依止
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
えじ 依止
拠りどころとすること。
- 『論註』には「かの罪を造る人は、みづから妄想の心に依止し、煩悩虚妄の果報の衆生によりて生ず。この十念は無上の信心に依止し、阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量功徳の名号によりて生ず」(信巻引文 註300)
とある。→三在釈。(浄土真宗辞典)
- →八番問答
◆ 参照読み込み (transclusion) WDM:えじ
依止
deva-manuṣyān upaniśrāya (S) 「依止人天」〔法華経 湧出品〕
古来から「依託止住(えたくしじゅう)」の意味である。たよりにし、拠り所という留まることを言う。力あり徳あるところに止住して離れざること。
此れ等は是れ我が子なり,是の世界に依止す 〔法華経 湧出品〕
もしは有り、もしは無しなど、これ諸々の見を依止す。 〔法華経 方便品〕
- āśraya : śarīra
生存のよりどころとしての身体。、
「身に羅腫などの疾を帯びるを名づけて依止の損害と為す」「依止と心」「依止が性として粛劣なり」 - āśrita : saṃniśrita
あるものが生じる根拠・よりどころ。
「福は智を依止として生起す」 - niśraya:samniśraya
人びとが救われるよりどころ。
「菩薩は無染心を以って有情の為に依止となる」 - adhikrtya:aSritya:niSritya
動名詞として、~に関して、~によって、~を根拠として、などの意味で用いられる。
「諦の道理を宣説するに依止する(adhikṛtya)が故に逆次第の中に老死を先と為して諸の縁起を説く」
「諸の菩薩は福に依止する(āśritya)が故に復た長時に流転生死すると難も、極苦に損悩されず」
「随観察行者は現量と比量と及び至教量とに依止して(niśritya)極善に思択す」
依止甚深
如来がさとった真如の法体は一切の処に遍満して、一切萬有が所依となることを言う。五甚深の一つ。
慧思
(514‐577)
慧文の弟子。晩年に南岳衡山に住したので、南岳大師と尊称される。正確に読むと「えし」である。
幼くして出家したが、40歳に近い頃、慧文禅師に師事して禅を修し、勇猛精進して、昼夜を別たず修行し、ついに法華三昧を開悟し、大乗の法門を一念に明達したという。法華三昧を得たことは、『智度論』の空定から超脱したことを示す。これが智顗に至って佛性を観ず有の観法になっていく。
慧思が光州大蘇山に留まっていた時、智顗がその門に投じ、法華三昧を授けられた。慧思はその後、北斉末の戦乱を避けて、南方の衡山に行き、ここで没した。