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拾遺古徳伝絵詞

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

覚如上人(1270-1351)が、各種の先行する法然伝を参照し撰述された絵巻物形式の法然聖人の伝記。略して『古徳伝』ともいふ。題名の古徳とは法然聖人を指し、「拾遺」とは従来の法然伝が触れていない法然聖人と御開山の親密な師弟関係を補遺する意味である。(浄土宗大辞典参照)
覚如上人が31歳の時(1301)に著されたものである。なお法然聖人を聖人号で呼称するのは御開山以来の浄土真宗の伝統であり、覚如上人も聖人号を用いている。浄土宗では上人号を使うので浄土真宗でも御開山を聖人と呼称するにつれ法然聖人を上人と呼称するようになった。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}一巻

第一段

ふしておもんみれば、諸仏の世にいづる、ときをまち機をはかる。時機それあひそむけば、感応もともあらはれがたし。すゝみて故事をとぶらへば、西天くもくらし。釈尊、円寂のつきとをくへだゝる。しりぞきて当時をかへりみれば、東漸つゆあたゝかなり。弥陀辺方のはな、にほひを発す。かの在世の正機にもれたるはこれうらみなれども、いま滅後の遺法にまうあへる、またたれりとす。いはんやまた、二尊の教門にいりて、一宗の正旨をえたり。仏恩きもに銘じて報じがたく、師孝みなもとにかへりて謝しがたし。これによりて、いさゝかそのほまれをのべて、かの徳をあらはさんとなり。こゝに如来滅後二千八十四年、人王七十五代崇徳院の御宇にあたりて、美作のくに久米の南条稲岡の庄に一人の押領使{漆間の時国と号す}あり。年来のあひだ、孝子のなきことをうれへて、夫婦こゝろをひとつにして、仏神にいのる{ことに観音と云云}。あるとき、妻{秦氏}ゆめにかみそりをのむとみて懐妊す。みるところのゆめを夫にかたる。夫のいはく、なんぢがはらめるところの子、さだめて男子にして戒師たるべき表示なりと[云云]。そののち、はゝひとへに仏法に帰して、出生のときにいたるまで、魚鳥のたぐひをくはず。長承二年{癸丑}四月七日のむまのときにおぼへずして誕生す。ときに奇異の瑞相おほし。しりぬ、権化の再誕なりといふことを。むかし世尊の誕生には、珍妙のはちす、みあしをうけて七歩を行ぜしめ、いま聖人の出胎には、奇麗のはた、天にひるがへりて二流くだりけり。みるひと、たなごゝろをあはせ、きくもの、みゝをおどろかさずといふことなし。四五歳以後、その性成人のごとし。同稚の党に卓礫せり。またやゝもすれば、にしのかべにむかふくせあり。ひとこれをあやしむ。

第二段

保延七年{辛酉}はるのころ、ちゝ時国かたきのために害せらる。ときに聖人九歳。そのかたきは、伯耆守みなもとの長明が男、武者所定明なり{あかしの源内武者と号す。堀河院御在位の滝口}。殺害の意趣は、さだあきら、いなをかの庄の執務として年月をふといへども、職掌の身たりながら、これを軽蔑して面謁せざる遺恨なり。ちゝの害せらるゝ夜、はゝいだきて、たけのなかにかくる。九歳の小児、小矢をもてさだあきらをいる。その矢、目のあひだにあたりぬ。くだんのきずをしるしとして、のがるべきかたなきゆへに、すなはち逐電しをはりぬ。見聞の親疎感嘆せずといふことなし。

第三段

時国ふかききずをかうぶりて、かぎりになりにければ、九歳の幼童にしめしていはく、われはこのきずにて身まかりなんとす。しかりといふとも、ゆめゆめかたきをうらむることなかれ。これ先世のむくひなり。なを報答をおもふならば、流転无窮にして、世々生々にたゝかひ、在々所々にあらそひて、輪廻たゆることあるべからず。おほよそ生あるものは死をいたむ、われこのきずをいたむ、ひとまたいたまざらんや。われこのいのちをおしむ、ひとあにおしまざらんや。わが身にかへてひとのおもひをしるべきなり。むかし、はからずしてものゝいのちをころすひと、後生にそのむくひをうといへり。ねがはくは、今生の妄縁をたちて、かの宿意をわすれん。意趣をやすめずは、いづれの世にか生死のきづなをはなれん。なんぢもし成人せば、往生極楽をいのりて自他平等の利益をおもふべしといひをはりて、こゝろをたゞしくし、西方にむかひて、高声念仏しつゝ、ねぶるがごとくにしてをはりぬ。

第四段

葬送中陰のあひだ、念仏報恩のいとなみふたごゝろなし。廟塔をたてゝ鳧鐘の逸韻をうちならし、本尊を安じて鷲嶺の真文を開題す。仏庭にちかづく道俗、随喜のなみだをもよほし、法筵にのぞむ老少、渇仰のいろふかゝりけり。

第五段

おなじきとしのくれ、当国菩提寺の院主、智鏡房の得業観覚、寵愛して弟子とす。はじめて仏書をさづくるに、性はなはだ岐嶷にして一度きゝて二度とふことなし。こゝに観覚、その俊異なることを感じて、等侶にかたりていはく、このちごの器量をみるに、たゞびとにあらず。おしきかな、いたづらに辺国にをかんことはといひて、上洛すべきにさだむ。

第六段

観覚、得業の命によりて、叡山にのぼるべきになりければ、母儀にいとまをこひていはく、むかし釈尊十九にして王宮をいで、つゐに正覚をなりましましき。いま小質十三にして叡山にのぼり、はじめて学窓にいりなんとす。凡聖ことなりといへども、そのこゝろざしひとし。これひとへに二親出離生死証大菩提のためなり。さらになごりおしとおもひたまふべからず。「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入无為、真実報恩者」なれば、これ孝道のはじめなり。されば、三河守大江の定基、出家ののち大唐国にわたりしにも、老母、堂にいますとかきゝ。さこそおぼつかなくも、おもひをきけめども、はゝいとまをとらせてければ、万里の波濤をもこゝろづよくしのぎて、つゐに円通大師の号をえ、本朝までも名をあげき。ふるきためしみゝにあり、ゆめゆめこゝろよはくおもひたまふべからずなど、さまざまにかきくどきのたまへば、はゝことはりにおぼえけれども、なをわかれのなみだにのみぞむせびける。 かたみとて はかなきおやの とゞめてし このわかれさへ またいかにせん 得業のいはく、このことはりは、観覚こそまうさまほしくはんべりつるを、おとなしくありありしくおほせられはんべれば、それにつけてもかしこくぞ、学問のよしをもおもひよりけるとおぼえはんべり。いにしへ、晋の叡公いとけなくして『法華経』翻訳のむしろにして、師範の人天接のことばかきわづらひたまひける、さかしらおもひあはせられて、あはれにこそはんべれとて、なみだぐみけり。たらちめも身をわけたるみどりごにいさめられはんべりぬれば、ましてのちの世すくはれん。おひゆくすゑもいつしかたのもしくおぼゆるなかにも、なを有為のかなしみしのびがたく、浮生のわかれまよひやすくして、たちはなれんなごりのみぞ、せんかたなかりける。

第七段

久安三年{丁卯}のはる、延曆寺西塔のきたゞに法地房源光のもとへをくりつかはす登山のとき、つくりみちにて月輪殿の御出に参会しければ、かたはらへたちよるに、番頭をもて、これはいづくよりいづかたへおもむくひとぞとたづねさせられければ、小児にしたがへる僧、美作国より学問のために比叡山へなんのぼるなりとぞこたへまうしける。さらなり、学問のこゝろざし随喜しおもひたまひはんべり。よくよく稽古鑽仰あるべし。いかにもたゞびとにあらじ。容貌の体たらく智者の相あり、再覲大切なりなど慮外に約諾の芳言にをよぶ。その因縁、ほとほとゆかしくぞおぼえけれ。

第八段

垂髪にあひそへてをくる狀にいはく、進上大聖文殊の像一体と[云云]。書狀披覧のところに文殊の像はみえず。小児{ときに十三歳}一人来入せり。ときに源光、文殊の像といふは、しりぬ、このちごの器量を褒美することばなんめりと。すなはちその容顔をみるに、かうべくぼくしてかどあり、まなこ黄にしてひかりあり。みなこれ抜粋聡敏の勝相なり。

第九段

源光のいはく、われはこれ愚鈍浅才なり。この奇童の提撕にたへず。すべからく業を碩学にうけて、円宗の奥義をきはむべしと。すなはち功徳院の阿闍梨皇円につけて、法文をならはしむ。かの闍梨は粟田の関白四代の後胤、三河の守重兼の嫡男、少納言資隆の朝臣の長兄、隆寛律師の伯父、皇覚法橋の弟子、一寺の名匠、緇徒の俊人なり。闍梨、このちごの神情を感悦して、ことにもて愛翫す。奇童をしへをうけてしるところ、日々におほし。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}二

第一段

おなじきとしなつのころ、聖人出家のいとまきこえんとて、ひよしのやしろにまうでたまひけるに、ひとびとあまた題をさぐりてうたよみ、連歌などしつゝ、なごりおしみけるに、社頭のなつのつきといふことを聖人よみたまひける。

しめのうちに つきはれぬれば なつのよも あきをぞこむる あけのたまがき
諸人もてなし、めであひけり。おなじき仲冬、出家登壇受戒、ときに十五歳。

第二段

あるとき、師にまうしていはく、すでに出家受戒の本意をとげをはりぬ。いまにをいては、あとを林藪にのがれんとおもふと。師これをきゝて、すゝめこしらへていはく、たとひ遁世すべしといふとも、六十巻を覚してのち、そのこゝろざしにしたがふべしと。こたへていはく、われいま閑居をねがふことは、ながく名利ののぞみをやめて、しづかに仏法を修学せんとなり。貴命本意なりといひて、十六歳のはる、はじめて本書をひらく。十八歳のあきにいたるまで、三箇年のあひだに六十巻の玄賾をきはむ。恵解天蹤にして、ほとほと師のさづくるにこへたり。師いよいよ感悦して、まげて講說をつとめ、まさに大業をとげて、円宗の棟梁たるべしと。度々ねんごろにすゝむれども、さらに承諾のいろなかりけり。

第三段

くだんの闍梨のありさま、自身の出要にわづらひて、つらつらこれを案ずるに、いかにもたやすく今度生死をいづべからず。もし度々生をあらためば、隔生即忘のゆえに、さだめて仏法をわすれなん。しかじ長命の報をうけて、慈尊の出世にあひたてまつらんにはとおもひて、いのちながきものを案ずるに、蛇身はなを鬼神にもまされりとて、蛇身をうけんとするに、住所またやすからず。大海は中夭あるべし。すべからくいけにすまんとおもふたまひつゝ、これをたづぬるに、遠江のくに笠原の庄にひとつのいけあり、さくらいけと号す。領家にかのいけをこひうくるに、左右なくゆるしてければ、水底をしめんとおもひさだめぬ。さて、ちかひにまかせて、死期にいたりてみづをこひて、たなごゝろにいれてをはりぬ。しかるにかの池、かぜふかずしてにはかにおほなみたちて、いけのなかのちりことごとくはらひあぐ、ひとみな目もあやにみけり。ことのありさまをしかじかと註して領家にしめす。その日時をかぞふれば、かの闍梨逝去の日なり。のちに聖人おほせられけるは、智恵あるがゆえに、生死のいでがたきことをしり、道心あるがゆえに、仏の出世にあはんことをねがふ。しかりといえども、いまだ浄土の法門をしらざるゆえに、かくのごときの意巧に住するなり。われそのとき、この法門をたづねえたらましかば、信不信はしらず教訓しはんべりなまし。そのゆえは、極楽往生ののちは、十方の国土こゝろにまかせて経行し、一切の諸仏、おもひにしたがひて供養せん。なんぞあながちに、穢土にひさしく処することをねがわんやと[云々]。かの闍梨はるかに慈尊三会のあかつきを期して、五十六億七千万歳のそらをのぞむ。いとたうとくも、またをろかにもはんべるものかな。

第四段

師よりよりいさむれども、いかにも遁邁のいろふかゝりければ、闍梨そのこゝろざしのうばひがたきことをしりていはく、なんぢしからばくろだにの慈眼房を師とすべし。かの慈眼房叡空は、真言と大乗律とにをきては当時无双の英髦なりと[云々]。すなはち叡空聖人の室にいたりて、つぶさにかの素意を述す。叡空これをきゝて随喜していはく、なんぢ少年にして出離のこゝろをおこせり。まことにこれ法然道理の聖人なりといひて、すなはち法然をもて房号とす。いみなは源空、これはじめの師源光のはじめの字と、のちの師叡空ののちの字とをとるなり。それくろだにの体たらく、深谷ながれきよく、人跡みちかすかなり。しかのみならず、四季の感興一処にそなへ、六情の懺悔、三業をひそむ。聖人この地の超勝なることをよみして、浮雲こゝろながくつながれぬ。ときに生年十八歳、久安六年九月十二日より、こゝに住して叡空聖人に奉仕し、密・戒と歳月いくばくならず、二宗の大乗を一身に兼学す。そののち一切経論、うへをしのびて日々にひらく、ひらくごとに文字をそらにす。自他宗の章疏、ねぶりをわすれて夜々にみる、みるにしたがひて義理をえたり。また古今の伝記・日記、和漢の秘書・秘典、手にとり、まなこにあてずといふことなし。

第五段

あるとき、法華三昧修行の道場に、白象すなわち現ず。聖人ひとりこれをみたまふ。余人これをみず。また『華厳経』披覧のとき、青蛇つくえのうへにわだかまる。信空これをおどろきたまふ。その夜のゆめに、われはこれ華厳守護の竜神なり、おそるゝことなかれと[云々]。

第六段

暗夜に経巻をみたまふに、灯明なくして室内をてらすこと、ひるのごとし。かくのごときの光明照耀すること、つねのことなり。余人みるところにあらず。聖人、自筆にてこれらの奇特を記したまへり。在生のあひだ披露なし。門弟等滅後にひらきみると[云々]。

第七段

真言の教門にいりて道場観を修したまふに、五相成身の観行、たちまちにあらわれけり。

第八段

保元元年、聖人生年二十四のはる、つらつら天台の一心三観の法門を案ずるに、凡夫の得度たやすからず。凡夫の出離をだにもゆるさば、たとひ小乗の『倶舎』・『婆娑』なりとも学せんとおもふたまひて、求法のために師匠叡空聖人にいとまをこひて、修行にいでたまふ。まづ嵯峨の清涼寺に七箇日参籠す。これすなはち和国の霊場厳重の本尊にましませば、十方の浄土にきらはるゝ罪悪の衆生、三世の諸仏にすてらるゝ生死の凡夫、このたび流転の本源をつくし、輪廻の迷倒をたゝんことを祈請のためなり。

第九段

嵯峨より南都の蔵俊僧都{贈僧正}の房にゆきたまふ。僧都すなはちいであひて対面す。ときに聖人、法相宗の法門の自解の義をのべたまふに、蔵俊しばしばきゝて手をうちていはく、われらが師資相承せる、いまだこの義を存ぜず。禅下はたゞびとにあらず、もしこれ仏陀の境界か、不可思議不可思議といひて、甘心のあまり一期のあひだ供養をのべんと。はたして毎年に供物ををくりけり。

第十段

また醍醐寺の三論宗の名匠法印寛雅にあひて、かの法門の自解の義をのぶるに、名匠聴受してあせをくだしてものいはず。随喜のあまり、文櫃数合をとりいでゝいはく、自宗の章疏附属すべき仁なし。貴禅ゆゝしくこの法門に達せり。ことごとく附属しをはりぬと[云々]。また慶雅法橋にあふて、華厳宗の法門の自解の義をのぶるに、慶雅はじめは悔慢して高声に問答す。のちには、したをまきてものいはず。他門自解の義、自宗相伝の義にこえたるを感嘆して、華厳宗の章疏を白馬におほせてくろだにえをくる。聖教を白馬におほすることは、摩騰迦・竺法蘭のふるきためしをしたひけるにやとおぼゆ。西天の仏教、漢土にわたりしはじめなり。小乗戒はなかのがはの少将の聖人[実範]にしたがひて、鑑真和尚の戒をうけたまふ。実範、受者の神情を感じていはく、あゐよりいでゝあゐよりもあをしと[云々]。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}三

第一段

聖人、みづから浄土門にいる濫觴をかたりてのたまわく、われむかし出離の道にわづらひて、寝食やすからず。多年心労ののち、『往生要集』(巻上)を披覧するに、序にいわく、

「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、たれか帰せざらんもの。たゞし顕密の教法、その文ひとつにあらず。事理の業因、その行これおほし。利智精進のひと、いまだかたしとせず。予がごとき頑魯のもの、あにあへんや。このゆへに念仏の一門によりて、いさゝか経論の要文をあつむ。これをひらきこれを修するに、さとりやすく行じやすし」と[云々]。

序は略して一部の奥旨をのぶ。まさしく念仏の一門によると[云々]。文にいりてくはしくさぐるに、この集に十門をたつ。そのなかに厭離穢土・欣求浄土・極楽証拠等の三門は、行体にあらず、しばらくこれををく。のこるところの七門は、念仏の助成なり。第四の一門は、すなはち正修念仏なり。これをもて、この宗の正因とす。
このゆえに、予『往生要集』を先達として、浄土門にいれるなりと[云々]。そののち、くろだにの報恩蔵にいりて、一切経披覧{五遍と云々}のとき、光明寺の『観経義』をひらきたまふに、極楽国土を高妙の報土とさだめて往生の機分を垢障の凡夫と判ぜられたる義理をみるに、奇異のおもひやうやくうごきて、別してまたかの疏を三遍披覧したまふに、第二遍にいたるまでは、いまだその宗義をえず。これすなはち、本宗の執心をさしはさみて、聖道の教相になづむゆえなり。
第三遍にいたりて、つぶさに本宗の執情をすてゝ一心詳覈のとき、ふかく浄土の宗義をえたり。たゞし自身の往生はすでに決定しをはりぬ。他のためにこの法を弘通せんとおもふたまふに、もし仏意にかなふやいなや、心労の夜ゆめにみらく、紫雲靉靆として日本国におほへり。くものなかより无量のひかりをいだす。ひかりのなかより百宝色のとりとびちる。くものなかに僧あり、かみはすみぞめ、しもは金色の衣服なり。予問ていはく、これたれとかせん。僧こたえていはく、われはこれ善導なり、専修念仏の法をひろめんとす。かるがゆへに、その証とならんがためにきたれるなりと[云々]。
善導はすなはちこれ弥陀の化身なれば、詳覈の義、仏意にかなひけりとよろこびたまふ。

第二段

あるとき、くろだにの幽栖にして、叡空聖人『往生要集』を談ぜられけるに、観称のふたつをたてゝ、称名を観仏にいれて観仏すぐれたるよし、義を成ぜられければ、聖人末座につらなりて、この義しかるべからず、称がいへの観なり。されば、序にかえりてそのこゝろをうべし、「念仏の一門による」(要集*巻上)と[云々]。いかんがこの文を消して、観仏によるといふ義をたてんやとのたまふ。こゝに房主叡空はらだちていはく、先師良忍聖人も観仏すぐれたりとこそおほせられしが、御房はいづくより相伝して称名すぐれたりといふ義をばたてらるゝぞやと。聖人ののたまはく、この条にをきては貴命にしたがひがたし。そのゆえは、経論章疏をみるに、一部始終を序題にかへして料簡する、これ故実なり。しかるにさきにのぶるがごとく、その文にむかふに義理いよいよあきらけし。よくよく聖教をば御覧さふらはでと[云々]。そのとき叡空聖人、こざかしき小僧かなとて、木まくらをとりて、なげうちにしたまふ。聖人かたはらへたちかくれたまひけり。のちによくよく文をみるに、聖人の立義、文にかなひ、理をふくめり。観仏はまことに称名にはあらそふべきにあらざりけりとみなをされければ、後日に聖人を読師の座に屈せらる。しかれども、聖人固辞の礼ふかし。そのとき、座をたち手をひきて、まげてこの書を談じたまふべしと。このうへは、禅命にしたがふとて、座になをりて、この集のこゝろ、往生極楽の正因、濁世末代の目足、念仏の一行にありとみへたるよし、文をあさがへし、義をわきまへて、いみじく講じたまひければ、叡空も感淚にむせび、所化も帰伏のおもひあさからざりけり。あはれにたうとかりしことどもなり。

第三段

かくて叡空聖人臨終のとき、ゆづり狀をかきて、聖人に本尊・聖教等ことごとく附属す。やゝひさしくありて蘇生して、別紙に進上のことばをのせて、さきの狀にあひそふべしと[云々]。冥途にその沙汰はんべりけるかとぞ、ときのひとまふしあへりける。

第四段

諸方の道俗を化せんがために、承安五年{きのえむま}はる、行年四十二にしてくろだにをいでゝよしみづに住したまふ{感神院のひんがしのほとり、北斗堂のきたのをもて}。それよりこのかた、ひとへに浄土の法を談じ、ねんごろに念仏の行をすゝめたまふ。これによりて華夷の皁白、遠近の貴賤、晨暮にあゆみをはこび、門前いちをなす。義をとひ、行をたづぬるもの、済々焉たり、煌々焉たり。したがひつきたてまつるもの、百川の巨海に帰し、鱗介の亀竜につくがごとし。

第五段

天台円頓菩薩大乗戒は、釈尊十九代の法葉、相承一身にあり。このゆえに、高倉の院一日万機のまつりごとをさしをきて、この一心の妙戒をうけさせたまふ。陛下の股肱、簾中の后妃、ともに戒徳をたうとび、おなじく戒香に薫ず。また上西門院にして七日說戒あり。そのとき、からがきのうへにひとつのくちなはあり。わだかまりて七箇日のあひだ、さらにうごかずして聴聞の気色あり。結願の日、たちまちに死す。かうべわれて二分になれり。そのわれたるなかより、蝶のごとくなるものとびさるとみるひともあり。あるひは天人のごとくなるすがたにて、虚空にとびのぼるとみるひともありけり。むかし一人の僧あり、遠堺におもむくことあり。日くれにければ、野なかに夜をあかさんとす。かしこにひとつのつかあなあり、かのあなにとゞまりぬ。僧よもすがら『无量義経』を誦す。かのつかのうちに五百の蝙蝠ありけり。この経聴聞の功によりて、すなはち忉利天に生ずと、ゆめにいりてつげゝり。先蹤すでにかくのごとし。されば、これも說戒聴聞のちからにこたへて、蛇身たちまちにまぬかれて天上に生ずるかとおぼゆ。おほよそ洛中都外、近国遠邦の在家・出家、かうべをかたぶけ、こゝろざしをもはらにす。いにしへかみそりをのみしゆめ、いままさに符合せり。

第六段

治承四年{かのえね}十二月廿八日、東大寺炎上ののち、造営あるべきよし議定あり。大勧進のこと、当世にをきては、法然聖人のほか、たれのともがらにかあらん。あらかじめ精選にあたりて、世その仁ををす。大勧進たるべきむね、右大弁行隆の朝臣、勅使として禅室にむかひてこれをおほす。聖人辞退していはく、貧道もとより山門の交衆をやめて、林叢の幽閑をよみすることは、しづかに仏道を修行して、順次に生死を出過せんがためなり。もし大勧進の職に居せば、劇務万端にして、自行化他なんぞやすからん。おもへらく、他のためにはひとへに浄土の法をのべ、自のためにはもはら称名の行を修しつゝ、そのいとなみのほか他事をまじえじと。こふ、天憐をたれて貧僧が素願、叡察をくだしましませと。勅使そのこゝろざしをくみて、かのことばを奏す。かさねておほせくだされていはく、しからば、器量の仁を挙しまふさるべしと。聖人その条にをきては、はやく秘計をめぐらすべしと[云々]。よりて修乗房重源、かみの醍醐にはんべりけるを召請して、院宣のおもむきをのぶ。重源左右なく領狀す。よりてそのむねを奏せらる。すなはち、修乗房をもてかの職に補せられけり。重源、領狀まめやかの権者かなとぞ、聖人はおほせられける。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}四

第一段

やうやく東大寺すゝめつくりて、修乗坊入唐す。帰朝のとき、極楽の曼荼羅、五祖の真影をわたしたてまつりて、東大寺半作ののきのしたにて、聖人を道師として供養あるべきよしきこえければ、興福・東大両寺の学生・悪僧等、をのをの三論・法相のはたぼこをときまうけて、かねて高座のかたはらになみゐたり。大衆等僉義しけるは、說法のついでをもて、あるひは因明・内明の奥義、あるひは八不中観の深理をとひかくべし。こたえんに紕繆あらば、悪僧等をはなち、あはせて恥辱にあつべしと。しかるに聖人こきすみぞめの衣に、高野ひがさきつゝ、いとこともなげなる体にて入堂あり。かさうちぬぎつゝ礼盤にのぼりて、やがて說法はじまりぬ。影像等の讚嘆ことをはりて、三論・法相の法文とゞこほりなく問難にさいぎりて、智弁たまをはく。つぎに、出離の道にをきては、浄土にあらずは生死をはなれがたく、念仏にあらずは浄土にむまれがたし。いはんや末世にいたりてをや、いはんや凡夫においてをや。しかれば、弥陀称名の一行は諸仏おなじくすゝめ、三国ともにもてあそぶ。なかんづくに、疏をつくり釈をまうくる。おほくはすなはち貴寺の高僧、二宗の先達か。しかれば、当寺の禅徒なんぞあながちにこれをおとしめん。いまこゝろみに霊場にひざまづきて、ほしいまゝに文を釈し、義をのぶ。かつは冥鑑をおそれ、かつわ衆勘をおそる。およそこの念仏は、信ずるものは極楽にむまれて永劫に楽果を証し、謗ずるやからは地獄に堕して長時に苦悩をうく。たれかこれを誹謗せん、たれかこれを信ぜざらんとて、ことばをかざり、理をつくしたまひければ、数百人裹頭の僧綱已下悪僧等袈裟をしのけて、ひたがほになりつゝ、随喜渇仰きわまりなし。あるひはふたゝび釈迦尊の出世にあふかとうたがひ、あるひはたちまちに富楼那の弁說をきくかと嘆ず。をのをの嘲哢の先言を懺悔し、信順の後会をぞあらましける。ことをはりて、あぶらくらにいりましましければ、面々に扈従しつゝ、後生たすけたまえ聖人とぞ、おほやうに拝したてまつりける。そのなかに、悪僧一人、聖人にたちむかひたてまつりて、問ていわく、そもそも念仏誹謗のもの地獄に堕すとは、いづれの経の說ぞやと。聖人、とりあえず『大仏頂経』の說これなりとこたえたまふ。またくだんの僧、袈裟をしのけて、たなごゝろをあはせつゝ後生たすけたまへと礼す。ほとほとはなうそやぎてぞみえける。しかりしよりこのかた、南北二京の慢幢ながくくだけて、西方一実の法輪、とこしなえに転ず、ゆゝしかりしことなり。また当寺古老の学徒、さきだちて瑞夢を感ずることありけり。後日披露しければ、いよいよ霊寺こぞりて帰依をいたしけり。
つぎに「三部経」につきたる事。

『仏說无量寿経』巻上
まさにこの経を釈せんとするに、大意・釈名・入文判釈の三門あり。はじめに、大意は、この経には能化古今の本末をあかし、所化往生の首尾をとく。乃往過去のむかし、久遠発心のいにしえ、十善の王位をなげすてゝ世饒王仏の宝前にまうで、四海の宝国をすてゝ法蔵沙門の尊号をえたり。二百億の荘厳をえらびて四十八の弘誓をおこし、六度四摂の行因を修して三身万徳の仏果を証す。五劫思惟のむかしの密意、十劫已来のいまの妙果にあらはる。修諸功徳のみづ三輩修行のかげをうかべ、本願往生のつき一向専念のまどをてらす。教主釈尊は「横截五悪」(大経*巻下)ととき、高祖和尚は「超断四流」(玄義分)と釈す。経のはじめには阿難聖旨をうけて荘厳浄土の由序をおこし、経のをはりには弥勒附属をうけて念仏往生の流通をつのる。これ一経の元意、二仏の素懐なり。大意かくのごとし。
つぎに題目は、「仏」といふは娑婆の教主、「說」といふは如来の口音、「无量寿」といふは極楽の能化、「経」といふは仏說の都名、「巻上」といふは上・下両巻あるがゆへなり。
つぎに文段は、「我聞如是」といふより「願楽欲聞」といふにいたるまでは、序分なり。「仏告阿難乃往過去」といふより「略說之耳」といふにいたるまでは、正宗なり。「仏語弥勒其有得聞」といふより経のをはりにいたるまでは、これ流通分なり。
弥陀如来もと菩薩の道を行じたまひしとき、檀を修し劫海ををくる。『経』(悲華経巻九檀*波羅蜜品意)にいはく、「ほどこすところの目は、一恒河沙のごとし。乞眼の婆羅門のごとく、飲血の衆生ありて身分の生血をこふに、ほどこすところの生血は四大海水のごとし。噉肉の衆生ありて、身分の脂肉をこふに、ほどこすところのしゝむらは千須弥山のごとし。しかのみならず、すつるところのしたは、大鉄囲山のごとし。すつるところのみゝは、純羅山のごとし。すつるところのはなは、毗布羅山のごとし。すつるところの歯は、耆闍崛山のごとし。すつるところの身皮は、三千大千世界の所有の地のごとし」と[云々]。しかのみならず、あるときには肉山となりて衆生に食噉せられ、あるときには大魚となりて身分を衆生にあたふ。菩薩の慈悲、これをもてしるべしと[云々]。衆生の貪欲、これをもてしるべしと[云々]。飲血・噉肉の衆生はなさけなく菩薩利生のはだえをやぶり、求食着味の凡夫ははゞかりなく薩埵慈悲のしゝむらを食す。かくのごとく一劫二劫にあらず。兆載永劫のあひだ、四大海水の血をながし、千須弥山のしゝむらをつくす。すてがたきをよくすて、しのびがたきをよくしのびて檀度を満じ、尸波羅蜜を満足す。忍辱・精進・禅定・智恵六度円満し、万行具足すと[云々]。またおなじき経の四十八願のなかに、第十八の念仏往生の願にふたつのこゝろあり。出離生死はこれ抜苦なり。往生極楽はこれ与楽なり。生死の衆苦、一時によくはなれて浄土の諸楽一念によくうく。もし弥陀に念仏の願なく、衆生この願力に乗ぜずは、五苦逼迫の衆生、いかんしてか苦海をはなるべき。過去生々世々弥陀の誓願にあはざれば、いまに三界皆苦の火宅にありて、いまだ四徳常楽の宝城にいたらず。過去みなもてかくのごとし。未来またむなしくをくるべし。今生になにのさいわひありてか、この大願にあへる。たとひあふといふとも、もし信ぜずは、あはざるがごとし。すでにふかくこれを信ず、いままさしくこれにあえるなり。たゞし、たとひこゝろにこれを信ずといふとも、もしこれを行ぜずは、また信ぜざるがごとし。すでにこれを行ず、まさしくこれを信ずるなり。願力むなしからず、行業まことあり、往生うたがひなし。すでに生死をはなれ、衆苦をはなるべし。すなはちこれ大悲抜苦なり。つぎに往生極楽ののち、身心に諸楽をうく。まなこに如来を拝見し、聖衆を瞻仰す、みるごとに眼根の楽をます。みゝに深妙の法をきく、きくごとに耳根の楽をます。はなに功徳の法香をかぐ、かぐごとに鼻根の楽をます。したに法喜・禅悦のあぢはひをなむ、なむるにしたがひて舌根の楽をます。身に弥陀の光明をかうぶる、ふるゝごとに身根の楽をます。心に楽の境を縁ず、縁ずるごとに意根の楽をます。極楽世界の一々の境界、みな離苦得楽のはかりごとなり。かぜの宝樹をふくもこれ楽なり、枝・条・華・菓、常楽を韻す。なみの金岸をあらふもこれ楽なり、微瀾廻流、四徳をのぶ。洲鶴のさえづるもこれ楽なり、根力覚道の法門なるがゆへに。塞鴻のなくもこれ楽なり、念仏法僧の妙法なるがゆへに。宝地をあゆむもこれ楽なり、天衣あなうらをうく。宝宮にいるもこれ楽なり、天楽みゝに奏す。これすなはち弥陀如来、慈悲の御こゝろに念仏の誓願をおこして、われら衆生に苦をぬき楽をあたふるこゝろなり。つぎに別して女人に約して願をおこしていはく、「たとひわれ仏をえたらんに、それ女人ありてわが名字をきゝて、歓喜信楽し、菩提心をおこして、女身を厭悪せん。命終ののち、また女像とならば、正覚をとらじ」(大経*巻上)と[文]。これについてうたがひあり。かみの念仏往生の願、男女をきらはず、来迎引接も男女にわたる。繫念定生の願またしかなり。いま別にこの願あり、そのこゝろいかんぞ。つらつらこのことを案ずるに、女人はさはりおもし、あきらかに女人に約せずは、すなはち疑心を生ぜん。そのゆへは、女人はとがおほく、さはりふかくして、一切のところにきらはれたり。道宣、経をひきていはく、「十方世界に女人あるところにはすなはち地獄あり」(浄心誡*観巻上)と[云々]。しかのみならず、うちに五障あり、ほかに三従あり。五障といふは、「一には梵天王となることをえず、二には帝釈、三には魔王、四には転輪聖王、五には仏身」(法華経巻*四提婆品)と[云々]。「一者不得作梵天王」といふは、色界初禅の主、梵衆・梵輔の王なり。かれなを生滅のさかひ、輪転のすがたなる。无量の梵天、かわるがわる居すれども、またく女身をもて高台の閣にのぼるものなく、三銖のころものくびをかいつくろふものなし。これなをかたし、いかにいはんや往生をや。これをうたがふべきがゆへに、別に女人往生の願をおこす。「二者帝釈」といふは、欲界第二の天、須弥八万のいたゞき、三十三天の主なり。かれまた五衰のかたち、魔滅のさかひなる。そこばくの帝釈、かはりうつるといえども、いまだ女身をもて帝釈の宝座にのぼるものなし。「三者魔王」といふは、欲界の第六天、他化自在の王なり。なを業報のすがた、遷変のところなる。百千の魔王うつりゐるといえども、いまだ女身の魔王といふことあらず。「四者転輪聖王」といふは、東・西・南・北四州の王、金・銀・銅・鉄四輪の王なり。そのなかに、いまだ一人としても女輪王といふものあらず。「五者仏身」といふは、仏になることは、男子なをかたし、いかにいわんや女人をや。大梵高台の閣にもきらはれて、梵衆・梵輔のくもをのぞむことなく、帝釈柔輭のゆかにもくだされて、三十三天のはなをもてあそぶことなし。六天魔王のくらゐ、四種輪王のあと、のぞみながくたえてかげをだにもさゝず。天上・天下のなをいやしき生死有漏の果報、无常生滅のつたなき身にだにもならず。いかにいはんや仏位をや。まふすにはゞかりあり。おもえばおそれあり。三惑頓につきて二死ながくのぞこり、長夜こゝにあけて覚月まさにまどかなり。四智円明のはるのそのに三十二相のはなあざやかにひらけ、三身即一のあきのそらに八十種好のつききよくすめり。位は妙覚高貴のくらゐ、四海灌頂の法王なり。かたちは仏果円満のかたち、三点法性円融の聖容なり。実には男子だにも善財大士の一百一十の城にもとめしがごとくし、雪山童子の四句半偈に身をなげしがごとくして、仏にはなるべしとまふしてさふらふに、ゆるくをこなひ、おろそかにもとめては、またくかなふべからずさふらふ。されば五千の上慢これ男子なれども、成仏の座をさりてたち、五闡提羅が沙門なる、无間の業をむすびておちぬ。仏道にきらはれ、仏家にすてらるゝもの、あげてかぞふべからず。いかにいはんや、女人の身は諸経論のなかにきらはれ、在々所々に擯出せられたり。三途八難にあらずは、おもむくべきかたもなく、六趣四生にあらずは、うくべきかたちもなし。しかればすなはち、富楼那尊者、成仏のくにゝもろもろの女人なく、またもろもろの悪道なしとらいひて、三悪道にひとしめてながく女人のあとをけづり、天親菩薩の『往生論』のなかには、「女人をよび根欠、二乗の種は生ぜず」といひて、根欠・敗種に同じて、とをく往生ののぞみをたつと[云々]。諸仏の浄土おもひよるべからず。この日本国に、たうとくやんごとなき霊地・霊験のみぎりに、みなことごとくきらはると[云々]。まづ比叡山はこれ伝教大師の建立、桓武天皇の御願なり。大師みづから結界して、たにをさかひ、みねをかぎりて女人のかたちをいれず。一乗のみねたかくたちて、五障のくもたなびくことなく、一味のたにふかくたゝへて、三従のみづながるゝことなし。薬師医王の霊像みゝにきゝてまなこにみず、大師結界の霊地とをくみてちかくのぞまず。高野山は弘法大師結界のみね、真言上乗繁昌の地なり。三密の月輪、あまねくてらすといえども、女人非器のやみをばてらさず。五瓶の智水、ひとしくながるといえども、女人垢穢のすがたにはそゝがず。これらのところにをいて、なをそのさはりあり。いかにいはんや出過三界道の浄土にをいてをや。しかのみならず、また聖武天皇の御願、十六丈金銅の舎那のみまえに、はるかにこれを拝見すといえども、なをとびらのうちにはいらず。天智天皇の建立五丈の石像、弥勒のまへたかくあふぎてこれを礼拝すといえども、なを壇のうえにはさはりあり。乃至金峯のくものうえ、醍醐のかすみのそこ、女人はかげをさゝず。かなしきかな、ふたつのあしをそなえたりといえども、のぼらざる法峯あり、ふまざる仏庭あり。はづかしきかな、ふたつのまなこあきらかなりといへども、みざる霊地あり、拝せざる霊像あり。この穢土の瓦礫・荊棘のやま、泥木素像の仏にだにもさはりあり。いかにいはんや衆宝合成の浄土、万徳究竟の仏をや。これによりて、往生にそのうたがひあるべきがゆへに、この理をかゞみて別してこの願ありと[云々]。善導この願を釈していはく、「いまし弥陀の大願力によるがゆへに、女人仏の名号を称すれば、まさしく命終のときすなはち女身を転じて男子となすことをう。弥陀手を接し、菩薩身をたすけて宝華のうえに坐し、仏にしたがひて往生して、仏の大会にいりて无生を証悟す。また一切の女人もし弥陀の名願力によらずは、千劫・万劫・恒河沙等の劫にも、つゐに女身を転ずることをうべからず。あるひは道俗ありていはく、女人浄土に生ずることをえずといはゞ、これは妄說なり、信ずべからず」(観念*法門)と。これすなはち、女人の苦をぬきて女人の楽をあたふる慈悲の御こゝろの誓願利生なり。 またいはく、念仏利益の文、『无量寿経』の下にいはく、「仏弥勒にかたりたまわく、それかの仏の名号をきくことをえて、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。まさにしるべし、このひとは大利をうとす。すなはちこれ无上の功徳を具足するなり」。善導の『礼讚』にいはく、「それかの弥陀仏の名号をきくことをうることありて、歓喜して一念にいたるもの、みなまさにかしこに生ずることをうべし」。末法万年ののち、余行ことごとく滅して、ことに念仏をとゞめたまふ文、『无量寿経』の下巻にいはく、「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍をもて、ことにこの経をとゞめて止住すること百歳せん。それ衆生ありてこの経にあふものは、こゝろの所願にしたがひてみな得度すべし」。

『仏說観无量寿経』
まさにこの経を釈せんとするに、大意・釈名・入文判釈の三門あり。はじめに大意は、この経は三世の諸仏浄業の正因をあかし、五濁の凡夫往生の功徳をとく。十三の妙観をこらし、三九の行因を修す。禅定みづしづかにして依正かげをうかべ、散善はなほころびて薫修このみをむすぶ。経のはじめには、しばらく随他意語の機に約してひろく定散の二善をとき、経のをはりには、ことに随自意語の人をえらびてたゞ持名の一行をとく。如来は梵音和雅のみこえをいだして、決定往生の仏名をゆづり、阿難は憶持不忘のいたゞきをたれて遐代流通の付属をうく。仏の本願のこゝろをのぞむに、衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称せしむるにあり。この経の大意かくのごとし。 題目は、「仏」といふは三覚の教主、「說」といふは定散の諸善、「観」といふは依正の二観、「无量寿」といふは念仏の本尊、「経」といふは金口の実語なり。
文段は、大師は五門に約してこれをあかす。いまはしばらく略を存じて、四段をもてこれを釈す。「如是我聞」といふより「云何見極楽世界」といふにいたるまでは、これ序分なり。「仏告韋提汝及衆生」といふより下品下生のをはりにいたるまでは、これ正宗分なり。「說是語時」といふより諸天の発心にいたるまでは、得益分なり。「阿難白仏」といふより経のをはりにいたるまでは、これ流通分なり。
『経』(観経)にいはく、「もし念仏するものは、まさにしるべし。このひとはこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となりたまふ。まさに道場に坐して諸仏のまえに生ずべし」。おなじき経の『疏』(散善義)にいはく、「もしよく相続して念仏するものは、このひとはなはだ希有なりとす、さらにものとしてこれにたくらぶべきなし、かるがゆえに分陀利をひきてたとえとす。分陀利といふは、人中の好華となづく、また希有華となづく、また人中の上々華となづく、また人中の妙好華となづく。このはな相伝して蔡華となづくる、これなり。念仏するものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上々人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四にはもはら弥陀のみなを念ずるものには、すなはち観音・勢至つねにしたがひて影護したまふこと、また親友智識のごとくなることをあかす。いつゝには今生にすでにこの益をかうぶりぬれば、いのちをすてゝすなはち諸仏のいえにいることをあかす。すなはち浄土これなり。かしこにいたりて、長時に法をきゝ、歷事供養す。因まどかに果満ず。道場の座、あにはるかならんや」。おなじき『経』(観経)にいはく、「仏阿難につげたまわく、なんぢ、よくこのことばをたもて。このことばをたもてといふは、すなはちこれ无量寿仏のみなをたもてとなり」。おなじき経の『疏』(散善義)にいはく、「仏告阿難汝好持是語といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することをあかす。かみよりこのかた、定散両門の益をとくといえども、仏の本願のこゝろをのぞむに、衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称せしむるにあり」。

『仏說阿弥陀経』
まさにこの経を釈せんとするに、大意・釈名・入文判釈の三門あり。はじめに大意は、はじめには極楽の依正二報の荘厳をあかし、のちには末代の行者往生の行相をとく。いわゆる法性真如の大地には黄金・瑠璃のかゞみかげをうつし、第一義諦の虚空には曼陀・曼殊のはなにほひをはく。林樹七宝にわかれて華・菓いろいろにかうばしく、池水八徳をたゝえて風波こえごえにながる。珠玉の宮殿いらかをならべ、異花楼閣のきをかさぬ。これ依報の荘厳なり。六十万億の身量は、金山のごとくして高々たり。八万四千の相好は、珂月ににて明々たり。観音は日光のごとくして左面にひざまづき、勢至は月輪にひとしくして右脇に侍す。品々の賢聖はほしのごとくしてあゆみあつまり、彼々の菩薩は花のごとくしてとびきたる。これ正報の荘厳なり。七日口称の念仏は上品信心のひかりをあらはし、六方舌相の証誠は下根疑惑のやみをはらふ。弥陀の弘誓は六八なりといえども、行者の至要は一二にあり。至心信楽は第十八の願、住正定聚は第十一の願なるがゆえなり。大意かくのごとし。
題目は、「仏」といふは諸仏のなかの教主釈尊、「說」といふは五種のうちの如来の巧言なり。「阿弥陀」といふは仏号をもて経の名とす。「経」といふはつねなり。先聖・後賢おなじくとき、おなじく行ず。
文段は、「如是我聞」といふより「諸天大衆倶」といふにいたるまでは、序分なり。「爾時仏告長老」といふより「是為甚難」といふにいたるまでは、正宗なり。「仏說此経已」といふより「作礼而去」といふにいたるまでは、流通なり。経の正宗について、『観念法門』に釈していわく、「また『弥陀経』にいふがごとし。六方にをのをの恒河沙等の諸仏ましまして、みなしたをのべてあまねく三千世界におほひて、誠実のことばをときたまふ。もしは仏在世にまれ、もしは仏滅後にまれ、一切造罪の凡夫、たゞし心を廻して阿弥陀仏を念じて、浄土に生ぜんと願ずれば、かみ百年をつくし、しも七日・一日、十声・三声・一声等にいたるまで、いのちをはらんとするときに、仏聖衆とみづからきたりて迎接して、すなはち往生をえしむ。かみのごときの六方等の仏したをのべて、さだめて凡夫のために証をなしたまふ。つみ滅して生ずることをうと。もしこの証によりて生ずることをえずは、六方の諸仏ののべたまえるした、ひとたびくちよりいでゝのち、つゐにくちにかへりいらずして、自然に壊爛せん」。またいはく、「このひと、つねに六方恒河沙等の仏ともにきたりて護念したまふことをう。かるがゆへに護念経となづく。護念のこゝろは、またもろもろの悪鬼神をしてたよりをえしめず、また横病・横死、よこさまに厄難あることなし、一切の災障自然に消散す。心をいたさゞらんをばのぞく」(観念*法門)。
『経』(小経)にいはく、「仏この経をときたまふことをわりて、舎利弗をよびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所說をきゝて歓喜信受して、礼をなしてしかもさりにき」。『法事讚』(巻下)にこの文を釈していはく、「世尊の說法、ときまさにをはりなんとして、慇懃に弥陀のみなを付属す。五濁増のとき疑謗するものおほからん、道俗あひきらひてきくことをもちゐじ。修行することあるをみては瞋毒をおこす。方便破壊してきほひてあだをなす。かくのごときの生盲闡提のともがら、頓教を毀滅してながく沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身をはなるゝことをうべからず。大衆同心にみな所有の破法罪の因縁を懺悔せよ」。 つぎに五祖につきたること。 いままたこの五祖といふは、まづ曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・少康法師等なり。 曇鸞法師は、梁・魏両国の无双の学生なり。はじめはいのちながくして仏道を行ぜんがために、陶隠居にあひて仙経をならひて、その仙方によりて修行せんとしき。のちに菩提流支三蔵にあひたてまつりて、仏法のなかに長生不死の法の、この土の仙経にすぐれたるやさふらふととひたてまつりたまひければ、三蔵つばきをはきてこたえたまふやう、おなじことばをもていひならふべきにあらず。この土いづれのところにか長生の方あらん。いのちながくしてしばらくしなぬやうなれども、つゐにかへりて三有に輪廻す。たゞこの経によりて修行すべし。すなはち長生不死のところにいたるべしといひて、『観経』をさづけたまえり。そのときたちまちに改悔の心をおこして、仙経をやきて、自行化他、一向に往生浄土の法をもはらにしき。『往生論の註』・『略論安楽土義』等のふみ、これをつくりたまふ。幷州玄忠寺に三百余人の門徒あり。臨終のとき、その門徒三百余人あつまりて、みづからは香炉をとり、にしにむかひて、弟子ともにこえをひとしくして、高声念仏して命終しぬ。そのとき道俗、おほくそらのなかに音楽を聞と[云々]。
道綽禅師は、もとは涅槃の学生なり。幷州玄忠寺にして曇鸞の碑の文をみて、発心していはく、「かの曇鸞法師、智徳高遠なる、なを講說をすて浄土の業を修して、すでに往生せり。いはんやわが所解、所知おほしとするにたらんや」(迦才浄土*論巻下意)といひて、すなはち涅槃の講說をすてゝ、一向にもはら念仏を修して相続してひまなし。つねに『観経』を講じて、ひとをすゝめたり。幷州の晋陽・大原・汶水三県の道俗、七歳已上はことごとく念仏をさとり往生をとげり。またひとをすゝめて、涕唾便利西方にむかはず、行住坐臥西方をそむかず。また『安楽集』二巻これをつくりたまふ。おほよそ往生浄土の教弘通、道綽の御ちからなり。『往生伝』等をみるにも、おほく道綽のすゝめをうけて往生をとげたり。善導もこの道綽の弟子なり。しかれば、終南山の道宣の『伝』(続高僧伝*巻二〇意)にいはく、「西方の道教のひろまることは、これよりおこる」といへり。また曇鸞法師、七宝のふねに乗じて空中にきたれるをみる。また化仏そらに住すること七日、そのとき天花ありて、来集のひとびとそでにこれをうく。かくのごとく不可思議の霊瑞おほし。終時に白雲、西方よりきたりて、三道の白光となりて房中をてらす。五色のひかり、空中に現ず。またつかのうえに紫雲三度現ずることあり。
善導和尚、いまだ『観経』をえざるさきに、三昧をえたまひけるとおぼえさふらふ。そのゆえは、道綽禅師にあひて『観経』をえてのち、この経の所說、わが所見におなじといえり。導和尚の念仏したまふには、くちより仏いでたまふ。曇省の『讚』にいはく、「善導念仏したまへば、仏くちよりいでたまふ」と[云々]。おなじく念仏をまうすとも、かまえて善導のごとくくちより仏いでたまふばかりまふすべきなり。「欲如善導妙在純熟」とまふして、たれなりとも念仏をだにもまことにまふして、その功熟しなば、くちより仏はいでたまふべきなり。道綽禅師は師なれども、いまだ三昧を発得せず。善導は弟子なれども、三昧をえたまひたり。しかれば道綽、わが往生は一定か不定か仏にとひたてまつりたまふべしとのたまひければ、善導禅師命をうけてすなはち定にいりて阿弥陀仏にとひたてまつるに、仏ののたまわく、道綽にみつのつみあり、すみやかに懺悔すべし。そのつみ懺悔して、さだめて往生すべし。ひとつには、仏像・経巻をばひさしにをきて、わが身は房中に居す。ふたつには、出家のひとをつかふ。みつには、造作のあひだむしのいのちをころす。十方の仏のまえにして、第一のつみを懺悔すべし。諸僧のまえにして、第二のつみを懺悔すべし。一切の衆生のまえにして、第三のつみを懺悔すべしと。善導すなはち定よりいでゝ、このむねを道綽につぐる。道綽のいはく、しづかにむかしのとがをおもふに、これみなむなしからずといひて、心をいたして懺悔すと[云々]。しかれば、師にまさりたるなり。善導は、ことに火急の小声念仏をすゝめて、かずをさだめたまえり。一万・二万・三万・五万乃至十万と[云々]。

懐感は、法相宗の学生なり。ひろく経典をさとりて、念仏をば信ぜず、善導に問ていはく、念仏して仏をみたてまつりてんや。導和尚こたえていわく、仏の誠言なんぞうたがはんや。懐感このことにつきて、たちまちにさとりをひらき、信をおこして道場にいりて、高声に念仏して、仏をみたてまつらんと願ずるに、三七日までその霊瑞をみず。そのとき感禅師、みづから罪障のふかくして仏をみたてまつらざることをうらみて、食を断じて死せんとす。善導、制してゆるさず。のちに『群疑論』七巻をつくると[云々]。感師はことに高声念仏をすゝめたまえり。
少康は、もとは持経者なり。とし十五歳にして『法華』・『楞厳』等の経五部をよみおぼえたり。これによりて、『高僧伝』には読誦の篇にいれたれども、たゞ持経者のみにあらず、瑜伽唯識の学生なり。のちに白馬寺にまうでゝ堂内をみれば、ひかりをはなつものあり。これをさぐりとりてみれば、善導の西方化導の文なり。少康これをみて、心たちまちに歓喜して、願をおこしていわく、われもし浄土に縁あらば、この文ふたゝびひかりをはなてと。かくのごとくちかひをはりてみれば、かさねてひかりをはなつ。そのひかりのなかに、化仏・菩薩まします。歓喜やすめがたくして、つゐにまた長安の善導和尚の影堂にまうでゝ、善導の真影をみれば、化して仏身となりて少康にのたまわく、なんぢ、わが教によりて衆生を利益し、おなじく浄土に生ずべし。これをきゝて、少康、所証あるがごとし。のちにひとをすゝめんとするに、ひとその教化にしたがはず。しかるあひだ、銭をまうけて、まづ小童等をすゝめて、念仏一遍に銭一文をあたふ。のちに十遍に一文、かくのごとくするあひだ、少康のありくに小童等つきてをのをの念仏す。また小童のみにあらず、老少男女をきらはず、みなことごとく念仏す。かくのごとくしてのち、浄土堂をつくりて、昼夜に行道して念仏す。所化にしたがひて道場に来集するともがら、三千余人なり。また少康、高声に念仏するをみれば、くちより仏いでたまふこと、善導のごとし。このゆへに、ときのひと後善導となづけたり。浄土堂とは唐のならひ、阿弥陀仏をすえたてまつりたる堂をば、みな浄土堂となづけたるなり。 五祖の御徳、要をとるにかくのごとし。

元徳元年{庚午}九月七日書写之畢
執筆善最


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}四末

第二段

文治二年のころ、天台座主僧正顕真、使者をたてゝ、聖人にしめしていはく、登山のついでにかならず見参をとげて、まうしうけたまはるべきことはんべり、音信せしめたまへと。よりてあるとき、さかもとにいたれるよししめしたまふ。すなはち座主僧正、下山しつゝ対面していはく、今度いかにしてか生死を出過しはんべるべきと。聖人こたへてのたまはく、いか様にも御はからひにはすぐべからずと。またいはく、その条所存なきにあらずといへども、先達におはしませば、もしおもひさだめたまえるむねあらば、しめしたまへとなり。そのときに聖人ののたまはく、自身のためには、いさゝかおもひさだめたるむねあり。はやく往生極楽をとげんとなり。座主のいはく、身にをきては順次の往生いかにもとげがたくおぼえはんべるによりて、この問をいたす。いかゞたやすく往生をとげんやと。聖人ののたまはく、成仏はかたく、往生はえやすし。道綽・善導等の御こゝろによらば、仏の本願をあふぎて強縁とするがゆえに、凡夫浄土に生ずと[云々]。そののち、たがひに言說なくして聖人たちましましにけり。後日に座主のいはく、法然房は智恵深遠なりといへども、いさゝか偏執ありと[云々]。あるひと、このことを聖人にかたる。聖人ののたまはく、わがしらざるをいふには、かならず疑心おこるなりと。僧正またこれをかへりきゝていはく、まことにしかなり。それ顕密の教にをきて稽古をつむといへども、しかしながら名利のためにして涅槃の一道にうとし。かるがゆえに道綽・善導等の釈をうかゞはず。法然房にあらずは、たれびとか、かくのごときのことをいはんとて、自宗の行法をさしをきつゝ、やがて大原に隠居して、百日のあひだ浄土の章疏を渉猟してのち、聖人にしめしていはく、われほゞ浄土の法門をえたり。来臨したまはゞ、精談すべしと。僧正かねて処々の智者を召請しつゝ、大原の勝林院の丈六堂に集会して聖人を啒請す。すなはち重源已下の弟子三十余人をあひ具してわたりたまひぬ。聖人のかたには、重源をはじめとして次第にゐながれたり。座主僧正のかたにも、諸宗の碩徳、僧綱已下、ならびに大原の聖人等また着座す。そのうち、光明山の僧都明遍{東大寺三論宗}・已講貞慶{興福寺法相宗}笠置の解脱房、これなり。山上久住の僧綱には、法印大僧都智海{天台宗}・法印権大僧都証真[同]・法印静厳・法印浄然・僧都覚什・権律師仙基・印西上人・念仏上人{天台宗往生院}・明定房蓮慶{同、来迎院}・本生房湛誉{発言}・妙覚寺の上人蔵人入道仙心{菩提山}・定蓮房{長楽寺}・大和の入道見仏{八坂}・清浄房{勝林院}・究法房[桜本]等、かれこれ両方三百余人、二行に対座す。そのとき上人ののたまはく、源空発心已後、聖道門の諸宗につきてひろく出離の道をとぶらふに、かれもかたく、これもかたし。これすなはち世澆季にをよび、ひと痴鈍にして、機教にあひそむけるゆへなり。しかればすなはち、有智・无智を論ぜず、持戒・破戒をきらはず。時機相応して順次に生死をはなるべき要法は、たゞ浄土の一門念仏の一行なりと、一日一夜、理をきはめ、ことばをつくしてのべたまふ。座主僧正これをきゝて、はじめには問難をいたすといへども、のちには嘉納信伏のいろふかくして、かつて疑殆の一言にをよばず。いひぐちとさだめたる本生房も黙然としてものいはず。みなひと感情をうごかし、帰敬をいたすほか他なし。その形容にむかへば、源空聖人智恵高妙なり。その述義をきけば、弥陀如来応現したまふかとおぼゆ。論談すでにをはりて、随喜のあまり、僧正みづから香炉をとりて入堂して、旋遶行道して高声念仏す。南北の明匠、顕密の諸徳、異口同音に称名すること、三日三夜無間なり、无余なり。あまさえひとつの発願あり。このてらに五箇の房舎をたてゝ不断の念仏を修せん。これすなはち、妙行を相続して遐代にをよぼさんがためなり{これわが朝不断念仏の最初なり}。また重源ひとつの意巧あり。わがくにの道俗、閻魔の庁庭にひざまづかんとき、その名字をとはれんに、仏号をとなへしめんために阿弥陀仏名をつけんと。よりてまづわが名をば南无阿弥陀仏とつきたまへり。阿弥陀仏名これよりはじまる。

第三段

静厳法印よしみづの房にきたりて、とひたてまつりていはく、いかんがしてこのたび生死をはなるべきと。聖人こたへてのたまはく、源空こそたづねまふしたくはんべりつるに、この命いかん。静厳のいはく、決択の門はまことにしかなり。出離の道にをきては、智者・道心者、遁世ひさしくしてかたく案立する義によるべしと。聖人すこしうちえみてのたまはく、源空にをきては、弥陀本願に乗じて往生を期す。そのほかをばしらずと。静厳のいはく、わが所存これなり。ひとの義意をきかんがために、このうたがひをいたすといひて、すなはち座をたちはんべりぬ。

第四段

高野の明遍僧都、聖人所造の『選択集』をみて、よきふみにてはんべるが、たゞし偏執なる篇ありと[云々]。そののち、明遍ゆめにみたまふ様、天王寺の西門とおぼしきところに病者かずをしらず平臥せり。一人のひじりありて鉢にかゆをいれて、かひをもて病者のくちぐちにすくひいる。これたれびとぞととえば、あるひと源空聖人なりといふとみてさめぬ。僧都つらつらこれを案ずるに、『選択集』を偏執のふみなりと非しつるを、ゆめにいりてつげしめすよなとおもふより、懺悔の心やゝすゝみつゝ、この聖人はたゞびとにあらず、時をしり機をはかりたる智者にてましましけりと、いみじくたふとくおぼえけり。病人とみえつるは、无明淵源のやまひにしづめる五濁濫漫のわれらにこそ、甘子・なし風情の菓子を受用することも、はてにはとゞまりぬ。たゞおもゆ・かゆなどをすくひいれて、のんどをうるほすばかりに、いのちをかけたる病者のごとくに、末法濁乱の今時は四重・五逆のやまひ興盛なり。これを治せんこと中道府蔵のくすりにあらずは、すくひがたし。しかるにいま、念仏三味はこれ中道一乗の霊薬、深妙醍醐の頓味なり。しかれば、聖道諸教のなし・甘子にをきては、そのあぢはひ勝劣なしといえども、鈍根无智の罪悪凡夫の器量いたりて浅弱なれば、開悟受用はなはだもてかたし。かるがゆへに時機相応するにつきて、五逆・謗法、重病難治の類に念仏三昧醍醐甚深のかゆをすゝめたまひけるなりと符合して、そののちもはら念仏の行を修したまひけり。この僧都、あるとき善光寺にまうでんとおもひたちたまひけるに、おなじくは聖人に謁して浄土の法門の不審を決してこそ如来前にもまうでめとおもふたまひて、聖人の禅房にいたりてとひたてまつりていはく、末代悪世の罪濁のわれら、いかにしてか生死をはなれはんべるべきやと。聖人こたへてのたまはく、弥陀の名号を称して浄土に往生する、これをもてその肝府とするなりと。僧都のいはく、愚案またかくのごとし、信心を決定せんがためにこの問をいたすなりと。僧都また問ていはく、念仏のときこゝろの散乱するをばいかゞしはんべるべきと。聖人こたえてのたまはく、その条源空もちからをよばず。欲界散地の凡夫こゝろの散乱すること、ひとの目はなの生得なるがごとし。いかにもしづめんこと、かなふべからず。さればこそ、たゞ他力の本願にまかせて機の堪不堪をおもんぱからず、心の散不散からずとはまふしさふらへ。当世のひとみな機教の分際をしらず。仏願の摂持すべきをたのまずして、この身にてたやすく生死いでがたしと卑下のおもひをなす。まことに自力の出離は一大事の因縁なり。しかれども他力の願船にのりぬれば、一念に横超して苦海ものならずこそおぼえはんべれと。僧都みゝをそばだて、こゝろをおさめつゝ、抃悦をいだきてかへりたまひにけり。

第五段

摂津国みてくらじまに年来すみはんべる一人のおのこあり。世のひとなづけてみゝ四郎とぞいひける。天性もとよりかだましくして、またするわざもなく、たゞ梟悪をのみことゝして、世をわたるなかだちとす。あるとき聖人、白河の房{姉小路白河二階房と号す、信空上人の宿房なり}にて終夜法談あり。くだんのみゝ四郎、みやこにのぼりてところどころためらひありくに、便宜よかりければ、かの貴房にいたりぬ。縁のしたにはひかくれて、ひとのしづまるほどをまちけるほど、聖人の御房、いつものことなれば、凡夫出離の要道、浄土の一門、念仏の一行にしくはなし。その機をいへば、十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破見・破戒等の罪人、その行を論ずれば、十声・一声いかなる嬰児もとなへつべし。その信をいへば、また一念・十念いかなる愚者もおこしつべし。もとより十方衆生のためなれば、いづれの機かもれ、いづれのともがらかすてられん。十方衆生のうちには、有智・无智、有罪・无罪、凡夫・聖人、持戒・破戒、若男・若女、老少、善悪のひと、乃至三宝滅尽のときの機までみなこもれり。たゞこの本願にあひ、南无阿弥陀仏といふ名号をきゝえてんもの、若不生者のちかひのゆえに、弥陀如来遍照の光明をもてこれを摂取してすてたまはず。つみをもく、さはりふかく、心くらく、さとりすくなからんにつけても、いよいよ仏の本願をあふぐべし。そのゆへは、弥陀の本誓はもと凡夫のためにして、聖人のためにあらずといふ文によりてなり。あふぐべし、信ずべしなど、さまざま易往易行の道理、他力引接の文証みゝぢかにこゝろえやすくのべたまふに、みゝ四郎、さらになにのわざもわすられて、みゝをそばだてゝ聴聞す。こゝろにおもふやう、これほどにわがため、みゝよりにたふときことはんべらず。かゝるところにおもひよりけるも、しかるべくて後生たすかるべきにて、仏の御をしへにもはんべるらん。たゞいまはひいでゝ、かつはおもひきざしつる意趣をも懺じ、かつはなをもよくたふときことをもとひたてまつらんとおもひつゝ、夜もあけにければ、やをらむなしくはひいでゝ、庭上に蹲居す。御弟子たちあやしみて、ことのよしをとふ。みゝ四郎、しかじかとありのまゝにまふしければ、聖人いであひたまひて、宿縁もともありがたしとて、罪悪重障の凡夫の出離、ことに弥陀難思の願力によらずはかなひがたしとて、手をとりて、ねんごろにとききかせたまふ。みゝ四郎、いよいよよろこびをなして退出す。そのゝち、ふたごゝろなく念仏す。されども生得の報なれば、ひごろのわざすつることもなし。たゞたのむところは、かゝる悪業はげしき身なりとも、念仏せば弥陀如来の大慈大悲の因位の誓約をたがえずむかへたまふぞときゝし聖人の御ことばばかりなり。かくて、としつきをふるに、あるときかたへのをのこ、みゝ四郎が悪事に長じたるをや、そねみおもひけん。なをちかくむつびけるともだちをかたらひえて、みゝ四郎を害せんとたくむ。さけをくみ、さかづきをめぐらしてしゐければ、みゝ四郎沈酔して、ものをひきかつぎ、先後をわきまへずふしにけり。そのとき、かたきかたなをぬきつゝ、うへにかづきたるものをひきのけてみるに、みゝ四郎にはあらで、またく金色の仏体なり。しかのみならず、出入のいきのをと、すなはち南无阿弥陀仏南无阿弥陀仏ときこゆ。こゝにかたき奇異のおもひに住して、まづつるぎをおさめてつらつらこれを案ずるに、年来のあひだ行住坐臥、時処諸縁をきらはず、念仏しつるゆへに、この相現ずるにこそと、いみじくたうとくおぼえて、随喜のおもひをきどころなきあまり、しばしばこれをおどろかすに、みゝ四郎こえにつきて睡眠たちまちにおどろき、酩酊惺悟す。そのとき、かたきのをのこいふやう、なにをかかくしきこえん。しかじかなにがしのぬしがかたらひはんべりつれば、はかなくぞこをうしなひたてまつらんとてたばかりつるに、そのすがた金色の仏像とあらはれ、そのいきの呼吸しかしながら、念仏の音ときこえつれば耳もあやに目もめづらかにおぼえて、かつは謝し、かつはたふとまんがために、左右なくおどろかしつるなり。われもとよりなんぢにむけて遺恨なし、たゞをろかにかたらひをえつるばかりなり。さらにいきどほりおもふことなかれとて、慚謝のあまり、やがてもとゞりをきりてみせけり。これをきくに、いよいよ信力強盛におぼえて、みゝ四郎ももとどりきりてけり。二人こゝろざしをひとつにして、かたはらにいほりしめつゝ、しづかに念仏して、つゐに素懐をとげにけり。されば、かへすがへすも浄土宗の正意は、機の善悪に目をかけて、仏の摂不摂をおもんぱかることなかれとなり。このみゝ四郎は、至極の罪人、悪機の手本といひつべし。今時の道俗、たれのともがらかこれにかはるところあらんや。おほよそこの身にをきて、うちに三毒をたゝへ、ほかに十悪を行ず。つくるに強弱ありといふとも、三業みなこれ造罪なり。をかすに浅深ありといふとも、一切ことごとくそれ妄悪なり。しかれば、たれのともがらか罪悪生死の名をのがれん。いづれのたぐひか煩悩成就の体にあらざらん。つくるもつくらざるも、みな罪体なり。おもふもおもはざるも、ことごとく妄念なり。しかるに当世のひとみなおもへり。わが身にさほどの罪業なければ、本願にはすくはれなん。わがこゝろにさほどの妄念なければ、往生の願ははたしつべしと。このおもひ、しかるべからず。そのゆえは、たとひ身心ともに起悪造罪なくとも、念仏をたのまずは、極楽にむまれがたし。たとひ逆謗闡提なりとも、願力に乗ぜば、往生うたがひなし。罪業の有无によるべからず。本願の信不信にあるべきなり。そもそもかのみゝ四郎は、山賊・海賊・強盗・窃盗・放火・殺害、かくのごときの悪行をもて朝夕の能とし、妻子をたすくるさゝえとしけり。なかんづくに、殺害にをきては、いく千万といふことをしらざりけるとかや。かゝるものゝ、そのわざをしつゝも、念仏を修し本願をたのみける、ことにたふとくもはんべるものかな。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}五

第一段

聖人清水寺にして說戒のとき、浄土の法門をのべ、念仏の一行をすゝめたまふ。聴聞のともがらおほかりけるなかに、南都興福寺にはんべりける大童子、ねんごろに法筵にのぞみてみゝをそばだてけるが、そののち法師になりて、松苑寺のほとりに草庵をしめて、しづかに念仏しつゝ往生の素懐をとげゝるとなん。おほよそ聖人說法のみぎりに縁をむすぶ信男・信女、証をあらはし益をうること、称計すべきにあらず。

第二段

霊山にして三七日不断念仏勤行あり。そのあひだ、灯明いまだかゝげざるほどに、光明忽然として堂中を照耀することあり。また第五日の夜、をのをの行道のうしろに大勢至菩薩もろともに行道したまふ。あるひとこれを拝す。聖人にかくとしめす。さることはんべるらんとこたへたまふ。これよりして、ほゞ大勢至の化身といふことをしりぬ。

第三段

聖人院宣によりて後白河の法皇にまいりて、『往生要集』(巻上)お談ぜられけるに、「それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。道俗貴賤、たれか帰せざらん」とはんべりけるより、そのことゝなくたうとく心肝に銘じければ、いまはじめてきくことのやうにおぼえて、公卿・侍臣、随喜のおもひをおなじくし、堂上・堂下、感情をさへがたかりけり。太上天皇、叡感のあまり、左京の権の大夫ふぢはらの隆信の朝臣におほせて、聖人の真影をうつさしめまします。後代のかたみにとゞめられんがためときこゆ。蓮華王院の宝蔵にこめられて、いまに秘せらると[云々]。

第四段

建久三年あきのころ、後白河の院の御菩提のために、やさかのやまとの入道見仏、引導寺にして七日念仏勤行しはんべりける。声明の先達に心阿弥陀仏、共行の結衆に見仏房・住蓮房・安楽房等あまたひとびとありけり。声明を興行せられけることは、こえ仏事をなすいはれあれば、極楽の宝樹・宝池のなみのをとかぜのこゑも、みな苦空をとなへ常楽をしらぶ。これになずらえて、本願の妙理をあらはし、念仏の気味をまさんがために、五音をとゝのえ七声をたゞしくして、かの依正二報を嘆ずべし。しかれば、聴聞随喜のたぐひ、入宗の方便となりぬべし。利益などかなからんとて、聖人とりたてたまひけり。住蓮・安楽この二人は、ときの宗匠ときこゆ。ゆゝしくたうとかりけるとぞ。

第五段

無品親王[静忠]違例獲麟にましましければ、門徒の僧綱、僧正行舜・僧正公胤・僧正賢実・座主顕真・法印遺厳・法印誉観・法眼円豪等、祈禱のために『大般若』転読ありけれども、さらにその験もましまさざりければ、聖人を召請したてまつりて、出離の一大事談じましましけり。その禅命にのたまはく、このたびいかにしてか生死をはなるべきと。聖人ののたまはく、往生極楽ののぞみ、御念仏にはしかず。まさしく「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」(観経)とときたまえるうへは、別に子細あるべからずと。そののち意念口称相続して、往生の素懐をとげましましけり。

第六段

聖人自筆の記にいはく、「生年六十有六、建久九年正月一日やまもゝの法橋教慶がもとよりかへりてのち、ひつじさるのときばかりより恒例の正月七箇日の念仏始行す。そのあひだ、初日にあたりて明相すこしき現ず。第二日に水想観自然に成就すと[云々]。すべて念仏七箇日のうち、水想観のなかに瑠璃の相少分これをみる。二月四日のあした、瑠璃の地分明に現ずと[云々]。六日の後夜に瑠璃の宮殿の相現ず。第七日のあした、かさねてまた現ず。すなはちこの宮殿おもてあらはれてその相現ず。すべて日想・水想・地想・宝樹・宝殿の五観をはじめとして、正月一日より二月七日にいたるまで三十七日のあひだ毎日にこれらの相現ず」(三昧発*得記)と[云々]。

第七段

「无量寿仏化身无数、与観世音・大勢至、常来至此行人之所」(観経)といへり。聖人つねに居したまふところをあからさまにたちいでゝかへりたまひければ、阿弥陀の三尊、木像にもあらず画像にもあらずして、かべをはなれいたじきをはなれて、天井にもつかずしておはしましけり。それよりのち、長時に現じたまひけり。

第八段

元久元年仲冬のころ、山門の衆徒のなかより念仏停止すべきよし、大衆蜂起して座主僧正顕真にうたへまふす。これによりて座主、聖人にそのたづねあり。そのとき聖人、「起請文」ををくらる。その狀にいはく、「叡山黒谷の沙門源空うやまひてまふす、当寺住持の三宝、護法善神の御宝前に。みぎ源空壮年のむかしの日は、ほゞ三観のとぼそをうかゞひ、衰老のいまのときは、ひとへに九品のさかひをのぞむ。これまた先賢の古跡なり。さらに下愚が行願にあらず。しかるに近日風聞していはく、源空ひとへに念仏の教をすゝめて余の教法を謗ず。諸宗これによりて凌遅し、諸行これによりて滅亡すと[云々]。このむねをつたへきくに、心神をおどろかす。つゐにすなはちこと山門にきこえ、議衆徒にをよべり。炳誡をくはふべきよし、貫首にまふされをはりぬ。この条、ひとつには衆勘をおそれ、ひとつには衆恩をよろこぶ。おそるゝところは、貧道が身をもてたちまちに山洛のいきどほりにをよばんこと、よろこぶところは、謗法の名をけづりてながく華夷のそしりをやめんこと、もし糾断にあらずは、いかでか貧道が愁歎をやすめんや。おほよそ弥陀の本願にいはく、唯除五逆誹謗正法と[云々]。念仏をつとめんともがら、いかでか正法を謗ぜん。また恵心の『集』には、一実の道をきゝて普賢の願海にいると[云々]。浄土をねがはんたぐひ、あに妙法をすてんや。なかんづくに源空、念仏の余暇にあたりて、天台の教釈をひらきて信心を玉泉のながれにこらし、渇仰を銀池のかぜにいたす。旧執なを存ず、本心なんぞわすれん。たゞ冥鑑をたのみ、たゞ衆察をあふぐ。たゞし老後遁世のともがら、愚昧出家のたぐひ、あるひは草庵にいりてかみをそり、あるひは松室にのぞみてこゝろざしをいふついでに、極楽をもて所期とすべし。念仏をもて所行とすべきよし、よりよりもて說諫す。これすなはち、よはひおとろえて研精にたへざるあひだ、しばらく難解難入の門をいでゝ、こゝろみに易行易往の道をしめすなり。仏智なを方便をまうけたまふ。凡愚あに斟酌なからんや。あへて教の是非を存ずるにあらず。ひとへに機の堪否をおもふ。この条もし法滅の縁たるべくは、向後よろしく停止にしたがふべし。愚蒙ひそかにまどえり、衆断よろしくさだむべし。いにしへより化道をこのまず、天性弘教をもはらにせず。このほかに僻說をもて弘通し、虚誕をもて披露せば、もとも糾断あるべし、もとも炳誡あるべし。のぞむところなり、ねがふところなり。これらの子細、先年沙汰のとき起請文を進じをはりぬ。そののちいまに変ぜず。かさねて陳ずるにあたはずといへども、厳誡すでに重畳のあひだ、誓狀また再三、かみくだんの子細、一事一言虚誕をくはへ、会釈をまうけば、行住坐臥の念仏、その利をうしなひ、三途に堕在して現当二世の依身、つねに重苦にしづみてながく楚毒をうけん。ふしてこふ、当寺の諸尊、満山の護法、証明智見したまえ。源空うやまひてまふす。元久元年十一月十三日、源空うやまひてまふす」(漢語灯*巻一〇)とぞかゝしめたまひける。九条の禅定殿下、大原の大僧正顕真に自筆の御消息ををくらる。そのことばにいはく、「念仏弘行のあひだのこと、源空聖人の起請文・消息等山門に披露ののち動静いかん。もとも不審にさふらふ。そもそも風聞のごときは、聖人浅深三重のとがによりて炳誡一決の僉議にをよぶと[云々]。ひとつには、念仏の勧進、総じてしかるべからず。これすなはち真言止観にあらず。弥陀念仏の権說をもて、さらに往生をとぐべからざるがゆえにと[云々]。この条にをきては、さだめて満山の談評にあらじ。もしこれ一両の邪說か。他の謗法をとかんがためにかへりて謗法をいたす、勿論といひつべし。ふたつには、念仏の行者、諸行を毀破するあまり、経論を焚焼し、章疏をながしうしなふ。あるひはまた余善をもては三途の業と称し、犯戒をもては九品の因とすと[云々]。これをきかん緇素、たれか驚歎せざらんや。諸宗の学徒、もはら鬱陶するにたれり。たゞしこの条にをきては、ほとほと信をとらしめがたし。すでにこれ会昌の天子、守屋の大臣等のたぐひか。かくのごときの說過半まことならずと[云々]。たしかなる說について真偽を決せられんに、あへてそのかくれあるべからず。こともし実ならば、科断またかたしとせず。ひとえに浮說をもてとがを聖人にかくる条、理尽の沙汰にあらざるか。みつには、かくのごときの逆罪にをよばずといふとも、一向専修の行人、余行を停止すべきよし勧進の条なをしかるべからず。この条にをきては、進退あひなかばか。善導和尚のこゝろに、このむねをのぶるににたり。しかれども、旨趣甚深なり。行者おもふべし。いま聖人の弘通は、よく疏のこゝろをさぐりて謬訛なし。しかるに門弟等の奥義をしらず、宗旨をさとらざるたぐひ、ほしいまゝに妄言をはき、みだりがはしく偏執をいたすよしきこへあるか。これはなはだもて不可なりとす。聖人さいぎりてこれをいたむ。小僧いさめてこれを禁ず。当時すでに数輩の門徒をあつめて七箇条の起請を註し、をのをの連署をとりてながく証拠にそのふ。聖人もし謗法をこのまば、禁遏あにかくのごとくならんや。ことひろく、ひとおほし。一時に禁止すべからず。根元すでにたちぬ。旧執の枝葉むしろ繁茂することをえんや。これをもてこれをいふに、三重の子細、ひとつとして過失なし。衆徒の鬱憤、なにゝよりてか強盛ならん。はやく満山の停止として、来迎の音楽を庶幾すべきか。そもそも諸宗成立の法、をのをの自解をもはらにして余教をなんともせず。弘行のつねのならひ、先徳の故実なり。これを異域にとぶらへば、月氏にはすなはち護法・清弁、空有の諍論、晨旦にはまた慈恩・妙楽、権実の立破なり。これをわがくにゝたづぬるに、弘仁の聖代に戒律大小の論あり。天曆の御宇には諸宗浅深の談あり。八家きほひて定准をなし、三国つたえて軌範とす。しかれども、あらかじめ末世の邪乱をかゞみて諸宗の討論をとゞめられしよりこのかた、宗論ながくあとをけづり、仏法それがために安全たり。なかんづくに浄土の一宗にをきては、古来の行者ひとえに无染无着の浄心をおこし、専修専念の一行にまかせて、他宗に対して執論をこのまず、余教に比して是非を判ぜず。ひとへに出離をかへりみて、かならず往生の直道をとげんとなり。たゞし弘教歎法のならひ、いさゝかまたそのこゝろなきにあらざるか。源信僧都の『往生要集』のなかに、三重の問答をいだして十念の勝業を讚ず。念仏の至要、この釈に結成せり。禅林の永観、智徳恵心にをよばずといえども、行浄業をつげり。えらぶところの『十因』に、そのこゝろまた一致なり。普賢・観音の悲願をかんがえ、勝如・教信が先蹤をひきて、念仏の余行にすぐれたることを証せり。かのときに諸宗のともがら、恵学はやしをなし、禅定みづをたゝふ。しかりといえども、恵心をも破せず、永観をも罰せず、諸教も滅することなく、念仏もさまたげなし。これすなはち、世すなほにひとうるはしきゆえなり。しかるにいま世澆季にをよび、とき闘諍に属して能破・所破ともに邪執よりおこり、正論・非論みな喧嘩にをよぶ。三毒うちにもよをし、四魔ほかにあらはるゝがいたすところなり。またあるひとのいはく、念仏もし弘通せられば、諸宗たちまちに滅尽すべし。こゝをもて遏妨すと[云々]。このことしかるべからず。過分の逆類にをきては、実によりて禁断せらるべし。またく浄土宗のいたむところにあらず。末学の邪執にいたりては、聖人厳禁を門徒すでに服膺す。かれといひこれといひ、なんぞ仏法の破滅にをよばんや。おほよそ顕密の修学は名利によりて破滅す、これ人間のさだまれる法なり。浄土の教法にをきては、名にあらず利にあらず。後世をおもふひとのほかにたれか習学せんや。念仏弘行によりて余教滅尽の条、戯言か誑說か、いまだ是非をわきまえず。もしこの沙汰熾盛ならば、念仏の行にをきて一時に失隠すべし。因果をわきまへ患苦をかなしむひと、あに傷嗟せざらんや、むしろ悲泣せざらんや。こゝに小僧、壮年のむかしの日より衰暮のいまにいたるまで、自行おろそかなりといえども、本願をたのむ。罪業をもしといえども、往生をねがふにものうからずして、四十余廻の星霜ををくり、いよいよもとめ、いよいよすゝめて、数百万遍の仏号をとなふ。頃年よりこのかた、やまひせまり、いのちもろくして、黄泉に帰せんことちかきにあり。浄土の教跡、このときにあたりて滅亡せんとす。これをみ、これをきゝて、いかでかしのびん。三尺のあきのしも、きもをさし、一寸のよるのともしび、むねをこがす。天にあふぎて嗚咽し、地をたゝきて愁苦す。いかにいはんや聖人、小僧にをきて出家の戒師たり、念仏の先達たり。帰依これふかし、尊崇もとも切なり。しかるを、つみなくして濫刑をまねき、つとめありて重科に処せられば、法のためには身命をおしむべからず。小僧かはりてつみをうくべし。よりて師範のとがをすくひて、浄土の教をまもらんとおもふ。おほよそ、その仏道修行のひと、自他ともに罪業をかへりみるべし。しかるを、あながちに諮諍随事の偽論ををかして、いよいよ无仰迷理の重障に堕せんこと、いたましきかな、かなしきかな。こふ、学侶のこゝろあらん、理にふして執を変、法に優してつみをなだめよならくのみ。死罪死罪、うやまひてまふす。十一月十三日、専修念仏の沙門円照、大僧正の御房へ」とぞはんべりける。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}六

第一段

おほよそ聖人、浄土の法門弘通、先規あとすくなく、当世ならびなし。信をとぶらひ行をたづねて門跡につらなり、禅扃にちかづくたぐひ、そのかずをしらず。あるひは蘭省・鴛鸞の囂名をのがれて、九品三輩のうてなにのぞみをかけ、あるひは荊渓・香象の学窓をいでゝ、三心・五念のゆかにあなうらむすぶ。賢人もこれに帰し、愚昧もこれをあふぐ。こゝに一人の貴禅{ときに範宴少納言のきみ、いま善信聖人これなり。いみな親鸞、もと慈鎮和尚の門弟}叡岳の交衆をやめ、天台の本宗をさしをきて、かの門下にいりてその口決をうく。その性岐嶷にして、聖人甘心きはまりなし。ときに建仁元年{かのとのとり}はるのころなり。今年聖人六十九歳、善信聖人二十九歳。

第二段

「七箇条の起請文」のことばにいはく、
あまねく予が門人の念仏の聖人等につぐ。
一 いまだ一句の文をうかゞはずして真言・止観を破し、余仏・菩薩を謗じたてまつることを停止すべき事。
右立破の道にいたりては、学生のぶるところなり。愚人の境界にあらず。しかのみならず、誹謗正法は弥陀の願に除却せり。その報まさに那落に堕すべし。あに痴闇のいたりにあらずや。

一 无智の身をもて有智のひとに対し、別行のともがらにあひてこのみて諍論をいたすことを停止すべき事。
右論義はこれ智者の有なり。愚人の分にあらず。また諍論のところにはもろもろの煩悩をこる。智者これを遠離すること百由旬なり。いはんや一向念仏の行人にをいてをや。

一 別解・別行のひとに対して、愚痴偏執の心をもてまさに本業を棄置し、しゐてこれをきらふべしといふことを停止すべき事。
右修道のならひ、をのをの自行をつとむるに、あへて余行を遮せず。『西方要決』にいはく、「別解・別行のものには総じて敬心をおこせ。もし軽慢を生ずれば、つみをうることきはまりなし」と[云々]。なんぞこの制をそむかんや。しかのみならず、善導和尚おほきにこれをいましめたまへり。いまだ祖師いましめをしらず、愚闇のいよいよはなはだしきなり。

一 念仏の門にをいて戒行なしと号して、もはら婬酒、食肉をすゝめ、たまたま律儀をまもるものをば雑行のひとゝなづけて、弥陀の本願をたのむもの、造悪をおそるゝことなかれととくことを停止すべき事。
右戒はこれ仏法の大地なり。衆行まちまちなりといへども、おなじくこれをもはらにす。こゝをもて善導和尚、目をあげて女人をみず。この行狀のおもむき、本律の制浄業の類にすぎたり。これにしたがはずは、総じては如来の遺教をうしなひ、別しては祖師の旧跡にそむく。かたがたよどころなきものか。

一 いまだ是非をわきまへざる痴人、聖教をはなれ、師說にあらずして、ほしいまゝにわたくしの義をのべ、みだりに諍論をくはだてゝ、智者にわらはれ、愚人を迷乱することを停止すべき事。
右无智の大天狗、この朝に再誕して、みだりがはしく邪義をのぶ。すでに九十五種の異道におなじ。もともこれをかなしむべし。

一 痴鈍の身をもて、ことに唱導をこのみて正法をしらず、種々の邪法をときて、无智の道俗を教化することを停止すべき事。
右さとりなくして師となるは、これ『梵網』の制戒なり。愚闇のたぐひ、をのれが才をあらはさんと欲して、浄土の教をもて芸能として名利をむさぼり、檀越をのぞむ。おそらくは自由の妄說をなして、世間のひとを誑惑することを。誑法のとがことにをもし。このともがら、国賊にあらずや。

一 みづから仏教にあらざる邪法をときて仏法とし、いつはりて師範の說と号することを停止すべき事。
右をのをの一人の說なりといえども、つもるところ予が一身の衆悪たり。弥陀の教文をけがし、師匠の悪名をあぐ。不善のはなはだしきこと、これにすぎたるはなきものなり。
以前七箇条甄錄かくのごとし、一分も教文を学せる弟子等はすこぶる旨趣をしりて、年来のあひだ念仏を修すといえども、聖教に随順してあえてひとのこゝろにさかへず。世のきゝをおどろかすことなし。これによりて、いまに三十箇年、无為にし日月をわたる。しかるに近年にいたりてこの十箇年以後、无智不善のともがらよりより到来す。たゞ弥陀の浄業を失するのみにあらず。また釈迦の遺教を汚穢す。なんぞ炳誡をくはえざらんや。この七箇条のうち、不当のあひだ巨細の事等おほし。つぶさに註述しがたし。すべてかくのごときらの无方、つゝしみてをかすべからず。このうえなを制法をそむかんともがらは、これ予が門人にあらず、魔の眷属なり、さらに草庵にきたるべからず。自今以後、をのをのきゝをよばんにしたがひて、かならずこれをふれらるべし。余人あひともなふことなかれ。もししからずは、これ同意のひとなり。かのとがなすがごときは、同法をいかり師匠をうらむることあたはず、自業自得の理、たゞをのれが身にあり、ならくのみ。このゆえに、今日四方の行人をもよをして、一室にあつめて告命す。わづかに風聞ありといえども、たしかにたれひとの失としらず。愁歎して年序ををふ。もだすべきにあらず。まづちからのをよぶにしたがひて、禁遏のはかりごとをめぐらすところなり。よりてそのおもむきを錄して門葉等にしめす狀、くだんのごとし。
元久元年十一月七日           沙門源空
源空聖人
信空 感聖 尊西 証空 源智 行西 聖蓮 見仏 道亘 導西 寂西
宗慶 西縁 親西 幸西 住蓮 西意 仏心 源蓮 蓮生 善信 行空
已上二百余人、連署しをはりぬ。


第三段

あるとき聖人、瘧病の事まします。種々の療方、一切に験なし。ときに月輪の禅定殿下おほきに周章したまひて、安居院の僧都聖覚におほせてのたまはく、予善導大師の御影を図画して聖人の貴前にして供養をのべんとおもふ。ねがはくは、請に応じて唱導におもむきたまへと[云々]。かのうけぶみにいはく、「聖覚、かの聖人と同日同時に瘧病つかまつることあり。しかりといえども、なんぞめしにしたがはざらん。はやく病身をたすけて、参勤をいたすべし。かつは師匠報恩のつとめこのことにあるべし。おなじくは早旦にことををこなはるべし」と[云々]。よりて、たつの一点に說法はじまりて、ひつじの剋にことをはりぬ。聖人ならびに導師、即座に瘧病平復す。その講讚の大旨にいはく、それ光明寺の和尚は、「あふぎて本地をたづぬれば、四十八願の法王なり。十劫正覚のとなへ念仏にたのみあり。ふして垂迹をとぶらへば、専修念仏の導師なり。三昧正受のことば、往生にうたがひなし。本迹ことなりといえども化導これひとつなり」(選択集)。しかるにわが大師聖人、その遺風をしたひてこの真宗を興ず。こゝに病患しきりに厳体を逼迫し、劇苦たちまちに正心を悩乱す。楽邦をねがふ徒衆、穢域をいとふ庶類、たれかこれをうれえざらん、たれかこれをいたまざらん。なかんづくに大法主禅定大閤尊下、かの挙動をきゝて寸心むねをこがし、その衰悩をうれへて寝食すでにうみんたり。これによりて聖像を図して平安をこふ。丹誠を悉知してかならず哀愍をたれたまへと[云々]。諸天も随喜し、三宝も納受ありけるにや。啓白のときにあたりて、大師の御影前に異香薫ず。尋常のにほひにあらざりけり。ことの体厳重なり。僧都のいはく、故法印[澄憲は]あめをくだして名をあぐ。聖覚はこのこと奇特なりとぞ、ときのひと不思議のおもひをなしけり。

第四段

『選択本願念仏集』は、月輪の禅定博陸の教命によりて、元久元年{きのえね}のはる、聖人撰集したまふ。真宗の簡要、念仏の奥義、これに摂在せり。みるものさとりやすし。まことにこれ希有最勝の華文、无上甚深の宝典なり。としをわたり日をわたりて、その教誨をかうぶるひと、千万なりといえども、親といひ疎といひ、この見写をうるともがら、はなはだもてかたし。しかるに元久二年{きのとのうし}、聖人の恩恕をかうぶりて『選択集』書写したまふ{撰集以後これ最初なり}。おなじきとし初夏中旬第四日、「選択本願念仏集」の内題の字、ならびに「南无阿弥陀仏、往生之業念仏為本」と、「釈の綽空」{外題のした}の字とをば、聖人真筆をもて、かゝしめたまひて、これを授与したてまつらる。善信聖人、おなじき日、聖人の真影まふしあづかりて図画す。允容によりてなり。

第五段

またおなじきとしうるふ七月下旬第九日、かの真影の銘は、これも聖人真筆をもて「南无阿弥陀仏」と「若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者、不取正覚。彼仏今現在成仏。当知、本誓重願不虚、衆生称念必得往生」(礼讚)の真文とをかゝしめたまふ。またゆめのつげあるによりて、綽空の字をあらためて、おなじき日、これも聖人真筆をもて名の字をかきさづけしめたまふ。それよりこのかた、善信と号すと[云々]。善信聖人ののたまわく、すでに製作を書写し、真影を図画す。提撕みゝにあり、諷諫きもに銘ずとて、つねに往事をしたひたまひけり。すべて門侶これひろしといへども、面授の芳談もとも慇懃なり、相続の義勢等倫にこえたり。くろだにの遺流をくむと称し、聖人の口授をうくとつのる諸家、この一宗にをきてその自義を混ず。ほとほと今案といひつべし、あたかも往哲をわすれたるににたり。こゝに信聖人、ひとり嘉蹤にあゆみてかたく師教をまもる。他力発起の真心、もはら先師說諫の義にまかせ、凡夫即生の去行、あらかじめ末法濁悪の機をはぐゝむ。念仏往生の髄脳、相承心中にたくはえ、弥陀他力の骨目、血脈一身にあり。厭穢忻浄の道俗、ねがはくは、古賢連続の正義をたのむべし。崇信耽行の老少、かならず自由无窮の邪執をすてよとなり。

第六段

園城寺の碩学、法務の大僧正公胤、『選択集』を破せんがために、二巻の書をつくりて、『浄土決疑鈔』と題す。かの書に、ことに一向専修の義を難じていはく、「『法華』に即往安楽の文あり。『観経』に読誦大乗の句あり、『法華』を転読して極楽に往生せんに、なにのさまたげかあらん。しかるに読誦大乗を廃して、たゞ念仏を附属す」と[云々]。これおほきなるあやまりなりと。聖人これをひらきつゝ、こゝにいたりてみはてたまはず。さしをきていはく、この難非なり。まづ難破の法、すべからくその宗義をしりてのちに難ずべし。しかるにいま浄土の宗義にくらくして僻難をいたさば、たれかあへて破せられん。浄土宗のこゝろは、『観経』前後の諸大乗経をとりて、みなことごとく往生のうちに摂入せり。そのなかに、なんぞ『法花経』ひとりもれんや。『観経』にあまねく摂入するこゝろは、念仏に対して廃せんがためなりと。公胤これをつたへきゝて、くちびるをとぢてものいはず。

第七段

順徳院処胎のあひだ、あるとき公胤は加持のため、聖人は說戒のためにおなじく参ず。奉行人遅参によりて、こといまだをこなはれざる以前に、不慮に二人一処に参会して、しばしば浄土の法門を談じ、かねて諸事にわたる。

第八段

公胤、房にかへりてのち、弟子にかたりていはく、今日法然房に対面して、ふたつの所得あり。ひとつには、いまだきかざることをきく。ふたつには、もとしれることのひがめるをあらたむ。まことの宏才なりけり。みたてたるところの浄土の法門、聖意に違すべからず。かの聖人の義をそしれるは、おほきなるとがなりといひて、すなはち『浄土決疑鈔』をやきをはりぬ。

第九段

そもそも一向専修の義を難ずることは、公胤のみにあらず。余人また難じていはく、たとひ諸行往生をゆるすとも、往生のさはりとなるべからず。なんぞあながちに一向専念といふや。おほきなる偏執なりと[云々]。聖人これをきゝてのたまはく、かくのごとく難ずるものは、浄土の宗義をしらざるものなり。そのゆえは、釈尊は「一向専念无量寿仏」(大経*巻下)ととき、善導和尚は「一向専称弥陀仏名」(散善義)と釈したまへり。経釈かくのごとし。源空もし経釈をはなれてわたくしに義をたてば、まことにせむるところのごとし。もしひと一向専念の義を難ぜんとおもはゞ、釈尊・善導を難ずべし。そのとがまたくわが身にあらずと[云々]。またひと難じていはく、「諸教所讚多在弥陀」(輔行*巻二)なるがゆへに、諸宗の人師、かたはらに弥陀をほめ、あまねく浄土をすゝむ。このゆへに前代往生のひとおほし。この宗をたてずといふとも、念仏往生をすゝめんに、なにの不可かあらん。ひとへにこれ勝他なりと[云々]。聖人きゝてのたまはく、浄土宗をたつるこゝろは、凡夫の報土に生ずることをあらはさんためなり。そのゆえは、天台の教相によらば、凡夫の往生をゆるすといへども、身土を判ずること、いたりてあさし。もし法相によらば、身土を判ずることふかしといへども、凡夫の往生をゆるさず。諸宗の所談、まことにたくみなりといへども、すべて凡夫の報土に生ずることをゆるさず。もし善導和尚の釈義によりて浄土宗をたつるとき、わづかに一世の念仏力によりて、界内麤浅の凡夫、たちまちに報土に生ずる義、こゝにあきらけし。このゆえに別して浄土宗をたつと[云々]。

第十段

もしまたひとありて、いまたつるところの念仏往生の義、いづれの教、いづれの師のこゝろぞといはゞ、こたふべし、真言にあらず、天台にあらず、華厳にあらず、三論にあらず、法相にあらず。たゞ善導和尚のこゝろによりて浄土宗をたつ。和尚はまさしく弥陀の化身なり。所立の義あふぐべし、信ずべし。またく源空が今案にあらずと[云々]。けだし聖人、黒谷の松扉を辞して、よしみづの草庵に住したまひしよりこのかた三十余年、ひろむるところは弥陀浄土の法門、つとむるところは本願称名の妙行なり。かみ一人椒房よりはじめて、しも国宰黔首にいたるまで、みな他力往生の教風にそみ、聖衆来迎の瑞雲に乗ぜずといふことなし。まさにしるべし、唐家には導和尚、和国には空聖人、それ浄土宗の元祖なり。おほよそ聖人在世のあひだ、諸人霊夢これおほし。あるひとは聖人釈迦如来なりとみる。あるひとは聖人弥陀如来なりとみる、あるひとは聖人大勢至菩薩なりとみる。あるひとは聖人文殊師利菩薩なりとみる。あるひとは聖人道綽禅師なりとみる。あるひとは善導大師なりとみる。あるひとは聖人おほきなる赤蓮華に坐して念仏したまふとみる。あるひとは天童四人聖人を囲遶して管絃遊戯したまふとみる。あるひとは聖人の吉水の禅房をみれば瑠璃の地にしてすきとほり瑠璃のはしをわたせりとみる。{詮をとりてこれを註す}かくのごときの奇特、ゆめにもうつゝにもこれおほし。称計すべからず。

第十一段

聖人あるとき月輪殿に参じて、浄土の法門閑談数剋、座をあたゝめられて退出のとき、禅定殿下庭上にくづれおりさせたまひて、稽首礼拝しばらくありて、おほきに蕭然としておどろきおきあがりてのたまはく、をのをのみずや、聖人地上たかく蓮華をふみてあゆみたまふ。また頂上に金色の円光あらはれて赫奕たりと。ときにかたはらにはんべる戒心房{右京の大夫入道隆信}・本蓮房{中納言阿闍梨尋玄}、二人ともにみたてまつらずと啓す。帰依としふりたりといへども、いよいよ仏想をなしたまひけり。 元徳元年十一月七日
釈宝円相伝


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}七

第一段

聖人浄土真宗の興行ますます繁昌し、貴賤上下の帰依いよいよ純熟す。こゝに太上天皇{後鳥羽の院と号す、諱尊成}・今上{土御門の院と号す、諱為仁}聖曆承元{ひのとのうのとし}仲春上旬のころ、南北の学徒顕密の棟梁、浄土の一門弘興、聖道の諸宗廃滅の因縁このことにあり。すべからくその根本につきて空聖人をつみすべしといふことを僉義しつゝ、奏聞にをよぶ。そのうへ門弟のなかに不慮の无実、内々そのきこえありければ、ことの計会おりふしあしくて、南北の学徒の奏事、左右なく勅許、すでに罪名の議定にをよびて、はやく遠流の勅宣をくだされけり。聖人の罪名藤井の元彦おとこ、配所土左のくに{幡多}、春秋七十五。このほか門徒あるひは死罪、あるひは流罪。流罪のひとびと、浄聞房{備後のくに}・禅光房澄西{伯耆のくに}・好覚房{伊豆のくに}・法本房{佐渡のくに}・成覚房幸西{阿波のくに、俗姓物部と云々}・善信房親鸞{越後国国府}罪名藤井善信・善恵房{たゞし无動寺の前大僧正、これをまうしあづかる}已上流罪、師弟ともに八人。善綽房西意{摂津国にして誅す、佐々木の判官実名しらずが沙汰と云々}・性願房・住蓮房・安楽房{已上近江のくにむまぶちにして誅す、二位の法印尊長が沙汰と云々}已上死罪、四人。このひとびと誅せらるゝとき、面々に不可思議の奇瑞をあらはす。あるひはながれいづるところの血より青蓮華出生す。あるひはくびおちてのち、合掌をあらためて念珠をくること百八の念殊をもて三遍と[云々]。あるひはかうべよりひかりをはなち、おつるところのくび高声念仏十余遍これをとなふ。あるひはくちより蓮華出生す。種々奇特のことらありけりとなん。

第二段

承元元年三月上旬のころ、聖人すでに配所におもむきましますべきになりければ、月輪の禅定殿下の御沙汰として、法性寺の小御堂にわたしたてまつりて、逗留をなしき。三月十六日みやこをいでたまふ。信濃のくにの住人、つのおりの成阿・沙弥随蓮等、力用器量なりければ、力者の棟梁として、われもわれもと六十余人御こしにしたがひたすけたてまつる。すでに進発のとき、信空上人ひそかにまふしていはく、衰邁の身をもて遠堺のたびにいでたまふこと、たちまちに師といきながらわかれなんとす。あひさることいくそばくぞや。をのをの天の一涯にあり。山海をへだてゝまたながし。音容ともにいまにかぎれり。再会いづくんぞあひたのまん。うれふらくは師所犯なしといへども、流刑の宣をかうぶれり。あとにとゞまる身のため、ひとりなにのおもてかあらんといひて、むねをうちて歎息す。聖人ののたまわく、よはひすでに八旬にせまれり。おなじ帝畿にありとも、ながくいきてたれかみん。たゞし因縁つきずは、なんぞまた今生の再会なからんや。駅路はこれ聖者のゆくところなり。唐家には一行阿闍梨、和国には役の優婆塞、謫所はまた権化のすむみぎりなり、晨旦には白楽天。わが朝には菅丞相、上古の英聖なをしかなり。いはんや末世の愚惷をや。先蹤みゝにあり、はぢとするにたらず、うれえとするにをよばず。このときにあたりて、辺鄙の群衆を化せんこと莫太の利生なり。たゞしいたむところは、源空興ずる浄土の法門は濁世衆生の決定出離の要道なるがゆえに、守護の天等さだめて冥瞰をいたさんか。もししからば、貧道が流罪、弟子が{住蓮安楽}斬刑かくのごときのこと、先代いまだきかず。こと常篇にたへたり。因果のむなしからざること、いきて世に住せば、おもひあはすべきなりと[云々]。また率爾をかへりみず、一人の門弟に対して一向専念の義をのべたまふ。御弟子西阿推参していはく、かくのごときの御義しかるべからずおぼえはんべりと。聖人ののたまわく、なんぢ経釈をみずやと。西阿まふしていはく、経釈はしかりといへども、世間の機嫌を存ずるばかりなりと。聖人またのたまはく、われたとひ死刑にをこなはるとも、さらに変ずべからずと[云々]。その気色もとも熾盛なり。みたてまつる諸人、なみだをながし随喜せずといふことなし。またのちに信空上人のいはく、先師のことば相違せず。はたしてその報あり。いかんとなれば、承久の騒乱に東夷上都を静謐せしとき、きみは北海のしまのなかにましまして多年こゝろをいたましめ、臣は東土のみちのほとりにして一時に命をうしなふ。先言たがはず後生よろしくきくべしと[云々]。おほよそ念仏停廃の沙汰あるごとに、凶事きたらずといふことなし。ひとみなこれをしれり。羅縷にあたはず、筆端にのせがたし。しかれども、前事のわすれざるは後事の師なりといふをもてのゆへに、世のためひとのため、はゞかりあるににたれども、いさゝかこれを記す。

第三段

聖人みやこをいでたまふ日、公全律師{聖信上人これなり}も配所{肥後のくにと云々}におもむきけるが、律師のふねはさきにいでけるが、聖人くだらせたまふときゝて、しばらくをさえて聖人の御ふねにのりうつりて、恩顔にむかひて落淚千行万行なり。聖人は念仏してことばもいだしたまわず、たゞうちゑみたまふばかりなり。さるほどに律師のふねよりとくとくとすゝめければ、なごりおほくてもとのふねにのりてけり。

第四段

住蓮・安楽等の四人は、物悤の沙汰にて左右なく誅せられをはりぬ。そのほかなを死罪あるべしときこえけるなかに、善信聖人も死罪たるべきよし風聞す。それかの聖人は、いまだ宿老にをよばずといへども、師の提携にもたへ、宗の奥義をもつたへて世誉等倫にこえ、智徳諸方にあまねかりければにや。かねて天聴にそなはり、さきだちて雲上にきこゆ。まめやかに徳用やはたしけん。君臣ともに猶予のうへ、六角のさきの中納言親経の卿、年来一門のよしみを通ぜられけるが、おりふし八座にて議定のみぎりにつらなりて、まふしなだめられけるによりて、遠流にさだまりにけり。すなはち配所越後のくに{国府}におもむきまします。かの黄門侍郎は家門累代の正統、朝廷無双の忠臣にて、才芸和漢にわたり、勤労よせをもし、内外の両典をかんがへ、古今の蹤跡をとぶらひて、諸卿の意見をまふしやぶられける。ゆゝしくきこえけるとなん。

第五段

聖人、摂津国経のしまに一宿したまひければ、村里の男女老若まいりあつまりけり。そのとき念仏のすゝめいよいよひろく、上下結縁かずをしらず。このしまは、六波羅の太相国{清盛公}一千部の『法華経』をいしのおもてにかきて、おほくののぼりぶねをたすけ、ひとのなげきをやすめんために、つきはじめられけり。いまにいたるまで、くだるふねにはかならずいしをひろひてをくならひなり。利益まことにかぎりなきところなり。

第六段

むろのとまりにつきたまひければ、遊君どもまいりあつまりて、往生極楽のみちわれもわれもとたづねまふしけり。むかし小松の天皇{光孝天皇これなり}八人のひめみやを七道につかはしけるより、遊君いまにたえず。あるとき天王寺の別当僧正[行尊]拝堂のためにくだられける日、江口神崎の遊女ふねをちかくさしよせければ、僧の御ふねにみぐるしくといひければ、神楽をうたひいたしはんべりける。「有漏地より無漏地にかよふ釈迦だにも 羅睺羅のはゝはありとこそきけ」と、僧正めでゝさまざまの纏頭したまひけり。なかごろのことにや、少将の上人{なかのがはの本願実範}ときこえしひと、かのとまりをこぎすぎたまふことありけるに、遊女ふねをさしうかべて、「くらきよりくらきみちにぞいりぬべき はるかにてらせやまのはのつき」と、くりかへしくりかへし三遍うたひてこぎかへりけるこそ、あはれにおぼゑはんべれ。またおなじきとまりの長者、とねくろやまひにしづみけるとき、最後のいまやうに、「なにしにわが身のおひにけん おもえばいとこそかなしけれ いまは西方極楽の 弥陀のちかひをたのむべし」とうたひければ、紫雲うみにそびき、音楽まつにこたへて往生をとげゝり。いにしえもこのとまりには、かゝるためしどもはんべれば、いまもこの聖人にみちびかれたてまつらんことうたがひなしとて、よろこびつゝまいりけるなかに、修行者一人あり。とひたてまつりていはく、至誠等の三心を具しさふらふべきやうは、いかゞおもひさだめはんべるべきと。聖人こたへてのたまはく、三心を具することは、たゞ別の様なし。阿弥陀仏の本願に、わが名号を称念せば、かならず引接せんとおほせられたれば、決定して摂取せられたてまつるべしと、ふかく信じてこゝろに念じ、くちに称するにものうからず。すでに往生うちかためたるおもひをなして、歓喜のしるしには南无阿弥陀仏南无阿弥陀仏ととなへゐたれば、自然に三心具足のいはれあるなり。三心とはたゞ本願をうたがはざる一心をいふなり。わづらはしくみつのこゝろをほかにもとむべきにはあらざるなり。また在家无智のともがらは、さほどまでおもはねども、念仏まふすものは、極楽にむまるなればとて、つねに念仏をだにまふせば、三心は具足するなり。さればこそ、いふにかひなきものどものなかにも、神妙の往生はすることにてあれ。たゞうらうらと本願をたのみて、南无阿弥陀仏とをこたらず称すべきなりと。修行者領解しつゝ、随喜ふかゝりけり。

第七段

聖人の配所は土左のくにとさだめられけれども、讚岐のくに塩飽の庄は御領なりければ、月輪の禅定殿下の御沙汰にて、ひそかにかのところへぞうつしたてまつられける。かの庄の預所、駿河の守高階の時遠入道西仁がたちに寄宿、御教書のむねなをざりならざれば、なじかはおろそかにしたてまつるべき、きらめきもてなしたてまつる。温室結構し、美膳調味しつゝ、そのあひだの経営いかにかなとぞふるまひける。近国・遠郡の上下傍庄、隣郷の男女、群集して世尊のごとくに帰敬したてまつりけり。一向専念なるべきやうをよみたまひけるうた、

阿弥陀仏と いふよりほかは つのくにの なにはのことも あしかりぬべし

また法門のついでにくちずさみたまひける句にいはく、「名利は生死のきづな、三途の鉄網にかゝる。称名は往生のつばさ、九品の蓮台にのぼる」。時遠入道西仁とひたてまつりていはく、自力・他力といふこといかゞこゝろえはんべるべき。こたへてのたまはく、源空は殿上へまいるべき器量にてはなけれども、かみよりめせば二度までまいりたりき。これはわがまいるべき式にてはなけれども、かみの御ちからなり。まして阿弥陀仏の御ちからにて称名の願にこたへて引接せさせたまはんことを、なにの不審かあらん。自身のつみをもければ、无智なれば、仏もいかにしてすくひたまはんなどおもはんは、つやつや仏の願をしらざるひとなり。かゝる罪人をやすやすとたすけんれうにおこしたまへる本願の名号をとなへながら、ちりばかりもうたがふこゝろあるまじきなり。十方衆生の願のなかには、有智・无智、有罪・无罪、善人・悪人、持戒・破戒、男子・女人、三宝滅尽ののち百歳までの衆生、みなこもれり。かの三宝滅尽のときの念仏者にくらぶれば、当時のわ入道どのなどは仏のごとし。かのときは人寿わづかに十歳、戒定恵の三学名をだにもきかず。いふばかりもなきものどもの来迎にあづかるべき道理をしりながら、わが身のすてられたてまつるべきやうをば、いかゞして案じいだすべき。たゞ極楽のねがはしくもなく、念仏のまふされざらんのみこそ往生のさはりにてはあるべけれ。かるがゆへに他力の本願とも、超世の悲願ともまふすなりと。時遠入道、いまこそこゝろえはんべりぬれとて、手をあはせてよろこびけり。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}八

第一段

御弟子等、いざや当国にきこゆるまつやまみんとてゆきければ、聖人もわたりたまひけり。眺望のいとおもしろさに、ひとびと一首のうたよみけるに、聖人、

いかにして われ極楽に むまれまし 弥陀のちかひの なきよなりせば

ひとびとこの御詠こゝろえられず、当所の景気、もしはひなのすまゐなどこそあらはしたくはんべれ。これはその義もなしと難じまふしければ、さもあらばあれ、地形その興をもよほすに、こゝろのいみじくすめば、かくいはるゝなりとおほせられければ、みななきにけり。

第二段

聖人浄土の法門興行につきて、諸宗の学者邪幢をさゝげて吹毛の罪咎をうたへ、万乗の至尊虚名によりて師弟の断罪にをよぶ。しかれども、智徳四海にうるひ、行学一朝にあまねかりしかば、片州に身ををへんこと仏陀の冥鑑そのはゞかりありとて、いそぎめしかへさるべきよしきこえけり。されども、やがてその沙汰もなし。そののち承元三年八月のころ、まづ摂津国勝尾山にうつさる。かしこは勝如上人往生の瑞地、幽閑無双の霊寺なり。当山の住侶念仏を修し、諸方の老若浄土に帰しければ、このところの利生また大切なりとて、をのづからふたとせの春秋をぞをくりたまひける。

第三段

当山に一切経ましまさゞるよしきこえければ、興隆のためにとて聖人所持の経論をわたしたまふに、寺内の衆徒上下七十余人、むかへたてまつらんために参向す。古老の住侶等、随喜悦誉して、宝蓋をさゝげ華香を供して、賞翫きはまりなかりけり。あまさへ安居院の法印聖覚を屈請して、唱導の師として開題供養ありけり。そのことばにいはく、「いま一代を分別するに二種あり。ひとつには聖道、ふたつには浄土なり。かの聖道門といふは、智恵をきはめて生死をはなる。いま浄土門といふは、愚痴にかへりて極楽にむまる。二門ともに一仏の所說なりといへども、廃立参差し天地懸隔なり、これすなはち大聖の善巧利生方便なり。常途の教義をもて、みだりがはしく難ずべからず。それ愚痴にかへるといふは、法蔵比丘のむかしのとき成就衆生の願をたてたまひしおり、すべて罪障深重のたぐひ、濁世末代の愚鈍のやから、生死の尽期なからんことをふかくかなしみて、五劫思惟のむろのうちに観念・坐禅・布施・持戒のわづらはしきもろもろの行をさしをきて、易行易修の称名をもて本願として、あまねく一切の下機に応じたまへり。一念なを得生の業なり、いはんや多念をや。五逆むねと正機なり、いはんや軽罪のひとをや。これによりて超世の誓願となづけ、または不共の利生と称す。ふかくその願を信じて名号を称念すれば、智恵・愚痴を論ぜず、持戒・破戒をきらはず、十は十ながらむまれ、百は百ながらむまる。しかのみならず、釈迦慇懃の附属、諸仏一味の証誠は、たゞ名号にかぎりて観仏に通ぜず。指方立相して、あへてふかきことはりをあかさず、无智の義文ことはり必然なり。たゞ信じて行ずるほかには義なきをもて義とす。たゞしもとより智恵ありて弥陀の内証外用の功徳、極楽の地下・地上の荘厳等を、これを観ぜんをば、かならずしも遮せず。いま論ずるところは、義理観念をもて宗として、但信称名の行者をかたくなはしくこれを非するを解するなり。かの聖道門の先徳・明哲、浄土門にいりて宗のこゝろをあきらめて、そのこゝろをえては、本願の奥旨、往生の正業、しかしながら口称念仏なりとみひらきたるうへは、浄土経の所說の観仏三昧すらなをもて廃す、いかにいはんや他宗のふかき観にをきてをや。たゞ称名のほかにはその他事をわする。その体惘然として、すなはち愚痴ににたり。かるがゆへに浄土の機は愚痴にかへるとはいふなり。それ八万法蔵は八万の衆類をみちびき、一実真如は一向専称をあらはすところなり。用明天皇の儲君御誕生に南无仏ととなへたまふ。その名をあらはさずといえども、こゝろは弥陀の名号なり。慈覚大師の伝灯は経文をひきて宝池のなみに和し、空也上人の念仏常行はこえをたてゝ徳をあらはし、永観律師の往生の式は七門をひらきて一偏につかず、良忍上人の融通念仏は神祇冥道にはすゝめたまへども、凡夫ののぞみはうとうとし。こゝにわが大師法主聖人行年四十三より念仏門にいりて、あまねくひろめたまふに、天子のいつくしきたまのかうぶりをにしにかたぶけ、月卿のかしこきこがねのかんざしをにしにたゞしくす。皇后のこびたるは韋提希のあとををひ、傾城のことんなきは五百の侍女をまなぶ。しかるあひだ、とめるはをごりてもてあそび、まづしきはなげきてともとす。農夫はすきをもてかずをしり、駅路は念仏をもてとりに擬し、ふなばたをたゝく海上には念仏をもてうほをつり、かせきをまつ木のもとには念仏をもてひづめをとる。雪月花をみるひとは西楼に目をかけ、琴詩酒にふけるともがらはにしのゑだのなしをおる。弥陀をあがめざるをば瑕瑾とし、念珠をくらざるをば恥辱とす。花族英才なりといへども、念仏せざるをばおとしめ、乞丐非人なりといへども、念仏するをばもてなす。かるがゆえに八功徳水のうえには念仏のはちすいけにみち、三尊来迎のいとなみには紫台をさしをくひまなし。しかのみならず、われらが念仏せざるはかのいけの荒廃なり、われらが欣求せざるはそのくにの愁訴なり。くにのにぎはひ、仏のたのしみ、称名をもてさきとす。ひとのねがひ、わがねがひ、念仏をもて職とす。よりて当座の愚昧、公請につかへてかへる夜は念仏をとなへてまくらとし、私宅をいでゝわしる日は極楽を念じてくるまをはす。これみな聖人の教誡、過去の宿善にあらずや。たづねみれば、弥陀はすなはち応声来現の如来、受用智恵の真身なり。名号はまた五劫思惟の肝心、願行所成の総体なり。かるがゆへにこれを信じて称念すれば、念々に八十億劫の生死の罪𠎱を滅し、声々に無上の大利を獲得す。このゆえに念仏の衆生は、一世にすなはち相好の業因をうへ、現身にあくまで福智の資糧をたくはへて、愚痴暗鈍の凡夫なれども、うちには六度万行を修する菩薩とおなじ。もししからずは、いかでか有漏の穢土をいでゝ无為の報国にまいりて、凡夫の性をすててたゞちに法性の身を証せんや。さだめてしりぬ、弥陀の本願といふは、万機を名号の一願にさだめ、千品を口称の十念にむかへ、おなじく宝池のはちすに託生せしめ、ともに无生の益を証得す。五逆をもきらはず、謗法をもすてず。しるべし」とて、はなをかみとゞこほりなければ、寺僧結衆なみだをながし、そでをしぼりけり。むかし戒成皇子の『大般若』供養には草木ことごとくなびくなり。いま聖人念仏の勧進には道俗みな浄土をねがひけり。

第四段

赦免

竜顔逆鱗のいきどほりをやめて、鳳城還住の宣をくだされければ、建曆元年{かのとのひつじ}十一月十七日に入洛す。宣旨にいはく、「左弁官くだす。土左のくにはやくめしかへすべし流人、藤井の元彦おとこ。右くだんの元彦、いんじ[1]承元元年三月の日、土左のくにゝ配流す。しかるにいま念行するところあるによりて、めしかへさるてへり。それがし勅宣をうけたまはる、くによろしく承知すべし。宣によりてこれををこなふ。建曆元年八月の日、左大史小槻の宿禰国実弁」[云々]。院宣は、権中納言藤原の光親の卿{あるひは岡崎の中納言範光の卿と云々}かきくだされけり。これによりて、聖人帰京のよしのゝしりければ、一山みななごりをおしみつゝをくりたてまつりけり。

第五段

聖人京着ののちは、洛陽東山大谷にゐたまひて、なを浄土の法門興行いにしへにたがはず、諸方の帰依いやめづらなり。よしみづの前大僧正{慈円、慈鎮和尚これなり}の御沙汰にてすえたてまつられけるとぞ。むかし釈尊、忉利のくもよりくだりたまひしかば、人天大会よろこびおがみたてまつりき。いま聖人南海のなみにさかのぼりたまへば、道俗男女供養をのぶ。貴賤群集すること、一日一夜のうちに一千余人と[云々]。このときひとありて、法門たづねまふしけるに、おほせられていはく、決定往生のひとにとりて二人のしなあるべし。ひとつには、身に威儀をそなへ、くちには念仏を相続し、こゝろには本誓をあふぎて四威儀のふるまひにつきて遁世の相をあらはし、三業の所作出要にそなへたり。ほかに賢善精進の相あれども、うちに愚痴懈怠の心なく、行儀をもかゝず、渡世をもうかゞはず、心かたましくして利養をへつらふこともなく、名聞のおもひもなく、貪嗔邪偽もなく、奸詐百端もなく、雑毒のけがれもなく、不可の失もなく、まことに外儀も精進に内心も賢善に、内外相応して一向に往生をねがふひともあり。これ決定往生のひとなり。かゝる上根の後世者は末代にまれなるべし。ふたつには、ほかにたふとくいみじき相をもほどこさず、うちに名利の心もなく、三界をふかくうとみていとふこゝろきもにそみ、浄土をこひねがふこゝろ髄にとほり、本願を信知してむねのうちに歓喜し、往生をねがひて念仏ををこたらず。ほかには世間にまじはりて世路をわしり、在家にともなひて利養にかたどり、妻子に随逐して行儀さらに遁世のふるまひならず。しかりといへども、心中には往生のこゝろざし片時もわすれがたく、身口の二業を意業にゆづり、世路のいとなみを往生の資糧とあてがひ、妻子眷属を知識の同行とたのみて、よはひの日々にかたぶくをば往生のやうやくちかづくぞとよろこび、いのちの夜々におとろふるをば穢土のやうやくとをざかるぞとこゝろえ、いのちのをはらんときを生死のをはりとあてがひ、かたちをすてんときを苦悩のをはりと期し、仏はこのときに現前せんとちかひて影向をしばのとぼそにたれ、行者はこのときゆかんと期して、結跏を観音の蓮台にまつ。このゆへに、いそがしきかな往生、とくこのいのちのはてねかし。こひしきかな極楽、はやくこのいのちのたゑねかし。くやしきかなわがこゝろ、生死のひとやをすみかとして悪業のためにつかはるゝこと。うれしきかなわがこゝろ、无為のみやこにかへりゆきて四生のあるじとあふがれんこと。かやうにこゝろのうちをすまして廃忘することなく、たとひ縁にあへば、よろこびもあり、うれへもあり、おかしきこともあり、うとましきこともあり、はづかしきこともあり、いとおしきこともあり、ねたきこともあり。かやうのことあれども、これは一旦のゆめのあひだの穢土のならひとこゝろえて、これがためにまぎらかされず、いよいよいとはしく、たびのみちにあれたるやどにとゞまりてあかしかねたるこゝちして、よそめはとりわき後世者ともしられず、よのなかにまぎれて、たゞ弥陀の本願に乗じて、ひそかに往生するひとなり。これはまことの後世者なるべし。時機相応したる決定往生のひとなり。この二人のこゝろだてを弥陀は「至心」(大経*巻上)とをしへ、釈迦は「至誠心」(観経)ととき、善導は「真実心」(散善義)と釈したまへりとぞ。

第六段

聖人あるとき大谷の房にて、にしのかたはるかに眺望したまひつゝ、くちずさませたまひけるうた、

しばのとに あさゆふかゝる しらくもを いつむらさきの いろとみなさん

第七段

おなじき二年正月二日より老病不食ことに増気せり。すべてこの二三年、耳目惛暗としていろをみ、こゑをきくこと、ともにつはびらかならず。しかるに終焉の期にのぞみて二根明利なること、むかしにたがはず、余言をまじえず、ひとへに往生のことを談じ、高声念仏たゆることなし。おなじき三日、ある御弟子とひたてまつりていはく、今度の往生決定か。こたえてのたまはく、われもと極楽にありし身なれば、さだめてかへりゆくべしと。あるときまた弟子につげてのたまはく、われもと天竺にありて声聞僧にまじはりて、頭陀を行じて化度せしめき。いま粟散片州のさかひに生をうけて念仏宗をひろむ、衆生化度のためにこの界にたびたびきたりき。十一日のたつの剋に、聖人おきゐで、高声念仏したまふ。きくひとみな歓喜のなみだをながす。弟子等につげてのたまはく、高声念仏すべしと、阿弥陀仏顕現したまふなり。この仏の名号を称すれば、本願力によるがゆへに一人も往生せずといふことなしといひて、念仏の功徳を讚嘆し、弥陀の本誓を宣說したまふこと、あたかもむかしのごとし。聖人またのたまはく、観音・勢至等の菩薩聖衆現前したまへり、をのをのおがみたてまつるやいなやと。弟子等おがみたてまつらずと[云々]。これをきゝていよいよ念仏すべしとすゝめたまふ。また三尺の弥陀の像を病床のみぎにすへたてまつりて、この仏拝したまふべしと。ときに聖人ゆびをもてそらをさしてのたまはく、この仏のほかにまた仏おはします、おがむやと。すなはちかたりていはく、おほよそこの十余年よりこのかた、念仏功つもりて、極楽の荘厳をよび仏・菩薩をみたてまつること、常恒のことなり。しかれども、ひとにこれをいはず、いま終焉かぎりにあり。かるがゆへにこれをしめす。また御弟子等、仏のみてに五色のいとをかけてこれとりたまへと。聖人ののたまはく、かくのごときのことはこれつねのひとにとりてのことなり。わが身にをきてはしかるべからずとて、つゐにとりたまはず。廿日の巳のときに紫雲、房のうへに垂布せり。そのなかに円形のくもあり。絵像の円光のごとくして、五色鮮潔なり。路次往反のひと、処々にこれをみる。弟子まふさく、このうへに奇雲まさにつらなれり。往生のちかづきたまえるかと。聖人きゝてのたまはく、あはれなるかな、あはれなるかな。わが往生の瑞相はたゞ一切衆生をして念仏を信ぜしめんがためなりと。ひつじのときにあたりて、ことに目をひらきて西方えみをくりたまふこと五六遍。そのとき看病のひと、とひたてまつりていはく、仏のあらはれたまふかと。こたへてのたまわく、しかなりと。おほよそ明日往生のよし、夢想のつげによりておどろききたりて終焉にあふもの、五六許輩なり。かねて往生のつげをかうぶるひとびと、さきの権の右中弁ふぢはらの兼隆の朝臣・権律師隆寛・しらかはの准后のみやの女房・別当入道{惟方の卿}・あま念阿弥陀仏・坂東のあま・陪従信賢・祇陀林の経師・一切経のたにの住僧{大進のきみ}・薄師真清・水の尾山の樵夫。このほか紫雲をみるひとかずをしらず。また弥陀の三尊、紫雲に乗じて来現したまふをみるひとびと、信空上人・隆寛律師・証空上人・空阿弥陀仏・定生房・勢観房。また七八年さきだちて、兼隆の朝臣ゆめにみる、聖人御臨終には「光明遍照」(観経)の四句の文をとなへたまふべしと。こゝに聖人廿三日以後、三日三夜、あるひは一時、あるひは半時、高声念仏不退のうへ、ことに廿四日のとりの剋より廿五日の巳の剋にいたるまでは、高声念仏体をせめて无間なり、无余なり。弟子五六人、番々に助音す。助音のひとびとは窮屈にをよぶといへども、暮齢病悩の身、勇猛なることは奇特のことなり。まさしく最後{廿五日むまの正中}にのぞむとき、年来所持の慈覚大師の九帖の袈裟をひきかけて、「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」(観経)の文を誦して、頭北面西にして念仏のいきたえたまひをはりぬ。音声とゞまりてのち、なを脣舌をうごかすこと十余遍なり。ときに春秋満八十、夏臘六十六、身体柔輭にして容貌つねのごとし。恵灯すでにきえ、法舟また没すと。かなしみあへることかぎりなし。音楽まどにひゞく、帰仏・帰法のみゝをそばだて、異香室にみてり。信男・信女のたもとに薫ず。あるひは紫雲を拝するひと、あるひは霊夢を感ずるともがら、勝計すべからず。筆墨にひまなく、委註にあたはず。三春いかなるころぞ、釈尊滅をとなへ、聖人滅をとなふ。かれは二月中旬の五日、これは正月下旬の五日。八旬いかなるとしぞ、釈尊滅をとなへ、聖人滅をとなふ。かれも八旬なり、これも八旬なり。

第八段

ふしておもんみれば、釈尊円寂のつきにすゝめること一月、荼毗のけぶりことなりといへども、弥陀感応の日にしりぞくこと十日、利生のかぜこれおなじきをや。観音垂迹の済度、勢至方便の善巧、もてかくのごとし。かなしきかな、貴賤哀慟して考妣を喪せるごとし。弟子等哽絶して房のひんがしにうづみたてまつりをはりぬ。


拾遺古徳伝絵詞{黒谷源空聖人}九

第一段

門弟等つねの式にまかせて、中陰の勤行心肝をくだき、毎七日供仏施僧のいとなみ傍例のごとし。

初七日[不動尊]。導師信蓮房、施主大宮の入道前内府、諷誦をさゝげられていはく、「それおもんみれば、先師在生のむかし、弟子遁朝のゆふべ、一心精進のまことをこらして十重清浄の戒をうく。かるがゆへに済度を彼岸にたのみて、うやまひて諷誦をこのみぎりに修す。小善根をきらふことなかれ、かならず大因縁たらん。はやく蓮台の妙果をかざらんがために、こゝに蒲牢の逸韻をたゝくところなり。うやまひてまふす。建曆二年二月日」とぞかゝれける。

二七日[普賢菩薩]。導師求仏房、建曆二年二月三日の夜、入道別当惟方の卿のむすめ、あはたぐちの禅尼のゆめにみるやう、聖人殯葬のところにまうでたれば、八幡宮の御戸をひらくかとおぼゆ。御正体等そのうちにおはしますとみるに、さては聖人の葬送のところにはあらず。八幡宮なりけりとおもふほどに、かたはらのひとのいはく、かの御正体をさして、あれこそ法然聖人の御房の御正体よといふ。これをきゝて身の毛いよだち、あせながれてさめぬ。このゆめまた奇特なり。そもそも神功皇后元年{かのとのみ}大菩薩誕生のむかし、八のはたふる。かるがゆへに八幡大菩薩と号す。聖人誕生のいま、ふたつのはたくだる、もともその表示あるか。かの大菩薩の本地を行教和尚みたてまつらんと祈請ありしかば、たもとのうへに阿弥陀如来うつりたまひき。しかれば、かれをもてこれをおもふに、聖人弥陀如来の応迹といふことあきらかなり。

三七日[弥勒菩薩]。導師住真房、弟子湛空噠嚫をさゝぐ。義之がいしずり一紙のおもてに十二行{八十余字}、これに一首のうたをあひそへけり。

にしえよし ゆくべきみちの しるべせよ むかしもとりの あとはありけり

四七日[正観音]。導師法蓮房、弟子良清が願文にいはく、「先師末法万年のはじめにあたりて、弥陀一教のすぐれたるをひろむ。智恵剣をひさぐ、莫耶のほこさきときにあらず。戒行たまをみがく、摩尼のひかり明を比す。そもそも尊霊逝川にさきだちて四五日、遠人来迎のくもをのぞむ。新墳をつきて両三旬、遺弟栴檀のにほひをかぐ。こゝに誠諦のことばをかざりて、ひとえに菩提の果をいのる。掲焉の旨意いよいよもて服膺す」と[云々]。

五七日[地蔵菩薩]。導師権律師隆寛、弟子源智が願文にいはく、「彩雲のきにおほふ、ちかくみ、とをくみて来集す。異香室にみてり、われもかぎ、ひともかぎてともに嗟嘆す」と[云々]。

六七日[釈迦如来]。導師法印権大僧都聖覚、大法主无動寺の前大僧正慈円諷誦をさゝげられていはく、「仏子聖人存日のあひだ、よりより法文を談じ、つねに唱導にもちゐる。結縁のおもひあさからず、済度の願これふかし。これによりて六七日の忌辰にあたりて、いさゝか諷誦を修し、三菩提の果位をいのりて、うやまひて華鐘をならす。しかのみならず、法衣をさゝげて往生のいえにをくる。解脱のころもこれなり。法食をとゝのへて化城の門にまうく、禅悦の食これなり。しかればすなはち、幽霊かの平等の願にこたえてかならず上品の蓮台に往生し、仏子この丹誠のこゝろざしによりて最初引接の得益にあづからん、うやまひてまふす」。

七々日{弥陀如来ならびに両界の曼荼羅}。導師三井の僧正公胤、法主信空の願文にいはく、「先師廿五歳のむかし、弟子十二歳のとき、かたじけなく師資の約契をむすびて、ひさしく五十の年序をつめり。一旦に生死をへだてゝ九廻のはらはたたえなんとす。叡山黒谷の草庵に宿せしより東都白河の禅房にうつるにいたるまで、そのあひだ撫育の恩といひ、提携のこゝろざしといひ、報謝のおもひ昊天きはまりなし。こゝをもて弥陀迎接一軀の形像をあらはし、胎蔵・金剛両部の種子を安ず。また『妙法蓮華経』を摺写し、『金光明経』を書写することをのをの一部、もて開眼し、もて開題す。一心の懇志三宝智見したまへ、うやまひてまふす」とぞかゝれける。

おほよそこのあひだ、仏事をいとなみ、諷誦をさゝぐるひと在家・出家かずをしらず。かの僧正唱導をのぞまれけることは、先年『浄土決疑鈔』をやくといへども、聖人厳重の往生をきゝて、かさねてかの罪咎を懺悔せんがためなり。仏経講讚ののち、つぶさに『決疑鈔』の元起をのべたまひていはく、公胤今日参勤の本意は、ひとへに聖人を謗難せし重罪を懺悔せんがためなりと[云々]。
座下の聴衆随喜せずといふことなし。しかうしてのち建保四年{ひのえね}四月廿六日の夜、聖人公胤につげたまふ夢想にいわく、往生の業のなかには、一日六時剋に一心にして念をみだらざれば、功験もとも第一なり。六時にみなを称するものは往生かならず決定す。雑善は決定ならず、専修は決定の業なり。源空に孝養のために公胤よく說法す。感喜つくべからず。臨終にまづ迎接せん。源空、本地の身は大勢至菩薩なり。衆生を化せんがためのゆへに、この界にきたることたびたびなり。

第二段

かの公胤僧正、おなじき四年閏六月廿日、禅林寺の辺にして往生をとげをはりぬ。種々の瑞相これをしめす。紫雲はるかにそびき、音楽ちかくきこえ、諸人目をおどろかし、親疎みゝをそばだつ。謳歌すること仙洞後宮にをよび、帰敬すること京洛辺土にあまねかりけり。

第三段

延曆寺の梨本は実相円融の房舎、青蓮院は皇胤譜代の貴跡なり。をのをの四明一山の貫首にのぼり、みな両門三千の棟梁にそなはる。いづれもやんごとなき高僧賢哲なり。あるひは帰敬をいたして往生の後会をちぎり、あるひは諷誦をさゝげて滅後の菩提をいのる。これみな念仏を賞し、聖人をあがむるゆへなり。余恩をわすれざるともがら、遺骸をなんぞかろしとせんや。しかるにいかなる邪魔外道の所為にか、聖人往生十五年ののち、後堀川の院の御宇、嘉禄三年のなつ、山僧僉議していはく、専修念仏を停廃すべし。たゞしその根本たるによりて、まづ源空のおほたにの墳墓を破却して、かの死骸をかもがはにながすべしと[云々]。奏聞をふるに勅許あり{摂政猪熊の太政大臣家実座主浄土寺の大僧正円基}。六月十二日に山門の使者等おりきたりて、清水坂の乱僧におほせつけて、廟堂をこぼちとるところに、京師守護修理の亮平の時氏・内藤五郎兵衛の尉盛政法師{法名西仏}をさしつかはし、制止をくはえていはく、たとひ勅免ありといふとも、武家にあひふれず、左右なく狼籍をいたす条、はなはだもて自由なり。すべからくあひしづまりて穏便の沙汰をいたすべしと。問答ときをうつすあひだ、晩陰にをよびて、山門の使者、さかの乱僧をのをのかへりをはりぬ。

第四段

こゝに信空上人、妙香院の僧正{良快}にまふしていはく、こといたりて興盛なり。山僧のくはだて、さだめてもだせざらんか。こたへてのたまはく、いまのおほせ同心す。改葬もともしかるべしと[云々]。これによりて信空上人、夜ふけ、ひとしづまりてのち、遺骸をほりいだしてになひゆきつゝ、嵯峨の二尊院にかくしをく。くだんの夜、宇津の宮の弥三郎入道頼綱法師、守護のために五六百騎の兵士を引率して扈従す。しかうしてのち、聖棺をになひて洛中をとほしたてまつるに、面々になみだをながし、各々にそでをしぼる。おそらくは双樹林のゆふべのいろかはり、跋提河のなみにむせびけんもかぎりあれば、これにはすぎしとぞみえける。総じて但信念仏の行人、一向欣求の道俗、御ともするともがら、千余人なり。

第五段

このことにあひしたがふ僧侶等、口外にいだすべからざるむね、仏前にしてをのをの誓狀をたてゝ退出しをはりぬ。そののち、なをあなぐりもとむべきよし、そのきこえあるあひだ、五箇日をへてのち、また二尊院より広隆寺の来迎房円空がもとにうつしをきたてまつる。 =

第六段

明年正月廿五日のあかつき、また西山の粟生{いまの光明寺これなり}にむかへいれて、法蓮上人・聖信上人・覚阿弥陀仏等来会して、その夜、すなはち火葬しをはりぬ。そのとき種々の霊瑞あり。奇雲太虚にみち、異香庭前にかほる。

第七段

善信聖人も勅免のうへは、やがて帰京あるべきにてはんべりけるほどに、聖人入洛ののちいくばくならずしてのち、入滅のよしきこえければ、いまは古京にかへりてもなにかせん、しかじ師訓をひろめて滅後の化儀をたすけんにはとて、いそぎものぼりたまはず、東関のさかひこゝかしこにおほくの星霜をぞかさねたまひける。やゝひさしくありて入洛、五条西の洞院わたりにひとつの勝地をしめてすみたまふ。このとき先師聖人没後なりとて、その聖忌をむかふるごとに、声明の宗匠を屈し、緇徒の禅襟をとゝのへて、月々四日四夜礼讚念仏とりをこなはれけり。これしかしながら、先師報恩謝徳のためなりと[云々]。

第八段

諸宗の碩才聖人の威徳に帰することみぎにのせをはりぬ。そのほか法印明禅公請労たけ稽古としふりたる名匠なり。しかるに聖人の没後にあたりて、その宗義をうかゞひ、かの勧化を信じてつゐに往生をとげき。臨終には「極重悪人无他方便」(要集*巻下)の四句の文をとなふと[云々]。また沙弥随蓮{在所四条万里の小路の四条おもて}出家ののち、つねに聖人の御房につかへて、配所えもしたがひたてまつりけり。御臨終のとき、随蓮をめしてのたまはく、念仏は様なきを様とするなり、たゞひらに称名の行をもはらにすべしと[云々]。随蓮ひとへに禅命を信じて、ふたごゝろなく念仏しけり。聖人往生以後三箇年をふるあひだ、遺弟等のいはく、念仏はすれども三心具足せずは往生かなふべからずと[云々]。こゝに随蓮いはく、故聖人は念仏は義なきを義とす、たゞひらに仏語を信じて念仏せよとて、またく三心のことおほせられざりきと。かのひとこたえていはく、それは一切にこゝろうまじきものゝための方便なり。御存知のむねはよなとて、文釈のこゝろゆゝしくまふしきかせけり。随蓮まことにさもやありけんとおほきに疑心をおこして、たれひとにかとはまじとおもひて、一両月をふるあひだ、心労かぎりなくして念仏もまふされず。ある夜のゆめに、法勝寺の西門をさしいりてみれば、いけの蓮華いろいろにひらけてよにめでたかりけり。にしの廊のかたえあゆみよりてみれば、僧衆あまたならびゐて、浄土の法門談ぜらる。随蓮はしをのぼりあがりてみれば、故聖人きたなる座にみなみむきにゐたまえり。随蓮みつけてまいらせてかしこまる。聖人随蓮を御覧じてまぢかくきたれとおほせられければ、おそれおそれかたはらにまいりぬ。随蓮が存ずるむねをいまだまふしのべざるさきに、聖人ののたまはく、なんぢこのほどこゝろになげくことあり、ゆめゆめわづらふことなかれと[云々]。このこと一切にひとにもまふさず。いかでかしろしめすべきとおもひて、かみくだんのむねをつぶさにまふしのぶ。そのとき聖人ののたまはく、たとへばひがごとをいふものありて、あのいけの蓮華を、蓮華にはあらず、むめぞさくらぞといはゞ、なんぢは信じてんやと[云々]。随蓮まふしていはく、現に蓮華にてはんべり、いかにひとまふすとも、いかでかむめ・さくらとはおもひはんべらんと。そのとき聖人ののたまはく、念仏の義またかくのごとし。源空がなんぢにをしゑしことばを信ぜば、蓮華を蓮華といはんがごとし。ふかく信じて念仏をまふすべしとなり。悪義邪義のむめ・さくらをばゆめゆめ信ずべからずと、おほせらるゝとみてさめをはりぬ。不思議のおもひをなすこときはまりなし。ひごろの不審ことごとく散じ、疑心たちまちにはれて、むかしの御をしえすこしも相違なかりけりと符合しつゝ、念仏のほかふたごゝろなくして八旬にをよびて往生の素懐をとげにけり。
おほよそ聖人、在生の徳行、滅後の化導称計すべからず。たれか暗夜にともしびなくして室内をてらすや。たれか慈覚大師の袈裟を伝持するや{南岳大師の相承}。たれか国家の御ため戒師たるか。たれか芝砌にをいて真影をのこすや。たれか他門のために帰敬せらるゝや。たれか現身に頭光をはなつや。たれか現身に三昧を発得するや。これみな聖人一身の徳なり。はかりしりぬ、十方三世无央数界の有性・无性、和尚の興世にあひてはじめて五乗斉入の道をさとり、三界・九居・四禅・八定の天王・天衆、聖人の誕生によりてたちまちに五衰退没の苦をまぬかるといふことを。和漢ことなりといへども、利生これおなじきものか。いはんやまた末代罪濁の凡夫、弥陀他力の一行によりてことごとく往生の素懐をとぐる。しかしながら聖人立宗興行のゆへなり。願力をたのみて往生をねがふともがら、たれかその恩を報ぜざらん。念仏に帰して極楽を願ずるひと、なんぞかの徳を謝せざらん。これによりていさゝか伝記をひらきて、ほゞ奇蹤を錄するものなり。

于時正安第三年辛丑歳、従黄鐘中旬九日至太呂上旬五日、首尾十七箇日、扶痻忍眠草之。縡既卒爾、短慮転迷惑、紕繆胡靡期。俯乞、披覧之宏才要加取捨之秀逸耳。
衡門隠倫釈覚如{三十二歳}
元徳元年{己巳}十一月書写了
釈宝円相伝之


脚註:

  1. いんじ(往んじ)。過ぎ去った。去る。