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高僧和讃(国宝本)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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真宗高田派に伝持されてきた「浄土和讃」「高僧和讃」「正像末和讃」の異本。昭和28年に国宝に指定されたので「国宝本」と呼称する。かっては御開山の真筆とされてきたが、一部を除き現在では真仏上人の筆であろうとされる。なお「註釈版」所収の和讃は、蓮如さんが吉崎時代に開版されたものであり、その底本は不明である。
この和讃の表示順は「文明本和讃」との対応の為に「文明本」に従っている。「国宝本」のオリジナルの表示順序は和讃の番号順である。

浄土和讃(国宝本)→原文

高僧和讃

浄土高僧和讚 愚禿親鸞作

龍樹讃

龍樹菩薩 付釈文 十首

(一)
本師龍樹菩薩は
『智度』・『十住毗婆沙』等
つくりておほく西をほめ
すゝめて念仏せしめけり


(二)
南天竺に比丘あらむ
龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまふ


(三)
本師龍樹菩薩は
大乗无上の法をとき
歓喜地を証してぞ
ひとえに念仏すゝめける


(四)
龍樹大士よにいでゝ
難易ふたつのみちをとき
流転輪回のわれらおば
弘誓のふねにのせたまふ


(五)
本師龍樹菩薩の
おしえをつたえきかむひと
本願こゝろにかけしめて
つねに弥陀を称すべし


(六)
不退のくらゐすみやかに
えむとおもはむひとはみな
恭敬の心に執持して
弥陀の名号称すべし


(七)
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらおば
弥陀の悲願のふねのみぞ
のせてかならずわたしける


(八)
『智度論』にのたまはく
仏は无上法王なり
菩薩は法臣としたまひて
尊重すべきは世尊なり


(九)
一切菩薩のゝたまはく
われら因地にありしとき
无量劫をへめぐりて
万善諸行を修せしかど


(一〇)
恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
罪障を滅し度脱せし


已上龍樹菩薩

天親讃

天親菩薩 付釈文 十首


(一一)
釈迦の教法おほけれど
天親菩薩はねむごろに
煩悩成就のわれらには
弥陀の弘誓をすゝめしむ


(一二)
安養浄土の荘厳は
唯仏与仏の知見なり
究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし


(一三)
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし


(一四)
如来浄華の聖衆は
正覚のはなより化生して
衆生の願楽ことごとく
すみやかにとく満足す


(一五)
天・人不動の聖衆は
弘誓の智海より生ず
心業の功徳清浄にて
虚空のごとく差別なし


(一六)
天親論主は一心に
无㝵光に帰命して
本願力に乗ずれば
報土にいたるとのべたまふ


(一七)
尽十方の无㝵光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまへ


(一八)
願作仏の心はこれ
度衆生のこゝろなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり


(一九)
信心すなわち一心なり
一心すなわち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなわち他力なり


(二〇)
願土にいたればすみやかに
无上涅槃を証してぞ
すなわち大悲をおこすなり
これを回向となづけたり


已上天親菩薩

曇鸞讃

曇鸞和尚 付釈文 三十四首


(二一)
斉朝の曇鸞和尚は
菩提流支のおしえにて
仙経ながくやきすてゝ
浄土にふかく帰せしめり


(二二)
四論の講說さしおきて
本願他力をときたまふ
具縛の凡衆をみちびきて
涅槃のかどにぞいらしめし


(二三)
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆへをとふ
十方仏国浄土なり
なにゝよりてか西にある


(二四)
鸞師こたえてのたまはく
わがみは智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず


(二五)
一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこゝろざし
巒師ひとりさだめたり


(二六)
魏の主勅して幷州の
大巌寺にこそおはしけれ
やうやくおわりにのぞみては
汾州にうつりたまひにき


(二七)
魏の天子はたふとみて
神巒とこそまふしけれ
おはせしところのそのなおば
鸞公巌とぞなづけたる


(二八)
浄業さかりにすゝめつゝ
玄忠寺にこそおはしけれ
魏の興和四年に
遥山寺にこそうつりしか


(二九)
六十有七ときいたり
浄土の往生とげたまふ
そのとき霊瑞不思議にて
一切道俗帰敬しき


(三〇)
君子ひとえにたふとみて
勅宣くだしてたちまちに
汾州汾西秦陵の
勝地に霊廟たてたまふ


(三一)
天親菩薩のみことおも
鸞師ときのべたまはずは
他力広大威徳の
心行いかでかさとらまし


(三二)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体无二と
すみやかにとくさとらしむ


(三三)
いつゝの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは
弥陀の弘願になづけたり


(三四)
弥陀の廻向成就して
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ


(三五)
往相の回向ととくことは
弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば
生死すなわち涅槃なり


(三六)
還相の回向ととくことは
利他教化の果をえしめ
すなわち諸有に回入して
普賢の徳を修するなり


(三七)
論主の一心ととけるおば
曇鸞大師のみことには
煩悩成就のわれらが
他力の信とのべたまふ


(三八)
尽十方の无㝵光は
无明のやみをてらしつゝ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ


(三九)
无㝵光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなわち菩提のみづとなる


(四〇)
罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さわりおほきに徳おほし


(四一)
名号不思議の海水は
逆謗の死骸もとゞまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり


(四二)
尽十方无㝵光仏の
大慈大悲の願海に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしほと転ずなり


(四三)
安楽仏国に生ずるは
畢竟成仏の道路にて
无上の方便なりければ
諸仏浄土をすゝめけり


(四四)
諸仏三業荘厳して
畢竟平等なることは
衆生虚誑の身口意を
治せむがためとのべたまふ


(四五)
安楽仏国にいたるには
无上宝珠の名号と
真実信心ひとつにて
无別道故とときたまふ


(四六)
如来清浄本願の
无生の生なりければ
本則三三の品なれど
一二もかわることぞなき


(四七)
无㝵光如来の名号と
かの光明智相とは
无明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまふ


(四八)
不如実修行といえること
鸞師釈してのたまはく
一者信心あつからず
若存若亡するゆえに


(四九)
二者信心一ならず
決定なきゆえなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまふ


(五〇)
三信展転相成す
行者こゝろをとゞむべし
信心あつからざるゆへに
決定の信なかりけり


(五一)
決定の信なきゆへに
念相続せざるなり
念相続せざるゆへ
決定の信をえざるなり


(五二)
決定の信をえざるゆへ
信心不淳とのべたまふ
如実修行相応は
信心ひとつにさだめたり


(五三)
万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなわちひらくなり


(五四)
本師曇鸞大師おば
梁の天子蕭王は
おはせしかたにつねにむき
鸞菩薩とぞ礼しける


已上曇鸞菩薩

道綽讃

道綽禅師 付釈文 七首


(五五)
本師道綽禅師は
聖道万行さしおきて
唯有浄土一門を
通入すべきみちととく


(五六)
本師道綽大師は
涅槃の広業さしおきて
本願他力をたのみつゝ
五濁の群生すゝめしむ


(五七)
末法五濁の衆生は
聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ
教主世尊はときたまへ


(五八)
鸞師のおしへをうけつたへ
綽和尚はもろともに
在此起心立行は
此是自力とさだめたり


(五九)
濁世の起悪造罪は
暴風駛雨にことならず
諸仏これらをあわれみて
すゝめて浄土に帰せしめり


(六〇)
一形悪をつくれども
専精にこゝろをかけしめて
つねに念仏せしむれば
諸障自然にのぞこりぬ


(六一)
縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつゝ
若不生者とちかひけり


已上道綽和尚

善導讃

善導禅師 付釈文 二十六首


(六二)
大心海より化してこそ
善導和尚とおはしけれ
末代濁世のためにとて
十方諸仏に証をこふ


(六三)
よよに善導いでたまひ
法照・少康としめしつゝ
功徳蔵をひらきてぞ
諸仏の本意とげたまふ


(六四)
弥陀の名願によらざれば
百千万劫すぐれども
いつゝのさわりはなれねば
女身をいかでか転ずべき


(六五)
釈迦は要門ひらきつゝ
定散諸機をあわれみて
正雑二行方便し
ひとえに専修をすゝめしむ


(六六)
助正ならべて修するおば
すなわち雑修となづけたり
一心をえざるひとなれば
仏恩報ずるこゝろなし


(六七)
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者おば
これも雑修となづけてぞ
千中无一ときらはるゝ


(六八)
こゝろはひとつにあらねども
雑行雑修これにたり
浄土の行にあらぬおば
ひとえに雑修となづけしむ


(六九)
善導大師証をこい
定散二心をひるがへし
貪瞋二河の譬喩をとき
弘願の信心守護せしむ


(七〇)
経道滅尽ときいたり
如来出世の本意なる
本願真宗にあひぬれば
凡夫念じてさとるなり


(七一)
仏法力の不思議には
諸邪業繫さわらねば
弥陀の本弘誓願を
増上縁となづけたり


(七二)
願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら
如来の弘誓に乗ずべし


(七三)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなわち穢身すてはてゝ
法性常楽証せしむ


(七四)
釈迦・弥陀は慈悲の父母
種種に善巧方便して
われらが无上の信心を
発起せしめたまひけり


(七五)
真心徹到するひとは
金剛の心なりければ
三品の懺悔するものと
ひとしと宗師はのたまへり


(七六)
五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてゝ
自然の浄土にいたるなれ


(七七)
金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてけれ


(七八)
真実信心えざるおば
一心かけぬとおしえたり
一心かけたるひとはみな
三信具せずとおもふべし


(七九)
利他の信楽うるひとは
願に相応するゆへに
教と仏語にしたがへば
外の雑縁さらになし


(八〇)
真宗念仏きゝえつゝ
一念无疑なるをこそ
希有最勝人とほめ
正念をうとはさだめたれ


(八一)
本願相応せざるゆへ
雑縁きたりみだるなり
信心乱失するをこそ
正念うすとはのべたまへ


(八二)
信は願より生ずれば
念仏成仏自然なり
自然はすなわち報土なり
証大涅槃うたがはず


(八三)
五濁増のときいたり
疑謗のともがらおほくして
道俗ともにあひきらい
修するをみてはあだをなす


(八四)
本願毀滅のともがらは
生盲闡提となづけたり
大地微塵劫をへて
ながく三塗にしづむなり


(八五)
西路を指授せしかども
自障障他せしほどに
曠劫已来もいたづらに
むなしくこそはすぎにけれ


(八六)
弘誓のちからをかぶらずは
いづれのときにか娑婆をいでむ
仏恩ふかくおもひつゝ
つねに弥陀を念ずべし


(八七)
娑婆永劫の苦をすてゝ
浄土无為を期すること
本師釈迦のちからなり
長時に慈恩を報ずべし


已上善導和尚

源信讃

源信大師 付釈文 十首


(八八)
源信和尚のたまはく
われこれ故仏とあらはして
化縁すでにつきぬれば
本土にかへるとしめしけり


(八九)
本師源信ねむごろに
一代仏教のそのなかに
念仏一門ひらきてぞ
濁世末代すゝめける


(九〇)
霊山聴衆とおはしける
源信僧都のおしえには
報化二土をおしえてぞ
専雑の得失さだめたる


(九一)
本師源信和尚は
懐感法師の釈により
『処胎経』をひらきてぞ
懈慢界おばあらはせる


(九二)
専修のひとをほむるには
千无一失とおしえたり
雑修のひとをきらふには
万不一生とのべたまふ


(九三)
報の浄土の往生は
おほからずとぞあらわせる
化土にむまるゝ衆生おば
すくなからずとおしえたり


(九四)
男女貴賤ことごとく
弥陀の名号称するに
行住座臥をえらばれず
時処諸縁もさわりなし


(九五)
煩悩にまなこさえられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわがみをてらすなり


(九六)
弥陀の報土をねがふひと
外儀のすがたはことなりと
本願名号信受して
寤寐にわするゝことなかれ


(九七)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとえに弥陀を称してぞ
浄土にむまるとのべたまふ


已上源信和尚

源空讃

源空聖人 付釈文 二十首


(九八)
本師源空よにいでゝ
弘願の一乗ひろめつゝ
日本一州ことごとく
浄土の機縁あらわれぬ


(九九)
智慧光のちからより
本師源空あらわれて
浄土真宗をひらきつゝ
選択本願のべたまふ


(一〇〇)
善導・源信すゝむとも
本師源空ひろめずは
片州濁世のともがらは
いかでか真宗をさとらまし


(一〇一)
曠劫多生のあひだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし


(一〇二)
源空三五のよわいにて
无常のことわりさとりつゝ
厭離の素懐をあらわして
菩提のみちにぞいらしめし


(一〇三)
源空智行の至徳には
聖道諸宗の師主も
みなもろともに帰せしめて
一心金剛戒師とす


(一〇四)
源空在世のそのときに
金色の光明はなたしむ
兼実博陸まのあたり
拝見せしめたまひけり


(一〇五)
本師源空の本地おば
世俗のひとびとあひつたへ
綽和尚と称せしめ
あるいは善導としめしけり


(一〇六)
源空勢志と示現し
あるいは弥陀と顕現す
上皇・群臣尊敬し
京夷庶民欽仰す


(一〇七)
承久の太上法王は
本師源空を帰敬しき
釈門・儒林みなともに
ひとしく真宗をさとりけり


(一〇八)
諸仏方便ときいたり
源空ひじりとしめしつゝ
无上の信心おしえてぞ
涅槃のかどおばひらきける


(一〇九)
真の知識にあふことは
かたきがなかになほかたし
流転輪廻のきわなきは
疑情のさわりにしくぞなき


(一一〇)
源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲・愚夫もえらばれず
豪貴・鄙賤もへだてなし


(一一一)
命終その期ちかづきて
本師源空のたまはく
往生みたびになりぬるに
このたびことにとげやすし


(一一二)
源空みづからのたまはく
霊山会上にありしとき
声聞僧にまじわりて
頭陀を行じて化度せしむ


(一一三)
粟散片州に誕生して
念仏宗をひろめしむ
衆生化度のためにとて
この土にたびたびきたらしむ


(一一四)
阿弥陀如来化してこそ
本師源空としめしけり
化縁すでにつきぬれば
浄土にかへりたまひにき


(一一五)
本師源空のおわりには
光明紫雲のごとくなり
音楽哀婉雅亮にて
異香みぎりに映芳す


(一一六)
道俗男女予参し
卿上雲客群集す
頭北面西右脇にて
如来涅槃の儀をまもる


(一一七)
本師源空命終時
建曆第二壬申歳
初春下旬第五日
浄土に還帰せしめけり


已上源空聖人


已上高僧和讚 一百十七首

結讃

弥陀和讚・高僧和讚都合
二百二十五首
宝治第二戊申歳初月下旬第一日
釈親鸞W七十六歳R書之畢
見写人者必可唱南无阿弥陀仏


(正四)
南无阿弥陀仏をとなふれば
衆善海水のごとくなり
かの清浄の善みにえたり
ひとしく衆生に廻向せむ