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トーク

四依

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

破線で囲った部分は、御開山が引文されている『大智度論』にある法四依の該当部分。少し言葉に出入りがある。 なお「一切衆生中比丘僧第一。(一切の衆生の中には、比丘僧第一なり)」以下に「無仏世衆生 仏為此重罪。不種見仏善根人。(無仏世の衆生を、仏これを重罪としたまへり、見仏の善根を種ゑざる人なり )」を附加されておられる。 この文は下段の太字で示した「仏為此重罪 不種見仏善根人説」の文を採られたのである。無仏世の末代の道俗は、阿弥陀如来の本願に依ってのみ成仏の道が開けるという意を表そうとされたのであろう。そして、この引文以下で、聖浄二道判を展開されるのであった。


復次汝言。仏自説女人不得作五事。二転輪聖王不得同時出世。仏亦如是。同時一世亦無二仏。汝不解此義。仏経有二義。有易了義。有深遠難解義。

また次ぎに、汝は、仏、自ら説きたまわく、女人は五事を作すを得ず、二転輪聖王の同時に世に出づることを得ず、仏も、またかくの如く、同時の一世にはまた二仏無し、と言うも、汝はこの義を解せず。仏の経には二義あり、易了の義、深遠難解の義あり。
如仏欲入涅槃時。語諸比丘従今日応依法不依人。応依義不依語。応依智不依識。応依了義経不依未了義。
仏の涅槃に入らんと欲したもう時の如きは、諸の比丘に語りたまわく、今日よりは、まさに法に依りて人に依るべからず。まさに義に依りて語に依るべからず。智に依りて識に依るべからず。了義経に依りて未了義に依るべからず、と。

依法者法有十二部応随此法。不応随人。依義者。義中無諍好悪罪福虚実故。語以得義義非語也。如人以指指月以示惑者。惑者視指而不視月。人語之言。我以指指月令汝知之。汝何看指而不視月。此亦如是。語為義指。語非義也。是以故不応依語。

法に依るとは、法に十二部有り、まさにこの法に随うべくして、まさに人に随うべからず。
義に依るとは、義の中は無諍なり、好悪、罪福、虚実の故に、語を以って義を得るも、義は語に非ざるなり。人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる、と言うが如く、これもまたかくの如く、語は義の為に指すも、語は義に非ざるなり。ここを以っての故に、まさに語に依るべからず。

依智者。智能籌量分別善悪。識常求楽不入正要。是故言不応依識。依了義経者。有一切智人 仏第一。一切諸経書中仏法第一。一切衆生中比丘僧第一。

智に依るとは、智はよく善悪を籌量し、分別するも、識は常に楽を求めて正要に入らず、この故に、まさに識に依るべからず、と言う。
了義経に依るとは、一切の智人には、仏第一なり。一切の経書の中には、仏法第一なり。一切の衆生の中には、比丘僧第一なり。

布施得大富。持戒得生天。如是等是了義経。

布施は大富を得、持戒は天に生ずることを得、かくの如き等はこれ了義経なり。

如説法師。説法有五種利。一者大富。二者人所愛。三者端正。四者名声。五者後得涅槃。是為未了義。云何未了。施得大富是為了。了可解。説法無財施而言 得富。得富者説法人種種讃施。破人慳心亦自除慳。以是因縁得富。是故言未了。

法師の法を説くに、五種の利有り、一に大富、二に人に愛さる、三に端正、四に名声、五に後に涅槃を得、と説くが如き、これを未了義と為す。何んが未了なる、施は大富を得、これを了と為す、了(あき)らかに解すべし。法を説いて財施無きに、富を得、と言うは、富を得とは、説法の人、種種に施を讃じて、人の慳心を破り、また自らも慳を除くに、この因縁を以って富を得。この故に「未了」と言うなり。

是多持経方便説非実義。是経中仏雖言世無二仏倶出。不言一切十方世界。雖言 世無二転輪聖王。亦不言一切三千大千世界無。但言四天下世界中。無二転輪聖 王。作福清浄故独王一世無諸怨敵。若有二王不名清浄。

この『多持経』は、方便に実義に非ざるを説けるなり。この『経』の中に、仏を、世に二仏の倶に出づること無し、と言うといえども、一切の十方の世界、と言わず。、世に二転輪聖王無し、と言うといえども、また、一切の三千大千世界に無し、とは言わず、ただ、四天下の世界の中に、二転輪聖王無し、と言うのみ。福を作して清浄なるが故に、独り一世に王たりて、諸の怨敵無く、もし二王有らば清浄と名づけず。

雖仏無嫉妬心。然以行業世世清浄故。亦不一世界有二仏出。百億須弥山。百億日月。名為三千大千世界。如是十方恒河沙等三千大千世界。是名為一仏世界。是中更無余仏。実一釈迦牟尼仏。是一仏世界中。常化作諸仏種種法門種種身種種因縁種種方便。以度衆生。以是故。多持経中。一時一世界無二仏。不言十方無仏。

仏は、嫉妬心無しといえども、然も行業の世世に清浄なるを以っての故に、また一世界に、二仏の出づること有らず。百億の須弥山、百億の日月を名づけて三千大千世界と為し、かくの如き十方の恒河沙等の三千大千世界、これを名づけて一仏世界と為し、この中には更に余仏無し。実に一釈迦牟尼仏は、これ一仏世界の中に、常に諸仏、種種の法門、種種の身、種種の因縁、種種の方便を化作して、以って衆生を度したもう。ここを以っての故に、『多持経』の中には、一時一世界に二仏無く、「十方に仏無し」とは言わず。

復次如汝言。仏言一事難値是仏世尊。又言九十一劫。三劫有仏余劫皆空無仏甚可憐愍。仏為此重罪不種見仏善根人説言。仏世難値如優曇波羅樹華時時一有。如是罪人輪転三悪道。或在人天中仏出世時。其人不見如説。舎衛城中九億家。三億家眼見仏。三億家耳聞有仏而眼不見。三億家不聞不見。仏在舎衛国二十五年。而此衆生不聞不見。何況遠者。

また次ぎに、汝が、仏の言わく、一事にして値い難しとは、これ仏世尊なりと、と言い、また、九十一劫に、三劫は仏有り、余の劫は皆空しく仏無く、甚だ憐愍すべし、と言うが如きは、仏は、この重罪にして、仏を見る善根を種えざる人の為に説いて、「仏世の値い難きこと、優曇波羅樹に華の時時一有るが如し」と言うなり。かくの如き罪人は、三悪道を転輪し、或は人天中の仏の出世持に在りても、その人の見ず。説の如きは、舎衛城の中の九億の家の、三億の家は眼に仏を見、三億の家は耳に仏有りと聞くも、眼に見ず、三億の家は聞かず見ずと。仏は舎衛国に在すこと二十五年なるも、この衆生は聞かず見ざるなり、何に況んや、遠き者をや。

智度論

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