あきのれんそう

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安芸の蓮崇

 (-1499)蓮如上人吉崎 時代の奏者役。越前麻生津(あそうず)(現在の福井市浅水(あそうず)町)の阿毛(あけ)氏の出。

安芸法眼(ほうげん)と称し、文明三年(1471)蓮如上人の門下に入り、法名を蓮崇と賜わる。本願寺家臣として下間(しもつま)の姓を用いるようになる。文明七年(1475)加賀の門徒を扇動(せんどう)して富樫政親(とがしまさちか)との抗争にかりたてた責を問われ、破門されたが、明応八年(1499)三月、許された。蓮如上人の中陰中に没した。


 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)
 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社)
 区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。


ノートから転送

以下は、『浄土真宗聖典全書』の実悟師の『天正三年記』p.641以下より抜粋。蓮崇は『お文』を編纂し文書伝道という手法を編み出して現代に至るまで『お文』や『御文章』という、和語の手紙形式によって判り易くご法義を伝える浄土真宗の基底を構築された仁(ひと)でもあった(*)

 越前の吉崎の御坊にて彌(いよいよ)佛法ひろまり申し候て、「御文」を御つくらせさふらふ事は、安藝法眼申させさふらひて御つくりさふらひて、各有難く存さふらふ。かるがると愚癡の者の、はやく心得まひらせさふらふやうに、千の物を百に選び、百の物を十に選ばれ、十の物を一に、早く聞分申樣にと思しめされ、「御文」にあそばしあらはされて、凡夫の速かに佛道なる事を、おほせたてられたる事にてさふらふ。開山聖人の御勘化、今一天四海にひろまり申事は、蓮如上人の御念力によりたる事に候也。 (『天正三年記』p.637)

浄土真宗のご法義が爆発的に大衆に浸透するには、ご法義に燃える門徒という存在が欠かせないのだが、真宗坊主が、ご信心の火の玉のような門徒を育てることを怠ってきたから、ご法義が衰退しているのであろうと、越前の蓮如さんゆかりの門徒として強く思ふ。どうでもいいけど。


安藝法眼事 法名蓮崇

一 文明の初比(ころ)、越前國吉崎御坊御建立也。同國のあさふ津の村仁(むらびと)にて候きが、心さかしき人にてさふらひし間、安藝の國へも往返し侍仁にて候間、安藝と人々いゝつけて侍る人也。『福井県史』

吉崎殿へ参り、御堂に常にまひり、茶所に有て、一文不通の人たるが、晝夜隙なく學問手習して、四十の年より色葉を習ひ、眞物[1]まで書習、聖教等も令書写、淨土の法門心にかけ、才學の人と成て、吉崎殿御内へ望申(のぞみもうされ)、奉公を一段心に入られしまゝ、蓮如上人の御意に叶、玄永丹後は傍へ成て、安藝安藝とぞめされける。一段秀たる人にて、法門の御意をも仰せられさふらふ程に、人々も近付而聴聞し侍り、弟子も門徒も出来侍り。

去程に、加州の守護人の富樫助[2]と百姓との取合に成ける。百姓衆と申は、御門徒衆・坊主衆也。仕損じて越中へ退て[3]、吉崎殿へ忍て、惣中より使ひを上申候。此度の軍(いくさ)の様、百姓中難叶さふらふ間、調和與无事に可還住扱さふらふ間、其趣、吉崎殿へ兩使{洲崎藤右衛門入道慶覚 湯涌次良右衛門入堂行法}上りさふらひて、安藝を以て申入處に、兩使申入さふらふ段をば一向不被申入、各別に安藝奏者被申入、涯分致調法、加州へ可切入さふらふ間、各へ被力付様に、御意を以て可被仰付候、涯分可致合戦の由被申入さふらふと、蓮如上人へ申上事さふらふと被披露。[4]

蓮如上人誠と思召、无用と思召さふらへども、左様に談合調法に於ては、是非无くさふらふ。更に御異見に不及さふらふ。如何様とも、可然様に調可被申と仰出されさふらふと、各別に御意の旨、兩使へ被申付。
兩使は、今の分は難成(なり-がたし)さふらふ由申候へども、如何様とも、各可馳走の由、御意さふらふと、兩使に被申付さふらふ。兩使ささふらふ段の御返事、心元なく存さふらひつれども、御意の旨と被申出候間、是非なくさふらひて、富樫を可令成敗の由、御意を直に承度心出来、何様に直に御目にかゝり度さふらふ由、兩使申し候へば、无用とさゝへられさふら間、猶心元なし、何とぞ御目にかゝるべきとの由申さふらふ處に、蓮如上人も直に可被仰の御心にて、可有御見参と仰せられさふらへば、安藝たゞ直に御意までもなく候ふ、安藝委細可申計仰せられて、可然よし申上られさふらふ。

上人は安藝被申さふらふ事は、何事も仰つる間、御目にかゝり候へば、此度骨折也、委細安藝可申と計り仰出されけり。
兩使、是非なく御意と心得て歸國し侍り。蓮如上人は无事に調、兩使も下り侍らんと思しめしけり。越中に歸り各内談申、各同心に難成事(なりがたきこと)とは心得さふらへども、其中にも、是ぞ面白事と、存じさふらふ衆も侍る也。

一 去(さる)文正の比(ころ)、富樫次郎{政親}、弟の幸千代と取合て、次郎は越前に牢人し比、吉崎に御座さふらふ比なれば、いろいろ御扶持さふらひき。然ば國へ歸さふらはゞ、御門徒中の儀、于今疎略すべからずの由申たる旨、次郎を従越前、御門徒人に被仰付、加州山田へ被入さふらふより、合戦、利を得さふらひて、幸千代を追拂、次郎、國を手に入、安堵の處に、御恩を忘れ当流の衆を嫌さふらふ事、槻橋と申者所行にさふらふ間、國中の門人槻橋嫌により、國の乱は又出来、百姓等も又仕損じ候て、越中まで退たる事也。{前段は此後の事也}

一 其後、加州に又富樫次郎{政親}、いとこの富樫安高と云を取立て、百姓中合戦し、利運にして次郎政親を討取り、安高を守護としてより、百姓取立の富樫にて候間、百姓等のうでつよく成て、近年は、百姓の持たる國のやうに成行さふらふ事にて候。

然處に、安藝、彌(いよいよ)威勢・分限出來て、吉崎殿寺内に安藝居住の處には土蔵十三立て、一門繁昌し、被官數百人ことごとしく成さふらふて、朝倉弾正左衛門{法名英林}と申者に知音さふらふ。則名字の庶子に成し、{あまう[5]}安藝とそ申しける。上洛し、将軍慈照院殿[6]御被官分に成り、奉公衆一分なり。

數度御内書[7]等被成さふらふ。法眼には将軍家より御成し候。法橋には吉崎殿御成し候。塗輿も武家御所より御免、毛氈鞍覆・唐傘袋まで同前御免にて[8]、威勢无限、玄永丹後は影もなく、蓮如上人は申さるゝ儘に御成さふらふ由、願成就院殿[9]聞召、大津より御下向さふらひて、吉崎殿へ御出さふらひて、蓮如上人船にて御上洛の時、安藝、萬(よろず)曲言の由を被仰さふらひて、船に曉(あげ)めされさふらふに、安藝法眼も御船に被乗候を、願成就院殿、愛成(ここなる)は何者ぞと被仰、引立させたまひ、船にかゞみ居られさふらふを取て、陸へなげいだされ候へば、礒ぎはに伏沈み、御影の見ゆるまで平臥、泣被居さふらひつるが、御船も見へず成りさふらへば、をきあがり御坊に歸り、その儘越前・加賀の御門徒中に勧化せられ、人々尊敬无限さふらふ。總じて安藝、門徒過分に候ひき。夜は朽木を衣の下に被付、光に見せなど、種々の事さふらひつる由にさふらふ。[10]
蓮如上人にみやづかひの折節は、皆人々、安藝殿して申入さふらへば、早く出申さふらふとて、名號各申入たるは、安藝私に書て出されさふらふ由に候。その名號、近比まで加州にさふらひつる事候。左様に種々の事候つる。

その後、加州へ被仰付、安藝曲言の由、國中へ被仰下さふらふ間、湯湧村[11]と申所、山中に城をこしらへ被籠つれば、國中の衆、押寄責られさふらへば、夜中に落行き、越前へ父子ともに落行隠れ居て、數ケ年越前にかゞみ居られ侍を、蓮如上人御往生近くなりて、明應八年二月比より、加州一家中へ、安藝よりより縁を求て、侘言の義さふらへども、誰にても取上べきと思ふ人もなく侍るに、御往生の砌には、山科の近くに上落し、あれこれに付て、色々佗言申入度さふらふ由、申入さふらへども、誰にても可取次と申人もなくて侍る所に、蓮如上人三月初比に、北隣坊(蓮綱)・光聞坊(蓮誓)へ被仰事に、安藝はいづくにあるとか聞たるぞと被仰。兩所被申には、いつくにありとも更に聞不申さふらふ。

何と有事さふらふや、不聞さふらふと被申さふらへば、三月の中旬には、あらあら不便や、越前の方に可居、尋させよ被仰出侍るに、兩寺その外一同に談合さふらひて、可召出思食事无勿体さふらふ。外聞といひ、曲働の仁にて候間、中々召出さぬ様にとて、何(いず)くにあるとも不存知さふらふと、生所もなくさふらふなど、各被申入さふらへば、廿日比には、不便なり、尋させよ尋させよと、しきりに仰事あり。既に御往生も近付よと、各も存じさふらふ處、如此被仰事にてさふらふ間、如何すべきとて、越前邊にありげに候と被申入さふらへば、人を遣して呼よと被仰出召出さふらふ由の御意さふらふ。 上洛仕りさふらへど、山科八町まで上被居候ふ間、その旨申上さふらへば、可召出と被仰出候ふ間、徒にさふらふを被召出さふらひては、外聞方々如何と、各申され候へば、実如上人・北隣坊已下も、ささへ御申候ふ様にさふらへば、それは不然候。弥陀の本願は悪人を本に御助あるべきとの御本誓なり。
徒者(いたずら-もの)を免(ゆる)すが嘗流の奇模なり、呼出すべしと被仰出候間、廿日比に召出し候ふて、御対面ありければ、安藝法眼忝由被申上、唯涙計、物をも不申分、五体を地になげ馨をあげて、有難由被申、なかれさふらふ計、理も尤の事候ふと、各も感じ被申ける。廿五日に御往生に奉相、廿六日御葬禮の御供申、唯泣るゝ事のみにて候つるが、やがて廿八日に往生せられ候ひけり。
誠に安藝法眼は不思議の機縁・宿縁、希代なる仁体と、人々申合侍り。主も往生極樂无疑有難事ども也。

右條々、愚老承伝分注付處、御所望之間、悪筆と云ひ文言と云ひ、旁以雖憚入不存隔心、筋目迄令進者也。可被外見止者也。可笑可笑。


  1. 眞物。漢字の意か。
  2. 富樫助。助は介で富樫介の意か。応仁の乱中に弟の幸千代と家督(守護)をめぐって争い敗れたのだが、門徒方の助力によって守護の座についた富樫政親のこと。後に政親は一向一揆の影響力を恐れ門徒を弾圧した。
  3. 文明7年、湯涌谷門徒衆は冨樫政親と戦った。門徒方はこの争いに負け、加賀の守護富樫政親の統治権の及ばない越中の井波瑞泉寺へ退散した。文明7年一揆
  4. 百姓・坊主の一揆勢が富樫政親との合戦に負けて越中へ逃げ難儀しているので、元の在所へかえるように取りなして欲しいと蓮如上人に取り次いで欲しいと蓮崇に申し入れたが、蓮崇は門徒衆が反撃するので力を貸してくれとの訴えであると偽って取り次いだという意か。後にこの一件で蓮崇は破門されるのだが、出る杭は打たれるの語のように、才能・手腕があってぬきんでている人は、とかくまわりから憎まれることがあったのであろう。
  5. あまう。別の伝では阿毛とある。
  6. 将軍足利義政。
  7. 御内書(ごないしょ)。室町幕府の将軍が発給した私文書で,形式は普通の書状であるが,公的意味をもつもの。
  8. 当時は権威失墜の時代であったが、守護の実務を仕切る国人としての守護代には、塗輿、毛氈鞍覆(もうせんくらおおい)、唐傘袋の使用が認められる格式を与えられて、国人よりも一段高い地位にあったという。少しく誇張ぎみであるが蓮崇の権勢を強調したのであろう。
  9. 願成就院殿、順如(1442-1483)のこと。蓮如上人の長子で本願寺の法嗣とされていたが、上人に先立って四十二歳で病死した。豪放な人であったが酒好きでもあったという。
  10. この蓮如上人吉崎退去のすぐ後に、富樫政親の命令で武士に高田専修寺派の門徒も加勢して吉崎に押し寄せ、放火して吉崎の建物を1軒も残らず焼いてしまったという。以後吉崎の地は寂れる。
  11. 蓮崇は、先の湯涌谷門徒衆の一揆の湯涌谷門徒が冨樫政親と戦った縁で湯湧村の門徒とつながりがあったのであろう。しかし破門という処置によって加賀での居場所を無くし越前へ移ったと思われる。なお蓮崇は北荘(きたのしょう)浜(旧福井市浜町)に道場を創立したとされる。現在の大谷派別院(旧:北庄総坊)は、この蓮崇の道場が起源だともいわれるので越前に一定の根拠を持っていたのであろう。また破門された蓮崇は、管領の細川政元を仲介に立てて蓮如上人に許しを申し入れたが拒否されたとあるので、破門後も中央の政治権力と一定の交流があったのであろう。◇『空善聞書』(浄土真宗聖典全書五p.660) に「一 仰に、加賀のあき(安芸蓮崇)、あやまりをもなをしたるよしを、御門徒してわび候はゞ、ゆるすこともあるべきに、細川玄蕃頭(政元)へつげて、権家にてわび候あひだ、ゆるさず、と仰候き。」とある。