善信聖人絵
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
御開山の一代を絵と詞(ことば)によって著述し表現した書。永仁三年(1295)に覚如上人が二十六歳の時に著されたものとされている。この後、増訂を施して諸方に写伝されており、本願寺の寺院化にともない東西両本願寺では「本願寺聖人親鸞伝絵」と題され、その詞書(ことば-がき)のみを抄出したものを『
ここで、「本願寺聖人の親鸞伝絵」といふ表現は、高田派の専修寺や仏光寺派の仏光寺ではなく本願寺の聖人となっているのは、大谷本願寺に門徒を統合しようとされた覚如上人の野望であろう。
ともあれ、この覚如上人の企図を実現されたのは200年後の偉大なオルガナイザー(組織化する者)であった本願寺八代目蓮如さんであった。オルガナイザーは主に左派用語だが、ここでは安芸の蓮崇のような自立した門徒衆を組織した功績であろう。
目 次
善信聖人絵
善信聖人絵 上
第一段
夫聖人の俗姓は藤原氏、大織冠{諱鎌子内大臣、天児屋根尊二十一世孫也}の後胤、弼宰相有国卿五世の孫、皇太后宮大進有範息也。朝廷に仕て霜雪をも戴、射山に趨て栄花をも発べかりし人なれども、興法の因うちに萌し、利生の縁ほかに催しによりて、九歳の春の比、阿伯従三位範綱卿{于時従四位下前若狭守、後白川上皇近臣也、上人養父}前大僧正{慈円、法性寺殿御息、月輪殿長兄、慈鎮和尚是也}の貴房へ相具したてまつりて、鬢髪を剃除せられき。範宴少納言公と号す。自爾以来、しばしば南岳・天台の玄風を訪て、ひろく三観仏乗の理を達し、とこしなへに楞厳横川の余流を湛て、ふかく四教円融の義に明なり。
第二段
建仁第一の曆春の比{上人二十九歳}、隠遁のこゝろざしにひかれて、源空聖人の吉水の禅房に尋参給き。是則世くだり、人つたなくして、難行の小路まよひやすきによりて、易行の大道におもむかんとなり。真宗紹隆の太祖聖人、ことに宗の淵源をつくし、教の理致をきわめて、これをのべたまふに、立どころに他力摂生の旨趣を受得し、飽まで凡夫直入の真心を決定しましましけり。
第三段
建仁三年{癸亥}四月五日夜寅時、聖人夢想告ましましき。彼記云、「六角堂の救世菩薩、顔容端厳の聖僧の形を示現して、白衲の袈裟を着服せしめ、広大の白蓮華に端座して、善信に告命してのたまわく、行者宿報設女犯、我成玉女身被犯、一生之間能荘厳、臨終引導生極楽[文]。救世菩薩、善信に言、此是我誓願なり。善信此誓願の旨趣を宣說して、一切群生に聞しむべし」と[云々]。
爾時善信夢中にありながら、御堂の正面にして東方をみれば、峨々たる岳山あり。その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。そのとき告命のごとく、此文の心を、かの山にあつまれる有情に対して說きかしめをわるとおぼえて、夢悟畢[云々]。
倩此記錄を披て彼夢想を案ずるに、偏に真宗繁昌の奇瑞、念仏弘興の表事也。然者聖人、後時被仰云、仏教昔西天より興て、経論いま東土に伝る。是偏上宮太子の広徳、山よりも高海よりも深し。吾朝欽明天皇の御宇に、是をわたされしによりて、則浄土の正依経論等、このときに来至す。儲君若厚恩をほどこしたまわずは、凡愚いかでか弘誓にあふことを得ん。
救世菩薩は即儲君の本地なれば、垂迹興法の願をあらわさんために本地の尊容をしめすところなり。抑又大師聖人{源空}若流刑に処せられたまはずは、我もまた配所に赴哉。もしわれ配所に赴ずは、何に由てか辺鄙の群類を化せむ。これ猶師教の恩致也。大師聖人すなわち勢至の化身、太子また観音の垂迹なり。このゆへにわれ二菩薩の引導に順じて、如来の本願をひろむるにあり。真宗因茲興じ、念仏由斯煽なり。是併聖者の教誨によりて、更愚昧の今案をかまへず、彼二大士の重願、唯一仏名を専念するにたれり。
今行者、錯て脇士に仕ふることなかれ、直に本仏を仰べしと[云々]。故上人{親鸞}、傍に皇太子を崇たまふ。蓋斯仏法弘通の浩なる恩を謝せむがためなり。
第四段
黒谷の先徳在世のむかし、矜哀の余、或時は恩許を蒙て製作を見写し、或時は真筆を降て名字を書賜。すなわち「顕浄土方便化身土文類」六云、{親鸞上人選述}「然愚禿釈鸞、建仁辛酉曆、棄雑行兮帰本願。元久{乙丑}歳、蒙恩恕兮書『選択』。同年初夏中旬第四日、選択本願念仏集内題字、 幷南无阿弥陀仏往生之業念仏為本与釈綽空、以空真筆令書之。同日、空真影申預、奉図画。同二年閏七月下旬第九日、真影銘以真筆令書南无阿弥陀仏与若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生之真文。又依夢告、改綽空字、同日以御筆令書名之字了。本師聖人今年七旬三御歳也。『選択本願念仏集』者、依禅定博陸 月輪殿兼実 法名円照 之教命所令撰集也。真宗之簡要、念仏之奥義、摂在于斯。見者易諭。誠是希有最勝之華文、無上甚深之宝典也。渉年渉日、蒙其教誨之人雖千万、云親云疎、獲此見写之徒甚以難。爾既書写製作、図画真影。是専念正業之徳也、是決定往生之徴也。
仍抑悲喜之淚註由来之縁」[云々]。
第五段
おほよそ源空聖人在生の古、他力往生の旨をひろめたまひしに、世あまねくこれに挙、人ことごとくこれに帰す。紫禁・青宮の政を重する砌にも、先黄金樹林の萼にこゝろをかけ、三槐・九棘の道を正する家にも、直に四十八願の月をもてあそぶ。加之戎狄のともがら、黎民のたぐひ、これをあふぎ、これをたふとびずといふ事なし。貴賤、轅をめぐらし、門前、市をなす。常随昵近の緇徒そのかずあり、都て三百八十余人と[云々]。しかりといへども、親その化を受、懃にその誨を守 族、はなはだまれなり。わづかに五、六輩にだにもたらず。善信上人、或時申たまはく、予、難行道を閣て易行道にうつり、聖道門を遁て浄土門に入しよりこのかた、芳命をかうぶるにあらずよりは、豈出離解脱の良因を蓄哉。喜の中の悦、何事か如之。しかるに同室の好を結て、ともに一師の誨をあふぐともがら、これおほしといゑども、真実に報土得生の信心を成じたりといふこと、自他おなじくしりがたし。故に、且は当来の親友たるほどをもしり、且は浮生の思出ともし侍らんがために、御弟子参集の砌にして、出言つかうまつりて、面々の意趣を試と思所望ありと[云々]。大師聖人の云、此条最可然、即明日人々来臨の時おほせられいだすべしと。而翌日集会のところに、上人{親鸞}のたまはく、今日は信 不退・行不退の御座を両方にわかたるべきなり。何の座につき給べしとも、おのおの示給へと。其時三百余人の門侶みなその意を得ざる気色あり。于時法印権大僧都聖覚、幷釈信空{法蓮上人}、信不退の御座に可着と[云々]。次に沙弥法力{直実入道}遅参して申云、善信御房御執筆何事哉と。善信上人のたまはく、信不退・行不退の座をわけらるゝ也と。法力房申云、然者法力もるべからず、信不退の座にまいるべしと[云々]。仍これを書載た まふ。こゝに数百人の門徒群居すといゑども、さらに一言をのぶる人なし。是恐は自力の迷心に拘て、金剛の真信に昏がいたすところか。人みな無音のあひだ、執筆上人{親鸞}自名をのせ給。良蹔ありて大師聖人被仰云、源空も信不退の座につらなり侍べしと。このとき門葉、或は屈敬の気をあらはし、或は鬱悔の色をふくめり。
第六段
聖人{親巒}のたまはく、いにしへ我大師聖人の御前に、聖信房・勢観房・念仏房以下人々おほかりき。その時はかりなき諍論をし侍ることありき。そのゆへは、聖人の御信心と善信が信心と、いさゝかもかわるところあるべからず、たゞひとつなりと申たりしに、この人々とがめて云、善信房 の、聖人の御信心と我信心とひとしと申さるゝこといわれなし。いかでかひとしかるべきと。善信申て云、などかひとしと申さゞるべき。そのゆへは深智博覧にひとしからんともまふさばこそ、まことにおほけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、ひとたび他力信心のことはりを承しよりこのかた、またくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も他力よりたまわらせたまふ、善信が信心も他力なり。故にひとしくしてかはるところなしと申なりと申侍りしところに、大師聖人まさ しく被仰云、信心のかはると申すは、自力の信にとりての事也。すなわち智恵各別なるがゆへに信又各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も善信房の信心も、さらにかわるべからず、たゞひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりあふておはしまさんひとびとは、源空がまいらん浄土へはよもまいらせたまはじ。よくよく心えらるべきなりと[云々]。こゝに面面舌をまき、くちをとぢてやみにけり。
第七段
御弟子入西房、聖人の真影をうつしたてまつらんとおもふ心ざしありて、日来をふるところに、聖人その心ざしある事を鑑て被仰て云、定禅法橋{七条辺居住}にうつさしむべしと。入西房、鑑察のむね を随喜して、則彼法橋を召請す。定禅左右なく参ず。則尊顔にむかひたてまつりて申ていわく、去夜、奇特の霊夢をなむ所感也。その夢の中に所奉拝の聖僧の面像、いまむかひたてまつる容貌に、すこしもたがふ所なしといひて、忽に随喜感歎の色ふかくして、身づからすなわちそのゆめを語て云、貴僧二人来入す。一人の僧云、此化僧の真影をうつさしめむとおもふ心ざしあり。ねがはくは禅下筆を降すべしと。定禅問云、彼化僧誰人哉。今一人の伴僧云、善光寺の本願の御房是也と。爰定禅合掌居跪して、夢中に おもふやう、さては生身の弥陀如来にこそと、身毛竪だちて恭敬尊重をいたす。また定禅問云、如何可奉写。本願御房答云、顔ばかりを可写、ことごとくは予可染筆也と[云々]。如斯問答往復して夢さめをわりぬ。而今この貴坊に参て見たてまつる尊容、夢中の聖僧に少もたがはずとて、随喜の余淚をながす。然者可任夢とて、今も御顔ばかりをうつしたてまつりけり。夢想は仁治三年{壬寅}九月廿日夜也。倩この奇瑞を思に、聖人、則弥陀如来の来現といふこと炳焉也。しかれば、弘通し給教行、恐は弥陀の直說と可謂。また明知、いま如来の大慈無漏の恵灯を挑て、とをく濁世の迷闇を晴し、あまねく甘露の法雨を灑て、ことごとく枯竭の凡悪を潤さんとすといふ事を。可仰、応信。
善信聖人絵 下
第一段
浄土宗興行によりて、聖道門廃退す。是空師の所為なりとて、忽に罪科せらるべきよし、南北の碩才鬱申けり。「顕化身土文類」六云、「窃以、聖道諸教行証久廃、浄土真宗証道今盛。然諸寺釈門、昏教兮不知真仮門戸、洛都儒林、迷行兮無弁邪正道路。斯以興福寺学徒、奏達太上天皇{諱尊成、号後鳥羽院}今上{諱為仁、号土御門院}聖曆、承元{丁卯}歳、仲春上旬之候。主上臣下、背法違義、成忿結怨、因茲真宗興隆太祖源空法師幷門徒 数輩、不考罪科、猥坐死罪。或改僧儀賜姓名処遠流、予其一也。爾者已非僧非俗。是故以禿字為姓。空師幷弟子等、坐諸方辺州経五年之居緒」[云々]。空聖人罪名藤井元彦、配所土佐国{幡多}巒上人罪名藤井善信、配所越後国{国府}此外門徒、死罪流罪みな略之。皇帝{諱為仁、号佐渡院}聖代、建曆{辛未}歳、子月中旬第七日、岡崎中納言範光卿をもて勅免。此時上人右のごとく禿字を書て奏聞し給に、陛下叡感を下し、侍臣おほひに褒美す。勅免ありといゑども、彼化を施さんために、なを 且在国し給けり。
第二段
聖人越後国より常陸国に越て、笠間郡稲田郷と云所に隠居し給。幽栖を占といへども道俗跡をたづね、蓬戸を閉といゑども貴賤衢に溢る。仏法弘通の本懐こゝに成就し、衆生利益の宿念たちまちに満足す。此時聖人被仰云、救世菩薩の告命をうけし往夢、既今与符合せり。
第三段
聖人常陸国にして一向専修の義を弘たまふに、凡疑謗の輩は少、信順の族は多し。而一人の僧{山臥云々}ありて、動ば仏法に怨を成つゝ、結句害心を挿で、聖人を時々うかゞいたてまつる。聖人板敷山といふ深山を恒に往反したまひけるに、彼山にして度々相待といゑども、更其節をとげず。 つらつら事の参差を案ずるに、頗奇特のおもひあり。仍聖人に謁せむとおもふこゝろ付て、禅室に行て尋申に、聖人左右なく出会たまひにけり。すなわち尊顔にむかふに、害心忽に消滅して、剰後悔の淚禁がたし。良蹔ありて、ありのまゝに日来の宿鬱を述すといゑども、聖人またおどろける色なし。立どころに弓箭をきり、刀杖を捨、頭巾を取、柿衣をあらためて、仏教に帰しつゝ、終に素懐をとげき。不思議なりし事な り。すなわち明法房是也。上人つけたまひき。
第四段
聖人東関の堺を出て、花城の路に赴ましましけり。或日晩陰に及て箱根の険阻にかゝりつゝ、遥に行客の蹤を送て、漸人屋の枢に近に、夜もすでに暁更におよむで、月もはや孤嶺にかたぶきぬ。于時上人歩寄て案内し給に、まことに齢傾たる翁のうるわしく装束したるが、いと疾出会ていふ様、社廟ちかきところのならひ、巫どもの 終夜あそびし侍るに、翁もまじわりつるが、いさゝか寄ゐ侍るとおもふ程に、夢にもあらず、うつゝにもあらずして、権現被仰云、只今我尊敬を致べき客人、此路を過給べきことあり、かならず慇懃の忠節を抽て、殊丁寧の饗応を儲べしと。示現いまだ覚終ざるに、貴僧忽として影嚮したまへり。何ぞたゞ人にましまさむ。神勅是炳焉なり。感応最恭敬すといひて、尊重崛請したてまつりて、さまざまに飯食を粧、色々に珍味を調けり。
第五段
聖人古郷に帰て往事をおもふに、年々歳々夢のごとし、幻のごとし。長安・洛陽の栖も蹤をとゞむるに嬾とて、扶風馮翊ところどころに移住し たまひき。五条西洞院わたり、是一の勝地也とて、しばらく居を占たまふ。今時にあたりて、いにしへ口決を伝、面授をとげし門徒等、おのおの好を慕、路を尋て参集たまひけり。その比常陸国那荷の西郡大部郷に、平太郎なにがしとかやいふ庶民あり。聖人へ参たるに、被仰云、夫聖教万差なり、いづれも機に相応すれば巨益あり。但末法の今時、聖道の修行にをきては成ずべからず。則「我末法時中、億々衆生 起行修道、未有一人得者」(大集経巻四〇日蔵分護持品意*大集経巻五五月蔵分閻浮提品意)と言、「唯有浄土一門可通入路」(安楽集*巻上)と云。此皆経釈の明文、如来の金言也。而今「唯有浄土」の真說に就て、忝彼三国の祖師、各此一宗を興行す。所以に、愚禿勧ところ、更わたくしなし。然に一向専念の義は往生の肝府、自宗の骨目也。即三経に隠顕ありといゑども、文といひ義といひ、共以明々たるをや。『大経』の三輩にも一向と勧て、流通にはこれを弥勒に付属し、『観経』の九品にもしばらく三心と說て、是又阿難に附嘱す、『小経』の一心終に諸仏証誠す。因之論主一心と判じ、和尚一向と釈す。然則、何の文証によりて、一向専修の義立すべからざるぞや。証誠殿の本地すなわちいまの教主なり。故に、左も右も衆生に結縁の志ふかきによりて、和光の 垂迹を留たまふ。垂迹をとゞむる本意、たゞ結縁の群類をして願海に引入せむとなり。しかれば、本地の誓願を信じて一向に念仏をことゝせむ輩、公務にもしたがひ、領主にも駆仕て、その霊地を踏、その社廟に詣せんこと、更に自心の発起するところにあらず。然者、垂迹にをきて内懐虚仮の身たりながら、強賢善精進の威儀を標すべからず。唯本地の誓約にまかすべし、穴賢、穴賢。神威をかろしむるにあらず、努力努力冥眥をめぐらしたまふべからずと[云々]。これによりて、 平太郎熊野に参詣す。道の作法別整儀なし。たゞ常没の凡情にしたがへて、更不浄をも禁ことなし。行住坐臥に本願を仰ぎ、造次顚沛師孝を守に、はたして無為に参着す。その夜、件男夢告云、証誠殿の扉を排て、衣冠たゞしき俗人被仰云、汝何我を忽緒して汚穢不浄にして参着するぞ哉と。爾時彼俗人に対座して、聖人忽爾として見給。其詞云、彼は善信が訓によりて念仏する者也[云々]。爰俗人笏を直して、ことに敬屈の礼を着つゝ、かさねて述ところなしとみるほどに、夢さめをわりぬ。おほよそ奇異の思ひをなすこと、いふべからず。下向の後、貴房にまいりて、くわしく此旨を申に、上人其事也とのたまふ。これまた不可思議の事也かし。
第六段
聖人弘長二年{壬戌}仲冬下旬の候より、聊不例の気まします。自爾以来、口に世事を不交、たゞ仏恩のふかき事をのぶ。声に余言を不呈、もはら称名たゆることなし。而同第八日{午剋}頭北面西右脇に臥たまひて、つゐに念仏の息たへおはりぬ。于時頹齢九旬に満たまふ。禅房は長安馮翊の辺{押小路南、万里小路東}なれば、はるかに河東の路を歷て、洛陽東山の西麓、鳥部野の南辺、延仁寺に葬したてまつる。遺骨を拾て、同山 麓、鳥部野の北辺、大谷に是をおさめおわりぬ。而終焉にあふ門弟、勧化をうけし老若、おのおの在世のいにしへをおもひ、滅後のいまを悲で、恋慕涕泣せずといふ事なし。
第七段
文永九年冬比、東山西麓、鳥部野の北、大谷の憤墓をあらためて、同麓より西、吉水の北辺に遺骨を堀渡て堂閣を立、影像を安ず。此時に当て、上人相伝の宗義いよいよ興じ、遺訓ますます盛事、頗在世の昔に超たり。すべて門葉国郡に充満し、末流処々に遍布して、幾千万といふことをしらず。其稟教を重して彼報謝を抽る輩、緇素老少、面々あゆみを運て年々に廟堂に詣す。凡上人在生の間、奇特これおほしといゑども、羅縷に不遑。仍しかしながらこれを略する ところなり。
右縁起画図之志、偏為知恩報徳不為戯論狂言。剰又馳紫毫拾翰林。其体最拙、厥詞是苟。付冥付顕、有痛有恥。雖然只馮後見賢慮之取捨、無顧当時愚案之紕繆而已。于時永仁第三曆、応鐘仲旬第二、覃于晡時終書草之篇訖。
桑門覚如草之
参 考