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顕彰隠密

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年10月10日 (水) 16:37時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

けんしょう-おんみつ

 浄土真宗で、『観経』と『小経』の説相を解釈するのに用いる名目で略して隠顕(おんけん)といい、顕を顕説(けんぜつ)、隠を隠彰(おんしょう)ともいう。

顕説とは顕著に説かれている教義で、『観経』では定散諸行往生(じょうさんしょぎょうおうじょう)すなわち要門の教義であり、『小経』では自力念仏往生すなわち真門の教義である。隠彰とは隠微(おんび)にあらわされている真実義で、両経ともに他力念仏往生の法すなわち弘願(ぐがん)法である。→補註15。 (化巻 P.381)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『化巻』で、『観経』の説相 (法の説き方) を述べて、

問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。
答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩三心を開く。しかるに二善三福報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。(化巻 P.381)

「隠/顕」

「現代語」

 問うていう。『無量寿経』に説かれている至心・信楽・欲生の三心と『観無量寿経』に説かれている至誠心・深信・回向発願心の三心とは、同じなのであろうか、異なるのであろうか。
 答えていう。善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
 その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。これが『観無量寿経』の表に説かれている意味であり、すなわち顕の義である。
 その彰とは、阿弥陀仏の弘願を彰すものであり、すべてのものが等しく往生する他力の一心を説きあらわしている。

と、顕彰隠密の義があるとされ、十三の文例をあげて『観経』解釈の顕説 (随他意)と隠彰 (随自意)の解釈法を例示している。このように隠顕という語で経・論・釈の真実と方便を釈された嚆矢は幸西大徳であった。 →幸西大徳の一念義
ちなみに『大経』では以下のように方便は方便と解るように説かれている。

また無量寿仏のその道場樹は、高さ四百万里なり。その本、周囲五十由旬なり。枝葉四に布きて二十万里なり。一切の衆宝自然に合成せり。月光摩尼・持海輪宝の衆宝の王たるをもつて、これを荘厳せり。(化巻 P.377)

御開山は、浄土の具体化された様相を語られることはない。ましてや樹高が四百万里、周囲が五十由旬、枝葉が二十万里なり、という変則的な道場樹の表現 (図にすれば判る)は方便であり、化土の相を見られたのであった。なお『讃阿弥陀仏偈』の偈文を和讃され、

七宝講堂道場樹
 方便化身の浄土なり
 十方来生きはもなし
 講堂道場礼すべし (浄土 P.562)

と和讃されている。
もっとも、この「和讃」は方便の相を示してまでの慈悲の顕れを讃嘆されているのであろう。

願海真仮論


インクルード 補註15
Dharma wheel

補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

15 方便(ほうべん)隠顕(おんけん)

 方便とは、仏が衆生(しゅじょう)を救済するときに用いられるたくみな方法(てだて)をいう。その中に真実権仮(ごんけ)とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、(ずい)自意(じい)の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度(さいど)されるというので、善巧(ぜんぎょう)方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身(ほっしん)というときの方便がそれである。

権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、そのに応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意(ずいたい)の法門を権仮方便という。「方便(ほうべん)化身土(けしんど)」といわれるときの方便がそれである。

 親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は四十八願の中で、往生の因を誓われた第十八願、第十九(じゅうく)願、第二十願のうち第十八願のみが真実願であり、第十九願、第二十願は方便願であるとされた。第十八願は、他力回向(えこう)行信(ぎょうしん)によって、真実報土の果を得しめられる真実願であり、第十九願は、自力諸行によって往生を願うものを、臨終来迎(らいこう)して方便化土(けど)に往生せしめることを誓われたものであり、第二十願は、自力念仏によって往生を願うものを、方便化土に往生せしめることを誓われた方便願であるといわれるのである。そしてこの三願は、聖道(しょうどう)門の機を浄土門に誘うために第十九願が、自力諸行の機を念仏の法門に導き、さらにその自力心を捨てしめて第十八願の他力念仏往生の法門に引き入れるために第二十願が誓われたとされている。

 阿弥陀仏の第十九願に応じて説かれた釈尊の教えが『観経(かんぎょう)』であり、第二十願に応じて説かれた教えが『小経(しょうきょう)』である。『観経』に説かれた教えは、定善(じょうぜん)散善(さんぜん)といういろいろな善根(ぜんごん)によって阿弥陀仏の浄土に往生するというものであり、『小経』に説かれた教えは、一心不乱の自力称名念仏によって往生するというものである。第十九願・第二十願の教えが、第十八願の教えに引き入れようとするものであるのと同じく、『観経』、『小経』を説かれた釈尊の本意は、他力念仏の教えを説くことにある。したがって表面に説かれた教えは、前に述べたようなものであるが、その底を流れる釈尊の真意が、部分的に表面にあらわれている。『観経』に、「なんぢよくこの語を(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の(みな)を持てとなり」(117) とあり、『小経』に「難信の法」(128) とあるのがその例である。このように表面に説かれた自力の教えを「顕説(けんぜつ)」といい、底に流れる他力の教えを「隠彰(おんしょう)」という。これによって『観経』、『小経』には、隠顕の両意があるといわれる。こうして浄土三部経は、顕説からいえば真実教と方便教の違いがあるが、隠彰の実義からいえば三経ともに第十八願の真実の法門が説かれていることがわかる。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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