三部経大意(良聖本)
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
Ⅲ-1075淨土三部經大意
『雙卷經』・『觀經』・『阿彌陀』、是を淨土の三部經と云。
『雙卷經』には、先阿彌陀佛の四十八願を說き、次に願成就を明せり。其四十八願と云は、法藏比丘、世自在王佛の御所にして菩提心を發して、淨佛國土・成就衆生の願を立給へり。凡そ其の四十八願は、或は无三惡趣とも立て、不更惡とも說き、或は悉皆金色とも云ひ、无有好醜とも誓。皆是彼國莊嚴、往生後の果報也。此中に衆生彼國に生ずべき行を立給へる願を、第十八の願とするなり。Ⅲ-1076「設我得佛、十方衆生、至心信樂、欲生我國、乃至十念、若不生者、不取正覺、唯除五逆誹謗正法」(大經*卷上)と云。凡四十八願の中に、此願殊に勝たりとす。其故は、彼國に若生るゝ衆生なくゆは、悉皆色の願も、無有好醜等の願も、何によりてか成就せむ。往生する衆生のあるにつけて、身の色ろも金色に、好醜ある事もなく、五通をもえ、三十二相をも具すべし。是によりて、善道釋して言はく、「法藏比丘四十八願を立給て、一□の願に皆な、若我□佛、十方衆生、稱我名號願生我國下□十念、若不生者不取正覺」(玄義*分意)と云。四十八願に一々に皆此心あり。凡諸佛の願と者、上求菩提・下化衆生の心なり。ある大乘經に云く、「菩薩の願に二種あり、一は上求菩提、二は下化衆生の意也。上求菩提の本意は、衆生を濟度しやすかⅢ-1077らむが爲也」と云へり。然ば、只本意下化衆生の願にあり。今彌陀如來の國土を莊嚴し給しも、衆生を引攝しやすかんが爲也。總て何の佛も、成佛の後は内證外用の功德、濟度利生の誓願、何れも何れも深くして、勝劣ある事なけれども、菩薩の道を行じ給ひし時の意巧方便の誓ひは、皆是區なる事也。彌陀如來は因位の時、專ら我名を念ぜむ者を迎□と誓給ひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向し給。濁世の我等が依怙、末代の衆生の出離是にあらずは、何にをか期せむ。是にありて、彼の佛は我世に超たる願を立つとなのり給へり。三□の諸佛も、いま□如此願をば發し給わず。十方の薩埵も、いまだ是等□誓はましまさず。「此のⅢ-1078願若剋果すべくは大千感動すべし、虛空の諸天まさに珍妙の花を雨すべし」(大經*卷上)と誓ひ給しかば、大地六種に振動し、天より花ふりて、汝まさに正覺をなるべしと告げき。法藏比丘いまだ佛に成給はずとも、此願疑ふべからず。何況、成佛已後十劫になり給へり、信ぜずはあるべからず。善導和尙の「彼佛今現在世成佛、當知本誓重願不虛、衆生稱念必得往生」(禮讚)と釋し給へる、是なり。「諸有衆生聞其名號、信心歡喜、乃至一念至心廻向、願生彼國、卽得往生、住不退轉、唯除五逆誹謗正法」(大經*卷下)と云へる、是は第十八の願成就の文也。願には「乃至十念」(大經*卷上)と說と云へども、正く願の成就する事は一念にありと明せり。次に三輩往生の文あり。是は第十九の臨終現前の願成就の文也。發菩提心等の業をもて三輩をわかつと云とも、Ⅲ-1079往生の業は通じて皆「一向專念無量壽佛」(大經*卷下)と云□り。是則彼の佛本願なるが故也。「其佛本願力、聞名欲往生、皆悉到彼國、自致不退轉」(大經*卷下)と云文あり。漢朝に玄通律師と云者ありき、小乘戒を持つ者也。遠行して野に宿したりけるに、隣房に人ありて此文を誦しき。玄通是を聞て、一兩返誦して後に、思出事もなくして忘れにき。其後この玄通律師、戒を破て、其の罪にありて炎魔の廳にいたる。其時に炎魔王云はく、汝佛法流布の所に生たりき。所覺の法あらば、速に說べしとて、高座に登せ給ひし時に、玄通、高座に登て思ひまはすに、總□て心に覺悟事無し。昔し野宿にて聞し文ありき、是を誦てんと思ひ出て、「其佛本願Ⅲ-1080力」と云文を誦したりしかば、炎魔法王、玉の冠を傾て、是は此西方極樂の彌陀如來の功德を說く文なりとて、禮拜し給と云へり。願力不思議なる事、此文に見へたり。「佛語彌勒、其有得聞彼佛名號、歡喜踊躍乃至一念、當知此人爲得大利、卽是具足無上功德」(大經*卷下)と云へり。此『經』を彌勒菩薩に付屬し給には、乃至一念するをもて大利無上の功德と云へり。『經』の大意、此文に明なる者歟。
Ⅲ-1081次『觀經』には定善・散善を說と云へども、念佛をもて阿難尊者に付屬し給ふ。「汝好持是語」(觀經)と云へる、是也。第九眞身觀に「光明遍照、十方世界、念佛衆生、攝取不捨」(觀經)と云へる文有り。濟度衆生の願は平等にして差別有る事なけれども、無縁衆生は利益をかほる事あたはず。此故に、彌陀善逝、平等慈悲に催されて、十方世界に遍く光明を照して、一切衆生に悉く縁を結ばしめんがために、光明無量の願を立給へり。第十二の願是也。次に名號を以て因として、衆生を引攝せむが爲に、Ⅲ-1082念佛往生の願を給へり。第十八の願是也。其の名號を往生の因とし給へる事を、一切衆生に遍く聞かしめんが爲に、諸佛稱揚の願を立給へり。第十七の願是也。第十七願に「十方世界の無量の諸佛、悉く咨嗟して、我が名を稱せずと云はゞ、正覺を不取」(大經*卷上)云願を立□へり。次第十八願に「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)と立給へる。此の故によりて、釋迦如來此土にして說給がごとく、十方に各恆河沙の佛ましまして、同是をしめし給へるなり。然ば、光明の縁は遍く十方世界を照して漏事なく、名號の因は悉く十方無量諸佛稱揚し給ひて聞へずと云事なし。「我至成佛道、名聲超十方、究竟靡所聞、誓不成正覺」(大經*卷上)と誓ひ給ひし、此故也。然ば卽、光明の縁と名號の因と和合せば、攝取不捨の益を蒙らむ事不可疑。是故Ⅲ-1083『往生禮讚』序云、「諸佛所證平等にして是一つなれども、若願行を以て來し收むれば、因縁無きにあらず。然も彌陀世尊、本深重誓願を發して、光明・名號を以て十方を攝化し給」と云へり。又此願久して衆生を濟度せむが爲に、壽命無量の願を立給へり。第十三願是也。然ば、光明無量の願は、橫に十方の衆生を廣く攝取せむが爲也。壽命無量の願は、竪に三世を久く利益せむが爲也。如此因縁和合すれば、攝取不捨の光明常に照して捨給ず。此光明又化佛・菩薩ましまして、この人を攝護して百重・千重圍繞し給に、信心彌增長し、衆苦悉消滅す。臨終の時には、佛自來て迎へ給に、諸の邪業繫よく㝵る者なし。是は衆生の命終る時Ⅲ-1084に臨て、百苦來□逼て身心やすき事なく、惡縁外にひき、妄念内にもよをして、境界・自體・當生の三種の愛心きをい起り、第六天の魔王、此時に當りて威勢を起て妨をなす。如此種々の礙を除が爲に、しかし臨終の時にみづから菩薩聖衆圍繞して、其人の前に現ぜむと云ふ願を建て給へり。第十九の願是也。是によりて、臨終の時にいたれば、佛來迎し給ふ。行者是を見て、心に歡喜をなして禪定に入が如くにして、忽に觀音の蓮臺に乘りて、安養の寶刹に至るなり。此等の益あるが故に、「念佛衆生攝取不捨」(觀經)と云へり。
Ⅲ-1085抑又此『經』(觀經)に「具三心者必生彼國」と說けり。一は至誠心、二は深心、三廻向發願心也。三心は區に分れたりと云へども、要を取り詮を撰て是をいへば、深心一にをさまれり。善導和尙釋て言はく、「至と者眞、誠と者實也。一切衆生身口意業に修る所の解行、必眞實心の中に作すべき事をあかさんとす。外に賢善精進の相を現じて内に虛假を懷ことえざれ。貪瞋・邪僞・奸詐百端にして、惡性侵しがたく、事蛇蝎に同。雖起三業名爲雜毒善、亦虛假の行となづく。眞實の業となづけⅢ-1086ざるなり。若如此安心・起行を作す者は、たとひねむごろに身心をはげまして、日夜十二時に急に走り急に作て、灸頭燃ごとくにするものは、もろもろに雜毒の善と名く。此雜毒の行を廻して彼の佛の淨土に生るゝことを求めむと欲するものは、これ必ず不可なり。何以ての故に。正く彼阿彌陀佛因中に菩薩の行を行じ給し時、乃至一念も一刹那も、三業に所修、皆是眞實心の中に作によりてなり。凡所施趣き求るが爲に、亦皆眞實なり。又眞實に二種有り。一者自利眞實、二者利他眞實なり。自利眞實と者、復二種あり。一者眞實心の中に、自他の諸惡及穢國等を制捨して、一切の菩薩と同く諸惡を捨て諸善を修し、眞實心の中□なすべし」(散善義)と云へり。此外多くの釋有り、頗ぶる我等が分にこえたり。
Ⅲ-1087但此至誠心は、ひろく定善と散善と弘願との三門にわたりて釋せり。是につきて總別の義あるべし。總者、自力を以て定散等を修して往生を願ふ至誠心也。別者、他力に乘て往生を願ずる至誠心也。Ⅲ-1088其故は、『疏』の「玄義分」の序題の下たに云く、「定は卽慮をやめて以て心をこらし、散は卽惡を廢以て善を修す。此の二善を廻して往生を求也。弘願者『大經』に說が如し。一切の善惡の凡夫生るゝ事を得は、皆阿彌陀佛の大願業力に乘じて增上縁とせずと云事なし」といへり。自力を廻て他力に乘る事は明なるものか。しかれば、初に「一切衆生の身口意業に修る所の解行、必眞實心の中になすべし。外に賢善精進の相□現じて内に虛假を懷く事えざれ」(散善義)と云へる。其「解行」と者、罪惡生死の凡夫、彌陀の本願に乘じて十聲・一聲に決定して生るべしと、眞實にさとりて行ずる是也。外には本願を信ずる相を現じて、内には疑心を懷く、是は不眞實の心也、虛假の心也。次外には賢善精進の相を現じて、内には懈怠なる、是はⅢ-1089不眞實の行也、虛假の行也。「貪瞋・邪僞・奸詐百端にして、惡性をかしがたし、事蛇蝎に同じ。雖起三業名て雜毒の善とす、又虛假の行と名く。眞實の善と不名」(散善義)云へり。自他の諸惡をすて三界六道を毀厭して、皆すべからく眞實なるべし。故に至誠心と名くと云は、是總□義也。故如何と者、深心の下に「罪惡生死の凡夫、曠劫より以來出離の縁ある事なしと信ずべし」(散善義)と云へり。若此の釋の如く、一切の菩薩と同く、諸惡をすて行住坐臥に眞實をもちゐば惡人にあらず、煩惱をはなれたる物なるべし。彼の分段生死はなれ初果證したる聖者、なを貪瞋癡等の三毒を起す。何況、一分の惑をも斷ぜざらむ罪惡生死の凡夫、Ⅲ-1090いかにしてか此眞實心を具すべきや。此故に、自力にて諸行を修て至誠心を具せむとするものは、專らかたし。千が中に一人もなしと云へる、是也。すべて此の三心は、念佛及諸行にわたりて釋せり。文の前後によりて心得わかつべし。例ば、四修の中の無間修を釋して云く、「相續して恭敬禮拜、稱名讚嘆、憶念觀察、廻向發願して、心々相續して餘業を以てきたし不間。故名無間修。又以貪瞋煩惱不來間。隨て犯せば隨て懺して、念を隔、時をへだて、日をへだてず、常に淸淨ならしむるを、又无間修と名」(禮讚)と云へり。是も念佛・餘行をわかちて釋せり。初釋は貪瞋等をばいわず、餘行を以てきた□へだてざる无間修也。後釋は行の正雜をばいわず、貪瞋等の煩惱を以てきたしへだてざる無間修也。しかのみならず、二行Ⅲ-1091の得失を判じて云く、「上のごとく念々相續して、命をわるを期とする物は、十は卽十ながら生れ、百は卽百ながら生る。何を以ての故に。佛の本願と相應するが故、敎に違せざるが故に、佛語に隨順するが故に。若專を捨てゝ雜業を修するものは、百が時にまれに一二を得、千の時にまれに三五を得。何を以の故に。雜縁亂動して正念を失が故に、佛の本願と相應せざるが故□、敎と相違するが故に、佛語に隨はざるが故に、係念相續せざるが故に、憶想間斷するが故に、廻願愍重眞實ならざるが故に、慚愧・懺悔の心あることなきが故へに」(禮讚)等を云へり。此中に「貪瞋・諸見の煩惱きたり間斷するが故に」(禮讚)と云へる等は、ひとり雜Ⅲ-1092行の失を出せり。こゝに知ぬ、餘行にをひては貪瞋等の煩惱を發さずして行ずべしと云事を。是になずらえて思に、貪瞋等をきらう至誠心は餘行にありと見へたり。何に況、廻向發願心の釋は水火の二河の喩を引て、愛欲・瞋恚の水火、常にうるをし、常にやきてやむことなけれども、深心の白道たゆることなければ、生るゝ事をうといへり。
次に「深心は深信の心なり。決定して深く自身は現に是罪惡生死の凡夫也、曠劫已來常に沒し常に流轉して、出離の縁ある事なしと信じ、決定して深く彼阿彌陀佛の四十八願を以て衆生を攝受し給ふ。無疑無慮、彼の願力に乘れば定て往生することを得と信」(散善*義意)と云へり。初に、先づ「罪惡生死の凡夫、曠劫より已來出離の縁ある事なしと信ぜよ」と云へる、是卽斷善の闡提の如きの物なⅢ-1093り。かゝる衆生の一念・十念すれば、無始已來の生死輪廻を出でゝ、彼極樂世界、不退の國土に生ると云によりて、信心は發るべきなり。凡佛の別願の不思議は、たゞ心のかはる所にあらず、唯佛與佛のみよく知り給へり。阿彌陀
Ⅲ-1094「いかんぞ、一生の修福念佛を以て卽彼無漏無生の國に入りて、永く不退の位を證悟る事を得むやといわば、答て云べし。諸佛の敎行は、數塵沙にこえたり。稟識の機縁、心ろに隨て一にあらず。喩へば世間の人の眼に見つべく、信じつべきが如は、明□よく闇を破し、空はよく有を含み、地はよく載養し、水はよく生潤し、火はよく成壞するが如し。如此等の事悉く待對の法と名づく。卽目に見べし、千差萬別也。何に況や、佛法不思議の力、豈種々の益なからんや」(散善義)と云へり。極樂世界に水鳥・樹林の、微妙の法を囀も不思議なれども、是をば佛の願力なればと信じて、何ぞ只第十八の「乃至十念」(大經*卷上)と云ふ願をのみ可疑哉。Ⅲ-1095總じて佛の說を信は、此も佛說也。花嚴三无差別、般若の盡淨虛融、法花の實相眞如、涅槃の悉有佛性、たれか不信。是も佛說なり、彼も佛說也。何をか信じ、何をか信ぜざらむや。夫三字の名號は少しと云へども、如來の所有の内證外用の功德、萬德恆沙の甚深の法門を、此の名號の中にをさまれる。誰か是を量るべき。『疏』の「玄義分」(意)に此名號を釋て云、「阿彌陀佛と者、是天竺の正音也。こゝには翻じて無量壽覺と云。无量壽者是法、覺者是人也。人法ならびてあらはす。故阿彌陀佛と云。人法者所觀の境なり。これに付て依報あり、正報あり」と云へり。然ば、彌陀如來・觀音・勢至・普賢・文殊・地藏・龍樹よりはじめて、乃至Ⅲ-1096彼の土の菩薩・聲聞等に至るまでそなへ給へる所の事理の法門、定惠の□力、内證の實智、外用の功德、總じて萬德無漏の所證の法門、悉く三字の中に收まれり。總じて極樂世界に何れの法門か漏れたる所あらむ。而を、此三字の名號をば、諸宗各我宗に釋し入たり。眞言には阿字本不生の義、八萬四千の法門、四十二字の阿字より出生せり。一切の法は阿字をはなれたる事なし。故に功德甚深の名號なりと云へり。天台には空・假・中の三諦、性・了・縁の三の義、法・報・應の三身、如來所有の功德是をいでず。故に功德甚深也と云。如此諸宗各我が存る所の法につひて、阿彌陀の三字を釋せり。今此宗の心は、眞言の阿字本不生の義も、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道の旨も、法相の五重唯識の心も、總て森羅の萬法Ⅲ-1097廣く是に攝習ふ。極樂世界に漏たる法門なきが故也。但し今彌陀の願意は、如此さとれと□はあらず。唯深く信心を至て唱る者を迎むとなり。耆婆・篇鵲が萬病をいやす藥は、萬草諸藥を以て合藥せりと云へども、病者是をさとりて其の藥種何分、其の藥草何兩和合せり□不知。然而、是を服するに萬病悉くいゆるが如し。但し恨むらくは、此藥を信ぜずして、我病は極めて重し、何が此藥にて癒る事あらむと疑て服せずは、耆婆が藥術も、扁鵲祕方も、空Ⅲ-1098くして其益あるべからざる事を。彌陀の名號も又如此。我煩惱惡業病は、極て重し、いかゞ此名號を唱て生る事あらむと疑て是を信ぜずは、彌陀の誓願も、釋尊の所說も、むなしくして其驗あるべからざるものか。唯仰て信ずべし、良藥を得て服せずして死する事なかれ。崑崙山に行て玉を不取して返り、旃檀の林に入て枝を不折して出でなば、後悔如何せむ、自らよく思量すべし。
抑我等曠劫より已來、佛の出世にも遇けむ、菩薩Ⅲ-1099の化道にも値けむ。過去の諸佛も、現在の如來も、皆是宿世の父母也、多生の朋友也。かれはいかにして菩提を證し給へるぞ、我等は何によりて生死にとゞまれるぞ、慚々、悲々。而を本師釋迦如來、大罪の山に入、邪見林にかくれて、三業放逸に六情またからざらん衆生を、我國土には取置て敎化度脫せしめむと誓ひ給へりき。抑何にしてかゝる諸佛のこしらへかね給へる衆生をば度脫せしめんとは誓ひ給へるぞと尋ぬれば、阿彌陀如來因位の時、無諍念王と申せし時、菩提心を發て生死を過度せしめむと誓給ひしに、釋迦如來は寶海梵士□申しき。無諍念王、因位をすて菩提心を發し、攝取衆生の願を立て、我佛に成じらん時、十Ⅲ-1100方三世の諸佛もこしらへかね給たらむ惡業深重の衆生なりとも、我名を唱へば皆悉く迎むと誓ひ給ひしを、寶海梵士聞畢て、我必穢惡の國土にして正覺を唱て、惡業深重にして輪廻无際な□む衆生等に此事を示□む。衆生是を聞て唱へば、生死を解脫せむ事甚だ易すかるべしとをぼして、此願を發し給へり。曠劫より已來、諸佛の世に出でゝ、縁に隨ひ、機をはかりて、各衆生を度脫せしめ給ふ事、かず塵沙にすぎたり。或は大乘を說き少乘を說き、或は實敎をひろめ權敎をひろむ。機縁純熟すれば皆悉く其の益を得。爰に釋尊、八相を五濁惡世に唱へて、放逸邪見の衆生の出離、其期なきことを哀て、此より西方に極樂世界あり、佛まします、阿彌陀と名けたてまつる。彼の佛は「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)と誓給て、已Ⅲ-1101に佛に成り給へり。速に是を念ぜよ。出離生死の道多と云へども、惡業煩惱の衆生の、とく生死を解脫すべきこと、これに過たる事なしと敎給ひて、努々是を疑事なかれ。六方恆沙の諸佛も、皆同く證誠し給へるなり。ねんごろに敎へ給て、我もし久く穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、我をそしり我をそむきて、かへりて惡趣に墮せむ。我世に出る事は、本意唯彌陀の名號を衆生に令聞ためなりとて、阿難尊者にむかひて、汝好く此事を持て遐代に流通せよ□、ねむごろに約束しをきて、跋提河のほとり、沙羅林の下にして、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして涅槃に入り給にき。其の時に、日月光を失ひ、草木色を變Ⅲ-1102じて、龍神八部、禽獸・鳥類にいたるまで、天に仰てなげき、地に臥て叫ぶ。爰に阿難・目連等の諸大弟子、悲淚のなみだを抑て相議して云はく、我等釋尊の恩になれたてまつり、八十の春秋を送り迎へし間、或は我等釋尊に奉問、答給もありき、或は自らねんごろに告給事もありき。而に化縁爰に盡て、黃金の膚、忽にかくれ給ひぬ。濟度利生の方便、今は誰に向てか問奉るべき。須く如來の御詞をしるし置て、未來にも傳へ、御かたみともせんと云て、多羅葉を拾ひて悉く是を注し置き、三藏たち是を譯て晨旦に渡し、本朝に傳ふ。諸宗に各つかさどるところの一代聖敎是也。而を阿彌陀如來、善導和尙となのりて、唐土に出て云はく、
「如來出現於五濁 隨宜方便化群萌
Ⅲ-1103或說多聞而得度 或說小解證三明
或敎福惠雙除障 或敎禪念坐思量
種々法門皆解脫 無過念佛往西方
上盡一形至十念 三念五念佛來迎
直爲彌陀弘誓重 致使凡夫念卽生」(法事讚*卷下)
とをせられき。釋尊出世の本懷、唯此事に有と云べし。「自信敎人信、難中轉更難、大悲傳普化、眞成報佛恩」(禮讚)と云へり。釋尊の恩を報ず、是誰が爲ぞや、偏に我等がためにあらずや。今度空くして過なば、出離何の時をか期せむとする。速に信心を發して生死を過度すべし。
Ⅲ-1104次に廻向發願心は人ことに具しやすき事也。國土の快樂を聞て、誰か願はざらんや。抑、彼國土に九品の差別あり、我等何れの品をか期すべき。善導和尙の御心、「極樂彌陀は報佛・報土也。未斷或の凡夫は總じて生ずべからずと云へども、彌陀の別願の不思議にて、罪惡生死の凡夫、一念・十念して生ず」(玄義*分意)と釋し給へり。而を上古より已Ⅲ-1105來、多□下品と云とも可足なんど云て、上中品を欣はず。是は惡業の重に恐て心を上品にかけざるなり。若夫惡業よらば、總じて往生すべからず。願力によりて生ぜり、何ぞ上品にすゝまむ事を望みがたしとせむや。總て彌陀の淨土を儲給事は、願力の成就する故也。然らば、又念佛の衆生の正くは生ずべき國土也。「乃至十念、若不生者、不取正覺」(大經*卷上)と立給て、此願によりて感得し給へる所の國土なるが故なり。今又『觀經』の九品の業をいはゞ、下品は五逆・十惡の罪人、命終の時に臨みて、はじめて善知識の勸によりて、或は十聲、或は一聲稱念して、生事をえたり。我等惡業ふかしと云へども、未造五逆。行業疎そかなりと云Ⅲ-1106とも、念佛一聲・十聲に過たり。臨終より前に彌陀誓願を聞得て、隨分に信心を至たす。然ば、下品まではくだるべからず。中品は小乘持戒の行者、孝養父母、仁・儀・禮・智・信等の世善の行人也。是又中々生れがたし。小乘の行人にあらず、持たる戒もなし、我等が分にあらず。上品は大乘の凡夫、菩提心等の行也。菩提心は諸宗各得意云とも、淨土宗の心は、淨土に生れむと願るを菩提心と云へり。念佛は是大乘行也、無上功德也。然ば、上品の往生、手をひくべからず。又本願に「乃至十念」(大經*卷上)と立給ひて、臨終現前の願に「大衆圍繞して其人の前に現ぜむ」(大經*卷上)と立給へり。中品は聲聞衆來迎す。下品は化佛の三尊、或は金蓮臺等來迎すと云へり。而を大衆と圍繞して現ぜむと立給へり。本願意趣、上品の來迎をまうけ給へるⅢ-1107物也。何ぞ強に是をすまわむや。又善導和尙、「三萬已上は上品往生の業也」(觀念法*門意)と云へり。數遍によりても上品に生ずべし。又三心について九品あるべし。信心によりて上品に生ずべき歟。上品を欣は、事我身の爲にあらず。彼の國に生れをわりて、かへりて疾く衆生を化せむが爲也。是佛の御心にかなはざらんや。
次『阿彌陀經』は、先極樂の依正二報の功德を說。Ⅲ-1108衆生願樂の心を勸めんが爲也。後に往生の行をあかす。「小善根を以ては彼國に生るゝ事を不可得。阿彌陀佛の名號を執持して、一日七日すれば往生する事を得」(小經意)とあかせり。衆生是を信ぜざらむ事を恐て、六方に各恆沙の諸佛ましまして、舌相を大千にのべて證誠し給へり。善導釋して云はく、「此證によりて生るゝ事をえずは、六方の如來の舒給へる舌、一度口より出で畢て、永く口に返り入らずして、自然にやぶれたゞれむ」(觀念*法門)とのたまへりしかば、これを疑ふ者は、只彌陀の本願をうたがうのみにあらず、釋尊の所說をも疑なり。釋尊の所說を疑は、六方恆沙の諸佛の所說を疑也。卽此大千にのべ給へる舌相をやぶりたゞらかすなり。若又是を信は、彌陀の本願を信るのみにあらず、釋迦の所說を信ずるなり。釋迦Ⅲ-1109の所說を信は、六方恆沙の諸佛の所說を信る也。一切諸佛を信ずれば、一切法を信るになる。一切の法を信れば、一切の菩薩を信るになる。此信ひろくして廣大の信心也。
「爲斷凡夫疑見執 皆舒舌相覆三千
共證七日稱名號 又表釋迦言說眞」(法事讚*卷下)
「六方如來舒舌證 專稱名號至西方
到彼花開聞妙法 十地願行自然彰」(禮讚)
「心々念佛莫生疑 六方如來證不虛
三業專心无雜亂 百寶蓮花應時現」(法事讚*卷下)
『法事讚』(卷上)云、
Ⅲ-1110「人天善惡、皆得往生、到彼无殊、齊同不退。」
「他方凡聖、乘願往來、到彼无殊、齊同不退。」(法事讚*卷上)
三部經大意 源空撰
建長六年W甲寅R五月十五日於平針郷新善光寺書了