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帰命の三種類の解釈

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

きみょうの-さんしゅるいの-かいしゃく

(『季刊せいてん』(103)の、梯實圓和上の論述)より引用。

「南無」はインドの「ナマス」という言葉が変化した「ナモ」の音写語で、第一句の「帰命」とはそれを中国語に翻訳した言葉です。帰命という言葉を、親鸞聖入は、信心と同じ意味で使われています。ナマスという言葉には心から仏や菩薩を崇め尊び敬意を表するといった意味があり、礼拝するといった意味もそこにあります。それを中国では「帰命」と翻訳しました。すると今度は、中国語としての帰命という言葉の意味を非常に厳格に見るようになります。大きく分けて三種類くらいの解釈があります。

  一番目の解釈は、帰命の「帰」は「帰投、投げ出す」という意味です(帰投身命(きとうしんみょう))。帰というのは仏様に身命を帰投する。命を投げ出して、すべてを仏様に投げ出して、仏様の教えに従っていこうとする。仏様の教えを受け入れるその態度を帰投身命といいます。

 二番目は、「帰」は「帰順、順う」ということで、「命」とは身命ではなくて、「教命」であるという風に解釈しています(帰順教命(きじゅんきょうめい))。帰命の命とは"いのち"ということではなくて、教えということ。「ああしなさい、こうしなさい」と指図をしていくことを命ずるといいますが、この場合は、命令の命で教えのことです。だから帰命とは「教えに順う」ということになります。
 この二つの説は中国の唐の時代に活躍した賢首大師法蔵という方の『大乗起信論』の註釈の中に出ています。

 三番目の説は、新羅(しらぎ)仏教・さらには朝鮮仏教全体の祖師といわれる元暁という人が『大乗起信論』の註釈をするなかにあります。この説では、「帰」とは「帰還(きげん)」、「命」とは「命根」といってあります(帰還命根(きげんみょうこん))。あるいは、「命をその根源に還す」ということだというので、「還源命根(げんげんみょうこん)」というようにもいわれます。つまり私の命は、私の命ではなくて、もっと大きな宇宙的な根元的な命であり、それが如来の命であるということに目覚める。そういうことを知るのを「命根を源に帰す」という意味で帰命という、こういう風に解釈するのです。

 大きく分けてこういう三つの解釈を、中国、朝鮮半島、日本を通して用いるわけです。日本の浄土教の流れの上でみますと、①の阿弥陀様の仰せに命を投げ出して従っていくことを帰命というのだという言い方をしますのは、浄土宗の鎮西浄土宗、今の知恩院の方たちです。それに対して②の帰順教命という意味で仏様の仰せに順うことだと言ったのが親鸞聖人です。そして③の阿弥陀様という根元的な命に帰す、我が命は阿弥陀の命であったことに気づくのが帰命だと言うのは、大体西山派系の方たちの考え方です。

 しかし親鸞聖人の一番特徴的な解釈は、「帰命とは如来の仰せに順うことだ」というものです。阿弥陀仏に帰命するというのは、限りない寿命の徳をお持ちになった親様の仰せに順い、帰依し、その親様の所に帰らせて頂くのだという風に仏様の仰せに順っていく。そして限りない智慧の光をもって万人を浄土へと導き喚びさましてくださる、仏様の本願の言葉に順って生きていく。このように、阿弥陀様の仰せに順って限りない仏の命の世界に帰らせて頂くことを、帰命というのだと聖人は見ておられるのです。(『季刊せいてん』(103)の、梯實圓和上の文)

帰命
安心論題/帰命義趣
トーク:帰命