性起
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
しょうき 性起
法性現起の意で、仏果の万徳は法性そのままのあらわれであるということ。『論註』 には 「これ浄土は法性に随順して法本に乖(そむ)かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ」(真仏土巻引文)とあり、阿弥陀仏の浄土は真如法性の顕現したものであることを示している。→性功徳。(浄土真宗辞典)
◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:性起
しょうき/性起
華厳教学の中心的思想の一つ。縁起との対比によっても知られる。原因(行)から結果(覚り、智慧、法身など)の流れが縁起であるが、結果からの顕現(仏、如来蔵)の強調が性起である。性起思想については、教学面で多様な考察が行われ、言及範囲も広い。その源泉は『六十華厳』宝王如来性起品に求められ、如来蔵思想への強い影響も知られる。そこに説かれる性起は、「如来の家に生まれた」「如来の出生」「如来の出現」「如来の種の流れ(を断たぬ)」「如来の性(を示現する)」に意味分類できるという。性起思想は如来出現の因果を仏身論、特に法身の顕現という面から捉えた点に大きな特徴がある。因とは法身であり、果とは如来の出現・作用(仏のはたらき)である。如来蔵思想では法身の顕現が衆生にまで及び、個々に仏性を有することが主張される。中国華厳宗法蔵の『探玄記』一六は、性起を理仏性、行仏性、果仏性を承けた理性起、行性起、果性起の三種に分類している。
【参考】高崎直道「華厳教学と如来蔵思想—インドにおける『性起』思想の展開—」(『如来蔵思想』法蔵館、一九八九)、同『如来蔵系経典』(『大乗仏典』一二、中央公論社、一九九二)
【執筆者:中御門敬教】
中国、華厳宗の学説の一つ。華厳の教学では、天地万物すべて「
御開山は、浄土の本質を『論註』の性功徳釈の文を引かれて「『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。」とされ、性起という語を使われておられる。『華厳経』宝王如來性起品には、
- 仏子、如来の智慧、無相の智慧、無礙の智慧は、具足して衆生の身中に在るも、ただ愚癡の衆生は顛倒の想に覆われて、知らず、見ず、信心を生ぜざるのみ。そのときに如来は、障礙なき清淨の天眼をもって、一切衆生を観察したまい、観じおわりてかくのごときの言をなしたまわく。
- 「奇なるかな、奇なるかな、云何んぞ如來も具足せる智慧は、身中に在りてしかも知見せざる。 我まさに彼の衆生に教えて聖道を覺悟せし悉く永(とこしな)く妄想顛倒の垢縛を離れしめ、つぶさに如来の智慧その身内に在りて、仏と異なるなきを見らしめん」と。(*)
として、如来蔵である一切衆生 悉有仏性について説かれている。
これを、阿弥陀如来の本願の上で論ずれば、
- またいふこころは、積習して性を成ず。法蔵菩薩を指す。もろもろの波羅蜜を集めて積習して成ぜるところなり。(真巻 P.358)
の「正道大慈悲 出世善根生(正道の大慈悲、出世の善根より生ず。)」の仏願の生起である。御開山は「真巻」で『論註』の性功徳釈を引文され浄土の性は、
- 性はこれ本の義なり。いふこころは、これ浄土は法性に随順して法本に乖かず。事、『華厳経』の宝王如来の性起の義に同じ。 (真巻 P.358)
とされておられる。 本願力回向の乃至十念の〈なんまんだぶ〉を称える法こそが、「惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに」(*)と浄土において仏性を開覚する浄土真宗の体系であった。