六即
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ろくそく
六の文を列ねて、仏の所説を信ずべきことを示す。文中に即の字が六回出るので六即という。 (愚禿下 P.523)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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天台の六即
◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:六即
天台の六即
『摩訶止觀』卷第一下で、修行の過程を六つの位に分けて説く。浄土系の諭書にも散見される言葉なのでUPしておく。
若無信 高推聖境 非己智分。若無智 起増上慢 謂己均佛。初後倶非。
爲此事故 須知六即。謂理即。名字即。觀行即。相似即。分眞即。究竟即。
此六即者。始凡終聖。始凡故除疑怯。終聖故除慢大 云云
- 若し信無くば、高く聖境を推して己の智分に非ずとし、若し智なくば、増上慢を起して己れ仏に均しと謂う。初後倶に非なり。此の事の為の故に須く六即を知るべし。
- 謂く理即、名字即、觀行即、相似即、分眞即、究竟即なり。
- 此の六即は凡に始まり聖に終わる。凡に始まるが故に疑怯を除き、聖に終わるが故に慢大を除くと云云。
天台宗では、すべての存在は本来的に三千の諸法(あらゆるものごと)を足らないものなく具えているので、体そのものからいえば仏も衆生も同等であるが、修行の階位からいえば差異があるという点で六即の説を立てる。即ち
- (1)すべての衆生はことごとく三千三諦の理を具えて、欠けることのないのを理即、
- (2)仏法を聞いて三千三諦の理を概念(名字)として理解し、仏教を疑わないのを名字即、
- (3)三千三諦の理を念々に観じつづけてゆくのを観行即(外凡五品弟子位)、
- (4)それによって三界のうちで起こす見思の惑が尽き、六根がきよらかになって真のさとりに相似するのを相似即(内凡六根清浄位)、
- (5)三千三諦の観が徹底して無明の惑がようやく晴れ、真如の一部分が身に顕れたのを分証即(分真即ともいう、初住から等覚までの四一位)、
- (6)完全にさとりつくして真如のすべてが顕れたのを究寛即(妙覚位)とし、
これによっていたずらに自己が仏と同等であると考える増上慢(おもいあがり)に陥ることなく、また自己は仏になり得ないと考える卑屈から免れるという。(仏教学辞典p.311より)