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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2022年12月15日 (木) 13:28時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

くう

Ⅰ 空見。善悪因果の道理を空無とする邪見。  (行巻 P.172)


Ⅱ 梵語シューニャター(śūnyatā)の漢訳。もろもろの事物は、因縁(いんねん)に依って仮に和合して存在しているのであって、固定的な実体(自性) はないことをいう。無自性と同意。大乗仏教では、人空と法空を説く。人空とは、衆生の中に実体はないことをいい、法空とは、あらゆる存在に実体はないことをいう。


Ⅲ 梵語アーカーシャ(ākāśa)の漢訳。空間。虚空(こくう)のこと。五大の一。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

四句

◆ 参照読み込み (transclusion) ノート:空

空 シューニヤ(śūnya)の訳。舜若(しゅんにゃ)と音写する。また梵語シューニヤター(suññatā)の訳で、舜若多と音写する。
後者は「空なること」の意味であるから、空性とも訳される。また主空神を舜若多神と称する。空とは、一切法は因縁によって生じたものであるから、そこに我体・本体・実体と称すべきものがなく空(むな)しいこと。それ故に諸法皆空といわれる。
このように一切は空であると観見することを空観という。空は虚無(偏空)ではなくて、空を観じることは真実の価値の発見であるから、真空のままに妙有である。これを真空妙有[1]という。 これに反して空の虚無的な理解を悪取空という。空は仏教全般に通じる基本的な教理であり、大乗・小乗の経論で空の教理に関係しないものはないが、その教理の浅深に随って説明の仕方が一様でない。

①二空。

(イ) 人空(実我の空なること。有情の個体の中心に我体と称すべきものがないこと。我空、衆生空、生空、人無我ともいう)と法空(因縁によって生じたものであるから一切の存在自体が空であること、法無我ともいう)。一般には、小乗は人空のみを説いて法空を説かないが、大乗は人法二空(人法二無我、我法二空)を説くといわれる。
(ロ) 析空(存在を分析しつくして、そこにあらわれた空)と体空(当体即空の意味で、存在の当体に即してそのままに空であると体達した空)。小乗と成実宗とは析空を説き、大乗は体空を説くといわれる。
(ハ) 但空(空にかたよって不空の理を知らず、妙有の一面を認めないこと。偏空ともいう)と不但空(空にとらわれないで妙有の一面を認める中道の空。これは一切法には決定された自性は得られないとする空であるから、不可得空ともいう)。

②三空。

(イ) 法相宗では三性の一々に空の義があるとして、これを三空という。即ち凡夫によって妄執された境である遍計所執性が実は空無であることを無性空といい、因縁によって生じた法である依他起性は遍計所執性とは異なって全く無ではないが、凡夫の妄情におけるように有ではないことを異性空といい、真如の理である円成実性が人法二空によって顕された自性であることを自性空という。
(ロ) 人空・法空・倶空(人法二空)の三。

③四空。
法法相空(法相空)・無法無法相空(無法相空)・自法自法相空(自法相空)・他法他法相空(他法相空)(大集経巻五四、大品般若経巻五)。

④六空。
内空(六内処即ち眼などの六根が空であること。受者空、能食空ともいう)・外空(六外処即ち色などの六境が空であること。所受空、所食空ともいう)・内外空(身空、自身空)・空空(空なりと観じることも空であること。能照空ともいう)・大空(十方の世界が空であること。身所住処空ともいう)・第一義空(諸法の外に実相といわれるものの自性がないこと。勝義空、真実空、真境空ともいう)(舎利弗阿昆曇論巻一六)。

⑤七空。
相空(諸法のすがた即ち自相も共相もすべて空であること。自相空ともいう)・性自性空(性[諸法]の自性[実体]が空であること。自性空ともいう)・行空(五薀が我・我所を離れていて因縁によって起こること)・無行空(涅槃は五薀の中にいまだかつて行じたことがないこと。不行空ともいう)・一切法離言説空(一切法は言語に説きあらわすことができず空であること)・第一義聖智大空(果位の聖智註によって見られる第一義空)・彼彼空(彼において此がなく、此において彼がなく、ただ「無い」というだけの浅い意味における空)(四巻楊伽経巻一)。

⑥十空。
内空・外空・内外空・有為空(有為法が空であること)・無為空(無為法即ち涅槃が空であること)・散壊空(仮の集合であるから離散し破壊する相をもっていて空であること。散空ともいう)・本性空(自性が空であること。性空ともいう)・無際空(始めなくして存在する一切の諸法がすべて空であること。無始空、無前後空ともいう)・勝義空・空空(大毘婆沙論巻八)。

⑦十一空。
内空・外空・内外空・有為空・無為空・無始空・性空・無所有空(諸法には決定された自性は求めても得られないから空であること。不可得空ともいう)・第一義空・空空・大空(北本涅槃経巻一六)。

⑧十六空。
内空・外空・内外空・大空・空空・勝義空・有為空・無為空・畢寛空(諸法を空じおわった窮極の空)・無際空・無散空(積み集めた善根を散じ捨てることなく、しかもその善根に執われないで空と観ずること。不捨離空、不捨空ともいう)・本性空・相空(三十二相、八十種好が空であること)・一切法空(一切の仏法が空であること)・無性空(人法二空の故に一物も執着すべきものがないこと)・無性自性空(その無性もまた自性が空であること)(弁中辺論巻上)。

⑨十八空。
内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有為空・無為空・畢覧空・無始空・散空・性空・自相空・諸法空(一切諸法が空であること)・不可得空・無法空(過去と未来の諸法が空であること)・有法空(現在の諸法が空であること)・無法有法空(大品般若経巻三、大集経巻五四、大智度論巻三一)。
このほかに十二空、十四空、十九空、二十空など種々な形があるが、中でも十八空が最も有名で、「十八空論」という論書もある。(仏教学辞典)

インクルード 浄土宗大辞典

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:空

くう/空

すべての存在には実体(自性)がないことをいう。一切皆空いっさいかいくうと表現することもある。からの状態を指し、「無我」と同義。原語はⓈśūnyaという形容詞で、その名詞形Ⓢśūnyatāは「空性」と漢訳される。仏教では、すべての事物が因縁によって生起していることを意味する縁起を説くが、この因縁によって生起しているということは、一切は他に依って存在し、それ自身で独立して存在してはいないから、永遠不変の固定的実体はなく、したがって空ということになる。つまり、縁起せるものには実体がなく(無自性)、実体がない(無自性)故に空なので(縁起→無自性→空)、空とは縁起を言い換えたものとも考えられる。この空思想は初期経典でも説かれていたが、その発達はまだ不充分であり、大乗仏教の時代になってはじめて、『般若経』等が空思想を強調するようになった。空も様々な説かれ方をするが、ここでは最も基本的な人空(人無我)と法空(法無我)の二空(二無我)を取り上げる。人空とは、人間の内なる実体としての自我は五蘊ごうんが仮に集まっただけのものであるから空無であることを意味し、法空とは、外界のあらゆる存在(法)は因縁によって生起したものであるから、永遠不変の固定的実体はないことをいう。通常、人は自分(人)および外界の存在(法)に永遠不変の実体(我)を認めてこれに執着するが、すべては無常無我であるから、それらに対する執着や依存は必ず裏切られ、結果として苦をもたらす。よって空思想は、この執着を破る役割を果たすといえる。『般若経』で強調されるようになった空思想は、龍樹(ナーガールジュナ)がさらに哲学的な考察を加え、彼の主著『中論』二四章一八偈では「我等は縁起せるものを空と説く。それは仮説(言葉による表示)であり、また中道である」(正蔵三〇・三三中)と説かれるが、この「空・仮・中」は後に天台教義の「三諦」として理論化が進んだ。


【参照項目】➡無我縁起色即是空空即是色三諦


【執筆者:平岡聡】

オンライン版 仏教辞典より転送

śūnya शून्य (S)、suñña सूञ्ञ (P)、舜若(しゅんにゃ)と音写。

 固定的実体の無いこと。実体性を欠いていること。原語のシューニヤは、「…を欠いていること」という意味である。

 インドの数学では、インド人が世界史上最初に発見したゼロを表す。このゼロという数により、たとえば十進法が可能となり、負数(マイナス)の概念も確立し、それはアラビアを通じて近代のヨーロッパに伝えられ、近代数学が誕生し、現代の自然科学や技術その他も開発され進展した。
 このśūnyaはśū(=śvā、śvi =膨張する)からつくられた śūna にもとづいて、空虚、欠如、ふくれあがって内部がうつろなどを意味し、初期の仏典にも登場する。

仏典の用例

自我に執着する見解を破り、世間を空として観察せよ 『スッタニパータ(1119)』
空虚な家屋に入って心を鎮める 『法句経(373)』
この講堂には牛はいない、牛についていえば空(欠如)である。しかし比丘がおり、比丘についていえば空ではない(残るものがある) (小空経)『中部121経、中阿含経(巻49)』

 欠如と残るものとの両者が、「空」の語の使用と重なり説かれる。これから「空」の観法という実践が導かれて、空三昧は無相三昧と無願三昧とを伴い、この三三昧を三解脱門とも称する。
 またこの用例は特に中期以降の大乗仏教において復活され、その主張を根拠づけた。
 また(大空経)『中部122経、中阿含経(巻49)』は「空」の種々相、内空と外空と内外空との三空などを示す。さらに、縁起思想との関係を示唆する資料もある『相応部20-7、雑阿含経(1258経)』。部派仏教における「空」の用例も初期仏教とほぼ同じで、「空」が仏教の中心思想にまでは達していない。

般若経の空

 大乗(マハーヤーナ)の説が般若経で初めて説かれると、ここでは「空」が反復して主張された。それはこの経の批判の対象となった説一切有部が一種の固定した型に膠着化したことによる。ここでは「空」は厳しい否定を表し、いっさいの固定を排除し尽くす。

 大乗経典のなかでも比較的はやい時期にスタートしたと思われる般若経は、新しい大乗的な菩薩の観念を発達させた。その担い手にはどちらかといえば出家者が多かったと思われるが、彼らは僧院を拠点とするアビダルマ仏教とは一線を画している。自ら無上の菩提に到達せんとする菩提心を起こし、また他者を菩提に導こうという利他誓願を鎧のように身にまといながら、彼らはひと里離れた場所で、また行住坐臥つねに菩薩として行に励んだ。布施精進禅定般若の六波羅蜜がその行の綱格をなし、これらのうち第六の般若波羅蜜、すなわち智慧の完全な状態は布施などを通じて得られる究極的なものであり、かつそれらの完全性を内から支えるものとして最も重視される。般若経はその立場から仏が語ったことを内容とし、同時に担い手たちにとっては般若波羅蜜に到達する方途を示す意味をもった。完全な智慧は日常的なあれやこれについての認識・知識とは異なる。通常の人間は「あれはこう」「これはこう」と区別し判断しては、それらに執着しているが、智慧はその執着を断つ力をもつとともにそれから解放された菩提、仏の悟りにほかならない。一連の多様な般若経のなかで諸法の不生不滅が説かれるのは、「ものが生じる」「ものが滅する」とする日常的な判断を破壊するためであり、また諸法の空性が説かれるのも、ものは日常的なことばが予想するような自性をもたないとして、ものへ

の執着を断つためである。「すべてのものは空である」と観じることは、ここで完全な智慧へ通じる方途とされており、原始仏教の無我観や「空性」の考えは深化されている。
 また空性の分類も進み、たとえば『大品般若経』では、内空・外空・内外空(それぞれ、内的・外的なものの空性)、空空・大空・第一義空(究極的な空性)、有為空・無為空・畢竟空(作られたもの。作られないもの、その全体の空性)、無始空、散空(分析的な空性)、性空(本性的な空性)、自相空(特殊的なものの空性)、諸法空、不可得空(知覚できない意味での空性)、無法空・有法空・無法有法空(実体性・非実体性についての空性)といった十八空(異説あり)が説かれるようになる。

龍樹の空観

 この「空」の理論の大成は龍樹によって果たされた(『中論』など)。
 龍樹は、あらゆる存在・運動・機能・要素その他、さらに、それぞれを表現する言葉そのものについて、各々がきわめて複雑多様な関係性(=縁起)の上に成立し、しかもその関係性は相互矛盾・否定をはらみつつ依存し合うことを明確に論じ、それは日常世界にまで及ぶ。
 ここに諸要素などの実体視による自性(それ自身で存在する独立の実体)が完全に消滅し去り、その根拠と実態を「空」と押え、こうして縁起―無自性―空という系列が確立し、また言葉も一種の過渡的なとして容認される。

衆因縁生の法は、我れ即ち是れを無(空)なりと説く。亦た是れを仮名と為す。亦た是れ中道の義なり。未だ嘗て一法として。因縁拠り生ぜざるもの有らず。是の故に一切法は、是れ空ならざる者なし    〔観四諦品第24 T30-33b〕
「śūnya」は形容詞であり、その名詞形の「śūnyatā शून्यता」は、空、空性、空であること、と訳される。

 般若経自体は南インドに関係が深いが、龍樹はその担い手たちの一人であったと思われる。彼は般若経の智慧を重視する思想が釈尊自身の実践的な縁起中道の思想を直接継承するものと考え、『中論』などの著作によって、すべてのものの空性をきわめて精緻な論理を使って明確にしようとした。その論法は鋭く、日常的なことばが意味のうえで予想しがちな実体性、自性を徹底して破壊するものとなっており、わずかでも実体的・有的なものを認める意見があればその立場を容赦なく批判した。つまり有的な傾向をもった当時のアビダルマ仏教も、他学派とともに激しい批判を受けるのである。
 まず『中論』第1章第1偈は

 いかなる存在者であれ、それ自体から生じたものは決してなく、また他のものから、自と他との両者から、また原因なくして生じたものは決してない。

と述べる。原因と結果の関係を同一(自)、別異(他)、同一かつ別異(自他)、同一でも別異でもなく結果が原因をもたない(無因)という四つの場合に分類し、その想定をすべて否定している。タネから芽が出てくるのを例として、第一の場合を考えれば、「芽は芽と同じタネから生じる」というのは芽がタネと完全に同一ではないために論理的にはおかしいし、まんいち芽がタネと完全に同一だとすれば芽はすでに芽として存在しているはずであり、新たに芽が生じるとするのは無意味となる。原因のタネと結果の芽を同一と想定すれば、このような論理上の不合理が起こり、この想定はその正しさが否定されざるをえない。
 ほかの場合についても同様であり、結果として「芽はタネから生じる」という判断は誤りと断定される。この断定はわれわれの日常的な経験と矛盾するようだが、実はそうではない。われわれは生き生きとした発芽現象を「タネ」「芽」「生じる」ということばで分断し、そのことば間の関係に心奪われ、発芽現象の成りゆき自体を直視しようとはしていない。ことばのほうが先行しているかぎり、発芽現象全体の成りゆきが真の意味で経験されているとは言いがたい。その意味で、ことばに頼りすぎるのは危ない、「タネ」「芽」「生じる」ということばはやめにして、すなわちそれぞれ空なもの、自性をもたないもの、無自性のものと見通したうえで、現象自体を全体との連関のなかでながめよ、というのが龍樹の言いたいところである。彼はことばが主役を演じがちなわれわれの経験・認識の問題を解決するために、ものは縁起しているから、すなわち原因条件をまってはじめて存在しえているから、無自性であると主張した。原始仏教・アビダルマ仏教で縁起は、十二支縁起に見られるように、ある一定のものの因果的連鎖に主点をおくものであったが、彼の縁起はもっと一般化されて、何であれものは原因条件、理由をまってはじめて存在し独自的存在性(我・自性)はもたないことが強調され、すべてのものの空性の根拠が縁起であるとされるにいたっている。『中論』第24章第18偈で彼は

 縁起なるもの、それは空性(空)であるとわれわれはみなす。それは素因に依拠した認識のためのことば(仮)であり、それこそ中道(中)である。

と言う。ここではまず縁起=空性とし、そのうえで空性はことばが実体を指すのではなく意味に終始する虚構のものであることを述べ、さらに進んで、「これはAである」「これはAでない」とする肯定的判断と否定的判断を何についても下さない、固定的判断から完全に自由な中道、中の実践を強調している。論理的に展開される彼の空思想は、般若経ではそれほど重要な役割を演じなかったところの原始仏教以来の縁起・中道の思想を活性化し、「空」「空性」の概念により豊かな内容をもりこんだと言ってよい。「空」「空性」は、龍樹の場合、「AはAの自性の空なものである」ないし「Aは空である」と言われるにしても、それもあくまでことばのうえであり、AがAとして存在している事態を何ら傷つけるものではない。ことばとことばにもとづく執着から自由になって,Aが全体との関係でAとしてあることが、智慧の完全な状態に おいてはそのまま把握されるであろう。
 龍樹以後は、その空思想にもとづいて中観派が形成され、また空性を認識論的実践的に現実に即して解明することによって瑜伽行派が確立され、他学派とも接触しながら、論理学的な正確さと体系化を計っている。このなかで、空思想側の意図 とは異なるとはいえ、空性が虚無的と解されうる可能性がつねに問題とされていることは注意を要する。

中国仏教

 般若経はかなり古く2世紀後半に支婁迦讖によってすでに漢訳されており、「空」「空性」の概念はそれを通じて中国に知られた。ところがこの概念を受容するにあたって、中国には老子・荘子による成熟した「」の思想があり、これを前提として「空」「空性」は理解された。 5世紀にいたって鳩摩羅什は般若経や龍樹の『中論』を含めて大乗経典を漢訳し、大々的に紹介したが、サンスクリットを原語とする「空」「空性」の意味論的な側面は伝えることが困難で、「空」と「空性」は「空」の一字で統合さ れ、その存在論的な面が「有」を根底から支える「無」「大虚」、空性を観じる般若波羅蜜の実践性は「無為」に通じる「の意味あいを帯び、また『中論』の論理性は煩雑とさえ感じられる字句の解釈に道を譲った。
 インドの論理的かつ分析的な空観は、いわば直観的・総合的な中国の感性に支えられながら、空観は独自の展開を見たと言ってよい。たとえば『中論』第24章第18偈で縁起=空性、空性・仮・中道というように用心深く列挙された概念は、後半に主点が移される。一切諸法は空・仮・中の観点から観察されるべきであり、観察の対象となるそのものについては空・仮・中それぞれのあり方が真実(諦)として一体となっている(三諦円融)とされ、インド仏教で緊張を保っていた個と全体の問題は、全体のなかで個々の区別は無意味となるという方向で融合され、相即的な論理を生みだしている。
 この意味で中国的な無の思想を背景とする、たとえばの思想は、有の根底に無を見、それをバネとして有の世界にもどり、結果においてすべてを肯定する傾向にあると言ってよい。インドで虚無的と解されがちな空の思想が、中国では無の思想としてインドとは違った積極性をもったのである。

  1. 真空妙有(しんくうみょうう)。真如があらゆる妄想を離れて空であるところから真空といい、常住不変であって仮有ではなく真実の有であるところから妙有といわれる。また真の空が現実世界の種々の妙なる姿を展開することをいう。 コトバンク