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浄土十疑論

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

『阿弥陀十疑論』ともいう。 一巻。 天台大師智顗の撰とされるが、疑問が持たれ智顗に仮託されたものといわれる。 往生浄土の法門について十種の疑難を設けて答えたもの。 ➡ 浄土十疑論

◆ 参照読み込み (transclusion) JDS:浄土十疑論

じょうどじゅうぎろん/浄土十疑論

一巻。『十疑論』『天台十疑論』『阿弥陀仏十疑論』『阿弥陀決十疑』とも呼ばれる。著者不明。古来、天台智顗の真撰とされてきたが、近代以降の研究によって偽撰説が定説化され、八世紀前半の成立とされている。本書は浄土教に関する十箇の疑義を挙げて一々に答え、悪業深重の凡夫や女人などの未断惑の者であっても阿弥陀仏本願力光明力によって西方極楽浄土往生することができることを示している。智顗に仮託された書物であるが、智顗の著作や思想に通ずる点はなく、天台的な解釈すら一切見いだせない。本書に称名念仏が強調されることはないが、内容の中心は凡夫往生の可否にあり、曇鸞道綽善導懐感の影響を色濃く受けた浄土教典籍といえる。具体的には、難行道易行道自力他力の法門等が示されて浄土往生を願求する必然性が説き明かされ、十方浄土西方浄土、兜率上生西方往生、臨終の十念による往生別時意説の否定、女人・根欠者・二乗声聞縁覚)の往生の可否、凡夫俗人の往生行等の問題が論じられている。本書の後代への影響は大きく、中国では、最古の引用である飛錫ひしゃく念仏三昧宝王論』をはじめ、中国唐代以降の天台系浄土教者に流布し、宋代には延寿知礼遵式じゅんしきなどの浄土教者に受容され、澄彧ちょういく註浄土十疑論』や継忠『十疑論科』、元照がんじょう浄土十疑論科文』といった注釈書も作られている。明代でも智旭によって『浄土十要』に加えられている。日本においては、平安期に最澄によって将来されて以降、良源源信等によって広く用いられ、禅瑜はその影響を受けて『阿弥陀新十疑』を著している。法然も『選択集』や『逆修説法』に引用しており、『浄土初学抄』には「天台の御意、往生門においては念仏を以て行と為して、余行を以て因と為すこと無しと見えたり。五大部の章疏のほかに別に十疑論を作りて往生極楽の行は念仏門なりと釈す…然らば、往生の為には本宗(天台宗)の人なりと雖も此の十疑の文を学び、念仏の法門を学ぶべきなり」(昭法全八三二〜三)と述べて本書の学習を勧めている。


【所収】浄全六、正蔵四七


【参考】佐藤哲英『天台大師の研究』(百華苑、一九六一)


【執筆者:吉水岳彦】


浄土十疑論

浄土十疑論序

宋無為子 楊傑述

愛不重不生娑婆。念不一不生極楽。娑婆穢土也。極楽浄土也。娑婆之寿有量。彼土之寿則無量矣。娑婆備諸苦。彼土則安養無苦矣。

愛重からざれば娑婆に生まれず、念一ならざれば極楽に生まれず。娑婆は穢土なり、極楽は浄土なり。娑婆の寿(いのち)は有量、彼の土の寿は則ち無量なり。娑婆は諸苦を備え、彼の土は則ち安養にして苦無きなり。

娑婆随業転輪生死。彼土一往則永証無生法忍。若願度生則任意自在。不為諸業転矣。

娑婆は業に随いて生死に転輪し、彼の土は一たび往けば則ち永く無生法忍を証す。若し度生を願ぜば則ち任意に自在なり。諸業の為に転ぜられず。

其浄穢寿量苦楽生死。如是差別。而衆生冥然不知。可不哀哉。阿弥陀仏。浄土摂受之主也。釈迦如来。指導浄土之師也。

其の浄と穢の寿量、苦楽と生死、是の如き差別を、衆生冥にして然るを知らず。哀れまざるべきかな。阿弥陀仏は、浄土摂受の主なり、釈迦如来は、浄土を指導する師なり。

観音勢至。助仏揚化者也。是以如来一代教典。処処叮嚀。勧往生也。

観音と勢至は仏を揚げ化を助ける者なり。是れ如来一代の教典を以つて、処処に叮嚀に往生を勧むるなり。

阿弥陀仏与観音勢至。乗大願船。泛生死海。不著此岸。不留彼岸。不止中流。唯以済度為仏事。

阿弥陀仏と観音・勢至は、大願の船に乗じて、生死海に泛(うか)びて、此の岸に著せず、彼の岸にも留まらず、中流にも止まらずして、唯だ済度を以つて仏事と為す。

是故阿弥陀経云。若有善男子善女人。聞説阿弥陀仏執持名号。若一日乃至七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏与諸聖衆現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生極楽国土。

是の故に『阿弥陀経』に云く、若し善男子・善女人有りて、阿弥陀仏を説くを聞きて名号を執持すること、若し一日乃至七日、一心にして乱れざれば、其の人、命終の時に臨みて、阿弥陀仏と諸の聖衆と現じて其の前に在(まし)まさん。是の人終らん時、心顛倒せずして、即ち極楽国土に往生することを得。

又経云。十方衆生。聞我名号。憶念我国。植諸徳本。至心迴向。欲生我国。不果遂者。不取正覚。

又経に云く、十方の衆生、我名号を聞きて、我国を憶念し、諸の徳本を植えて、至心迴向して我国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。

所以祇洹精舎。無常院。令病者面西作往生浄土想。蓋弥陀光明。遍照法界。念仏衆生。摂取不捨。

祇洹精舎の無常院の所以は、病者の面(おもて)を西にして往生浄土の想を作さしめん。蓋し弥陀の光明は、遍く法界を照し念仏の衆生を摂取して捨てず。

聖凡一体。機感相応。諸仏心内衆生。塵塵極楽。衆生心中浄土。念念弥陀。吾以是観之智慧者易生。能断疑故。

聖凡一体にして、機感相応す。諸仏心内の衆生は塵塵極楽なり。衆生心中の浄土は、念念弥陀なり。

吾、是の観の智慧を以つて生れ易し。能く疑を断ずるが故に。 禅定者易生不散乱故。持戒者易生遠諸染故。布施者易生不我有故。忍辱者易生不瞋恚故。精進者。易生不退転故。不造善不作悪者易生念能一故。

禅定の者は生れ易し散乱せざるが故に。持戒の者は生れ易し諸染を遠ざけるが故に。布施の者は生れ易し我有ならざるが故に。忍辱の者は生れ易し瞋恚ならざる故に。精進の者は生れ易し不退転なるが故に。善を造らず悪を作さざる者は生れ易し能く一を念ずるが故に。

諸悪已作業報已現者易生実慚懼故。雖有衆善。若無誠信心無深心無迴向発願心者。則不得上上品生矣。

諸の悪を作し已りて、業報現じ已れし者は生れ易し実に慚懼なるが故に。

噫弥陀甚易持浄土。甚易往衆生。不能持不能往。仏如衆生何。夫造悪業入苦趣。念弥陀生極楽。

ああ、弥陀の浄土は甚だ持ち易く、衆生の往くは甚だ易し。能く持たざれば能く往かず。仏如(も)し衆生を何(いが)がせん。夫れ悪業を造れば苦趣に入り、弥陀を念ずれば極楽に生る。

二者皆仏言也。世人憂堕地獄。而疑往生者。不亦惑哉。

二には皆な仏言なり。世の人、地獄に堕するを憂へて、また往生を疑うやいなや、また惑なるかな。

晋慧遠法師。与当時高士劉遺民等。結白蓮社於廬山。蓋致精誠於此爾。其後七百年。僧俗修持。獲感応者非一。咸見于浄土伝記。豈誣也哉。然賛輔弥陀教観者。其書山積。

晋の慧遠法師は、当時の高士、劉の遺民等と、廬山に於いて白蓮社を結す。蓋し此に於いて誠に精を致す、爾れば、其の七百年の後の僧俗修持し、感応を獲る者、一に非ず。咸く浄土伝記に見ゆ。豈に誣なるかな。然れば弥陀の教観を賛じ輔する者の、其の書は山積ず。

唯天台智者大師。浄土十疑論最為首冠援引聖言。

唯だ天台智者大師の『浄土十疑論』は、最も首冠と為し聖言を引きて援く。

開決群惑。万年闇室。日至而頓有余光。千里水程舟具。而不労自力。非法蔵後身不能至於是也。傑頃於都下甞獲斯文。読示所知無不生信。自遭酷罰。感寤益深。将広其伝。因為序引 熙寧九年仲秋述

群惑を開決し、万年の闇室、日至りてまた頓に余光有り。千里の水程、舟に具してまた自力を労(いたわ)しくせず。法蔵の後身に非ずば是に於いて至ること能わずなり。頃の都下に於ける傑、斯の文を獲て甞ず。読みて知る所を示して信を生ぜざるは無し。自から酷罰に遭い、感寤するに益深し。将に其の伝を広めるに因りて序の引と為す。 熙寧九年仲秋に述ぶなり。

浄土十疑論

隋天台智者大師説

一疑

問曰。諸仏菩薩以大悲為業 若欲救度衆生 秖応願生三界 於五濁三塗中 救苦衆生。因何求生浄土? 自安其身 捨離衆生 則是無大慈悲 専為自利障菩提道。

問いて曰く。諸仏菩薩は大悲をもって業となし、もし衆生を救度せんと欲せば、ただ三界に願生して、五濁三塗の中において 苦の衆生を救うべし。何によりて浄土に生ずるを求むや。 自らその身を安んじ衆生を捨離す、則ちこれ大慈悲無くして専ら自利の為にして菩提の道を障ふ。

答曰、菩薩有二種 一者久修行菩薩道 得無生忍者 実当所責。
二者未得 已還及初発心凡夫。凡夫菩薩者 要須常不離仏 忍力成就 方堪処三界内 於悪世中 救苦衆生。

答て曰く、菩薩に二種あり。一には久しく菩薩道を修行し無生忍を得たる者は、実に責むる所に当れり。
二には未得已還及び初発心の凡夫、凡夫菩薩の要は、すべからく常に仏を離れず忍力成就して、まさ三界内に処し悪世の中において、苦の衆生を救うに堪えるべし。

故『智度論』云、具縛凡夫、有大悲心願生悪世、救苦衆生者、無有是処。何以故?、悪世界煩悩強、自無忍力、心随境転、声色所縛、自堕三塗、焉能救衆生?。

故に『智度論』に云く、具縛の凡夫、大悲心ありて悪世に願生して苦の衆生を救う者、この処(ことわり)あること無し。何をもっての故に。悪世界は煩悩強く自らの忍力無し、心、境に随いて転じ、声色の縛する所、自ら三塗に堕す、いずくんぞ能く衆生を救わんや。

仮令得生人中、聖道難得。或因施戒修福、得生人中、得作国王大臣富貴自在。縦遇善知識、不肯信用。貪迷放逸、広造衆罪、乗此悪業、一入三塗、経無量劫。従地獄出、受貧賤身、若不逢善知識、還堕地獄。如此輪迴、至於今日、人人皆如是。此名難行道也。

たとひ人中に生を得るも聖道得難し。あるいは施戒修福によりて、人中に生を得て、国王大臣となるを得て富貴自在なるも、よしんば善知識に遇いて信用して肯わず。貪迷放逸にして、広く衆罪を造らん、この悪業に乗じて、一(ひと)り三塗に入り、無量劫をへて、地獄より出でて、貧賤の身を受く。もし善知識に逢わずば、還りて地獄に堕し、此の如く輪迴して、今日に至る、人人皆かくのごとし。これを難行道と名づく也。

故『維摩経』云、自疾不能救、而能救諸疾人?。

故に『維摩経』に云く、自疾救うことあたわず、なんぞ能く諸疾人を救わんや。

又『智度論』云、譬如二人各有親眷、為水所溺、一人情急、直入水救、為無方便力故、彼此倶没。

又『智度論』云く、譬えば二人(おのおの)親眷有りて、水の為に溺る所のごとし。一人情急にして、直ちに水に入りて救わんとするに、方便力無きが為の故に、彼此ともに没す。

一人有方便、往取船筏、乗之救接、悉皆得脱水溺之難、新発意菩薩、亦復如是如是、未得忍力、不能救衆生。
為此常須近仏、得無生忍已、方能救衆生、如得船者。

一人は方便ありて、往いて船筏を取り、これに乗じて救接し、悉く皆水溺の難を脱することを得ん、新発意の菩薩も、また、かくのごとく、かくのごとし。いまだ忍力を得ざれば、衆生を救うことあたわず。
この為に常に仏に近ずくべし。無生忍を得おわりて、まさに能く衆生を救うは、船を得る者の如し。

又論云、譬如嬰児不得離母、若也離母、或堕坑井、渇乳而死。又如鳥子翅羽未成、秖得依樹傅枝、不能遠去。翅翮成就、方能飛空、自在無礙。

又論に云く、譬えば嬰児の母を離れて得ざる、もしまた母を離れて、或いは坑井に堕し、乳に渇きて死すが如し。又鳥子の翅羽未だ成らざるに、ただ樹に依りて枝を傅うを得、遠去することあたわず。翅翮成就して、まさに能く空を飛ぶこと自在無礙なるが如し。

凡夫無力、唯得専念阿弥陀仏、使成三昧。以業成故、臨終斂念得生、決定不疑。見弥陀仏、証無生忍已、還来三界、乗無生忍船、救苦衆生、広施仏事、任意自在。

凡夫は力無し、唯だ専ら阿弥陀仏を念ずるを得て、三昧を成ぜしめ、業成ずるをもっての故に、臨終に念を斂(おさ)めて生を得ん。決定して疑わず。弥陀仏を見たてまつり、無生忍を証し已りて、三界に還来し、無生忍の船に乗じて、苦の衆生を救ふ。広く仏事を施すこと、意に任せて自在なり。

故論云、遊戯地獄、行者生彼国、得無生忍已、還入生死国、教化地獄、救苦衆生、以是因縁、求生浄土、願識其教、故『十住婆沙論』、名易行道也。

故に論に云く、地獄に遊戯する行者とは、彼の国に生れて無生忍を得已り、還りて生死国に入りて、地獄の苦の衆生を教化し救う。この因縁をもって、浄土に生を求む、願くばその教を識らん、故に『十住婆沙論』に、易行道と名づく也。

二疑

問、諸法体空、本来無生、平等寂滅。今乃捨此、求彼生西方弥陀浄土、豈不乖理哉?。

問ふ、諸法は体空なり、本来無生にして平等寂滅なり。今乃(なんじ)此れを捨て、彼の西方弥陀浄土に生ぜんと求むるは、豈(あに)、理に乖かざるや?。

又経云、若求浄土、先浄其心、心浄故即仏土浄、此云何通。

また経に云く、もし浄土を求むるに、先ずその心を浄くす、心浄なるが故に即ち仏土浄し、これいかんが通ずや。[1]

答、釈有二義、一者総答、二者別答。総答者、汝若言求生西方弥陀浄土、則是捨此求彼、不中理者。汝執住此、不求西方、則是捨彼著此、此還成病、不中理也。

答ふ、釈に二義あり、一には総答、二には別答なり。総答とは、汝もし西方弥陀浄土に生を求むは、則ち是れ、此れを捨て彼を求むと言ふは、理、中(あた)らざるなり。汝、此に住すに執じて、西方を求めず、則ち是れ彼を捨て此に著するなり、此れ還りて病を成す、理、中らざる也。

又転計云、我亦不求生彼、亦不求生此者、則断滅見。

又転計し、我また彼に生ずることを求めず、また此に生ずることを求めずと云はば、則ち断滅の見なり。

故『金剛般若経』云、須菩提、汝若作是念、発阿耨菩提者、説諸法断滅相、莫作是念。何以故、発菩提心者、於法不説断滅相。

故に『金剛般若経』に云く、須菩提、汝もし是の念を作すに、阿耨菩提を発する者、諸法断滅の相を説きて、是の念を作すこと莫れ。何を以つての故に、菩提心を発す者は、法において断滅の相を説かずと。

二別答者、夫不生不滅者、於生縁中、諸法和合、不守自性。求於生体、亦不可得此生。生時無所従来、故名不生。

二に別答とは、それ不生不滅とは、生縁の中に於いて、諸法和合して、自性を守らず。生の体を求むるに、また不可得なり、此生、生ずる時に従い来る所無し、故に不生と名づく。

不滅者 諸法散時、不守自性、言我散滅。此散滅時、去無所至、故言不滅。非謂因縁生外、別有不生不滅。亦非不求生浄土、喚作無生。

不滅とは 諸法の散ずる時、自性を守り我れ散滅すと言わず。此れ散滅の時、至る所無くして去る。故に不滅と言ふは、因縁生の外に、別に不生不滅有ると謂ふに非ず。また浄土に生を求めざるを、喚びて無生と作すに非ず。

為此、中論偈云、因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦名中道義。

此の為に中論偈に云く、因縁所生の法を、我説きて即ち是れ空とす、また名ずけて、仮名と為す、また中道の義と名づく。

又云、諸法不自生、亦不従他生、不共不無因、是故知無生。

又云く、諸法は自から生ぜず、また他より生ぜず、共ならず無因ならず、是の故に無生を知るべし。

又『維摩経』云、雖知諸仏国及与衆生空、而常修浄土教化諸群生。

又『維摩経』に云く、諸仏の国及び衆生の空なることを知ると雖も、常に浄土を修して諸の群生を教化す。

又云、譬如有人、造立宮室、若依空地、随意無礙、若依虚空、終不能成。

又云く、譬えば、人ありて宮室を造立するに、もし空地に依らば、随意に無礙なり、もし虚空に依らば、終に成ずることあたわざるが如し。

諸仏説法、常依二諦。不壊仮名、而説諸法実相、智者、熾然求生浄土、達生体不可得、即是真無生、此謂心浄 故即仏土浄。

諸仏の説法は、常に二諦に依りて仮名を壊せずして、しかも諸法実相を説く。智者は、熾然として浄土に生ずることを求め、生の体不可得なるに達す。即ち是れ真の無生なり。此れを心浄なるが故に即ち仏土浄と謂ふなり。

愚者、為生所縛 聞生即作生解、聞無生、即作無生解。

愚者は、生の為に縛する所なり。生を聞きて即ち生の解を作し、無生を聞きて、即ち無生の解を作すなり。

不知生者即是無生、無生即是生、不達此理、横相是非。嗔他求生浄土 幾許誤哉。此則是謗法罪人、邪見外道也。

生は即ち是れ無生、無生は即ち是れ生なるを知らず。此の理に達せざれば、横に相い是非す。他の浄土に生を求むを嗔るは幾許かの誤れり哉。此れ則ち是れは、謗法の罪人なり、邪見の外道也。

三疑

問十方諸仏、一切浄土、法性平等、功徳亦等。
行者普念一切功徳、生一切浄土。今乃偏求一仏浄土、与平等性乖、云何生浄土?

問ふ、十方の諸仏、一切浄土、法性平等にして功徳また等し。
行者、普く一切の功徳を念じ、一切の浄土に生ず。今乃(なんじ)、偏に一仏浄土を求むは、平等性に乖く、いかんぞ浄土に生ぜんとするや。

答、一切諸仏土、実皆平等。但衆生根鈍、濁乱者多、若不専繋一心一境、三昧難成、専念阿弥陀仏、即是一相三昧、以心専至、得生彼国。

答ふ、一切の諸仏土、実に皆な平等なり。但だ衆生の根、鈍濁乱の者多し。もし専ら一心一境に繋けざれば、三昧成じ難し、阿弥陀仏を専念するは、即ち是れ一相三昧なり、心を以つて専ら至し、彼の国に生を得ん。

如『随願往生経』云、
普広菩薩問仏、十方悉有浄土、世尊何故偏讃西方弥陀浄土、専遣往生?

『随願往生経』に云ふが如し、
普広菩薩、仏に問いたてまつる、十方に悉く浄土あり、世尊は何故に偏に西方弥陀浄土を讃じ、専ら往生を遣しむや。

仏告普広、閻浮提衆生、心多濁乱、為此偏讃西方一仏浄土。使諸衆生、専心一境、即易得往生。若総念一切仏者、念仏境寛、則心散漫、三昧難成、故不得往生。

仏、普広に告げたまわく、閻浮提の衆生、心、濁乱すること多し、此の為に偏に西方一仏浄土を讃じて諸の衆生、心を一境に専らにして、即ち往生を得ること易からしめん。もし総じて一切の仏を念ぜば、念仏の境寛くして、則ち心散漫し、三昧成じ難し、故に往生することを得じ。

又求一仏功徳、与一切仏功徳無異、以同一仏法性故、為此念阿弥陀仏、即念一切仏、生一浄土、即生一切浄土。

又、一仏の功徳を求むに、一切仏の功徳と異なること無し、同一の仏法性を以つての故に、此の為に阿弥陀仏を念ずれば、即ち一切仏を念ず、一浄土に生ずるは、即ち一切浄土に生ずるなり。

故『華厳経』云、一切諸仏身、即是一仏身、一心一智慧力、無畏亦然。

故に『華厳経』に云く、一切の諸仏身、即ち是れ一仏身なり、一心一智慧力、無畏もまた然り。

又云、譬如浄満月、普応一切水。影像雖無量、本月未曽二、如是無礙智、成就等正覚。応現一切刹、仏身無有二。

又、云く、譬えば浄満月の、普く一切の水に応ず。影像無量と雖ども、本月未だ曽つて二ならざるが如し、是の如きの無礙智、等正覚を成就し、一切の刹に応現す、仏身に二有ること無し。

智者以譬喩得解、智者若能達 一切月影即一月影、一月影即一切月影。
月影無二、故一仏即一切仏、一切仏即一仏。法身無二、故熾然念一仏時、即是念一切仏也。

智者は譬喩を以つて解を得ん、智者もし能く一切の月影即ち一月の影、一月の影即ち一切の月影、月影に二無きが故に一仏即ち一切仏、一切仏即ち一仏、法身に二無きが故なるに達す。熾然して一仏を念ずる時、即ち是れ一切仏を念ずる也。

四疑

問。等是念求生一仏浄土、何不十方仏土中、随念一仏浄土随得往生 何須偏念西方弥陀仏耶?

問ふ、これを念じて一仏の浄土に生れんと求むに等しとならば、何ぞ十方仏土中ならずして、一仏の浄土を随念し往生を得るに随ふは、何ぞすべからく偏に西方弥陀仏を念べきや?

答。凡夫無智、不敢自専、専用仏語、故能偏念阿弥陀仏。

答ふ。凡夫は無智なり、あえて自ら専らせず、専ら仏語を用いる、故に能く偏く阿弥陀仏を念ぜん。

云何用仏語?

いかんが仏語を用いん?

釈迦大師一代説法、処処聖教、唯勧衆生、専心偏念阿弥陀仏、求生西方極楽世界。

釈迦大師の一代の説法に処処の聖教、ただ衆生、専心に偏に阿弥陀仏を念じ、西方極楽世界に生ずるを求むことを勧む。

如『無量寿経『観経』『往生論」等、数十余部経論文等、殷勤指授、勧生西方、故偏念也。

『無量寿経『観経』『往生論」等、数十余部の経論文等のごとし。殷勤に指授し、西方に生ることを勧む、故に偏に念ぜしむ也。

又弥陀仏 別有大悲四十八願、接引衆生。

また弥陀仏、別に大悲四十八願ありて、衆生を接引す。

又『観経』云、阿弥陀仏有八万四千相、一一相有八万四千好。一一好放八万四千光明、遍照法界。念仏衆生、摂取不捨、若有念者、機感相応、決定得生。

また『観経』に云く、阿弥陀仏に八万四千相あり、一一の相に八万四千好あり。一一の好八万四千光明を放ち、遍く法界を照し念仏の衆生を摂取して捨てず、もし念ずる者あれば、機感相応しえ、決定して生を得ん。

又『阿弥陀経』、『大無量寿経』、『鼓音王陀羅尼経』等云、「釈迦仏説経時、皆有十方恒沙諸仏、舒其舌相、遍覆三千大千世界、証成一切衆生念阿弥陀仏、乗仏大悲本願力故、決定得生極楽世界。」

また『阿弥陀経』、『大無量寿経』、『鼓音王陀羅尼経』等に云く、「釈迦仏説経の時、みな十方恒沙諸仏ありて、その舌を舒べて、遍く三千大千世界を覆い、一切の衆生阿弥陀仏を念じて、仏の大悲本願力に乗ずるが故に、決定して極楽世界に生を得ることを証成したまえり。」

当知阿弥陀仏与此世界、偏有因縁。何以得知?

当に知るべし、阿弥陀仏とこの世界と、偏に因縁あり。何を以って知ることを得んや?

『無量寿経』云、「末世法滅之時、特駐此経、百年在世、接引衆生、往生彼国。」

『無量寿経』に云く、「末世法滅の時、特にこの経を駐めて、百年世に在りて、衆生を接引し、彼の国に往生せしめん。」と。

故知 阿弥陀仏与此世界極悪衆生、偏有因縁。其余諸仏、一切浄土、雖一経両経、略勧往生、不如弥陀仏国、処処経論、殷勤叮嚀、勧往生也。

故に知んぬ、阿弥陀仏とこの世界の極悪の衆生、偏に因縁あり。その余の諸仏の一切浄土、一経両経、略して往生を勧むといえども、弥陀仏国にはしかず、処処の経論、殷勤叮嚀に、往生を勧むるなり。

五疑

問。具縛凡夫、悪業厚重、一切煩悩、一毫未断、西方浄土、出過三界、具縛凡夫、云何得生?

問ふ、具縛の凡夫、悪業厚重にして一切の煩悩、一毫もいまだ断ぜず。西方の浄土は、三界に出過せり、具縛の凡夫、いかんが生を得んや。

答。有二種縁、一者自力、二者他力。自力者、此世界修道、実未得生浄土。

答ふ、二種の縁あり、一には自力、二には他力なり。自力とは、この世界で道を修し、実にいまだ浄土に生を得ざるなり。

是故『瓔珞経』云、 「始従具縛凡夫、未識三宝、不知善悪因之与果、初発菩提心。以信為本、住在仏家、以戒為本、受菩薩戒。身身相続、戒行不闕 経一劫二劫三劫、始至初発心住。如是修行十信 十波羅蜜等無量行願、相続無間、満一万劫、方始至第六正心住。若更増進、至第七不退住、即種性位。」此約自力、卒未得生浄土、

この故に『瓔珞経』に云く、「始め具縛の凡夫、三宝を識らず、善悪の因の果とを知らざるに従り、初めて菩提心を発し、信を以つて本と為し、在ること仏家に住して、戒を以つて本と為し、菩薩戒を受けて、身身に相続し、戒行闕(か)けず一劫二劫三劫を経て、始め初発心住に至る。かくのごとく修行十信、十波羅蜜等の無量の行願を、相続すること無間なり、一万劫を満てて、まさに始め第六正心住に至る。もし更に増進して、第七不退住に至る、即ち種性位なり。」これを自力に約す、卒(にわか)に浄土に生を得ざるなり。

他力者、若信阿弥陀仏大悲願力摂取念仏衆生、即能発菩提心、行念仏三昧、厭離三界、身起行施戒修福、於一一行中、迴 願生彼弥陀浄土乗仏願力、機感相応、即得往生。

他力とは、もし阿弥陀仏の大悲願力の、念仏の衆生を摂取することを信じ、すなわち能く菩提心を発し、念仏三昧を行じ、三界を厭離して、身に行を起こし施戒修福、一一の行中に於いて、迴して彼の弥陀浄土に生れんと願ずれば、仏願力に乗じ、機感相応して、即ち往生を得るなり。

是故『十住婆沙論』云、於此世界修道有二種、一者難行道、二者易行道。難行者、在於五濁悪世、於無量仏時、求阿鞞跋致、甚難可得。

この故に『十住婆沙論』に云く、この世界に於いて道を修するに二種あり、一には難行道、二には易行道なり。難行とは、五濁悪世に在りて、無量仏の時に於いて、阿鞞跋致を求むるは、甚だ得べきこと難し。

此難無数塵沙、説不可尽、略述三五、一者外道相善、乱菩薩法、二者無頼悪人、破他勝徳、三者顛倒善果、能壊梵行、四者声聞自利、障於大慈、五者唯有自力、無他力持。譬如跛人歩行、一日不過数里、極大辛苦、謂自力也。

この難、無数塵沙に説きても、尽すべからず、略して三五を述ぶ、一には外道の相善、菩薩の法を乱る、二には無頼の悪人、他の勝徳を破す、三には顛倒の善果、能く梵行を壊つ、四には声聞の自利、大慈を障ふ、五には唯だ自力有りて、他力を持つこと無し。譬へば跛人の歩行、一日に数里を過ぎず、極めて大辛苦なるが如きを、自力と謂ふなり。

易行道者、謂信仏語 教念仏三昧、願生浄土。乗弥陀仏願力、摂持決定、往生不疑也。如人水路行、藉船力故、須臾即至千里、謂他力也。

易行道とは、仏語を信じ念仏三昧せしめ、浄土に生れんと願じ、弥陀仏の願力に乗じて、摂持決定し、往生を疑わざるを謂ふ也。人の水路を行くに、船の力を藉(か)るが故に、須臾に即ち千里に至るが如きを、他力と謂ふ也。

譬如劣夫従転輪王、一日一夜周行四天下、非是自力、転輪王力也。

譬へば劣夫の転輪王に従いて、一日一夜に四天下を周行す、これ自力に非ず、転輪王の力の如しと也。

若言有漏凡夫 不得生浄土者、亦可有漏凡夫 応不得見仏身。然念仏三昧、並無漏善根所起、有漏凡夫、随分得見仏身麁相也、菩薩見微細相。

もし有漏の凡夫、浄土に生るを得ずと言はば、また有漏の凡夫、応に仏身を見ることを得ざるべし。然るに念仏三昧は、並ぶに無漏善根の起す所にして、有漏の凡夫、分に随いて仏身の麁相を見ることを得る也、菩薩は微細相を見ん。

浄土亦爾、雖是無漏善根所起、有漏凡夫発無上菩提心、求生浄土常念仏、故伏滅煩悩、得生浄土、随分得見麁相、菩薩見微妙相、此何所疑?

浄土もまた爾なり、これ無漏善根の起す所と雖ども、有漏の凡夫、無上菩提心を発して、浄土に生ることを求め、常に念仏するが故に、煩悩を伏滅して、浄土に生を得、分に随いて麁相を見ることを得、菩薩は微妙相を見ん、これ何んぞ疑うところや。

故『華厳経』説、一切諸仏刹、平等普厳浄、衆生業行異、所見各不同。即其義也。

故に『華厳経』に説かく、一切の諸仏の刹は、平等にして普く厳浄なれども、衆生の業行、異なれば、見る所も各(おのおの)同じからずと。即ち其の義也。

六疑

問。設令具縛凡夫、得生彼国、邪見三毒等常起、云何得生彼国、即得不退、超過三界?

問ふ、たとい具縛の凡夫を、彼の国に生を得しめても、邪見三毒等、常に起る、いかんぞ彼の国に生じ、即ち不退を得て、三界を超過することを得んや。

釈曰、得生彼国、有五因縁不退。云何為五?

釈して曰く、彼の国に生を得るに、五の因縁ありて不退なり。いかんが五と為す。

一者阿弥陀仏大悲願力摂持故得不退。

一には阿弥陀仏大悲願力の摂持するが故に不退を得。

二者仏光常照故、菩提心常増進不退。

二には仏光常に照すが故に、菩提心常に増進し不退なり。

三者、水鳥樹林、風声楽響、皆説苦空、聞者常起念仏念法念僧之心、故不退。

三には、水鳥樹林、風声楽響、皆苦空を説く、聞く者は常に仏を念じ、法を念じ、僧を念ずる心を起すが故に不退なり。

四者彼国純諸菩薩、以為良友、無悪縁境、外無神鬼魔邪、内無三毒等煩悩畢竟不起、故不退。

四には、彼の国の純諸菩薩、以つて良友と為り、悪縁の境無く、外に神鬼魔邪無く、内に三毒等の煩悩無く、畢竟して起らざる、故に不退なり。

五者生彼国即寿命永劫、共菩薩仏斉等、故不退也。

五には、彼の国に生ぜば即ち寿命永劫にして、菩薩・仏と共に斉等なり、故に不退なり。

在此悪世、日月短促、経阿僧祇劫、復不起煩悩、長時修道、云何不得無生忍也。

この悪世、日月短促に在りて、阿僧祇劫を経て、復(ふたたび)煩悩を起こさず、長時に道を修す、いかんぞ無生忍を得ざるなり。

此理顕然、不須疑也。

この理、顕然なり、すべからく疑うべからずなり。

七疑

問。弥勒菩薩、一生補処、即得成仏、上品十善、得生彼処、見弥勒菩薩。随従下生三会之中、自然而得聖果、何須求生西方浄土耶?

問ふ、弥勒菩薩、一生補処にして、即ち仏と成ることを得、上品の十善、彼の処に生を得て、弥勒菩薩を見るに随い、下生に従い三会の中に、自然に聖果を得、何ぞ須く西方浄土に生を求むるや。

答。求生兜率、一日聞道見仏、勢欲相似、若細比校、大有優劣、且論二種。

答ふ。兜率に生じて、一日道を聞きて仏を見んと求むるに、勢(さかん)に、相似せんと欲するに、若し細く比校せば、大いに優劣あり、且く二種を論ぜん。

一者縦持十善、恐不得生、何以得知?『弥勒上生経』云、行衆三昧、深入正定、方始得生。更無方便接引之義。

一には縦ひ十善を持てども、恐くは生を得ず、何を以つて知ることを得んや。『弥勒上生経』に云く、衆(もろもろ)の三昧の行、深く正定に入りに、方(まさ)に始めて生を得ん。更に方便接引の義無し。

不如阿弥陀仏本願力光明力、但有念仏衆生、摂取不捨。

阿弥陀仏の本願力と光明力、但だ念仏の衆生ありて、摂取して捨ざるには如かず。

又釈迦仏、説九品教門、方便接引、殷勤発遣、生彼浄土。但衆生能念弥陀仏者、機感相応、必得生也。

また釈迦仏、九品の教門を説き、方便接引して、殷勤に発遣して、彼の浄土に生ぜしむ。但だ衆生能く弥陀仏を念ずれば、機感相応して、必ず生を得る也。

如世間慕人能受慕者、機会相投、必成其事。

世間の慕人、能く慕を受ける者、機会相投して、必ず其事を成ずるがごとし。

二者兜率天宮、是欲界退位者多。無有水鳥樹林風声楽響、衆生聞者、悉念仏発菩提心、伏滅煩悩。

二には、兜率天宮、是れ欲界にして退位者多し。水鳥・樹林・風声・楽響、衆生聞く者、悉く仏を念じ菩提心を発して、煩悩を伏滅すること有ること無し。

又有女人、皆長諸天愛著五欲之心、又天女微妙、諸天耽玩、不能自勉。

また女人あり、みな諸天、五欲の愛著の心 長からん。また天女微妙にして、諸天耽玩し、自から勉(まぬ)がれること能わず。

不如弥陀浄土水鳥樹林風声楽響、衆生聞者、皆生念仏発菩提心、伏滅煩悩。

弥陀の浄土の水鳥・樹林。風声・楽響、衆生聞く者、みな念仏を生じ菩提心を発して、煩悩を伏滅するには如かず。

又無女人二乗之心、純一大乗、清浄良伴、為此煩悩悪業、畢竟不起、遂至無生之位、如此比校、優劣顕然、何須致疑也。

また女人二乗の心無く、純一大乗、清浄を良伴とし、この為に煩悩悪業、畢竟じて起らず、遂に無生の位に至る、この如く比校するに、優劣顕然なり、何ぞ須く疑を致すべし。

如釈迦仏在世之時、大有衆生、見仏不得聖果者、如恒沙。弥勒出世亦爾 大有不得聖果者。
未如弥陀浄土、但生彼国已、悉得無生法忍、未有一人退落三界、為生死業縛也。

釈迦仏在世の時の如き、大いに衆生ありて、仏を見て、聖果を得ざる者は、恒沙の如し。弥勒の出世もまた爾なり、大いに聖果を得ざる者あり。
弥陀浄土の、但だ彼国に生れ已りて、悉く無生法忍を得るに如かず、未だ一人も三界に退落して、生死の業の為に縛せられるには有らざるなり。

又聞『西国伝』云、有三菩薩、一名無著、二名世親、三名師子覚、此三人契志同生兜率願見弥勒、若先亡者、得見弥勒、誓来相報、師子覚前亡、一去数年不来、

また聞く『西国伝』に云く、三菩薩り、一を無著と名づく、二を世親と名づく、三を師子覚と名づけるなり、此の三人志を契して同じく兜率に生じて弥勒を見ることを願ず、若し先に亡じて、弥勒を見ることを得ば、来りて相報することを誓う、師子覚、前(さき)に亡じて、一去数年にも来らず。

後世親無常臨終之時、無著語云、汝見弥勒、即来相報、世親去已三年始来。

後に世親、無常臨終の時、無著語りて云く、汝、弥勒を見ば、即ち来りて相報せよ、世親去り已りて三年にして始めて来る。

無著問曰、何意如許多時始来。

無著問いて曰く、何の意ぞ、許多の如きの時にして、始めて来る、と。

世親報云、至彼天中、聴弥勒菩薩一坐説法、旋繞即来相報、為彼天日長故、此処已経三年。

世親、報へて云く、彼の天中に至り、弥勒菩薩の一坐の説法を聴くに、旋繞して即ち来りて相報す、彼の天日長きの為に故に、此の処に已りて三年を経たり。

又問、師子覚今在何処。

また問ふ、師子覚は今何の処に在すや。

世親報云、師子覚為受天楽、五欲自娯、在外眷属、従去已来、総不見弥勒。

世親、報へて云く、師子覚は天楽を受けた為に、五欲に自ら娯して、外の眷属に在り、去る従り已来(このかた)、総じて弥勒を見ずと。

諸小菩薩、生彼尚著五欲、何況凡夫?

諸の小菩薩、彼に生じて尚(なお)五欲に著す、何に況んや凡夫おや。

為此願生西方定得不退、不求生兜率也。

此の為に西方に生じて、定んで不退を得んと願じて、兜率に生を求めざれと。

八疑

問。衆生無始已来、造無量業。今生一刑(形)、不逢善知識、又復作一切罪業。無悪不造、云何臨終、十念成就、即得往生、出過三界、結業之事、云何可通?

問ふ、衆生は無始已来、無量の業を造る。今生一形に、善知識に逢わざれば、また一切の罪業を作し、悪として造らざるは無し。云何んぞ臨終に、十念を成就し、即ち往生を得て、三界、結業の事を出過すとは、云何んぞ通ずべしや。

釈曰、衆生無始已来、善悪業種、多少強弱、並不得知、但能臨終、遇善知識、十念成就者、皆是宿善業強 始得遇善知識、十念成就、若悪業多者、善知識尚不可逢、何可論十念成就?

釈して曰く、衆生の無始已来の、善悪業種、多少強弱は、並びに知ること得ず。但だ能く臨終に、善知識に遇い、十念成就すれば、皆な是れ宿善の業強くして、始めて善知識に遇い、十念成就することを得。若し悪業多き者は、善知識にすら尚(なお)逢うべからず、何んぞ十念成就を論ずべけんや。

又汝以無始已来、悪業為重、臨終十念為軽者、今以道理、三種校量、軽重不定、不在時節久近多少。

また汝、無始已来の、悪業を以つて重となし、臨終の十念を軽となさば、今、三種の道理を以つて、軽重不定、時節の久近の多少に在らざるを校量せん。

云何為三、一者在心、二者在縁、三者在決定。

云何んぞ三となす、一には在心、二には在縁、三には在決定なり

在心者、造罪之時、従自虚妄顛倒生、念仏者、従善知識、聞説阿弥陀仏真実功徳名号生。一虚一実豈得相比? 譬如万年闇室、日光暫至而闇頓滅、豈以久来之闇、不肯滅耶?

在心とは、造罪の時は、自からの虚妄顛倒に従いて生ず、念仏は、善知識、阿弥陀仏の真実功徳の名号を説くを聞くに従(よ)りて生ず。一は虚、一は実なり豈(あに)相ひ比ぶことを得んや。 譬へば万年の闇室、日光暫に至れば頓に闇滅するが如し、豈(あに)久来の闇を以つて、滅を肯がわざるや。

在縁者、造罪之時、従虚妄痴闇心、縁虚妄境界、顛倒生。念仏之心、従聞仏清浄真実功徳名号縁無上菩提心生。一真一偽豈得相比? 譬如有人被毒箭、中箭深毒磣傷肌破骨。一聞滅除薬鼓、即箭出毒除、豈以箭深毒磣、而不肯出也?

在縁とは、造罪の時、虚妄痴闇の心に従い、虚妄の境界を縁として、顛倒を生ず。念仏の心は、仏の清浄真実功徳の名号を聞くに従りて無上菩提心を縁として生ず。一は真一は偽、豈(あに)相ひ比することを得んや。譬へば人有りて毒箭に中(あた)りて、箭深く毒磣して肌を傷け骨を破す。一たび滅除薬の鼓を聞きくに、即ち箭出で毒除こるが如し。豈箭の深く毒磣を以つて、出ずるを肯がわざるや。

在決定者、造罪之時。以有間心有後心也。念仏之時、以無間心無後心、遂即捨命、善心猛利、是以即生、譬如十囲之索、千夫不制、童子揮剣、須臾両分。又如千年積柴、以一豆火焚、少時即尽。

在決定とは、造罪の時は、有間心有後心を以つて也。念仏の時は、無間心無後心を以つて、遂に即ち命を捨て、善心猛利なり、是を以つて即ち生ず。譬へば十囲の索、千夫も制せざれども、童子剣を揮れば、須臾に両分するが如し。また千年柴を積むも、一の豆火を以つて焚けば、少時に即ち尽きるが如し。

又如有人、一生已来、修十善業、応得生天。臨終之時、起一念決定邪見、即堕阿鼻地獄。悪業虚妄、以猛利故、尚能排一生之善業、令堕悪道。豈況臨終猛心念仏真実、無間善業不能排、無始悪業得生浄土、無有是処。

また人有り、一生已来(このかた)、十善業を修し、応(まさ)に天に生を得べきに、臨終の時、一念決定の邪見を起こし、即ち阿鼻地獄に堕すが如し。悪業虚妄、猛利を以つての故に、尚(なお)能く一生の善業を排して、悪道に堕さしめん。豈況(いわ)んや臨終の猛心の念仏は真実無間の善業なり、無始の悪業を排し浄土に生を得ることあたわずとは、是の処(ことわり)あること無し。

又云、一念念仏、滅八十億劫生死之罪。為念仏時、心猛利故、伏滅悪業、決定得生、不須疑也。

また云く、一念の念仏は、八十億劫の生死の罪を滅す。念仏の時、心猛利と為すが故に、悪業を伏滅し、決定して生を得ん、須(すべから)く疑うべからず也。

上古相伝判十念成就、作別時意者、此定不可。何以得知?

上古の相伝に十念成就を判じて、別時意と作すとは、此れ定んで不可なり。何を以つて知ることを得んや。

『摂論』云、由唯発願故、全無有行。 『雑集論』云、若願生安楽国土、即得往生、若聞無垢仏名、即得阿耨菩提者。並是別時之因、全無有行、若将臨終、無間十念、猛利善行、是別時意者、幾許誤哉。

『摂論』に云く、唯だ発願に由るが故に、全く行有ること無しと。 『雑集論』に云く、若し安楽国土に生を願じ、即ち往生を得。若し無垢の仏名を聞きて、即ち阿耨菩提を得とは、並に是れ別時の因、全く行有ること無し。若し将(まさ)に臨終の無間の十念、猛利の善行をせんとす。是れを別時意とは、幾許の誤りなるかな。

願諸行者、深思此理、自牢其心、莫信異見、自墜陥也。

願と諸行は、深く此の理を思ふべし、自から其の心を牢にして、異見を信じ、自ら墜陥すること莫れ。

九疑

問。西方去此十万億仏刹、凡夫劣弱、云何可到? 又『往生論』云、女人及根欠二乗種不生。既有此教、当知女人及以根欠者、定必不得往生。

問ふ、西方此を去ること十万億の仏刹なり、凡夫劣弱にして、云何ぞ到るべきや。 また『往生論』に云く、女人及び根欠二乗種は生ぜず。既に此の教えあり、当に知るべし、女人及び根欠の者を以つては、定んで必ず往生を得ず。

答。為対凡夫肉眼生死心量説耳、西方去此、十万億仏刹。但使衆生浄土業成者、臨終在定之心即是浄土受生之心。動念即是生浄土時。

答ふ、凡夫肉眼の生死は心に量るに対し説くのみ。西方此を去ること、十万億の仏刹、但だ衆生の浄土の業成ぜしむは、臨終在定の心は即ち是れ浄土受生の心なり。念を動じて即ち是の浄土に生ずる時なり。

為此『観経』云、弥陀仏国去此不遠。又業力不可思議、一念即得生、彼不須愁遠。又如人夢、身雖在床、而心意識、遍至他方、一切世界如平生不異也。生浄土於爾、動念即至、不須疑也。

此の為に『観経』に云く、弥陀仏国は此を去ること遠からず。また業力の不可思議、一念に即ち彼(かしこ)に生を得て、遠きを愁うべからず。また人の夢の、身、床に在りと雖ども、しかるに心意識は、遍く他方一切世界に至り、平生の如きと異ならざる如き也。浄土に生ずも爾なり、念を動じて即ち至る、須らく疑うべからずこと也。

女人及根欠 二乗種不生者、但論生彼国、無女人及無盲聾 瘖瘂人、不道此間女人、根欠人不得生。彼若如此説者、愚痴全不識経意。即如韋提夫人、是請生浄土主、及五百侍女、仏授記悉得往生彼国。

女人及び根欠二乗種の生ぜずとは、但だ彼の国に生ずれば、女人無く及び盲聾瘖瘂の人無きことを論ずるなり、此の間の女人、根欠人の彼に生を得ずと道(い)わず。若し此の如きの説は、愚痴にして全く経の意を識らざるなり。即ち韋提夫人の、是れ浄土に生を請ひて、主及び五百の侍女、仏に記を授けられ、悉く彼の国に往生を得るが如し。

但此処女人、及盲聾 瘖瘂人、心念弥陀仏、悉生彼国已、更不受女身、亦不受根欠身。二乗人但迴心願生浄土、至彼更無二乗執心。

但だ此の処の女人、及び盲聾瘖瘂の人、心に弥陀仏を念ずれば、悉く彼の国に生じ已りて、更に女身を受けず、また根欠の身を受けず。二乗の人、但だ迴心して浄土に生を願ずれば、彼に至りて更に二乗の執心無し。

為此故云、女人及根欠二乗種不生。非謂此処女人及根欠人不得生也。

此の為の故に、女人及び根欠二乗種生ぜずと云ふなり。此の処の女人及び根欠の人、生を得ずと謂ふに非ずと。

故『無量寿経』四十八願云、設我得仏十方世界一切女人、称我名号、厭悪女身、捨命之後、更受女身者、不取正覚。況生彼国、更受女身? 根欠者亦爾。

故に『無量寿経』の四十八願に云く、「設ひ我れ仏を得んに十方世界の一切の女人、我が名号を称え、女身を厭悪し、捨命の後、更に女身を受ければ、正覚を取らじ」と。況んや彼の国に生ずれば、更に女身を受けんや。根欠の者もまた爾なり。

十疑

問、今欲決定求生西方、未知作何行業、以何為種子、得生彼国? 又凡夫俗人皆有妻子、未知不断婬欲得生彼否?

問ふ、今、決定して西方に求生せんと欲するに、いまだ何の行業を作して、以つて何を種子と為して、彼の国に生を得ることを知らず? また凡夫俗人はみな妻子あり、いまだ婬欲を断ぜずして彼に生を得るや否や?

答。欲決定生西方者、具有二種行、定得生彼、一者厭離行、二者欣願行。

答ふ。決定して西方に生れんと欲すれば、つぶさに二種の行ありて、定んで彼に生ずることを得ん、一には厭離行、二には欣願行なり。

言厭離行者、凡夫無始已来、為五欲纒縛、輪迴五道、備受衆苦、不起心厭離五欲、未有出期、為此常観此身膿血屎尿、一切悪露不浄臭穢。

厭離行と言ふは、凡夫無始已来、五欲のために纒縛し、五道を輪迴して、つぶさに衆苦を受く、五欲を厭離する心を起こさずして、いまだ出期あらず、此の為に常にこの身、膿血屎尿、一切悪露不浄臭穢を観ぜん。

故『涅槃経』云、如是身城、愚痴羅刹止住其中、誰有智者当楽此身?

ゆえに『涅槃経』に云く、かくのごときの身城、愚痴にして羅刹その中に止住せり、誰か有智の者まさにこの身を楽(ねが)わん?

又経云、此身衆苦所集、一切皆不浄、扼縛癰瘡等根本無義利、上至諸天身皆亦如是。

また経に云く、この身は衆苦の集まる所、一切みな不浄なり、扼縛癰瘡等根本の義利なし、上もろもろの天身に至るまでみなまたかくのごとし。

行者若行若坐、若睡若覚、常観此身唯苦無楽深生厭離。縦使妻房不能頓断、漸漸生厭作七種不浄観。

行者、もしは行、もしは坐、もしは睡、もしは覚、常にこの身は唯だ苦にして楽無く、深く厭離を生ぜんと観ぜよ。ほしいままに妻房を頓断するにあたわずば、漸漸に厭作を生ぜしむは七種の不浄観なり。

一者観此婬、欲身従貪愛煩悩生、即是種子不浄。

一には、この婬欲の身は貪愛煩悩より生ずと観ぜよ、即ちこれ種子不浄なり。

二者父母交会之時赤白和合、即是受生不浄。

二には、父母交会の時、赤白和合す、即ちこれ受生不浄なり。

三者母胎中在生蔵下、居熟蔵上、即是住処不浄。

三には、母胎中生蔵の下に在り、熟蔵上に居す、即ちこれ住処不浄なり。

四者在母胎時唯食母血、即是食噉不浄。

四には、母胎に在る時、唯だ母血を食す、即ちこれ食噉不浄なり。

五者日月満足頭向産門、膿血倶出臭穢狼藉、即是初生不浄。

五には、日月満足して頭を産門に向け、膿血ともに出でて臭穢狼藉なり、即ちこれ初生不浄なり。

六者薄皮覆上、其内膿血遍一切処、即是挙体不浄。

六には、薄皮上を覆いて、その内は膿血一切処に遍ねし、即ちこれ挙体不浄なり。

七者乃至死後膖脹爛壊、骨肉縦横狐狼食噉、即是究竟不浄。

七には、すなわち死後に至りて膖脹し爛壊す、骨肉縦横して狐狼食噉す、即ちこれ究竟不浄なり。

自身既爾他身亦然、所愛境界男女身等、深生厭離常観不浄。若能如此観身不浄之者、婬欲煩悩漸漸減少。又作十想等観、広如経説。

自身、既にしかなり、他身もまた然り、所愛の境界男女の身等、深く厭離を生じ常に不浄を観ぜよ。もし能くこの如く身の不浄を観ずる者は、婬欲の煩悩、漸漸に減少す。また十想等の観を作せば、広く経説の如し。

又発願、願我永離三界雑食、臭穢膿血不浄、耽荒五欲男女等身、願得浄土法性生身、此謂厭離行、

また発願して、願くば我れ永く三界雑食、臭穢膿血の不浄、五欲に耽荒する男女等の身を離れ、願くば浄土の法性生身を得ん、これを厭離行の謂なり。

二明欣願行者、復有二種、一者先明求往生之意、二者観彼浄土荘厳等事欣心願求。

二に願行を欣う者を明かすに、また二種あり。一にはまず往生を求むるの意を明かす、二にはかの浄土の荘厳等事を願求の欣心を明かす。

明往生意者、所以求生浄土、為欲救抜一切衆生苦故。

往生の意をあかすとは、浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。

即自思忖、我今無力、若在悪世、煩悩境強自為業縛、淪溺三塗動経劫数、如此輪転、無始已来未曽休息、何時能得救苦衆生?

すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世に在りて、煩悩の境強く、みづから業縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。

為此求生浄土親近諸仏、若証無生忍、方能於悪世中救苦衆生。

これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。

故『往生論』云。言発菩提心者、正是願作仏心、願作仏心者、則是度衆生心、度衆生心者、則是摂衆生生仏国心。

故に『往生論』に云く、菩提心者を発すと言ふは、正しくこれ願作仏心なり、願作仏心とは、則ちこれ度衆生心なり、度衆生心とは、則ちこれ衆生を摂して仏国に生ぜしむる心なり。

又願生浄土須具二行、一者必須遠離三種障菩提門法、二者須得三種順菩提門法、何者為三種障菩提法?

また、浄土に生ぜんと願がんずるにすべからく二行を具すべし。一には必ず三種の菩提門を障ふ法を遠離すべし。二には三種の菩提門に順ずる法を得べきなり、何者を三種の菩提を障ふ法と為すや?

一者依智慧門、不来自楽遠離我心貪著自身故。

一には、智慧門に依りて、自楽を来たらしめず我心の自身に貪著するを遠離するが故なり。

二者依慈悲門、抜一切衆生苦、遠離無安衆生心故。

二には、慈悲門に依りて、一切衆生の苦を抜き、衆生を安んずること無き心を遠離するが故なり。

三者依方便門、当憐愍一切衆生欲与其楽、遠離恭敬供養自身心故。

三には、方便門に依りて、当に一切衆生を憐愍して、その楽を与えんと欲す、自身を供養し恭敬する心を遠離するが故なり。

若能遠三種菩提障、則得三種順菩提法。

もし能く三種の菩提を障ふを遠ざければ、則ち三種の菩提に順ずる法を得ん。

一者無染清浄心、不為自身求諸楽故。菩提是無染清浄処、若為自身求楽、即染身心障菩提門、是故無染清浄心、是順菩提門。

一には無染清浄心、自身の為に諸を楽むを求めざるが故なり。菩提はこれ無染清浄の処なり、もし自身の為に楽を求めば、即ち身心染じられて菩提門を障ふ、この故に無染清浄心は、これ菩提門に順ずるなり。

二者安清浄心、為抜衆生苦故。菩提心是安隠一切衆生清浄処、若不作心抜一切衆生、令離生死苦、即違菩提門、。故安清浄心、是順菩提門。

二には安清浄心、衆生の為に苦を抜くが故なり。菩提心はこれ一切衆生を安隠にする清浄処なり、もし一切衆生を抜き、生死の苦を離れしむ心を作さざれば、即ち菩提門に違す。故に安清浄心はこれ菩提門に順ずるなり。

三者楽清浄心、欲令一切衆生得大菩提涅槃故。菩提涅槃是畢竟常楽処、若不作心令一切衆生得畢竟常楽、即遮菩提門。

三には楽清浄心、一切衆生をして大菩提涅槃を得しめんと欲するが故なり。菩提涅槃はこれ畢竟常楽処なり。もし一切衆生に畢竟常楽を得しめる心を作さざれば、即ち菩提門を遮すなり。

此菩提因何而得? 要因生浄土常不離仏、得無生忍已於生死国中救苦衆生。 悲智内融定而常用自在無礙、即菩提心、此是顕生之意。

この菩提、何に因りて得? 要は浄土に生るに因りて常に仏を離れず、無生忍を得已りて国中の生死の苦の衆生を救うなり。 悲智内融して定んで常に自在無礙を用いりは、即ち菩提心なり、これが是の顕生の意なり。

二、明欣心顕求者、希心起想縁弥陀仏、若法身、若報身等。金色光明八万四千相、一一相中八万四千好、一一好放八万四千光明、常照法界摂取念仏衆生。

二、欣心顕求を明さば、希心、想を起こし弥陀仏、もしは法身、もしは報身等、金色光明八万四千相、一一相中八万四千好、一一好八万四千光明を放つ、常に法界を照らし念仏の衆生を摂取するを縁ず。

又観彼浄土七宝荘厳妙楽等、備如無量寿経十六観等。常行念仏三昧、及施戒修等一切善行、悉已迴施一切衆生、同生彼国決定得生、此謂欣願門也。

また彼の浄土の七宝荘厳妙楽等を観ずるなり、備に無量寿経十六観等の如し。常に念仏三昧行じ、及び施戒修等の一切善、悉く一切衆生に迴施を行じ已りて、同じく彼国に生じて決定して生を得ん、これを欣願門と謂ふ也。


浄土十疑論 終



参 考

  1. 『維摩経』仏国品に、「是故宝積。若菩薩 欲得浄土 当浄其心。随其心浄 則仏土浄。(この故に、宝積、もし菩薩、浄土を得んと欲せば、まさにその心を浄むべし。その心の浄きに随って、すなわち浄土浄し。)とある。通常西方浄土を否定する文としてこの語を出すことが多い。現代人でも、要するに心の持ちようであるとして同じ趣旨を論ずる輩が多い。