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自然法爾

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2019年1月3日 (木) 04:15時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

じねんほうに

 親鸞聖人は、救済は人間のはからいによって成立することではなくて、本願力の自ずからなるはからいによって往生成仏せしめられることを自然といい、本願の法則としてそのようにあらしめられることを法爾といい、自然と法爾を同義語とされた。(正像 P.621,消息 P.768)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

然は、呉音ではネン、漢音ではゼンと読む。仏教語では呉音で読むので自然(じねん)と発音する。

御開山の著述には自然法爾という四字熟語はない。表題の『自然法爾章』は後に弟子によって付加されたものといわれる。元来「自然法爾」というような表現は、仏教においては、あらゆるものが原因なく自然に生じるという縁起(因果)を否定した「自然外道」をも指す語であった。天台の学僧であられた御開山が誤解を受けやすい『自然法爾章』などと表題するはずがないとされる。
御開山は、自然=法爾=本願力=阿弥陀仏の絶対他力、であるとみられて、自然と法爾は同じ意味であり、人間のはからい(作為、意図)を超えた本願の必然のはたらきを示す語とされたのであろう。自然や法爾ということは、本願を聞信している者に対して開かれる言葉であって、一声のなんまんだぶも称えない輩に対する語ではないことに注意。 

自然 
必然 
他力
ノートよりインクルード

『和語灯録』諸人伝説の詞に、

又いはく、法爾道理といふ事あり。ほのほはそらにのほり、水はくだりさまにながる。菓子の中にすき物(酸きもの)あり、あまき物あり。これらはみな法爾道理也。阿弥陀ほとけの本願は、名号をもて罪悪の衆生をみちびかんとちかひ給たれば、ただ一向に念仏だにも申せば、仏の来迎は、法爾道理にてそなはるべきなり。(和語灯録#P--611)

とある。法爾道理とは『瑜伽師地論』の四種道理の一、法爾道理(法然道理ともいう。火に熱さがあるように、あるがままのすがたで不変の本性を完成しているという道理)をいうのであろう。また法然聖人は、

「しかるに源空は、させる因縁もなくして法爾法然と道心をおこすがゆへに、師匠名をさづけて法然となづけ給ひし也」(和語灯録#P--607)

と、法然という房号の名の由来をいわれている。

《然》とは、燃の原字であり火がもえるという意。借りて「是認」の意をしめし、和語では、しかある、そうである、そのような状態であるという意で「しかり」と訓む。法然聖人が示されたように《爾》もまた、しかある、しかり、という意味である。
御開山はこの《然》と《爾》の漢字を「しからしむ」と使役で読まれ、「自然」という漢語を、

「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。
「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。 (正像 P.621)

と読まれた。
本来ならば「自然」は「おのづからしかる」という意味で「しからしむ」などとは読めないのだが、「しからしむ」と読むことによって、自然という言葉に阿弥陀如来の本願力のはたらきを示そうとされたのであろう。このような発想は日本人の持つ、自然とともにあり 自然に抱(いだ)かれているという自然観を思わせるとともに『無量寿経』の「其国不逆違 自然之所牽(その国逆違せず、自然の牽くところなり)」という語との関係を想起させる。いわゆる「願力自然」の意に阿弥陀仏の本願力をあらわす「おのづからしからしむ」という自然法爾をみられたのである。
また「真仏土巻」で引文されておられる性功徳釈(真巻 P.358)で、浄土の本質・本性を「また性といふは、これ必然の義なり、不改の義なり」(真巻 P.358)とある。この「必然の義」という「必ずそうなる、それ以外にはありえないこと」という語の意から、然をしからしむと読まれたのであろう。
「これ浄土は法性に随順して法本に乖かず」との「正道大慈悲 出世善根生」と智慧を根とする正道の大慈悲の展開する界(さかい)であった。「積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて積習して成ぜるところなり」(真巻 P.358)の「願力成就」の浄土であったから、その本願力の意を信(まこと)として受容した者の往生することは必然である意を自然法爾とされたのであった。

面白いのは、自然という語(ことば)は使っていないが、同じような自然(自ずから然らしむ)という発想をされたのが越前の山に入り「只管打坐(しかんたざ)」されたのが道元禅師である。

たたし心をもてはかることなかれ。ことはをもていふことなかれ。たたわか身をも。心をも。はなちわすれて。佛のいへになけいれて。佛のかたよりおこなはれて。これにしたかひもてゆくとき。ちからをもいれす。こころをも。つひやさすして。生死をはなれ佛となる。(『正法眼蔵』生死の巻「原カタカナ」)(『大正蔵』82、305頁)

表現の形式こそ違うのだが、同じことをいわれているのだなと、只管(ひたすら)、なんまんだぶを称えるのも、いいものである。一向(ひたすら)専念無量寿仏である。