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無上宝珠

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

むじょうほうしゅ

  【左訓】「如意宝珠のたまなり。この宝珠は濁れる水に入るれば、水はすめども身さびゐず。水晶は濁り水に入るれば、身さびゐる。かるがゆゑに水晶をば万行万善にたとへ、宝珠をば名号にたとふ」(異本)(高僧 P.586)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

名号を無上宝珠(如意宝珠)にたとえる『論註』には、

かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。またこれ摩尼珠を玄黄の幣(きぬ)をもつて裹(つつ)みてこれを水に投ぐれば、水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなり。
かの清浄仏土に阿弥陀如来無上の宝珠まします。無量の荘厳功徳成就の帛をもつて(つつ)みて、これを往生するところのひとの心水に投ぐれば、あに生見を転じて無生の智となすことあたはざらんや。(論註 P.126)

とある。御開山は『浄土文類聚鈔』では

 いま庶はくは道俗等、大悲の願船には清浄の信心を順風とし、無明の闇夜には、功徳の宝珠大炬とす。心昏く識寡なきもの、敬ひてこの道を勉めよ。 (浄文 P.484)

とされておられる。 名号(なんまんだぶ)は、生見(凡夫の情)を転じて無生の智となすのである。

凡情を遮せず