乗同性経』に説くがごとし。〈西方の安楽阿弥陀仏は、これ報仏報土なり〉(意)と。また『無量寿経』(上)にのたまはく、〈法蔵比丘、世饒王仏の所にましまして、菩薩の道を行じたまひしとき、四十八願を発して、一々の願にのたまはく、《もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称して、わが国に生ぜんと願ぜん、下十念に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ》〉(意)と。いますでに成仏したまへり、すなはちこれ酬因の身なり。また『観経』のなかに、上輩の三人、命終のときに臨んで、みな〈阿弥陀仏および化仏とに、この人を来迎す〉(意)とのたまへり。

しかるに報身、化を兼ねてともに来りて手を授くと。ゆゑに名づけて〈与〉とす。この文証をもつてのゆゑに、知んぬ、これ報なりと。 しかるに報・応二身とは眼目の異名なり。前には報を翻じて応となす、後には応を翻じて報となす。おほよそ報といふは、因行虚しからず、さだめて来果を招く。果をもつて因に応ず。ゆゑに名づけて報とす。また三大僧祇の所修の万行、必定して菩提を得べし。いますでに道、成ぜり、すなはちこれ応身なり。これすなはち過・現の諸仏、三身を弁立す。これを除きて以外はさらに別の体ましまさず。たとひ無窮の八相、名号塵沙なりとも、体に剋して論ぜば、すべて化に帰して摂す。いまかの弥陀、現にこれ報なりと。

 問うていはく、すでに報といふは、報身常住にして永く生滅なし。なんがゆゑぞ『観音授記経』に説かく、〈阿弥陀仏また入涅槃のときあり〉(意)と。この一義いかんが通釈せんやと。

 答へていはく、入・不入の義は、ただこれ諸仏の境界なり。なほ三乗浅智の闚ふところにあらず。あにいはんや、小凡たやすくよく知らんや。しかりといへども、かならず知らんと欲はば、あへて仏経を引きてもつて明証とせん。

いかんとならば『大品経』の〈涅槃非化品〉のなかに説きていふがごとし。〈仏、須菩提に告げたまはく、《なんぢが意においていかん。もし化人ありて化人をなす。この化すこぶる実事ありやいなや。空しきものなりやいなや》と。須菩提のまうさく、《いななり、世尊》と。仏、須菩提に告げたまはく、《色すなはちこれ化なり、受・想・行・識すなはちこれ化なり、乃至一切種智すなはちこれ化なり》と。須菩提、仏にまうしてまうさく、《世尊、もし世間の法これ化なりや、出世間の法またこれ化なりや。いはゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分八聖道分・三解脱門、仏の十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法、ならびに諸法の果および賢聖人、いはゆる須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩摩訶薩・諸仏世尊、この法またこれ化なりやいなや》と。

仏、須菩提に告げたまはく、《一切の法はみなこれ化なり。この法のなかにおいて声聞の法の変化あり、辟支仏の法の変化あり、菩薩の法の変化あり、諸仏の法の変化あり、煩悩の法の変化あり、業因縁の法の変化あり。この因縁をもつてのゆゑに、須菩提、一切の法みなこれ化なり》とのたまへり。 須菩提、仏にまうしてまうさく、《世尊、このもろもろの煩悩断は、いはゆる須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏道は、もろもろの煩悩のを断ず。みなこれ変化なりやいなや》と。

仏、須菩提に告げたまはく、《もし法の生滅の相あるは、みなこれ変化なり》とのたまへり。須菩提まうさく、《世尊、なんらの法か変化にあらざる》と。仏ののたまはく、《もし法の無生無滅なる、これ変化にあらず》と。須菩提まうさく、《なんらかこれ不生不滅にして変化にあらざる》と。仏ののたまはく、《誑相なき涅槃、この法変化にあらず》と。《世尊、仏みづから説きたまふがごとき、諸法平等にして声聞の作にあらず、辟支仏の作にあらず、もろもろの菩薩摩訶薩の作にあらず、諸仏の作にあらず。有仏・無仏、諸法のつねに空なり。性空なる、すなはちこれ涅槃なり。いかなるか涅槃の一法、化のごとくにあらざる》と。

仏、須菩提に告げたまはく、《かくのごとし、かくのごとし。諸法は平等にして声聞の所作にあらず、乃至性空なればすなはちこれ涅槃なり。もし新発意の菩薩、この一切の法みな畢竟じて性空なり、乃至涅槃もまたみな化のごとしと聞かば、心すなはち驚怖しなん。この新発意の菩薩のために、ことさらに生滅のものは化のごとし、不生不滅のものは化のごときにあらざるを分別するをや》〉と。

いますでにこの聖教をもつて、あきらかに知んぬ、弥陀はさだめてこれ報なり。たとひのちに涅槃に入らん、その義妨げなけん。もろもろの有智のもの、知るべしと。

 問うていはく、かの仏および土、すでに報といはば、報法高妙にして小聖階ひがたし。垢障の凡夫、いかんが入ることを得んやと。

答へていはく、もし衆生の垢障を論ぜば、実に欣趣しがたし。まさしく仏願に託するによりて、もつて強縁となりて、五乗斉しく入らしむることを致す」と。

「序分義」

【31】 またいはく(序分義 三七七)、「〈我今楽生弥陀〉より以下は、まさしく夫人(韋提希)別して所求を選ぶことを明かす。これは弥陀の本国、四十八願なることを明かす。願々みな増上の勝因を発せり、因によりて勝行を起せり、行によりて勝果を感ず、果によりて勝報を感成せり、報によりて極楽を感成せり、楽によりて悲化を顕通す、悲化によりて智慧の門を顕開せり。しかるに悲心無尽にして、智また無窮なり。悲・智ならべ行じて、すなはち広く甘露を開けり。これによりて法潤あまねく群生を摂したまふなり。諸余の経典に勧むるところ弥く多し。衆聖、心を斉しくして、みな同じく指讃したまふ。この因縁ありて、如来ひそかに夫人(韋提希)を遣はして、別して選ばしめたまふことを致なり」と。

報身土の意義を明かす
「定善義」

【32】 またいはく(定善義 四〇五)、「西方寂静無為の楽は、畢竟逍遥して有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して物を利すること等しくして殊なることなし。帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到るところに余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平を畢へてのち、かの涅槃の城に入らん」と。

「法事讃」三文

【33】 またいはく(法事讃・下 五六四)、「極楽は無為涅槃の界なり。随縁の雑善おそらくは生じがたし。ゆゑに如来(釈尊)、要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしめて、もつぱらにしてまたもつぱらならしめたまへり」と。

【34】 またいはく(同・下 五五七)、「仏に従ひて逍遥して自然に帰す。自然はすなはちこれ弥陀の国なり。無漏無生、還りてすなはち真なり。行来進止につねに仏に随ひて、無為法性身を証得す」と。

【35】 またいはく(法事讃同・下 五九〇)、「弥陀の妙果をば、号して無上涅槃といふ」{以上抄出}

憬興『述文賛』(巻中)の文

【36】 憬興師のいはく(述文賛)、「無量光仏、[算数にあらざるがゆゑに。]無辺光仏、[縁として照らさざることなきがゆゑに。]無碍光仏、[人法としてよく障ふることあることなきがゆゑに。]無対光仏、[もろもろの菩薩の及ぶところにあらざるがゆゑに。]光炎王仏、[光明自在にしてさらに上となすことなきがゆゑに。]清浄光仏、[無貪の善根よりして現ずるがゆゑに、また衆生の貪濁の心を除くなり。貪濁の心なきがゆゑに清浄といふ。]歓喜光仏、[無瞋の善根よりして生ずるがゆゑに、よく衆生の瞋恚盛心を除くがゆゑに。]智慧光仏、[無痴の善根の心より起れり。また衆生の無明品心を除くがゆゑに。]不断光仏、[仏の常光つねに照益をなすがゆゑに。]難思光仏、[もろもろの二乗の測度するところにあらざるがゆゑに。]無称光仏、[また余乗等説くこと堪ふるところにあらざるがゆゑに。]超日月光仏、[日応じてつねに照らすこと周からず、娑婆一耀の光なるがゆゑに。]みなこれ光触を身に蒙るものは身心柔軟の願(第三十三願)の致すところなり」と。{以上抄要}

結釈

【37】 しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにしてを見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』(涅槃経・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説く」とのたまへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。また『経』(涅槃経・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。

『起信論』の文(飛錫『念仏三昧宝王論』による)

【38】 『起信論』にいはく、「〈もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。もし念を離るるを名づけて得入とす〉と。得入とは真如三昧なり。いかにいはんや、無念の位は妙覚にあり、けだしもつて了心は初生の相なり。しかも初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。〈説より無説に入り、念より無念に入る〉とのたまへり」と。{略抄}

真仮対弁

【39】 それ報を案ずれば、如来の願海によりて果成の土を酬報せり。ゆゑに報といふなり。しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。
 選択本願の正因によりて、真仏土を成就せり。真仏といふは、『大経』(上)には「無辺光仏・無碍光仏」とのたまへり、また「諸仏中の王なり、光明中の極尊なり」(大阿弥陀経・上)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「帰命尽十方無碍光如来」といへり。真土といふは、『大経』には「無量光明土」(平等覚経・二)とのたまへり、あるいは「諸智土」(如来会・下)とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「究竟して虚空のごとし、広大にして辺際なし」といふなり。
往生といふは、『大経』(上)には「皆受自然虚無之身無極之体」とのたまへり。{以上}『論』(浄土論)には「如来浄華衆正覚華化生」といへり。また「同一念仏無別道故」(論註・下)といへり。{以上}また「難思議往生」(法事讃・上)といへるこれなり。
 仮の仏土とは、にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。





顕浄土真仏土文類 五