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定散二善と念仏

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梯實圓和上の『法然教学の研究』から、第十二「付属章」の定散二善と念仏の義を窺う。特に法然聖人の継承者である浄土宗鎮西派の教義と浄土宗西山派の教義と浄土真宗の教義の違いを考察するに資するであろう。

第六章 『観・小二経』に依る廃立念仏論

─{略}─

第三節 定散二善と念仏

 第十二「付属章」(念仏付属章)は、標章に「釈尊不付属定散諸行、唯以念仏、付属阿難之文」[1]「隠/顕」
釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふの文。
といい、『観経』の「汝好持是語、持是語者、即是持無量寿仏名」[2]「隠/顕」
なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。
という文と、それを釈した『散善義』の「上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏名」[3]「隠/顕」
上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
等の文を引用し、私釈にいたって、定散と念仏とを対望して詳釈をおこない、廃立義を極成していかれる。弁長は『徹選択集』上に、法然は『観経』の付属の文をもって「此是至極最要文也」といわれたと記している。[4] また醍醐本『法然上人伝記』には、法然が一人の住山者から、如何なる文によって浄土宗を立つるのかとたずねられたとき、「就善導観経疏付属釈立之也」[5]「隠/顕」
善導の『観経疏』付属の釈に就いてこれを立つる也。
と答えられたという挿話を伝えているように法然の廃立思想を支えていたのは、『観経』付属の文と、それについての善導の釈文だったのである。すでにのべたように「三輩章」で廃助傍の三義をあげて、廃立為正と判じたあとに、廃立義は付属の文意によって立つことを明かして「観経之意、初広説定散行、普逗衆機、後廃定散二善、帰念仏一行 所謂汝好持是語等之文是也、其義如下具述」[6]「隠/顕」
『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。
といわれていたが、その「如下具述」「隠/顕」
下につぶさに述ぶるがごとし。
をうけて今章が開かれているのである。  私釈には、初に「私云案疏文、有二行、一定散、二念仏」「隠/顕」
わたくしにいはく、『疏』(散善義)の文を案ずるに二行あり。一には定散、二には念仏なり。
といい、付属釈の文意によれば、『観経』には、定散と念仏の二行が説かれていることがわかるとして定散二善と、念仏を解説されていく。先ず定散二善のなか定善とは『観経』に説かれた日想観から雑想観にいたる十三観であり、散善とは世福、戒福、行福の三福行であり、それを広く開説された九品段の行業がそれであるといい、その一々について詳細に説明される。次に付属された念仏とは、専ら弥陀仏の名を称する称名である。ところで善導は『玄義分』の宗旨門において『観経』に両宗を立て「観仏三昧為宗、亦念仏三昧為宗」といわれたが[7]、定散二善の中では、第九阿弥陀仏観が中心であるから、観仏三昧為宗といい、この定散に対する念仏をさして念仏三昧為宗といわれたものである。この一経両宗の中、観仏三昧すなわち定散を廃して、念仏三昧のみを付属されたのは仏の本願に望めるからであるとして、
定散諸行、非本願故不付属之、亦於其中観仏三昧、雖殊勝行、非仏本願故不付属、念仏三昧、是仏本願故以付属之、言望仏本願者、指双巻経四十八願中第十八願也、言一向専称者、指同経三輩之中一向専念也。[8]「隠/顕」
定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。「仏の本願に望む」といふは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指す。「一向専称」といふは、同経の三輩のなかの「一向専念」を指す。

といい、念仏と定散とは本願と非本願、付属と不付属のちがいがあり、二尊の意に従えば必然的に廃立されるべきであるとされるのである。

 ところで定散と念仏の関係について、法然は「行有二種、一定散、二念仏」といわれているから、定散と念仏とは全く別のようにも見えるが、九品を説明するにあたって「次九品者、開前三福、為九品業」「隠/顕」
次に九品とは、前の三福を開して九品の業となす。
といい、三福と九品の行業を対配していき、下三品の一念十念の念仏について、「若準上三福者、第三福大乗意也、定善、散善大概如此、文即云上来雖説定散両門之益是也」[9]「隠/顕」
もし上の三福に准ぜば、第三福の大乗の意なり。定善・散善大概かくのごとし。文(散善義)に、すなはち「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども」といふこれなり。
といわれている。これによれば下三品の念仏は散善のなかの大乗の行福中に摂せられるかのようにもみられる。

 鎮西の弁長の『徹選択集』下によれば、

問曰、称名念仏是為三福之内、為当三福之外可云乎。答曰、摂三福之内也。所謂観経中、或説受持三帰其中帰依仏者即是念仏也。或説読誦方等経典、口称名号即是読誦大乗方等経典也、依之漢朝之人唱阿弥陀仏、名四字経云云。或説修行六念、六念中之念仏、此是称名念仏也。故知称名念仏者、可摂三福之内其三福者即是三世諸仏浄業正因也、何云浅行乎。[10]「隠/顕」
問いて曰く、称名念仏はこれ三福の内とせんや、また三福の外と云ふべきや。答へて曰く、三福の内に摂すなり。いわゆる観経の中に、或は受持三帰を説けり、その中の帰依仏は即ちこれ念仏なり。或は読誦方等経典と説けり、口に名号を称するは即ちこれ読誦大乗方等経典なり、これに依つて漢朝の人、阿弥陀仏と唱ふるを四字経と名づくと云云。或は修行六念と説けり、六念の中の念仏は、此れは是れ称名念仏なり。故に知んぬ、称名念仏は、三福の内に摂すべし。其の三福は即ち是れ三世諸仏の浄業正因なり、何んぞ浅行と云わんや。
といい、弥陀念仏は、三帰中の帰依仏に、あるいは読誦に、あるいは六念中の念仏に摂せられるものであるから、散善三福中の行福に摂せられるとしている。又「総以三福正業、十方衆生浄於三業、別以六字名号、一切有情浄於三業」「隠/顕」
総じては三福の正業をもつて、十方衆生をして三業を浄めしめ、別しては六字の名号を以つて、一切有情をして三業を浄めしむ。
ともいい、散善三福と称名は、総別の異はあるが、三業を浄化する廃悪修善の行であることでは共通しているとみられていた。その廃悪修善が散善の意味なのである。又『浄土宗要集』(西宗要)五には「念仏三昧云故禅波羅蜜可摂也」「隠/顕」
念仏三昧と云ふが故に禅波羅蜜を摂すべきなり。
ともいっている。かくて弁長は三福行は、『観経』に「三世諸仏浄業正因」といわれているように、決して浅行ではないが、特にその中の弥陀念仏は、第十八願所誓の本願行であるから、余行に勝れて往生の正因となるものであるというのである。『徹選択集』下には、一切衆生が念仏往生することができる理由として、「一者菩薩願故、二者菩薩巧方便故、三者菩薩浄仏国土成就衆生故、四者仏智故、五者法不思議故、六者摩訶衍法故、七者譬喩故」「隠/顕」
一には菩薩の願故に、二には菩薩の巧方便故に、三には菩薩の浄仏国土成就衆生の故に、四には仏智の故に、五には法不思議の故に、六には摩訶衍の法の故に、七には譬喩の故なり。
という七由をあげている。初の三は本願の義意を開いたものであり、第四、五は仏智の不思議を、第六は大乗の至極の法であることを、第七は本願名号の如意宝珠の如き勝徳をそれぞれあらわしたものであるから、要するに本願の念仏の不可思議の徳用を示したものである。ともあれ弁長が、このように称名念仏を三福散善中に摂したのは、一般仏教の例格に従ったものであるが、ことに、念仏は衆生がなすべき行であって、その意味では三福行と同じ廃悪修善の意義をもつ修行とみなされていたからである。

だから『浄土宗行者用意問答』に、念仏に自力他力を分けたり、定散二善を自力とし念仏を他力とみなしたりする義を批判して「故上人ハ仰セラレザリシ義ナリ。況ヤ自力ノ念仏ハ辺地ノ業トナルト云コト、全ク聞カザリシコトナリ」といわれている。もともと弁長は弥陀念仏は定散二善中に摂せられる要門の行であるが、第十八願所誓の本願の行であるから、余行を廃して念仏を立てるといい、また弘願とは、要門の行因たる念仏に加する増上縁たる本願力であって、念仏者を来迎し往生せしめる強縁であるとみられていた。このことについては別章で詳説する。

 これに対して西山の証空は、三福を行門とし、定散二善を観門とし、念仏を弘願とするという特殊な名目を用いて独自の教義を展開される。石田充之氏によれば、行門とは聖道門自力位一般を表現する名目であり、観門とは浄土門他力位一般を表現する名目として使用し、弘願とは、この観門に詮せられて、観門とは、能詮と所詮の関係にあり、しかも観門の根源をなす念仏の法を表現する名目として用いられていた。そしてこれを『観経』のうえでいえば、定善示観縁において韋提が「以仏力故見彼国土」「隠/顕」
仏力をもつてのゆゑに、彼の国土を見る
と他力を領解する以前の通別二請や、それに応じて説かれた散善顕行縁の三福行は、韋提の所見に約すれば聖道門と等しい自力位の行業であるから行門である。次に定善示観縁以下定散二善十六観が説かれるが、それは「散善説読誦大乗、説念仏、定善説修此定、為説念仏、此故定散共観門也、定散同顕弘願也」「隠/顕」
散善に大乗を読誦すと説くは、念仏せよと説き、定善に此の定を修せよと説くも、念仏せよと説くになる、此の故に定散共に観門なり、定散同じく弘願を顕すなり。
といわれるように、観門である。

すなわち『観経』の定散二善は、自力の往生業として説かれたものではなく、弘願念仏を能詮する釈尊随自意の説法とみられたのである。弘願とは『玄義分』序題門に示されたように弥陀が顕彰された法門である。具体的には『大経』所説の四十八願であり、要をとっていえば第十八願の念仏往生の法門をさしている。そして観門と弘願は二尊一教の位の釈迦教と弥陀教であるとみなされていた[11]。『定観門義』五に『定善義』の「此経定散文中、唯標専念名号得生」を釈するなかに、観門と弘願の関係を次の如くのべられている。

従又此経定散文中下、就今経正釈顕観門詮弘願道理也。定散文中者、指十六観門也。此観門詮弘願法云文。唯標専念名号得生者、此観門詮弘願文、定一一文下在専念名号生也。唯字雖説定散諸行、仏意為明念仏往生、別非説諸行遮而、云唯標也。流通中上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏意也、唯言如此可知。[12]「隠/顕」
また此の経、定散文中より下は、今経に就きて正しく観門弘願を詮する道理を釈顕する也。定散文中とは、十六観門を指すなり。此の観門弘願を詮ずる法をば文と云ふなり。唯標専念名号得生とは、此の観門弘願を詮ずる文なれば、一一の文の下に名号を専念して生ずと云うに在りと定まれるなり。唯の字は定散諸行を説くといへども、仏意は念仏往生を明さんが為なれば、別に諸行を説くに非ずと遮し、唯標と云ふなり。流通の中の「上来雖説定散両門之益、望仏本願意、在衆生一向専称弥陀仏」の意なり、唯の言、此の如しと知るべし。
 ところで証空がこのように、『観経』の定散十六観を弘願念仏をあらわす能詮とみ、定善散善の教説の一々が弘願念仏の一法を詮顕しているとみなされた背景には、定散二善が即弥陀念仏であると「開会」する開会思想があった[13]。すなわち『観経疏大意』に「能詮所詮は猶分別の義、観門弘願は開会の釈なり也」[14]といい、『散観門義』二に「善体無所嫌、可依心開不開」「隠/顕」
善体に嫌ふ所なし、心の開と不開に依るべし。
といい、『同』三に「一切三世善根、皆悉会納弥陀功徳、通成浄土業因、自往生思外更不可有余事」[15]「隠/顕」
一切三世の善根、みな悉(ことごと)く会して弥陀功徳に納まり、通じて浄土の業因と成りぬれば、往生の思ひより外に更(さら)に余の事あるべかず。
といわれたように、三世一切の善根すなわち定散二善は、本来弥陀の功徳であって、念仏の外にはなく定散二善は本来念仏体内の善なのである。そのことを知らしめるのが『観経』の観門であり、それを領解するのが衆生の三心である。『玄観門義』一に、
定散有二重意、此定散為観門顕弘願、依観門所成行者心謂三心、依此三心、帰弘願、定散二善体、納三心悉成、指是帰弘願也、然定散体即弘願也。弘願者四十八願也、此弘願成体阿弥陀仏也。然定散所開観門帰三心、三心帰弘願、弘願帰阿弥陀仏、此体成南無阿弥陀仏名立也。若得心、三心定散義被摂、故得能摂三心義、定散諸功徳、無勝劣等説顕弥陀功徳也。[16]「隠/顕」
定散に二重の意あり、此の定散を観門と為して弘願を顕せば、観門に依りて成ずる所、行者の心を三心と謂(い)ふ、此の三心に依りて、弘願に帰すれば、定散二善の体、三心に納まりて悉く成ず、是れを指して弘願に帰すと云ふ也、然れば定散の体は即ち弘願なり。弘願とは四十八願なり、此の弘願成ずる体は阿弥陀仏なり。しかれば定散の開く所の観門は三心に帰し、三心は弘願に帰し、弘願は阿弥陀仏に帰す、此の体成じぬれば南無阿弥陀仏の名立つなり。かく心得つれば、三心に定散の義摂せらる、故に能摂の三心の義を得つれば、定散の諸の功徳、勝劣無く等し弥陀の功徳を説き顕す也。

といわれた所以である。すなわち証空によれば、定散を自力行と説くのは未熟の機に応じた行門方便教であって、『観経』の定散二善は諸行往生を説くものではなくて、弘願念仏を詮顕する観門であり、このような「観門の意」を領解したのが三心であるから、三心とは観門を領解して弘願に帰し、定散即南無阿弥陀仏と心開け、開会が現成している相であるといえよう。

 証空は、このような立場から『散善義』の付属釈をみていく。すなわち上来『観経』には定善十三観、散善三観九品の定散十六観を説き、定散ともに往生することができると示されたようであるが、仏の本願、すなわち弘願の意に望めてみると、定散十六観は弘願の念仏往生を詮わす観門であって、その所詮は衆生をして二心なく一向に専ら念仏せしめるにあったことがわかるといわれているのである[17]。なお西山派の行観は『選択集秘鈔』四に「西山立定散外念仏行、云三業門之外他力行也」[18]「隠/顕」
西山は定散の外の念仏の行と立す、三業門の外の他力の行と云ふなり。

といい弘願の念仏は非定非散の離三業の行であると立てている。


 親鸞は、定散諸行は要門自力の方便行であり、化土の業因であるとし、本願念仏は弘願他力の真実行であって、真実報土の業因であるとし、両者は所廃、所立の関係にあるとみられていた。そして『観経』には顕説と隠彰があり、顕説は、第十九願の諸行往生の法門を開説したもので、定善十三観、散善三福九品の経説の当分がそれである。隠彰とは、第十八願の他力念仏往生の法門で、正しくは『大経』法門であるが、『観経』にもそれが隠彰というありかたで説かれているとみられたのである。

「化身土文類」要門章に、

依釈家之意、按無量寿仏観経者、有顕彰隠密義、言顕者、即顕定散諸善、開三輩三心、然二善三福、非報土真因、諸機三心、自利各別而非利他一心、如来異方便、忻慕浄土善根、是此経之意、即是顕義也。言彰者、彰如来弘願、演暢利他通入一心、縁達多闍世悪逆、彰釈迦微笑素懐、因韋提別選正意、開闡弥陀大悲本願、斯乃此経隠彰義也。[19]「隠/顕」
釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多(提婆達多)・闍世(阿闍世)の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。

といい、つづいて『観経』の文について十三例をあげて隠顕のあることを証明されている。善導が『観経』に両宗を立てられたが、その観仏三昧為宗は、顕説の宗を示したものであり、念仏三昧為宗は隠彰の宗を顕わしたものである。また『観経』について要門と弘願を立てられたのも、要門は顕説の法義である自力定散諸行往生の法門をあらわし、弘願は隠彰の法義である他力念仏往生の法門を意味せしめられていたとみなされる。この隠顕、要弘、念観両宗を、経末にいたって第十八願に望めて釈尊みずからが廃立せられたのが付属持名であり、その経意を顕彰されたのが善導の付属釈であるというのが親鸞の領解であった。親鸞はさらに「行文類」の一乗海釈において、念仏と諸善とを比・対論して四十八(七)対をあげ、『愚禿鈔』上には四十二対をあげて、本願念仏と自力定散諸行とが性質を全く異にしていることを証明されているが、そこにあげられた「名号定散対、付属不付属対、有願無願対」は、この「付属章」の意によられたものである[20]。尚親鸞は、「化身土文類」において、弥陀念仏であっても、定散自力心をもって名号を称念するものを真門とよび、化土の業因であるとされた。

就真門之方便、有善本有徳本、復有定専心、復有散専心、復有定散雑心、雑心者、大小凡聖、一切善悪、各以助正間雑心、称念名号、良教者頓、而根者漸機、行者専而心者間雑、故曰雑心也。定散之専心者、以信罪福心、願求本願力、是名自力之専心也。[21]「隠/顕」
真門の方便につきて、善本あり徳本あり。また定専心あり、また散専心あり、また定散雑心あり。雑心とは、大小・凡聖・一切善悪、おのおの助正間雑の心をもつて名号を称念す。まことに教は頓にして根は漸機なり。行は専にして心は間雑す。ゆゑに雑心といふなり。定散の専心とは、罪福を信ずる心をもつて本願力を願求す、これを自力の専心と名づくるなり。

といわれたものがそれであって、念仏であっても、教頓根漸といわれたように、定散心をもって行ずるものは機失によって自力定散位中に落在するとみなされている。

 道隠の『選択集要津録』十に、法然が、下三品の念仏を「若准上三福者、第三福大乗意也」「隠/顕」
もし上の三福に准ずれば、第三福大乗意也。

といわれたのは、下三の念仏は隠顕に通じているから、今はその顕説の意によって、自力念仏は、散善中に落在することを明かしたものであるといっている。そして弥陀念仏は本来選択の行体であるから、たとえ機失によって自力位に堕していても、諸仏念仏のような万行随一の要門位ではなく、真門位であると主張している[22]。しかし法然が、下三品の念仏を「第三福大乗意也」といわれたのは、自力の称名を散善中の一行とみなす為ではなく、ただ称名が大乗の行業であるということだけを示そうとされたのではなかろうか。

 また法然が要門の定散二善と、弘願念仏とを各別の往生行とみなし、両者を廃立の関係でみられていたことは、「十八条法語」に「予がごときは、さきの要門にたゑず、よてひとへに弘願を憑也」[23]といわれていることでもわかる。従って弁長のように定散二善を要門とし、そこに弥陀念仏を入れ、弘願は要門の行因に対する願力増上縁とみなすのも、証空の如く定散二善を観門とみるのも、少くとも法然の聖教量の当分ではないとせねばならない。やはり親鸞のように要門の定散二善と弘願念仏とを各別とみて廃立するのが法然に忠実な釈であるというべきである。


  1. 元の位置に戻る 『選択集』「付属章」(真聖全一・九七五頁)
  2. 元の位置に戻る 『観経』付属持名(真聖全一・六六頁)
  3. 元の位置に戻る 『散善義』付属釈(真聖全一・五五八頁)、尚この文の読み方に古来二説がある。行観の『選択集秘鈔』四(浄全八・四一三頁)によれば、第一は「望仏本願意」と点発するもので、このときは「意」は弥陀の願意ということになる。第二は「望仏本願意」とよむ場合で、このときは「意」は釈尊の本意をあらわすことになる。前者は元祖の読み方で廃立の意をあらわし、後者は証空の読み方で、傍正の意をあらわすといっている。なお親鸞は「化身土文類」(真聖全二・一六〇頁)に「望仏本願意」と送り仮名を施されている。
  4. 元の位置に戻る 『徹選択集』上(浄全七・九〇頁)
  5. 元の位置に戻る 醍醐本『法然上人伝記』(法然伝全・七七九頁)
  6. 元の位置に戻る 『選択集』「三輩章」(真聖全一・九五一頁)
  7. 元の位置に戻る 『選択集』「付属章」(真聖全一・九八〇頁)
  8. 元の位置に戻る 『同右』(同・九八〇頁)
  9. 元の位置に戻る 『徹選択集』下(浄全七・一〇九頁)
  10. 元の位置に戻る 『浄土宗要集』五(西宗要)(浄全一〇・二三九頁)
  11. 元の位置に戻る 『浄土宗行者用意問答』(浄全一〇・七〇五頁)、尚、鎮西派の自力他力観については、第二篇第四章第二節(三四六頁)参照。 石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(二六三頁以下)参照。『定観門義』六(西山全三・三〇〇頁)『玄観門義』(西山全三・三四頁)「娑婆等者、挙釈迦教而要門為義、安楽等者、明弥陀教而弘願為義、化主能人互称二尊……能請所請、二尊二教、念仏観仏各別立故、能説所説二尊一教、観仏能詮念仏宗故、能為所為一尊一教、釈迦意密、同弥陀故也……対先要門即此観門故、所顕願云如大経、此乃今経所顕弘願、於彼大経広説故也……発遺即前要門教意、……来迎即前弘願教意故(追記:娑婆等とは、釈迦教を挙げ要門を義と為す、安楽等とは、弥陀教を明して、弘願を義と為す、化主と能人と互に二尊と称す……能請所請は、二尊二教なり、念仏観仏は各別に立するが故に、能説所説は二尊一教なり、観仏は能く念仏の宗を詮ずるが故に、能為所為は一尊一教なり、釈迦の意密は、弥陀に同ずるが故なり……先の要門即此の観門なるに対するが故に、所顕の願は大経に云ふが如しと、此れすなわち今経所顕の弘願の、彼の大経において広く説くが故なり……発遺は即ち前の要門教の意なり、……来迎は即ち前の弘願教の意なるが故に。)」等といい、要門と観門と発遺を同じく能詮、能顕、能説の釈迦教とし、弘願、来迎を観門の所詮所顕所説の弥陀教とし、二尊一教とみなされている。しかも釈迦は弥陀の応身であり、観門は弥陀の第十七願に乗じて顕わされるのだから、根源的には弘願の一つの顕現とも見られていた。
  12. 元の位置に戻る 『定観門義』五(西山全三・二八二頁)
  13. 元の位置に戻る 石田充之『法然上人門下の浄土教学の研究』上(二八二頁)參照。
  14. 元の位置に戻る 『西山疏抄尋覧』第一輯(一頁)
  15. 元の位置に戻る 『同右』三(同・三四三頁)
  16. 元の位置に戻る 『玄観門義』一(西山全三・二一頁)
  17. 元の位置に戻る 『散観門義』六(西山全三・四〇四頁)
  18. 元の位置に戻る 『選択集秘鈔』四(浄全八・四一四頁)
  19. 元の位置に戻る 「化身土文類」要門章(真聖全二・一四七頁)
  20. 元の位置に戻る 「行文類」一乗海釈(真聖全二・四一頁)、『愚禿鈔』上(真聖全二・四五九頁)
  21. 元の位置に戻る 「化身土文類」真門章(真聖全二・一五七頁)
  22. 元の位置に戻る 『選択集要津録』十(真全一八・三四〇頁)
  23. 元の位置に戻る 「十八条法語」(『指南抄』中本・真聖全四・一三二頁)