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布教使

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

ふきょうし

ふきょうし 布教使(師)

 宗派の教えを逸話や譬喩などを交えながら説き、人々の教化を行う人のこと。本願寺派の布教使は、宗門の布教方針に沿い、浄土真宗の教義をひろめ、伝道活動の推進に努める者として、一定の資格を得た教師が任用される。(浄土真宗辞典)

  • 使といふ表現は本山からの使いといふ意を含み、本山の統制を受ける存在であろう。
教師

『改邪鈔』には、

木像ものいはず経典口なければ、伝へきかしむるところの恩徳を耳にたくはへん行者は、謝徳のおもひをもつぱらにして、如来の代官と仰いであがむべきにてこそあれ (改邪鈔 P.943)

如来の代官とある。
『安楽集』の説聴の方軌の第一には、

【4】 第二に諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かすとは、なかに六あり。第一に『大集経』(意)にのたまはく、「説法のものにおいては医王の想をなし、抜苦の想をなせ。説くところの法には甘露の想をなし、醍醐の想をなせ。それ法を聴くものは増長勝解の想をなし、愈病の想をなせ。
もしよくかくのごとく説くもの、聴くものは、みな仏法を紹隆するに堪へたり、つねに仏前に生ず」と。(安楽集 P.185

と、ある。 なお、法然聖人は「七箇条制誡」で、

右、解(げ:さとり)なくして師となるは、これ『梵網』の制戒なり。黒闇のたぐい己の才をあらわさんと欲し、浄土教をもって芸能となし、名利を貪し檀越を望む。ほしいままに自由の妄説をなして世間の人を狂惑せむ。誑法のとが、ことに重し、これむしろ国賊に非ずや。(七箇条制誡#no6)

と布教の芸能化を戒めておられた。近年の門徒の情念を煽る「節談説教」は芸能化していないのだろうか?

JWP:節談説教