彼岸
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
ひがん
Ⅰ
Ⅱ 梵語パーラミター(Pāramitā )の意訳「至彼岸」略した語。→六波羅蜜
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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最古層に属するといふ『スッタニパータ』には、
- わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している。もはや筏の必要はない。
とある。
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:彼岸
ひがん/彼岸
一
彼の岸、すなわち悟りの世界、理想の世界、もしくは(極楽)浄土を比喩的に表す語として用いられる。Ⓢpāra。仏教では輪廻の迷いの世界をこちら側の岸という意味で「此岸」と呼ぶのに対し、悟りの世界のことを彼方の岸という意味で「彼岸」と称する。例えば『スッタニパータ』二一偈において、筏(仏教の教え)で激流(欲望・煩悩)を克服して彼岸(悟りの境地)に至ると述べられているのをはじめとして、最初期の仏教から頻繁に用いられてきた比喩表現である。ただし、浄土教においては、彼岸は悟りの境地の意の他に、(極楽)浄土を意味する場合も少なくない。例えば「衆生を極楽の彼岸に運ぶ」(『選択密要決』五、浄全八・三二九上)、「生死の大海を渡って極楽の彼岸に届る」(『大経直談要註記』一四、浄全一三・一八五上)などである。なお、この彼岸(悟り)に到ることを「到彼岸」「度彼岸」(「度」は「渡」の意)と呼ぶが、その原語はⓈpāramitāであり、これは「波羅蜜」「波羅蜜多」と音写され、そしてその「到彼岸」のための行が「六波羅蜜」となる。ただし、pāramitāは「到彼岸」ではなく、「完成」の意であるとの見解も見られる。一方、上述したような教義的な意味とは別に、「彼岸」が「彼岸会」を指す場合も多々見られる。
【参考】定方晟「〈到彼岸〉と〈完成〉—パーラミターの語義—」(東方研究会『東方』二二、二〇〇七)
【執筆者:安達俊英】
二
春分・秋分を中日とした、前後七日間。先亡の諸霊位に追善の誠をささげる期間。
【参照項目】➡彼岸会
【執筆者:編集部】