煩悩
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(煩惱から転送)ぼんのう
梵語クレーシャ(kleśa)の漢訳。惑(わく)とも漢訳する。身心を悩ませ、煩わせる精神作用の総称。
煩悩の中で代表的な
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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ぼんのう 煩悩
梵語クレーシャ (kleśa) の意訳。惑とも意訳する。身心を煩わせ、悩ませる精神作用の総称。『唯信鈔文意』には
- 「煩は身をわづらはす、 悩はこころをなやます」(註 708)
とある。 衆生はこうした煩悩によって業を起こし、 苦報を受けて迷界に流転する。 そのため、 煩悩を滅したさとりの境地にいたることが仏教の究極的な実践目的とされる。 →三毒、根本煩悩。(浄土真宗辞典)
『唯信鈔文意』には、
- 煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますといふ。(唯文 P.708)
とある。
- オンライン版 仏教辞典より転送
煩悩
kleśa、क्लेश (S)
仏教の考え方の一つで、身心を乱し悩ませ、正しい判断をさまたげる心のはたらきを言う。
仏教では人間の生存を苦であると説き、その根源は煩悩にあると説く。しかも、その煩悩の根本は人間の一切の行為が――身体的なものも言語活動も、さらに精神的行為も――常に自己を中心として、他を差別する対立意識にあるとするのである。仏教では、このような自己中心的な対立意識を「我執」と呼ぶ。そこで、本気になって苦悩をはなれようとすると、何よりも、この我執をはなれなければならない。このために、仏教徒たちは我執によって起こるいろいろな心の動揺や欲望を「煩悩」とよんで、これを対治(たいじ)しようとするのである。
しかし、数多く起こってくる煩悩を効果的に対治するためには、どうすればよいか。仏教徒は、このために、煩悩とよばれるような心の働きを数えあげ、これを分類し統合して対治を効果的にしようとした。ところが、このような活動を続ける間に、本来の煩悩の対治という目的が忘れられ、煩悩の指摘と分類のための分類がなされるような傾向になった。これが阿毘達磨仏教といわれるものの一つの偏向である。
しかし、このように繁雑に行われた煩悩の分類や統合も、悟りを完成することを目指していることに違いはない。
原語分析
サンスクリット語のクレーシャ〈kleśa〉はクリシュ〈kliś〉を語根とする名詞であり、「激しい苦痛」「怒り」を意味する。これを漢訳した際に、中国語独特の文字的解釈によって「煩擾悩乱」といってきた。すなわち煩悩とは精神や肉体を悩まし苦しめ、常に人生生活に動揺と不安をもたらすような一切の心の働きをいうわけである。
異名
煩悩は、様々な名でよばれ、それは煩悩の性質をよくあらわしている。
- 纏(てん、paryavathāna) 「怒りや欲望によって所有された状態」をいうもので、煩悩が人の心身の自由をうばうものである点からいわれる。
- 蓋(がい、nivaraṇa) 「妨害すること」「干渉すること」であり、煩悩が人の心を覆って善心の起こるのを妨害するからいわれる。
- 結使(けっし、saṃyojana) 結は心身をしばりつけて、苦悩の世界を煩悩が現成する点でいい、使は煩悩が人を馳使することからいわれる。この意味で「縛」(ばく、bandhana)も「繋」(け、saṃyoga)も結と同じように人の心身をしぼりつけて、自由を奪う意味である。
これら煩悩の別名は、煩悩が人間の生活において、あらゆる面で自由を奪い、成仏の道を歩むものにとって、実に厄介なものであることを示している。
このように人間の自由を自分自らの内から失わしめる煩悩は、さらに「取」(しゅ、upadana)、軛(やく、yoga)といわれるように、それが人間自身のとらわれの心によることを示している。
取とは対象にとらわれること、軛とは牛が首のところにつけている「くびき」であり、これで牛が車をひかせられるように、煩悩のために苦悩にしばられて自由でないことを示している。
ここでのとらわれとは、ありもしないものをあるとし、あるものを正しく評価しないで、ないといったりするようなとらわれである。そこで、このような煩悩は、実は幻のごときもので、人間にとっては非本来的なものであるというので、洗えばおちるような「垢」(く、mala)であるといわれ、あるいは正しいものを誤って漂流せしめるというので「瀑流」(ぼる、ogha)〔たきのこと〕といい、また外からつけ加わった垢の意味で「客塵」(āgantuka-mala)という。客とは、外来者の意味である。
煩悩の別名として代表的なものに「随眠」(ずいめん、anuśaya)がある。原語自身は「〔悪への〕傾向、性向」の意味をもつものであるが、アヌ(anu)を随、シャヤ(śaya)を眠と訳出したものである。アヌシャヤはアヌシイ(anuśi)という動詞を語根としての名詞であり、アヌシイは「随って眠る」意味であるからである。
このように訳出されると、随に「随逐」「随縛」「随増」の三義があると解釈され、眠とは「行相の微細なるをいう」と解説されるようになる。
つまり、煩悩は人間の心身を縛りつけて自由を奪い、そのために、人間をもだえ苦しめ、人間はこの苦悩に追い廻されて(=逐の意味)ますます苦におちいる。このように引き廻されておりながら、人びとはそれを煩悩のしわざであると理解しえない。なぜなら、根本的な煩悩のはたらきは表面的には認識できないからである。根本的な煩悩は具体的に自覚することがむつかしい。
貪欲や瞋恚などは、必ずしも常時起こっていない。しかし、欲心や怒りの心がないのではなく、ことあるごとに起こってくる。このように貪欲瞋恚の根本的な煩悩は、必ずしも常にあらわれていないが、人間の心の底にいつもはたらくべく存在している。そこで、このような煩悩は、働きがこまやか――行相〔=はたらき〕が微細(=こまやか)――であるという。
大乗仏教の考え方
煩悩が客塵とよばれるように、大乗仏教では、本来は外来的なものであるといわれる。なぜなら、もし煩悩が本来的なものならば、煩悩をなくしたら、人間の生きる力の否定となり、人間生存が無となってしまうからである。そこで、煩悩は人間そのものの生きる力として、一面ではこれを認めつつ、これを正しく処理することによって、それを悟りの働きに転じようとするのが大乗仏教である。
すなわち、正しい智慧の光によって無明の闇を破ることで、そこに正しい自覚があらわれれば、いままでは自己にとらわれていた我執が、そのままで一切をあわれみはぐくんでゆこうとする慈悲心となってはたらくのである。このように、煩悩の正しい処理をめざすものが煩悩論であることをしらねばならない。
煩悩の分類
仏教では、まず多くの煩悩を根本的なものと枝末的なものとにわけ、これを根本煩悩、あるいは根本惑、本惑といわれるものと、枝末煩悩、随惑(ずいわく)、随煩悩などといわれるものにわける。これは、ちょうど、樹木の根と枝葉とのようなものである。
なぜ大きく二つにわけるかといえば、根本的煩悩は表面からはなかなかつかまえにくいので、これを処理することが非常に難かしい。そこで、この樹木を枯らし自然に根をくさらせてしまうためには、こんきよく枝葉を切りおとしてゆく作業を続けるしかない。それと同じように、根本の煩悩を対治するために、表にはっきりと煩悩であると自覚できる枝末煩悩を根気よく対治することだと、まず煩悩の対治という点から二つに大別する。このうち、根本煩悩として貪欲、瞋恚、愚癡、憍慢、疑、悪見の6をたてる。さらに、このような根本の煩悩が具体的に活動して表面的になる、それを随煩悩といって、19あるいは20を数えるのである。
五鈍使
これら六大煩悩の中で貪欲、瞋恚、愚癡(道理のわからない心)憍慢(おごりたかぶること)の4つは、具体的な個々の事象について迷い悩む、いわば感覚的情意的なものである。そこで、これらはなかなか理屈どおりに処理できない厄介なものであるから、永い期間をかけて対治しなければならない。その点で、仏教では修道という修行の段階で、これを処理するというので「修惑」(しゅわく)といい、また、それが情意的性格のものである点で「思惑」(しわく)、事象に迷うというので「迷事の惑」(めいじのわく)などとよぶ。この四種に次の疑をふくめての5つは、その働き方が鈍くしかも執拗であるので五鈍使(ごどんし)と呼んでいる。
五利使
この五鈍使に対して、最後の悪見を五種にひらいて、これを五利使(ごりし)という。「見」とは推理探究の知性的な煩悩をいうのであり、働きが鋭利であるからである。そこで、これらは道理がわかればすぐに処理がつくのであり、その意味で仏教では見道という修行の段階で処理できるものという点で「見惑」(けんわく)とよび、知性的なものというので、同じく「見惑」といい、また普遍的な理に迷うという点で、「迷理の惑」(めいりのわく)とよばれる。
ところで、悪見の五とは身見(しんけん)、辺見(へんけん)、邪見(じゃけん)、見取見(けんじゅけん)、戒禁取見(かいごんじゅけん)である。このうち、身見は有身見ともいわれ、それは自分の中核として普遍的常性的な実体としての我があるという執着をもつことである。辺見とは断常二見といわれ、死によって、すべてがなくなるということと、死んでも何かが残ってゆくという執着である。邪見とは因果の道理を認めないことが正しい考え方であるとするようなものであり、見取見とは劣った知見や間違ったいろいろの考え方をいう。最後の戒禁取見とは、因となりえないものを因と考え主張する非因計因の人の考え、道でないものを正しい方法であると主張する非道計道の人の考えをいうのである。
隋煩悩
この六種の根本煩悩により、またそれが具体的に働いたものとして随煩悩を説く。随とは付随、付属の意味であるが、厳密には等流(とうる)と分位(ぶんに)とにわけている。すなわち、等流とは根本煩悩と別のものであるが種類を同じくしているものというのであり、分位とは根本煩悩が現われ活動している位置において名をつけたものである。たとえば、等流のものとして、無慚(むざん)・無愧(むき)・棹拳(じょうこ)・惛沈(こんじん)・不信・懈怠(けだい)・散乱の7を数える。次に分位の惑については、瞋恚の分位として、忿(ふん)・恨(ごん)・悩(のう)・嫉(しつ)・害(がい)の5つ、貪欲の分位として、樫(けん)・憍(きょう)、貪欲と癡との分位として、覆(ふく)・誑(おう)・諂(てん)の3つを立てる。
総論
根本煩悩の説をみれば、いかに人間の煩悩が抜き難いものであるかをしると同時に、煩悩具足と自分を自覚した聖者の悩みをしることができるであろうし、このように深い分析のあとは、いかに仏道に志した人びとの悩みが大きかったかをしることにもなる。このような煩悩論は全く成仏という実践目標にむかって実際に思い悩んだ人びとの苦闘の中に生まれてきたことを忘れてはならない。
このほか、天台教学のように「見思」(けんじ)、「塵沙」(じんじゃ)、「無明」(むみょう)の三惑を立て、仏道成就のための段階に応じて煩悩を区別する考え方もあり、また、百八の煩悩にわけ、鐘の音によって、これを亡ぼすという信仰もある。
煩悩という言葉自身は、よくしられているが、そこに示される人間の自己反省に注意すべきであり、今日においても、また、その意味で正しい人間像を求める中に大きな意味をもつ。