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トーク

真実の利

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2019年2月24日 (日) 17:42時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

覚如上人や蓮如さんが強調された「称名報恩説」は、名号を受け容れて称えている人 (機受) の側から言えば、お救いくださった仏徳を讃嘆し、仏恩を報謝する意でもある。しかし、ともすれば「行巻」で説かれる〔なんまんだぶ〕という大行であるお念仏を誤解し矮小化することにもなる。ここでは御開山が「教巻」で阿弥陀仏の「功徳の宝」であり、釈尊が「真実の利」と示された無上の功徳(なんまんだぶ)について梯實圓和上の講義録の一部を抜粋し『大経』流通分の「無上の功徳」について窺がってみる。一分の抜粋であり、リンクや改行、文字の強調などは林遊が付した、為念。
無上の功徳
仏、弥勒に語りたまはく、それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。(行巻 P.188)
このゆゑに弥勒、たとひ大火ありて三千大千世界に充満すとも、かならずまさにこれを過ぎて、この経法を聞きて歓喜信楽し、受持読誦して説のごとく修行すべし。(大経 P.81)

以下講義録からに抜粋。

これは南無阿弥陀仏という一声の念仏が無上の功徳だというのです。
これは大変な言葉です。
さてこの無上功徳というのはどういう事かという事は、この後におっしゃいます。
 「大利と言うは、小利に対せるの言葉なり。無上と言うは、有上に対せるの言葉なり。」(行巻 P.188)
無上功徳というのは、この上が無いという事です。
上が無いという事は上が有るという事に対して上が無いというのです。だから無上という言葉は有上に対するのだ。
小利有上の功徳と大利無上の功徳を此処でお釈迦様はキチッと対判しておられるのだと言うのです。

 それはどういう事かというと
(まこと)に知ぬ、大利無上は、一乗真実の利益なり。小利有上は則是八万四千の仮門なり。」(行巻 P.188)と言うのです。
そうすると自力の行はどんな行であってもそれは小利有上の行である。それに対してお念仏は一声・一声が大利無上の功徳であるという事を顕すのです。
そうすると無上というのです、これは大変な事をおっしゃっている訳です。
お念仏と仏様どっちが上かといわれたら皆さんはどう答えますか?、お浄土と念仏どちらが上かと聞かれたら、どう答えますか?。
これは全く等しいのです。
そうでなければ、お念仏より上のものがあったならば有上です。
お念仏よりも仏様の方が上だったらお念仏は有上功徳になります。
お念仏よりもお浄土の方が上だったらお念仏は有上になります。
という事はお念仏とお浄土と仏様と全く同じ功徳であるという事です。仏様も無上の功徳を持つ。
仏様の事を無上士と言うでしょう。
お浄土も無上の功徳を持っている。
そしてお念仏も無上の功徳を持っている、という事は私の前に現れている阿弥陀仏がお念仏なのだ。
私の前に届いているお浄土がお念仏なのだよという事です。
お念仏は私の前に届いた仏様であり、私の前に届いたお浄土なのです。
浄土が念仏となって私の上に顕現しているのだ。
仏様は念仏となって私の上に実現しているのだ。
だから念仏は大利無上というのだという事です。だからお念仏を頂いているという事が仏様を頂いている事です、阿弥陀仏のお徳の全体を頂いている事であり、お浄土の徳の全てを頂いている事です。
だから親鸞聖人は
 「真実功徳ともうすは誓願の尊号なり。」(『銘文』(P.652))
 「真実功徳と申すは名号なり。一実真如の妙理、円満せるがゆゑに、大宝海にたとへたまふなり。」(『一念多念文意』(P.690
といわれて、このお念仏に仏様の徳の全てが顕現しているのだ。
だからお念仏というのは私の前に届いて下さった仏様だという事を顕わしています。
その事を顕わすために一声・一声が仏様の顕現体なのだよ、一声・一声仏様が私の前に現れているのだよ。そして仏様が私に呼びかけている、これがお念仏なのだよというのです。
こういう所を顕わすのが行の一念という事です。

 だからこれで法の徳の尊厳さを顕わし、法の徳の無上性を顕した、これがお念仏だ。お念仏というのは一声・一声が仏様が顕現しているような、そういう意味を持っている、それが念仏だという事です。
この事はまた行の所で詳しく言わなければなりませんが、親鸞聖人が言われる行というのは、これから修行していって煩悩を無くして、それから仏になろうというようなケチな行と違うのです。
仏様が行となって私の上に顕現しているのだ。
だから一声・一声の念仏が絶対の意味を持つのだ。
そして一声・一声の念仏が如来我に在って我を呼びたもう。
だから招喚の勅命なりという事になるのです。
南無阿弥陀仏の六字釈をなさって「帰命というは本願招喚の勅命なり」という有名な釈が出てきますのは、それなのです。
御名となって如来は私に届き、御名となって私を呼び覚まし続けている、これが念仏だ。
私は死ぬまで愚かな煩悩の中をさまよい続けていく人間だから、仏様は絶えず私の上に南無阿弥陀仏という御言葉となって私に届き、私を呼び覚まし続けていく。
そういうお念仏だから、お念仏とは称えて幾らにしょうという様な事と違うのだぞという事です。そんな我々の打算で言っている様なものでは無いのだ、念仏というのは打算の産物と違う。
念仏とは如来より給わりたるものだという事です、それは如来様が私の上に顕現しているのだという事です。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

選択集 P.1223
名体不二
名号度生