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縁起

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年1月3日 (水) 18:54時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

えんぎ

① 梵語 プラティテーヤ・サムトゥパーダ (pratītya-samutpāda)の意訳。因縁と同義。「縁(よ)って起こること」、あるいは「縁って起こっている状態」の意。
存在に関する普遍的な原理のことで、物事は必ず何らかの原因(因)があり条件(縁)があって生じ存在していることをいう。この考えは仏教の根本真理として位置づけられ、初期の仏教では人間のあり方を分析的に示した十二因縁、大乗仏教では『楞伽経』『宝性論』等で説かれる如来蔵縁起、中国仏教では華厳宗の法界縁起、真言宗の六大縁起、法相宗の阿頼耶識縁起など、様々な縁起説が説かれるようになった。
② 寺院、仏像等の由来、または不思議な現象を著した書物。
③ 縁由、いわれ。『般舟讃』には、

またすべからく浄土に入る縁起、娑婆を出づる本末を知るべし。(般舟讃 P.717)

とある。(『浄土真宗辞典』)


オンライン版 仏教辞典より転送

縁起

pratītya-samutpāda प्रतीत्यसमुत्पाद(S)、paṭicca-samuppāda पटिच्चसमुप्पाद (P)

 縁起の原語 pratītya-samutpāda の原意は、「因」の略と考えられ、「他との関係が縁となって生起すること」の意味で、関係の中の生起の意味である。この縁起という思想こそは、仏教の根本思想を示し、仏教教理の土台である。釈迦の証悟(さとり)の内容は、この縁起に他ならない。

 経典には、釈尊自身が、「私のさとった縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである」と言っている。また、この甚深なる法は

わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来は、この法を自ら覚し、等正覚を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり。〔雑阿含経 T2-85c〕

と言って、この世の自然のあり方であり、真実であると言う。仏教は、このように天地自然の真実を見きわめ、それを身につけて実行するものである。とは、この縁起の法を自覚自行する人のことを指す。

 縁起の意味は、関係の中での生起ということで、経典には、これを

此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す

と説く。これは「此」と「彼」とがお互いに相依相成しているであり、それぞれ個別に存在するものでないことをいう。すなわち有無によって示される空間的社会的にも、生滅によって示される時間的歴史的にも、すべての存在現象は、孤立してでなく相互の関係性によってのみ現象していることを説いたものである。
 釈尊がさとられたように、いっさいのものはすべて独一存在でなく無我である。しかし、無我でありながら、無我のまま価値を持ち存在性を持ちうるのは、すべてが縁起であるからである。此は彼に対して此であり、彼と対さなければ此は此でない。このように関係においてのみ存在は存在性を獲得することができる。

 この縁起は、具体的に人間の生存自体について十二支縁起として説かれた。縁起支については九支、六支、十支などと数は不定である。

 縁起説として、苦の生存の姿を明らかにするものとして、業感縁起頼耶縁起如来蔵縁起法界縁起、六大縁起などが、それぞれの教学の中心として説かれる。このように縁起こそ仏教の基盤であるといえる。
 すべてのものが独立自存性を本来もたないままに、個々のものは縁起だから存在性をもちうる。無我無自性と否定されるものが、そのまま存在性をもちうるのは縁起こそ現実である。このように仏教は教えるのである。

機縁説起

 仏教の立場で、この縁起という語は「機」と、衆生の機縁に応じて説を起こすと解釈されることもある。たとえば華厳教学で「縁起因分」という場合である。さとり自身は、言語や思惟をこえて不可説のものである。ところが衆生の機縁に応じるため、この説けないさとりを説き起す。それを「縁起因分」というのである。

一般の語義

 一般には「きざし」「前兆」の意味に理解され、縁起をかつぐ、縁起がよい、縁起が悪いなどといわれる。このような意味から、縁起直し、縁起物などという風俗や習慣が行なわれる。つぎに、この縁起を故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革や、そこにあらわれる功徳利益などの伝説を指す場合もある。