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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

機とは法の対象のことであり、天台大師「智顗」の『法華玄義』では微、関、宣の三義を示す。可発の義といい仏の教えを受けそれに感応してゆくような存在とする。

  • 機微 微かでも法を聞く能力の可能性のあるもの。
  • 機関 仏の法を聞き入れる関係にあるもの。
  • 機宣 仏の法を宜(よろ)しく承るもの。


以下「法華玄義 巻六上」から引用

機有三義。

機に三義有り。

一者機是微義。故易云。機者動之微。吉之先現[1]。又阿含云。衆生有善法之機。聖人来応也。衆生有将生之善。此善微微将動。而得爲機。

一に、機これ()の義なり。故に『易』に云く。「機は動の微なり。(きつ)()づ現ずるなり」と。また『阿含』に云く、「衆生に善法の機あらば、聖人来りて応ずる也。衆生に(まさ)に生ぜんとするの善あらば、此の善微微に将に動かんとして機となることを得」と。

若将生善爲機。此結爲促。今明可生之善。此語則寛。如弩有可発之機。故射者発之。発之則箭動。不発則不前。衆生有可生之善。故聖応則善生。不応則不生。故言機者微也。

()し将に善を生ぜんとするを機と爲すは、これを結して促と為す。今、生ずべきの善を明す、この語則ち(ひろ)し。(いしゆみ)に発す可きの機あり、ゆえに射る者これを発す。これを発すれば則ち()動じ、発せざれば則ち(すす)まざるが如し。衆生に生ずべきの善あり。ゆえに聖応ずれば則ち善生じ、応ぜざればず則ち生ぜず。ゆえに機は微なりと言ふ也。

二者古注楞伽経云。機是関義。何者。衆生有善有悪。関聖慈悲。故機是関義也。

二に、古注の『楞伽経』に云はく、「機はこれ関の義なり」と。何となれば、衆生に善あり悪ありて、聖の慈悲に(かか)はる。ゆえに機はこれ関の義也。

三者機是宜義。如欲抜無明之苦。正宜於悲。欲与法性之楽。正宜於慈。故機是宜義也。

三に、機はこれ()(よし)の義なり。無明の苦を抜かんと欲せば、(まさ)しく悲に(よろ)しく、法性の楽を(あた)へんと欲すれば、正しく慈に(よろ)しきなり。ゆえに機はこれ宜の義也。

  1. 機とは、事のはじめの微かな動きであり、結果の吉凶をまえもって示唆する前兆である。『周易繫辞下伝』