如来蔵
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
如来蔵思想についての梯實圓和上の講義録から抜粋。如来蔵とは、衆生は如来に蔵せられる胎児であるといふ意がある。母親の胎内に蔵せられ母親と同じ性質を持ちながら母を知らないのが胎児である。如来に一番近い場所にいながら如来を知らないのであった。その意味では如来蔵思想とは、我は如来の子であることを信ずる信心の仏法であったのである。→如来蔵
前に如来蔵思想について少し触れた事があります。『涅槃経』の引文を読んでいく時にはどうしても如来蔵思想というものの構造を知っておかねばならないという事で触れた訳です。同じ事を繰り返すようですが初めての人も居ますから簡単に如来蔵という言葉の意味を今日はお話していきます。
如来蔵というのは中国語の翻訳です。インドでタターガタガルバ(tathāgata-garbha) というのが如来蔵と翻訳されました。タターガタが如来、ガルバは蔵です。実はガルバというのは胎と翻訳する方が正確なのです。胎というのは女性の子宮の事です。また子宮の中に宿った胎児を意味します。従って如来蔵とは如来胎と翻訳される言葉で、その意味からいうと寧ろ如来蔵というのは如来の胎児という意味を持つ言葉です。この『如来蔵経』或いは『不増不減経』あたりが初(しょ)っぱなから言うのは「一切衆生は如来蔵である」という言い方をします。如来蔵を持っているというのではなくて「一切衆生は如来蔵である」というのです。これは如来蔵経典に一貫して流れているテーゼです。如来蔵経典のテーゼとは「一切衆生は如来の胎児である」というのです。これが如来蔵経典の特徴です。だから仏性と翻訳しまして、その仏性を持っているという言い方をします。「
では如来の胎児としてとらえた時には一体どういう事になるかというと、ガルバ「蔵」について如来蔵経典には能蔵・所蔵・隠覆蔵という三義を立てて意味を詳しく述べているのが『仏性論』[1] です。『仏性論』といいますけれども『仏性論』という翻訳は中国の翻訳で、この中に書かれている事は全て如来蔵です。そして『涅槃経』の場合もそうです。殆ど原語はタターガタガルバ(tathāgata-garbha)です。仏性というのだったらブッダダートウ(buddha-dhātu)という言葉の訳がブッダターという言葉の訳なのですけれども、ブッダター(buddha-tā)という言葉は殆どありません。ブッダダートゥという言葉は如来の領域というか如来胎と翻訳される言葉です。仏性と翻訳するのはこのブッダダートゥが一番近い言葉です。いわゆる経論の中で如来蔵というのはタターガタガルバという言葉で顕わされる訳です。その如来蔵の蔵というのは能蔵・所蔵・隠覆蔵と出てきます。能蔵というのはよく蔵するという事です。如来が蔵しているという事です。蔵というのは内に秘めているという事ですから如来が蔵しているという時には如来の中に如来の智慧の中に摂められている、如来の智慧の所摂である。如来が衆生を蔵しているという事です。だから衆生から言いますと如来に蔵せられているという事になります。能蔵という時には如来が蔵しているという事です。つまり如来の智慧の中に包まれているという事です。如来が智慧の中に衆生を包んでいるという事です。
それから如来の徳が衆生に蔵せられているというのが所蔵です。従って如来の徳が衆生に蔵せられているというのだから衆生は如来の徳を持っている。如来からいうと所蔵です。如来は衆生を蔵しているという事は如来は衆生を内に包んでいるという事です。何の内に包んでいるのかというと智慧の中に包んでいる。つまり如来の智慧の目で見守られているという状態が能蔵です。所蔵というのは如来の徳を内に持っている。如来が衆生に蔵せられている。衆生からいうと如来を蔵しているという事になります。それから隠覆蔵というのは如来が覆い隠されているという事です。そういう状態で如来と衆生との関係を見ていくのです。それを蔵という言葉で顕わしたのです。それはちょうど胎児のあり方と一緒だというのです。母は胎児を包んでいます。つまり子宮の中に胎児を宿している、これが能蔵です。それから胎児は母親と同じ性質を持っている訳です。人間の胎内に犬や猫が宿る事はない。人間の胎内に宿ったのは人間の子供です。つまり母親と同じ性質を持っている。同種であるという事です。異種は宿らない。そうすると人間の子は人間となって母親と同じ種類の人間となるべき性質を内に持っています。それと同じように如来の性質が衆生に備わっているという意味ですから悉有仏性という場合には所蔵の意味が非常に強くなっています。
それから隠覆蔵というのは覆い隠している。煩悩によって如来は覆い隠されているという事です。如来は覆い隠された状態であるという事です。つまり胎児は母親の胎内に居て母親と同じ性質を持ちながら母親を見る事が出来ない。その目が覆われて母親を見る事が出来ない。これが胎児です。これをもう一つ言い換えると如来は衆生にとって超越的な存在である。つまり衆生を超えてしかも衆生を包んでいるという意味で超越的です。しかもその衆生は如来の徳を内に持っているという事で如来は衆生にとって内在的です。つまり如来は衆生にとって超越的であると同時に内在的である。超越的即内在的であるようなあり方をしている。しかもそれは覆い隠されたあり方をしている。覆い隠されたあり方というのは何かというと無明煩悩によって衆生には見えない状態で如来があるという事です。これはちょうど胎児が母胎に中にあって、母親に一番近いところにあり、しかも母親と同じ性質を持ちながら、母親に包まれておりながら、母親を見る事が出来ない。そして母親と同じ性質を顕わす事が出来ない。こんな状態にあるのが如来蔵としての衆生のあり方です。この事を一切衆生は如来蔵であるといったのです。だから一切衆生は如来の胎児であるという事です。これが仏性という言葉の意味なのです。
そうしますと衆生は如来蔵であるという考え方は如来は衆生にとって超越的であると同時に内在的なものである。しかもそれは無明煩悩によって覆われて見えないという形をとっています。超越的であると同時に内在的であるという言い方は極めて哲学的な言い方です。そしてそれが煩悩によって覆われているという事によって極めて宗教的、或いは実践的な意味を持ちます。従って如来というのはストレートに如来に直結する事は出来ない。衆生は無明煩悩を打ち破る事によってのみ如来を確認する事ができる。自己が如来の胎児である事を確認する。しかし自己は如来の胎児である事を確認した途端に、その人は胎児ではなく如来になる訳です。胎児が胎児である事を知ったと同時に胎児ではなくなります。胎児である事を知らない事が胎児なのです。胎児である事を知った時には胎児ではなくなるのです、その時に如来になる訳です。しかしそれは別のものになるのではない本来の自分になるのです。こういう事を顕わしているのが如来蔵思想です。如来蔵経典というのはこういう風に如来蔵というものを説くのです。衆生とはいかなる存在であるのか、人間とは一体何なのかという事を、こういう形で解明していった訳です。そしてこの時に自己の生きている事の意味と方向が決まる訳です。「私は一体何物なのか」という時にそれは如来の胎児であると信ずる訳です。そういう風に確認する訳では無いのです。確認したらもう胎児ではない。確認できたら胎児ではなくて如来なのです。従って胎児は如来の教化を受ける事によって自分が如来の胎児であるという事を信ずる訳です。だから如来蔵思想というのは信心の宗教なのです。信心の仏教です。これが如来蔵思想の特徴です。
これは般若思想とは違います。般若思想は正に智慧の宗教です。般若波羅蜜という智の宗教です。ハンニャハラミッタ・プラージュニャパーラミタといわれる智慧の宗教です。それに対して如来蔵思想というのは信心の宗教です。これは如来の言葉を聞く事によって自己が如来の胎児であるという事を信ずる訳です。そして如来の胎児ならば如来の胎児としてふさわしい生き方をしようという生き方がそこから生まれてくる。その如来の胎児としてふさわしい生き方をしようという所から無明煩悩を打ち破っていくという修行が始まる訳です。それが菩提心を起こして修行する事です。修行して何になるのかというと本来の自己に還るのです。本来の自己を知るという事です。これが仏教だという風にとらえていくのが如来蔵思想というものの基本的な思想形態です。いつ頃から如来蔵思想というものが思想として始まったのか分かりませんが、しかしお釈迦様の考え方をよく考えてみれば、こういうものでなければならないというのです。それでなかったらお釈迦様の仏法というものが成立しません。もしそうでなかっとしたらお釈迦様が何故に教えを説いたのか。教えを説くという事は、その教えを説けば彼もまた私と同じ目覚めを得てくれるに違いないという確信があるから教えを説いたのです。説いても分かってくれはしないと思ったら説く事はありません。分からない事を説く訳はないのですから。
お釈迦様が説法をする一番最初に説こうか説くまいかをためらいがあります。そのためらいを振り切って五人の比丘達に最初の説法をするのです、この五人の比丘に法を説くいうのは中々良い方法だと思います。やはり本当に自分の考えを理解してくれる人は誰か、あの人達だったら分かってくれるだろうという事を見定めて、それで一緒に修行をしてきた五人の比丘達に説いたのです。彼等は実際に分かってくれた訳です。それで五人の比丘達が次々と悟りを開いた時に「この世の中で釈尊を含めて六人の目覚めたものが出現した」と書いてあります。つまり教えれば自分と同じ目覚めを得てくれる、目覚めるとは何かというと別に変わったものになるのではありません。本来の自己に還る訳です。自分の本来の相に目覚める訳です。その事に目覚めていく。教えたら目覚めてくれるという事は、今は無明煩悩に覆われて自己の本来のあり方を見失っているけれども教えれば本来の自己を回復してくれるに違いないという考え方があって教えを説いた訳です。その教えを説いていくということ自身が「一切衆生は如来蔵である」と考えるからなのです。それでなかったら教えは説けません。
だから如来蔵経典というものが出てくるのは恐らくだいぶ後だろうと思います。龍樹以降であると思います。ことに経典としてまとめられていく一番早い時期のものは『不増不減経』とか『如来蔵経』というものが一番早い時期のものです。だけどその源流を探りますと幾らでも探っていけるのです。構造的には明確ではない自覚的に如来蔵という形で自覚化されていなくても仏教というのは要するに最初からそうなのです。よく説けば目覚めてくれるに違いないという確信があって法を説くのです。最初から「衆生は如来蔵である」と信じて教えを説いている筈なのです。教えを説く方も如来蔵という仏陀としての目覚めをもって説くし、それを聞く衆生はこの人の教えに従えば私もこの人と同じように目覚めていくに違いないという確信を持って教えを聞き実践していくのですから当然「衆生は如来蔵である」という形態の上に立っているのが仏教であるという事です。ですから如来蔵というのは真実の仏教であるという『涅槃経』の「一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易」という考え方は当然の事なのです。そういう風に見ますと「一切衆生は如来の胎児である」と見ますと彼等が目覚めれば、それは如来であるという事になります。そうしますと一切衆生が如来蔵であるなら如来は永遠です。如来は消滅する事はない訳です。一切衆生が限りなく生きている限り、限りなく存在する限り、如来は限りなく存在しているのです。そうしますと「如来は常住にして変易あることなし」と言えます。そういう世界が「一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易」という『涅槃経』の言葉になって顕われてくる訳です。
こういう経典の思想というものに則って親鸞聖人は仏教を領解しようとしている訳です。阿弥陀仏の本願と言うのは如来蔵に向かっての呼びかけである。実は一切衆生の如来蔵を大悲の本願をもって開顕していくのが『仏説無量寿経』だ。法蔵菩薩はそういった衆生の如来蔵を大悲をもって開くものだとおっしゃった方もあります。以前に勧学寮頭をなさった高峯了州という方は龍谷大学の仏教学の教授で華厳学の大家でした。この方が一切衆生の如来蔵を大悲をもって開くものを法蔵菩薩と名づけるとおっしゃいました。つまり如来蔵というものが内側から衆生に呼びかけている相が、一切衆生に呼びかけている相が法蔵菩薩の本願であり、それを開顕しているのが『無量寿経』であるとおっしゃっておられました。これは大変面白い考え方です。従ってこのように見て行きますと仏性が有るか無いかという事は問題ではなく、自分が如来の胎児であるという事を信ずるか信じないかの問題です。
ですから仏性が有るか無いかの論争は仏性という事柄を客観的な事柄として見て、それが有るとか無いとかいってみても仏性論には何の関係もない論理になってしまいます。自己とは一体何か、自己を根元的に如来との連関との中で自己の存在というものを領解していくという形が如来蔵思想であるなら、如来蔵思想というのは一つの仏教的な実存形態を顕わそうとしているものであって、仏性が有るか無いかというような論議をしているものとは違うという事です。だからその意味では五姓格別説というものも仏性論がよく理解できていないという事です。インドに出られた論師といってもピンからキリまであります。素晴らしい人もいるし、大したもので無い人もいます。こういう事は余りいわない方が良いですが。ですから思想というものをしっかり見定めていかねば仏教というものが分からないものになるのです。そういう中でこれから引用される『大乗起信論』も如来蔵思想の中で理解されている仏教なのです。それをここに顕わしています。
今いった事を元にして読んでみましょう。
【三七】しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。『経』(涅槃経・迦葉品)には、「われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説く」といへり。ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。
また『経』(涅槃経・迦葉品)には「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得」とのたまへり。
【三八】『起信論』にいはく、「〈もし説くといへども、能説のありて説くべきもなく、また能念の念ずべきもなしと知るを、名づけて随順とす。もし念を離るるを名づけて得入とす〉と。得入とは真如三昧なり。いかにいはんや、無念の位は妙覚にあり、けだしもつて了心は初生の相なり。しかも初相を知るといふは、いはゆる無念は菩薩十地の知るところにあらず。しかるに今の人、なほいまだ十信に階はず、すなはち馬鳴大士によらざらんや。〈説より無説に入り、念より無念に入る〉とのたまへり」と。略抄]
安養浄刹というのは真実の報土であり、阿弥陀仏の本願によって完成された完全な悟りの領域であるという事が分かった。「煩悩に覆はるるがゆゑに」普通の終止形は「……ゆゑなり。」ですが、この当時は「ゆゑに」という言葉で終止を表していたようです。そこで「惑染」とは無明です。無明煩悩に覆われている衆生は迷いの境界において「性を見ることあたはず」自分の本当の性質を見る事が出来ない。如来蔵としての性質を見る事が出来ない「煩悩に覆はるるがゆゑに」これが隠覆蔵です。「性を見ることあたはず」が所蔵の意味です。如来の徳を内在している事、本来如来になるべき存在であるという自己の真相を見る事が出来ない。しかし先ほど申しましたように「私は胎児である」といった時には胎児ではないのです。胎児だと知らない事が胎児なのです。胎児である事が分かったらもう胎児ではなくて一人前です。そこで「惑染」無明煩悩に覆われているから、この土、この迷いの境界において如来蔵としての自己の性、徳を見る事が出来ない。そこで『涅槃経』には「われ十住の菩薩、少分、仏性を見ると説く」といへり。十住の菩薩であっても一分無漏の智慧を残すが故に、彼は自己の仏性である事を一分悟っている。けれども全分知る事は出来ない。
「ゆゑに知んぬ、安楽仏国に到れば、すなはちかならず仏性を顕す。本願力の回向によるがゆゑに。」阿弥陀仏の安楽世界に生まれさせて頂くならば、すなわち必ず仏性を顕現する。それは完全な悟りの境界ですから胎児が体外に出て一人前の人間に育った時に初めて自己がこの母の子である事を知る。それを知った時にはもはや母と同じ人間としての性能が現れてくる訳です。ちょうど安楽仏国に到ればというのは、胎児が胎内から胎外へ出たように迷いの境界から悟りの境界へ出た。そこにおいて初めて必ず仏性を顕わす。自己が仏の子である事の本来の性質を顕現させる事が出来る。「本願力の回向によるがゆゑに」これは如来の本願力の回向によって迷いの領域から悟りの領域へ入らしめられる。そして如来を見る目を与えられた。如来を見るという事は自己を見るという事です。自己が如来である事を見る事が如来を見る事です。
仏教というのはこういう宗教なのです。この辺が真宗が仏教であってキリスト教ではないという事なのです。キリスト教に非常によく似た一神教的性質を持っていますけれども、キリスト教とは徹底的に違う所はキリスト教では神の秩序の中に入る。そして神の秩序に従った存在価値を回復するという事が救われるという事の意味だったのですが、仏教では仏になる、目覚める事によって仏になるという事が仏教の一つの大きな特徴です。もっとも仏になるという事が日本ではどうも日本の神になる事と同じように考えているようです。日本の神は元々はシャーマニズムです。あの場合の神とは神が憑くといいます。憑霊的な、神がかりのような状態を生き神様といいます。この生き神様の考え方が生き仏の考え方になります。従ってここで考えられている仏様は仏教でいう所の仏とは全然違います。シャーマニズムの枠内で考えられるシャーマンを帯びた霊です、その霊に占領されたシャーマン、そんな状態を神がかりといい、それが仏がかりであり、それが生き神であるように生き仏というような考え方になるのです。それで仏になるという事もそういう祖霊化していく事が仏になるという考え方があります。これは非常に難儀です。
私達はお浄土に生まれて仏になるのだという。非常に分からなくなってしまっているのです。つまり概念が混乱している訳なのです。概念が混乱しているからこちらのいっている事を、受け取る側では全然違う受け取り方をしている事があります。こうなったら仕方がないです。今までの言葉を一切使わないで表現できるようなものを出していかなければ仕方がないようです。しかしこれは凄い宗教的天才が出てこなければできないでしょう。ちゃんと悟ってこなければダメです。言葉の上だけではダメです。自分が悟りを開いて、その悟りを開いた境地を自分の言葉で従来のテクニカルタームを一切使わずに自分の言葉で表現出来るようにならないと中々出来ない事です。困ったものです。とにかく言葉というものが随分乱れているのです。そこで本願力の回向によって仏性を顕わす、仏性を顕わすという事はどういう事か本来の自己に還るという事です。その本来の自己を如来というのです。
そこで「また『経』には」これは『涅槃経』です。「衆生未来に清浄の身を具足し荘厳して、仏性を見ることを得とのたまへり。」 いまは煩悩具足の凡夫だ、しかし未来において衆生は必ず清らかな身を成就して仏性を見る事を得るといわれている。親鸞聖人は「未来に」という言葉をこの世においては見る事は出来ないが未来に浄土に往生すれば清浄の身、つまり惑染の煩悩を完全に浄化した身となって「具足し荘厳する」という事は悟りの徳を完全に自分の身に実現する事によって仏性を見る事を得る。胎児が胎外に出てきて母親と同じような人間の姿を顕わし人間としての活動をおこなっていく、そんな状態です。
人間の子供の場合は漸次に成長していきます。長い間で育っていきます。人間の場合は殆ど未熟児で生まれます。未熟児というと悪いけれども馬や鹿やキリンなどは生まれてすぐに歩きます。すぐに歩くようにならないと外敵に襲われますから命が保たない訳です。それで生まれてきたらすぐに立って歩く。一日二日すると非常に早いスピードで行動が出来るようになります。これで外敵から身を守れる訳です。人間はヨチヨチ歩きをするのに一年位かかります。実際に走って外敵から身を守れるようになるには何年もかかる訳です。六年も七年もたたなければ外敵から身を守るほどのスピードで行動する事は出来ません。人間は随分未熟児です。何故に未熟児のままで生まれなければならないかというと頭蓋骨が発達すると胎内から出られなくなるのです。頭が大き過ぎると出る時に駄目なのです。出る時には頭蓋骨が収縮するようにできているのです。胎外に出たら頭蓋骨がパット開きます、頭蓋骨は全部揃っていません。胎児の「児」という字は頭蓋骨が開いている事を顕わしているのです。何故に開いているのかというと産道を通ってくる時にギュッと収縮してきますから出る時に開くのです。だから何人かに一人は脳内出血を起こしているのです。ただし殆どの場合、九九%位は出血は自然に治癒していきます。ただし少し残る子もいます。それは良性の血腫となって後に大きくなって手術で取る事が可能です。
人間の子供は未熟児として生まれてきます、しかし脳だけは非常に良く発育して生まれてくるのです。胎内から出てくる時には相当に発育しています。胎内にある時には未だ目は開いていません。エラ呼吸のエラは段々なくなっていきまして肺呼吸が出来るような機能が出てきます。出てきた途端に肺呼吸をします。最初にオギャーと泣くのが大事なんです。あの瞬間に肺動脈と心臓とがパチッとつらなり、そして肺呼吸が始まり、心臓と肺とがちゃんと連結します。それが巧くいかないと先天性の異状が出てくる訳です。とにかく胎児が胎外へ出る時です、人間の場合は一人前になるのに時間がかかりますけれども、今お浄土に生まれる時には胎児の状態であろうとお浄土に生まれた瞬間に阿弥陀仏と同じ悟りの境地に到達する。つまり胎児が胎児である事をハッキリ知った、その瞬間にもう胎児ではなくて如来であるという事です。如来となった時に他のものになった訳ではない。本来の自己を回復した。自分の性能が全分に現れてきた訳です。
これが仏性の顕現です。「顕」というのは、仏性を顕わすというのは如来蔵が如来となった事です。別のものになった訳ではない。『涅槃経』では必ず「大信心は仏性なり 仏性すなはち如来なり」(信巻 P.237) といいます。仏性は如来である。こういう事を少し違った形で顕わしていこうとしたものが、如来蔵というものの構造を無明煩悩と真如法性、つまり本来の真実と真実ならざるものが一体どのようにして出てきて、そしてどのようにして真実を回復するのかという事を論理的に説明しようとしたのが『大乗起信論』です。ですから『大乗起信論』を引用してあるのです。『大乗起信論』を通して浄土教的に理解された如来蔵思想というものが大乗仏教の一番独自をいくような理論と浄土教思想とドッキングさせている訳です。これが非常に巧い形でドッキングさせているのが「真仏土文類」です。このあたり思想家としての親鸞聖人の真価が問われる場所です。大変な所なのです。だからそのつもりで読んでいかねばなりません。今日はここまでにします。
- ↑ 『仏性論』。インドの世親著,中国,陳の真諦訳。4巻。仏性の意味を論究した書で,縁起,破執,顕体,弁相の4分 16品から成る。初めに如来が「一切衆生悉有仏性」と説いたことを述べ,次に外道,部派仏教の見解を論難して,三因,三性,如来蔵などを説く。 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典より。