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現代語 信巻

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 さて、考えてみると、他力の信心を得ることは、阿弥陀仏が本願を選び取られた慈悲の心からおこるのである。その真実の信心を広く明らかにすることは、釈尊が衆生を哀れむ心からおこされたすぐれたお導きによって説き明かされたのである。
 ところが、末法の世の出家のものや在家のもの、また近頃の各宗の人々の中には、自らの心をみがいてさとりを開くという聖道門の教えにとらわれて、西方浄土の往生を願うことをけなし、また定善・散善を修める自力の心にとらわれて、他力の信を誤るものがある。
 ここに愚禿釈の親鸞は、仏がたや釈尊の真実の教えにしたがい、祖師方の示された宗義をひらきみる。広く三経の輝かしい恩恵を受けて、とくに、一心をあらわされた『浄土論』のご文をひらく。ひとまず疑問を設け、最後にそれを証された文を示そう。心から仏の恩の深いことを思い、人々のあざけりも恥じようとは思わない。浄土を願うともがらよ、たとえこれに取捨を加えることがあっても、真実の法を示されたこれらの文を謗るようなことがあってはならない。


(1)

 つつしんで往相の回向をうかがうと、この中に大信がある。大信心は、生死を超えた命を得る不思議な法であり、浄土を願い娑婆世界を厭うすぐれた道であり、阿弥陀仏が選び取り回向してくださった疑いのない心であり、他力より与えられる深く広い信心であり、金剛のように堅固で破壊されることのない真実の心であり、それを得れば浄土へは往きやすいが自力では得られない浄らかな信であり、如来の巧妙におさめられて護られる一心であり、たぐいまれなすぐれた大信であり、世間一般の考えでは信じがたい近道であり、この上ないさとりを開く真実の因であり、たちどころにあらゆる功徳が満たされる浄らかな道であり、この上ないさとりの徳をおさめた信心の海である。
 この信心は念仏往生の願(第十八願)に誓われている。この大いなる願を選択本願と名づけ、また本願三心の願と名づけ、また至心信楽の願と名づける。また往相信心の願とも名づけることができる。
 ところで、常に迷いの海に沈んでいる凡夫、迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける衆生は、この上もない証を開くことが難しいのではなく、そのさとりに至る真実の信心を得ることが実に難しいのである。なぜなら、信心を得るのは、如来が衆生のために加えられるすぐれた力によるものであり、如来の広大ですぐれた智慧の力によるものだからである。たまたま、清らかな信心を得たなら、この信心は真如にかなったものであり、またいつわりを離れている。そこで、きわめて深く重い罪悪をそなえた衆生も、大きな喜びの心を得て、仏がたはこのものをいとおしみ、お護りくださるのである。

(2)  至心信楽の本願(第十八願)の文は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、まことの心で(至心)信じ喜び(信楽)、わたしの国に生れると思って(欲生)、たとえば十声念仏して(乃至十念)、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」

(3)  『如来会』に説かれている。

 「わたしが無上のさとりを得たとき、他方の国の人々がわたしの名号のいわれを聞いて、あらゆる善根をまことの心より与え施されて、わたしの国に生れようと願い、たとえば十声念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる。

(4)  本願(第十八願)成就文は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」

(5)  『如来会』に説かれている。

 「他方の国のすべての人々が、無量寿如来の名号のいわれを聞き、たちどころに浄らかな信をおこして歓喜し、あらゆる功徳をおさめた名号を与えられたことを喜んで、無量寿如来の国に生れようと願うなら、願いどおりにみな往生し、不退転の位を得て、この上ないさとりを開くことができる。ただし、無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、正しい法および聖者を謗るものは除かれる」

(6)  また『無量寿経』に説かれている。

 「教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じよろこぶものこそわたしのまことの善き友である。だから信心をおこすがよい」

(7)  また『如来会』に説かれている。

 「このように信を得た人々は、すぐれた徳をそなえたものであり、広大なさとりが得られる無量寿仏の浄土に往生することができる」

(8)  また次のように説かれている(如来会)。

 「如来の功徳は仏だけが知ることのできるものである。したがって仏がただけが説き示すことができるのであり、神々・竜・夜叉などにはとても力が及ばない。声聞や菩薩も言葉を失ってしまう。たとえば多くの人々が仏となり、その行は普賢菩薩に超えてすぐれたものであり、さとりの世界をきわめ尽して、無量寿仏の功徳を説き述べるとしよう。それでも、考えられないほどの長い時間を必要とする。その仏の全生涯をかけて説いても、なお無量寿仏のすぐれた智慧は、はかり知ることができないのである。だから、信を恵まれることと、本願のいわれを聞くことと、善知識の導きに遇うこととがすべてととのって、このような深くすぐれた阿弥陀仏の法を聞くことができたなら、仏がたはそのものをいとおしんで護ってくださるのである。如来のすぐれた智慧は大空のすみずみにまで行きわたり、その智慧を説かれた教えの内容は仏だけがさとられるものである。だから広く浄土の法を聞いて、わたしの教え、真実の言葉を信じるがよい。人の身を得ることははなはだ難しく、仏が世に出られるのに遇うこともまた難しい。多くの生死を重ねてきたが、今ようやく信心の智慧を得ることができる。だから道を修めるものは努め励むがよい。このような法を聞くことができたなら、常に仏がたがお喜びになるのである」

(9)  『往生論註』にいわれている。

 「『浄土論』に<この如来の名号を称えて、如来の光明という智慧の相にかない、また、名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとするからである>と述べられている。<この如来の名号を称えて>とは、無碍光如来の名号を称えることである。<如来の光明という智慧の相にかない>とは、仏の光明は智慧のあらわれであり、この光明がすべての世界を照らして、何ものにもさまたげられず、あらゆる人々の無明の闇を除いてくださるのであって、太陽・月や珠の光がほら穴の闇を破るようなことと同じではないということである。<名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとする>とは、無碍光如来の名号は、衆生のすべての無明の闇を破り、衆生のすべての願いを満たしてくださることをいうのである。

 ところが、口に名号を称え、心に念じながらも、なお無明があって、願いが満たされないのはどういうわけかといえば、それは、如実に行を修めず、名号のいわれに相応しないからである。如実に行を修めず、名号のいわれに相応しないのはどういうことであろうか。それは、如来が真如実相をさとられた自利成就の仏であるとともに、そのままが衆生をお救いくださる利他成就の仏であることを知らないことをいうのである。また三種の不相応がある。なぜ相応しないのかというと、一つには、信心が淳く(淳の字は、あつく飾り気のないこと。諄の字は、至極ということであり、またまごころのこもった懇切なありさまであって、淳の字と同じである)なく、あるようなないような信であるからである。二つには、信心が一つでなく、信が決定しないからである。三つには、信心が相続せず、疑いの心がまじるからである。この三つは互いに関連しあっている。信心が淳くないから決定の信がない。決定の信がないから信が相続しない。また、信が相続しないから決定の信が得られない。決定の信が得られないから信心が淳くないのである。そして、これらのあり方と異なっていることを<如実に行を修め本願に相応する>というのである。

 こういうわけで、天親菩薩は『浄土論』のはじめに<わたしは一心に>といわれたのである」

(10)  曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』にいわれている。

 「すべての人が、阿弥陀仏の功徳の名号を聞いて、信心を得てよろこび、またその名号のいわれを聞いてよろこぶ、その信の一念までも、如来が与えてくださるのである。浄土を願えばみな往生することができる。ただし、五逆と正しい法を謗る者は除かれる。だからわたしは如来をうやうやしく礼拝し往生を願う」

(11)  善導大師の『観経疏』にいわれている(定善義)。

 「<如意>には二つの意味がある。一つには衆生の意のままにという意味で、その心にしたがってみなお救いになる。二つには阿弥陀仏の意のままにという意味で、五眼をもってまどかに照らし出され、六つの神通力を自在に用いられて、済うべき人をご覧になり、ただちに、身も心も同時に等しく衆生のところへおもむき、身・口・意の三業をもって迷いを打ち砕き、それぞれの利益を与えられる」

(12)  また次のようにいわれている(序分義)。

 「この五濁の世に生れ、生老病死の苦しみや愛別離苦などの苦しみにさいなまれるのは、あらゆる迷いの世界に通じることであり、これらの苦しみを承けないものはいない。すべてのものは常にその苦しみに直面して悩まされているのである。もし、この苦しみを受けないものがいるなら、そのものは凡夫ではないのである」

(13)  また次のようにいわれている(散善義)。

 「『観無量寿教』の<何等をか三と為す>から<必ず彼の国に生ず>までは、三心とは何かということを説き、その三心が浄土に往生する正しい因であると明かされたものである。そこには二つのことが示されている。一つには、世尊は衆生の能力・素質に応じて利益を与えられるのであるが、仏のおこころは奥深く、うかがい知ることができない。そこで、仏が自ら問いを設けて明らかにしてくださらなかったなら、他のものには理解することができないということを明かされる。ふたつには、世尊が自ら、その三心とは何かという問いに対して、その一つ一つをあげてお答えになったことを明かされるのである。

 経に<一つには至誠心>と説かれている。<至>とは真であり、<誠>とは実である。すべての人々が身・口・意の三業をもって修める行は、必ず、如来が真実心のうちに成就されたものを用いることを明らかにしたいという思召しである。うわべだけ賢者や善人らしく励む姿を現してはならない。心のうちにはいつわりをいだいて、貪り・怒り・よこしま・いつわり・欺きの心が絶えずおこって、悪い本性は変らないのであり、それはあたかも蛇や蝎(さそり)のようである。身・口・意の三業に行を修めても、それは毒のまじった善といい、また、いつわりの行というもので、決して真実の行とはいえないのである。もし、このように自力の心で、行を修めようとするのであれば、たとえ身を苦しめ心を砕いて、昼夜を問うことなく、ちょうど頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて毒のまじった善というのである。この毒のまじった行を因として、阿弥陀仏の浄土に生れようと求めても、決して生れることはできない。なぜかというと、まさしく、阿弥陀仏が因位において、菩薩の行を修められたときには、わずか一念一刹那の間であっても、その身・口・意の三業に修められた行はみな、真実の心においてなされたことに由る(如来を経て、如来の行を行じて、如来によりしたがって、如来のまことを用いて、ということである)からである。すべて、このように如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、それをいただいて浄土に生れようと願うのであれば、またすべてみな真実なのである。

 また真実に二種がある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。(中略)衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、如来が因位のとき、真実の心において捨てられたのであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。聖者も凡夫も、智慧ある人も愚かな人も、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである。

 <二つには深信>と説かれている。深信というのは、すなわち深く信じる心である。これにまた二種がある。一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎなく深く信じる。二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂め取ってお救いくださると、疑いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎなく深く信じる。

 また、釈尊は『観無量寿教』に、世福・戒福・行福の三福、浄土を願うもののそれぞれの資質、定禅・散善についてお説きになり、浄土や阿弥陀仏および聖者たちをほめたたえて、人々に浄土を求めさせておられるのであると、疑いなく深く信じる。

 また、『阿弥陀経』に、あらゆる世界の数限りない仏がたが、すべての凡夫が間違いなく往生できることを証明して勧めておられると、疑いなく深く信じる。

 また、深く信じるものよ、仰ぎ願うことは、すべての行者たちが、一心にただ仏の言葉を信じ、わが身もわが命も顧みず、疑いなく仏が説かれた行によって、仏が捨てよと仰せになるものを捨て、仏が行ぜよと仰せになるものを行じ、仏が近づいてはならないと仰せになるものに近づかないことである。これを、釈尊の教えにしたがい、仏がたの意にしたがうという。これを阿弥陀仏の願にしたがうという。これを真の仏弟子というのである。

 また、すべての行者たちよ、ただこの『観無量寿教』に示される行を深く信じることだけが、決して人々を誤らせないのである。なぜなら、仏は大いなる慈悲をまどかにそなえた方だからであり、その説かれた言葉はまことだからである。仏以外のものは、智慧も行もまだ十分でなく、それを学ぶ位にあり、煩悩もその習気もまだすべては除かれていないので、さとりを求める願いも、まだまどかに成就していない。したがって、これらのものは、たとえ仏のおこころを推しはかっても、確かに知ることはまだできないのである。ものごとの道理を正しく明らかに理解することがあったとしても、必ず仏にその証明をお願いして、当否を定めるべきである。もし、仏のおこころにかなえば、仏はこれを認められて<その通り>といわれる。もし、仏のおこころにかなわなければ、<あなたがたのいうこの理解は正しくない>といわれるのである。仏がお認めにならない説は、無意味で利益のない言葉と同じである。仏がお認めになる説は、仏の正しい教えにかなうものなのである。仏のお言葉はすべて、正しい教であり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧なのである。多数のものでも少数のものでも、菩薩であっても人間であっても神々であっても、その説の善し悪しを定めることなどできない。仏の説かれた教えは、完全な教えであり、菩薩などの説は、すべてみな不完全な教えというのである。よく知るがよい。だから、今この時、往生を願うすべての人々に勧める。ただ深く仏のお言葉を信じて、ひとすじに行を修めるがよい。菩薩などの説く、仏のお心にかなっていない教えを信じて、疑いをおこし、惑いをいだいて、自ら往生という大いなる利益を失ってはならない。(中略)

 釈尊はすべての凡夫に対して、命のある限り、ひとすじに念仏して、命終れば間違いなく阿弥陀仏の国に生れることを示してお勧めになるが、すべての世界の仏がたもみなこれと同じようにほめたたえ、同じように勧め、同じように証明されるのである。なぜならそれは、同じさとりからおこる大いなる慈悲のはたらきだからである。釈尊が教え導こうとされているものは、そのまま、すべての仏がたが救おうとされているものであり、すべての仏がたが救おうとされているものは、そのまま、釈尊が教え導こうとされているものなのである。

 すなわち『阿弥陀経』の中に、<釈尊は極楽の種々の荘厳をほめたたえておられる。またすべての凡夫に、一日でも七日でも、ただ一心に阿弥陀仏の名号を称えて、間違いなく往生するがよいと、お勧めになる>と説かれている。その次の文には、<すべての世界にそれぞれ数限りない仏がたがおいでになって、釈尊をほめたたえておられる。すなわち、さまざまな濁りに満ちた時代にあって、人々は悪事を犯すばかりであり、思想は乱れ、煩悩は激しく盛んとなり、仏法を聞いても疑い謗るばかりで信じようとしない。そのような世の中に釈尊はお出ましになって、阿弥陀仏の名号を指し示してほめたたえられ、念仏すれば必ず往生を得ると衆生を勧め励まされている。このことを仏がたはみな同じくほめたたえておられる>と説かれている。これがその証拠である。また、すべての世界の仏がたは、衆生が釈尊の説かれた教えを信じないことをおそれて、みなともに同じ慈悲の心から、同時に、それぞれの国で広く舌相を示して、世界のすみずみにまで阿弥陀仏のすぐれた徳が真実であることをあらわし、まごころをこめて、<そなたたち衆生はみな、釈尊が説かれ、ほめたたえられ、証明されたこの法を信じるがよい。すべての凡夫は、罪や功徳の多少、念仏する時の長短を問うことなく、長ければ一生涯から短ければ一日・七日に至るまで、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えれば、必ず往生を得る。それは決して疑いのないことである>と仰せになっている。

 こういうわけで、一仏すなわち釈尊の教えを、すべての仏がたがみな同じく証明されるのである。これを、勧める人について信を立てるというのである。(中略)

 また、この正行の中に二種がある。一つには、ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えるのである。いついかなるときにも、また時の長短を問わず、他力回向の念仏を行じるのを正定業という。阿弥陀仏の本願にしたがうからである。礼拝や読誦などは助業という。この正定業と助業以外のすべての行は、みな雑行という。(中略)すべて、仏の本意にかなっていない自力の行というのである。以上のようなことから、深信というのである。

 <三つには回向発願心>と説かれている。(中略)また、浄土の往生を願うものは、必ず阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心をいただいて、間違いなく往生できると思うがよい。この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。ただ疑いなく、ひとすじに本願を信じて、わき目もふらずに進み、心を惑わすものの言葉に耳を傾けてはならない。それを聞いて、心が動揺しおそれをいだいてためらうなら、迷いの世界に落ちて往生という大いなる利益を失うことになる。

 問うていう。本願他力と異なる教えにしたがうさまざまな自力の人々が来て惑わし、あるいはさまざまな疑いを示して非難し、<往生できない>といったり、あるいはまた、<あなたたちは、はかり知れない昔から今にいたるまで、身・口・意の三業にわたり、あらゆる凡夫や聖者方に対して、十悪・五逆・四重・謗法・一闡提・破戒・破見などの罪をことごとくつくり、まだそれらの罪を除き尽すことができないでいる。これらの罪は迷いの世界につなぎとめるものである。どうして、わずか一生の間、功徳を積み、念仏したからといって、すぐさま煩悩の汚れのない生死を超えた浄土に生れて、不退転の位に至ることができるだろうか>というであろう。このことについてはどうであろうか。

 答えていう。仏がたの教えや修行の道が数限りなく、衆生がさとりを得ることになる縁も、衆生の心に応じてそれぞれに異なる。たとえば、世間の人の目に見え、わかるようなものでいえば、光は闇を晴らし、虚空はものをおさめ、大地はものを載せ、育て、水はものをうるおし成長させ、火はものを熟成させたり破戒したりするようなものである。このように、それぞれのものには、みなそれぞれ対応することがらがある。これらの目に見えることでさえ、千差万別である。まして仏法の不思議な力に、どうして、さまざまな利益のないはずがあろうか。それぞれの縁にしたがい、一つの法門によって出るというのは、一つの迷いの門を出るということであり、一つの法門によって入るというのは、一つのさとりの智慧の門に入るということである。だから、阿弥陀仏の本願力により、縁に応じて念仏の行を修め、みなさとりを求めるべきである。念仏の行がわたしにとってふさわしい行であるのに、なぜあなたはそうでない行を持ち出して、わたしをさまたげ惑わそうとするのか。私が好むのは、わたしにふさわしい行である。あなたの求めるものではない。あなたが好むのは、あなたにふさわしい行である。わたしの求めるものではない。したがって、それぞれの好みに応じて、それにふさわしい行を修めるなら、必ず速やかにさとりを得るのである。

 行者よ、よく知るがよい。もしさとりについてただ学ぶだけなら、凡夫の法から聖者の法、さらに仏のさとりに至るまで、どの教えでも学ぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うなら、必ず自分にふさわしい法によるべきである。なぜなら、少しの力で多くの利益を得るからである。

 また、往生を願うすべての人々に告げる。念仏を行じる人のために、今重ねて一つの譬えを説き、信心を護り、考えの異なる人々の非難を防ごう。その譬えは次のようである。

 ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の間に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり、少しも止むことがない。この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。<この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北へ逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう>と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。<わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない>と。

 こう考えた時、にわかに東の岸に、<そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう>と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、<そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな>と喚ぶ声がする。この人は、もはや、こちらの岸から<行け>と勧められ、向こうの岸から<来るがよい>と喚ばれるのを聞いた以上、その通りに受けとめ、少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、<おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない>と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。以上は譬えである。

 次にこの譬えの意味を法義に合せて示そう。<東の岸>というのは、迷いの娑婆世界をたとえたのである。<西の岸>というのは、極楽世界をたとえたのである。<盗賊や恐ろしい獣が親しげに近づく>というのは、衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大をたとえたのである。<人影一つない広野>というのは、いつも悪い友にしたがうばかりで、まことの善知識に遇わないことをたとえたのである。<水と火の二河>というのは、衆生の貪りや執着の心を水にたとえ、怒りや憎しみの心を火にたとえたのである。<間にある四、五寸ほどの白い道>というのは、衆生の貪りや怒りの心の中に、清らかな信心がおこることをたとえたのである。貪りや怒りの心は盛んであるから水や火にたとえ、信心のありさまはかすかであるから四、五寸ほどの白い道にたとえたのである。また、<波が常に道に打ち寄せる>というのは、貪りの心が常におこって、信心を汚そうとすることをたとえ、また、<炎が常に道を焼く>とは、怒りの心が信心という功徳の宝を焼こうとすることをたとえたのである。<道の上をまっすぐに西へ向かう>というのは、自力の行をすべてふり捨てて、ただちに浄土へ向かうことをたとえたのである。<東の岸に人の勧める声が聞え、道をたどってまっすぐ西へ進む>というのは、釈尊はすでに入滅されて、後の世の人は釈尊のお姿を見たてまつることができないけれども、残された教えを聞くことができるのをたとえたのである。すなわち、これを声にたとえたのである。<少し行くと盗賊などが呼ぶ>というのは、本願他力の教えと異なる道を歩む人や、間違った考えの人々が、<念仏の行者は勝手な考えでお互いに惑わしあい、また自分自身で罪をつくって、さとりの道からはずれ、その利益を失うであろう>とみだりに説くことをたとえたのである。<西の岸に人がいて喚ぶ>というのは、阿弥陀仏の本願の心をたとえたのである。<間もなく西の岸にたどり着き、善き友と会って喜ぶ>というのは、衆生は長い間迷いの世界に沈んで、はかり知れない遠い昔から生れ変り死に変りして迷い続け、自分の業に縛られてこれを脱れる道がない。そこで、釈尊が西方浄土へ往生せよとお勧めになるのを受け、また阿弥陀仏が大いなる慈悲の心をもって浄土へ来れと招き喚ばれるのによって、今釈尊と阿弥陀仏のお心に信順し、貪りや怒りの水と火の河を気にもかけず、ただひとすじに念仏して阿弥陀仏の本願のはたらきに身をまかせ、この世の命を終えて浄土に往生し、仏とお会いしてよろこびがきわまりない。このことをたとえたのである。

 また、すべての行者よ、何をしていてもいついかなる時でも、この他力回向の信心を得て間違いなく往生できるという思いがあるから、これを廻向発願心というのである。

 また、回向というのは、浄土に往生して後、さらに大いなる慈悲の心をおこして、迷いの世界に還って衆生を救う、これも回向というのである。

 以上の至誠心と深信と回向発願心の三心が欠けることなくそなわれば、もはやすべての行が成就しないことはない。願と行がすでに成就しているので、往生しないという道理はない。また、この三心は、定善にも通じるのである。良く知るがよい。

(14)  また『般舟讃』にいわれている。

 「敬って、往生を願うすべての人々に申し上げる。わたしたちは大いにこれまでの罪を恥じなければならない。釈尊はまことに慈悲深い父母である。さまざまな手だてをもって、わたしたちに他力の信心をおこさせてくださる」

(15)  『貞元新定釈教目録』の第十一巻には、『集諸経礼懺儀』は、唐の西崇福寺の沙門智昇がつくったものである。貞元十五年十月二十三日、皇帝の勅命に大蔵経に編入された」と記されている。その上巻は、智昇がさまざまな経によってつくったものであるが、このうち、『観無量寿教』によってつくられたところには、善導大師の『往生礼讃』の日中につとめる偈が引かれている。また、下巻には「比丘善導が集め記す」とある。その『集諸経礼懺儀』によって、大切な文を次に引用する。。

 「二つには深心。すなわちこれは真実の信心である。わたしはあらゆる煩悩を持っている凡夫であり、善根は少なく、迷いの世界に生れ変り死に変りしてそこから出ることができないと信知し、いま阿弥陀仏の本願は、名号を称えることわずか十声などのものや、ただ名号を聞いて信じるものに至るまで、必ず往生させてくださると信知して、少しも疑いの心がない、だから深心というのである。(中略)

 阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、疑うことがなければ、みなその浄土に往生することができる」

(16)  『往生要集』にいわれている。

 「『華厳経』の入法界品に次のように説かれている。<たとえば、人が不可壊の薬を得れば、どのような敵もこの人を傷つける手だてがないようなものである。菩薩もまたその通りで、菩提心という不可壊の法薬を得れば、すべての煩悩や悪魔などの敵も、その菩薩を傷つけることができないのである。またたとえば、人が住水宝珠を身につけていれば、深く水の中に入っても溺れないようなものである。菩提心という住水宝珠を得れば、迷いの海に入っても沈んでしまうことはない。またたとえば、金剛は、長い年月水の中にあっても、崩れたり、変質したりしないようなものである。菩提心もまたその通りで、はかり知れない長い間、迷いの世界で、煩悩にまみれた行いをしていても、なくなりもせず、損なわれもしない>」

(17)  また次のようにいわれている(往生要集)。

 「わたしもまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩がわたしの眼をさえぎって、見ることができない。しかし阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのようなわたしを見捨てることなく常に照らしていてくださる」

(18)

 このようなわけであるから、往生の行も信も、すべて阿弥陀仏の清らかな願心より与えてくださったものである。如来より与えられた行信が往生成仏の因であって、それ以外に因があるのではない。よく知るがよい

(19)

 問うていう。阿弥陀仏の本願には、すでに「至心・信楽・欲生」の三心が誓われている。それなのに、なぜ天親菩薩は「一心」といわれたのであろうか。
 答えていう。それは愚かな衆生に容易にわからせるためである。阿弥陀仏は「至心・信楽・欲生」の三心を誓われているけれども、さとりにいたる真実の因は、ただ信心一つである。だから、天親菩薩は本願の三心を合せて一心といわれたのであろう。

(20)

 わたしなりに三心それぞれの字の意味を考えてみると、三心はそのまま一心である。それはどのようなことかというと、「至心」というのは、「至」とはすなわち、真であり、実であり、誠である。「心」とはすなわち、種であり、実である。
「信楽」というのは、「信」とはすなわち、真であり、実であり、誠であり、満であり、極であり、成であり、用であり、重であり、審であり、験であり、宣であり、忠である。
「楽」とはすなわち、欲であり、願であり、愛であり、悦であり、歓であり、喜であり、賀であり、慶である。
「欲生」というのは、「欲」とはすなわち、願であり、楽であり、覚であり、知である。「生」とはすなわち、成であり、作(為、起、行、役、始、生)であり、為であり、興である。
 明らかに知ることができる。「至心」とは、虚偽を離れさとりに至る種となる心(真実誠種の心)であるから、疑いのまじることはない。「信楽」とは、仏の真実の智慧が衆生に入り満ちた心(真実誠満の心)であり、この上ない功徳を成就した本願の名号を信用し重んじる心(極成用重の心)であり、二心なく阿弥陀仏を信じる心(審験宣忠の心)であり、往生が決成してよろこぶ心(欲願愛悦の心)であり、よろこびに満ちあふれた心(歓喜賀慶の心)であるから、疑いがまじることはない。「欲生」とは、往生は間違いないとわかる心(願楽覚知の心)であり、往生成仏して衆生を救うはたらきをおこそうとする心(成作為興の心)である。これらはすべて如来より回向された心であるから、疑いがまじることはない。
 いま、この三心のそれぞれの字の意味によって考えてみると、みな、まことの心であって、いつわりの心がまじることはなく、正しい心であって、よこしまな心がまじることはないのである。まことに知ることができた。疑いのまじることがないから、この心を信楽というのである。この信楽がすなわち一心であり、一心はすなわち真実の信心である。だから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「一心」といわれたのである。よく知るがよい。

(21)

 また問う。字の意味によれば、愚かな衆生に容易にわからせるために本願の三心を一心と示された天親菩薩のおこころは、道理にかなったものである。しかし、もとより阿弥陀仏は愚かな衆生のために、三心の願をおこされたのである。このことは、どう考えたらよいのであろうか。
 答えていう。如来のおこころは、はかり知ることができない。しかしながら、わたしなりのこのおこころを推しはかってみると、すべての衆生は、はかり知れない昔から今日この時にいたるまで、煩悩に汚れて清らかな心がなく、いつわりへつらうばかりでまことの心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、はかり知ることができない長い間菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間も清らかでなかったことがなく、まことの心でなかったことがない。如来は、この清らかなまことの心をもって、すべての功徳が一つに融けあっていて、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできない、この上ない智慧の徳を成就された。如来の成就されたこの至心、すなわちまことの心を、煩悩にまみれ悪い行いや誤ったはからいしかないすべての衆生に施し与えられたのである。
 この至心は、如来より与えられた真実心をあらわすのである。だからそこに疑いのまじることはない。この至心はすなわちこの上ない功徳をおさめた如来の名号をその体とするのである。

(22)  そこで『無量寿経』に説かれている。

 「貪りの心や怒りの心や害を与えようとする心をおこさず、また、そういう思いを持ってさえいなかった。すべてのものに執着せず、どのようなことにも耐え忍ぶ力をそなえて、数多くの苦をものともせず、欲は少なく足ることを知って、貪り・怒り・愚かさを離れていた。そしていつも三昧に心を落ちつけて、何ものにもさまたげられない智慧を持ち、いつわりの心やこびへつらう心はまったくなかったのである。表情はやわらかく、言葉はやさしく、相手の心を汲み取ってよく受け入れ、雄々しく努め励んで少しもおこたることがなかった。ひたすら清らかな善を求めて、すべての人々に利益を与えた。仏・法・僧の三宝を敬い、師や年長のものに仕えたのである。大きな願いをもってさまざまな行を修めて、すべての人々に功徳を与えたのである」

(23)  『如来会』に説かれている。

 「世尊が阿難に仰せになった。<法蔵菩薩は、世自在王仏および多くの神々や人々、魔王・梵天・沙門・婆羅門などの前で、このような大いなる誓いをおこし、そのすべてを成就したのである。この願をおこしたことは、世に希なことである。それを実現して、すでにさとりの世界に安住し、さまざまな功徳を身にそなえ、すぐれた徳にあふれた清らかな仏の国をうるわしくととのえたのである。

 このような菩薩行を、はかり知ることができない果てしなく長い時をかけて修めた。その間、一度たりとも貪り・怒り・愚かさの心をおこさず、すべてのものに執着せず、まるで身内のものに対するかのように、あらゆる衆生を常に敬愛したのである。(中略)その性はおだやかで、荒々しいところが少しもなく、どのようなものにも常に慈悲と忍耐の心をいだき、いつわりへつらうことなくおこたることもなかった。人々に勧めてさまざまな清らかな善を求めさせ、広く人々のために雄々しく努め励んで退くことなく、世の中に利益を与え、大いなる願いを欠けることなく成就されたのである>」

(24)  善導大師が『観経疏』にいわれている(散善義)。

 「毒のまじった行を因として、阿弥陀仏の浄土に生れようと求めても、決して生れることはできない。なぜかというと、まさしく、阿弥陀仏が因位において、菩薩の行を修められたときには、わずか一念一刹那の間も、その身・口・意の三業に修められた行はみな、真実の心においてなされたことによるからである。すべて、このように如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、それをいただいて浄土に生れようと願うのであれば、またすべてみな真実なのである。また、真実に二種がある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。(中略)衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、如来が因位のとき、真実の心において捨てられたのであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心に置いて成就されたものをいただくのである。内外明暗の人の別をいわず、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである」

(25)

 このようなわけであるから、釈尊の真実のお言葉や、また善導大師の御解釈によって、この心は、思いはかることも、たとえ尽すことも、説き尽すこともできない、如来の智慧の誓願にもとずいて、すべての衆生に与えてくださった他力の真実心であると知ることができる。これを至心というのである。

(26)

 すでに「真実」といった。その真実というのは、

 『涅槃経』に次のように説かれている。

 「真実の教えは、清らかなただ一つの道であり、二つあることはない。真実というのはすなわち如来である。如来はすなわち真実である。真実はすなわち虚空である。虚空はすなわち真実である。真実はすなわち仏性である。仏性はすなわち真実である」

(27)

 善導大師のこの御解釈の中に、「内外明暗の人の別をいわず」といわれている。「内外」というのは、「内」は出世間すなわち聖者のことであり、「外」は世間すなわち凡夫のことである。「明暗」というのは、「明」は出世間であり、「闇」は世間である。また、「明」は智慧のことであり、「闇」は煩悩のことである。

 『涅槃経』に説かれている。

 「闇は世間であり、明は出世間である。また、闇は煩悩であり、明は智慧である」

(28)

 次に信楽というのは、阿弥陀仏の慈悲と智慧とが完全に成就し、すべての功徳が一つに融けあっている信心である。このようなわけであるから、疑いは少しもまじることがない。それで、これを信楽というのである。すなわち他力回向の至心を信楽の体とするのである。
 ところで、はかり知れない昔から、すべての衆生はみな煩悩を離れることなく迷いの世界に輪廻し、多くの苦しみに縛られて、清らかな信楽がない。本来まことの信楽がないのである。このようなわけであるから、この上ない功徳に遇うことができず、すぐれた信心を得ることができないのである。
 すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。
 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

(29)  『無量寿経』の本願信心の願(第十八願)成就文には、「すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき」と説かれている。

(30)  また『如来会』に説かれている。

 「他方の国のあらゆる人々は、無量寿如来の名号のいわれを聞いて、たちどころに清らかな信をおこして歓喜する」

(31)  『涅槃経』に説かれている。

 「善良なものよ、大慈・大悲を仏性というのである。なぜかというと、大慈・大悲は、影が形にしたがうように、常に菩薩から離れないのである。すべての衆生は、ついには必ずこの大慈・大悲を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大慈・大悲を仏性といい、仏性を如来というのである。

 また、大喜・大捨を仏性というのである。なぜかというと、菩薩が、もし迷いの世界を離れることができなければ、この上ないさとりを得ることはできない。あらゆる衆生は、ついには必ずこの大喜・大捨を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大喜・大捨は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

 また仏性を大信心というのである。なぜかというと、菩薩はこの信心によって、六波羅蜜の行を身にそなえることができるのである。すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。大信心は仏性であり、仏性はそのまま如来である。

 また、仏性を一子地というのである。なぜかというと、菩薩は、その一子地の位にいたるから、すべての衆生をわけへだてなく平等にながめることができるのである。すべての衆生は、ついには必ずその位を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。この一子地は仏性であり、仏性はそのまま如来である」

(32)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「この上ないさとりについて説くなら、それは信心を因とする。さとりに至る因も数限りなくあるけれども、ただ信心について説けば、すべてその中に収まってしまうのである」

(33)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「信には二種がある。一つには、ただ言葉を聞いただけでその意味内容を知らずに信じるのであり、二つには、よくその意味内容を知って信じるのである。ただ言葉を聞いただけで、その意味内容を知らずに信じているのは、完全な信ではない。また信には二種がある。一つには、たださとりへの道があるとだけ信じるのであり、二つには、その道によってさとりを得た人がいると信じるのである。たださとりへの道があるとだけ信じて、さとりを得た人がいることを信じないのは、完全な信ではない。

(34)  『華厳経』に説かれている。

 「この教えを聞き、信を得て喜び、心に疑いのないものは、速やかにこの上ないさとりを得るであろう。すべての仏がたと等しい身となるのである」

(35)  また次のように説かれている(華厳経)。

 「如来はすべての衆生の疑いを完全に断ち切り、その望みにしたがってみな満足させてくださる」

(36)  また次のように説かれている(華厳経)。

 「信はさとりのもとであり、功徳を生む母である。すべての善を養い育てる。疑いを断ち切って煩悩を離れ、この上ないさとりを開かせる。信は煩悩の汚れがない。清浄であって、おごり高ぶりの心を除き、敬いの心をおこさせる。またすべての功徳の中で第一の宝とする。この清らかな信心の手にすべての行を受ける。信は惜しむことなく恵み施す。信は喜びをもって仏法に入らせる。信は智慧と功徳を育てる。信は必ずさとりに至らせる。信は心のはたらきを清らかですぐれたものにさせる。信の力は堅固であるから砕かれることはない。信は煩悩のもとを完全に滅ぼす。信は仏の功徳へ向けさせる。信は何ものにも執着しない。さまざまな難のある世界を離れ、難のない世界へ生れさせる。信は悪魔のさまたげに満ちた世界を超え出で、この上ないさとりを開かせる。信は功徳を得るための壊れない種である。信はさとりの樹を育てる。信はすぐれた智慧を増大する。信はすべての仏を現し出す。だから菩薩の行を積む順序についていうと、信楽はもっともすぐれていて、得ることがとても難しいのである。(中略)

 常に仏がたを信じ敬えば、大いなる供養をすることになる。大いなる供養をすれば、その人は仏の不思議を信じる人である。常に尊い法を信じ敬えば、仏の教えを聞いて飽きることがない。仏の教えを聞いて飽きることがなければ、その人は法の不思議を信じる人である。常に清らかな僧を信じ敬えば、信心が退転しない。信心が退転しなければ、その人の信の力はゆるぐことがない。信の力がゆるぐことがなければ、心のはたらきが清らかですぐれたものになる。心のはたらきが清らかですぐれたものになれば、善知識に親しみ近づくことができる。善知識に親しみ近づくことができれば、広大な善根を積むことになる。広大な善根を積めば、その人はさとりを開く因となる力を成就する。人がさとりを開く因となる力を成就すれば、間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得る。間違いなく仏になることができるというすぐれた思いを得れば、仏がたに護られる。仏がたに護られるなら、菩提心をおこすことができる。菩提心をおこせば、仏の功徳を修めることができる。仏の功徳を修めれば、如来の家に生れることができる。如来の家に生れることができれば、そこでの善は利他のはたらきをする。利他のはたらきをすれば、信楽の心が清らかになる。信楽の心が清らかになれば、この上なくすぐれた心を得る。この上なくすぐれた心を得れば、常に菩薩の行を修める。常に菩薩の行を修めれば、大乗の法を身にそなえることができる。大乗の法を身にそなえることができれば、正しく仏を供養することができる。正しく仏を供養すれば、念仏の心が動揺しない。念仏の心が動揺しなければ、常に数限りない仏がたを見たてまつる。常に数限りない仏がたを見たてまつれば、如来は永久に不変であることを知る。如来が永久に不変であることを知れば、さとりの法が不滅であることを知る。さとりの法が不滅であることを知れば、自由自在な弁舌の智慧を得ることができる。自由自在な弁舌の智慧を得ることができれば、広大無辺の法を説き述べることができる。広大無辺の法を説き述べることができれば、慈しみの心から衆生を救うことができる。慈しみの心から衆生を救うことができれば、堅固な慈悲の心を得る。堅固な慈悲の心を得れば、奥深い教えを喜び味わうことができる。奥深い法を喜び味わえば、迷いの罪を離れることができる。迷いの罪を離れることができれば、おごり高ぶりやなまけ心を離れる。おごり高ぶりやなまけ心を離れるなら、すべての人々を残らず救うことができる。すべての人々を残らず救うことができれば、迷いの世界にいて疲れることはない」

(37)  『往生論註』にいわれている。

 「<如実に行を修め、本願に相応する>というのである。こういうわけで、天親菩薩は『浄土論』のはじめに<わたしは一心に>といわれたのである」

(38)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「教典のはじめに<如是>と説かれるのは、信心がさとりに至る因であるということをあらわすのである」

(39)

 次に欲生というのは、如来が迷いの衆生を招き喚びかけられる仰せである。そこで、この仰せに疑いが晴れた信楽を欲生の体とするのである。まことに、これは大乗・小乗の凡夫や聖者などの定善・散善の自力の心での回向ではないから、不回向というのである。
 あらゆる衆生は、煩悩に流され迷いに沈んで、まことの回向の心がなく、清らかな回向の心がない。そこで、阿弥陀仏は、苦しみ悩むすべての衆生を哀れんで、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまでも、衆生に功徳を施し与える心を本としてなされ、それによって如来の大いなる慈悲の心を成就されたのである。そして他力真実の欲生信を、迷いの衆生に施し与えられたのである。すなわち、衆生の欲生心は、そのまま如来が回向された心であり大いなる慈悲の心であるから、疑いがまじることはない。

(40)  そこで本願の欲生心成就文は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「その信は阿弥陀仏がまことの心(至心)をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」

(41)  また『如来会』に説かれている。

 「あらゆる善根の収まっている功徳を与えられたことを喜んで、無量寿国に生れようと願うなら、願いどおりにみな往生し、不退転の位を得て、ついに無上のさとりを開くことができる。ただし、無間地獄に堕ちる五逆の罪を犯したり、正しい法および聖者を謗るものは除かれる」

(42)  『往生論註』にいわれている。

 「『浄土論』に<回向してくださるとはどういうことであろうか。仏は苦しみ悩むすべての衆生を捨てることができず、いつも衆生に功徳を施そうと願われ、その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである>と述べられている。阿弥陀仏の回向に二種の相がある。一つには往相、二つには還相である。往相というのは、仏ご自身の功徳を他のすべての衆生に施して、みなともに浄土に往生させてくださることである。還相というのは、浄土に生れた後、自利の智慧と利他の慈悲を成就することができ、迷いの世界に還ってきてすべての衆生を導き、みなともにさとりに向かわせることである。往相も還相も、みな衆生の苦しみを除いて迷いの世界を離れさせるために与えられたものである。だから、天親菩薩は<衆生に功徳を回向しようとする心を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである>と述べておられる」

(43)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「浄入願心というのは、『浄土論』に、<さきに、阿弥陀仏の国土にそなわる功徳の成就と、阿弥陀仏にそなわる功徳の成就と、浄土の菩薩にそなわる功徳の成就とを観ずることを説いた。この三種の功徳の成就は、法蔵菩薩の願心によるものである。知るべきである>と述べられている。<しるべきである>とは、この三種の功徳の成就は、因位の四十八願などの清らかな願心によるものであり、その因位の願心が清らかであるから、結果として成就された功徳も清らかとなるのである。法蔵菩薩の因位の願心によって成就されたのであるから、因がないのではなく、また他の因によったのでもないことを知るべきである、という意味である」

(44)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「『浄土論』に、<出の第五門とは、大慈悲の心をもって、苦しみ悩むすべての衆生を観じて、救うためのさまざまなすがたを現し、煩悩に満ちた迷いの世界に還ってきて、神通力をもって思いのままに衆生を教え導く位に至ることである。このようなはたらきは阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門という>と述べられている」

(45)  善導大師が『観経疏』にいわれている(散善義)。

 「また、浄土の往生を願うものは、必ず阿弥陀仏が真実の心をもって回向してくださる本願のお心をいただいて、間違いなく往生できると思うがよい。この心は金剛のようにかたい信であるから、本願他力の教えと異なるどのような人々によっても、乱されたり砕かれたりすることはない。ただ疑いなくひとすじに本願を信じて、わき目もふらずに進み、心を惑わすものの言葉に耳を傾けてはならない。それを聞いて、心が動揺し恐れをいだいてためらうなら、迷いの世界に落ちて往生という大いなる利益を失うことになる」

(46)

 いま、まことに知ることができた。善導大師の二河の喩えの中に「四、五寸ほどの白い道」といわれているが、「白い道」の「白」という言葉は「黒」に対するものである。「白」とはすなわち、阿弥陀仏が因位のときにあらゆる行の中から選び取られた清らかな行であり、浄土往生のために如来より回向された清らかな行であることをいう。「黒」とはすなわち、無明に汚れた行であり、また、声聞や縁覚、人間や神々の修める煩悩のまじった善であることをいう。「道」という言葉は「路」に対するものである。「道」とはすなわち、第十八願の唯一信心の道であり、この上ないさとりを開くすぐれた道である。「路」とはすなわち、二乗・三乗の法、さまざまな行を修めなければならない劣った路である。「四、五寸」とはすなわち、衆生の心身を構成している四大・五陰にたとえたのである。
 「清らかな信心がおこる」というのは、金剛のように堅固な真実の心を得ることである。如来の本願力によって回向されたすぐれた信心であるから、破壊されることはない。これを金剛のようであるとたとえたのである。

(47)  『観経疏』にいわれている(玄義分)。

 「出家のものも在家のものも、今の世の人々は、それぞれ自力の菩提心をおこしても、迷いの世界は厭い離れることが難しく、またさとりへの路は求めて得ることが難しい。みなともに他力金剛の信心をおこして、ただちに迷いの流れを断ち切るがよい。まさしく他力金剛の信心を得て、本願にかなう一念の人はついには仏のさとりを得るものである」

(48)  また次のようにいわれている(序分義)。

 「まことの信心をいただいて、苦しみに満ちた娑婆世界を厭い、安らぎの浄土を願って、いつまでも変らないさとりに帰すがよい。しかし、さとりの世界には軽々と入ることができない。苦しみに満ちた娑婆世界からは、たやすく離れることなど、とてもできるものではない。他力金剛の信心をおこすのでなかったなら、どうして迷いの本を永久に絶つことができようか。もし、慈悲深い阿弥陀仏にしたがわせていただかないなら、この長い迷いの嘆きからどうして脱れることができようか」

(49)  また次のようにいわれている(定善義)。

 「金剛というのは、清らかな仏の智慧のことである」

(50)

 いま、まことに知ることができた。至心と信楽と欲生とは、その言葉は異なっているけれども、その意味はただ一つである。なぜかというと、これらの三心は、すでに述べたように、疑いがまじっていないから真実の一心なのである。これを金剛の真心という。この金剛の真心を真実の信心というのである。この真実の信心には、必ず名号を称えるというはたらきがそなわっている。しかしながら、名号を称えていても必ずしも他力回向の信心がそなわっているとは限らない。信心すなわち一心がかなめであるから、天親菩薩は『浄土論』のはじめに「わたしは一心に」といわれたのである。また、「名号のいわれにかなって、如実に行を修め、本願に相応しようとするからである」といわれている。

(51)

 総じて、この他力の信心についてうかがうと、身分の違いや出家・在家の違い、また、老少男女の別によってわけへだてがあるのでもなく、犯した罪の多い少ないや修行期間の長い短いなどが問われるのでもない。また、自ら行う行でもなく、自ら行う善でもない。速やかにさとろうとする教えでもなく、長い時を費やしてさとろうとする教えでもない。定善もなく、散善でもない。正しい観法でもなく、よこしまな観法でもない。相を念じるのでもなく、想を離れて理を念じるのでもない。平生に限るのでもなく、臨終に限るのでもない。称名を多念に励むのでもなく、一念に限るのでもない。これはただ、思いはかることも、たたえ尽すことも、説き尽すこともできないすぐれた信楽である。たとえば、阿伽陀薬がすべての毒を滅するように、如来の誓願は、自力のはからいである智慧の毒も愚痴の毒も滅するのである。

(52)

 ところで、菩提心には二種類がある。一つには竪すなわち自力の菩提心、二つには横すなわち他力の菩提心である。また、竪の中に二種がある。一つには竪超、二つには竪出である。この竪超と竪出は、権教・実教、顕教・密教、大乗・小乗の教えに説かれている。これらは、長い間かかって遠回りをしてさとりを開く菩提心であり、自力の金剛心であり、菩薩がおこす心である。また、横の中に二種がある。一つには横超、二つには横出である。横出とは、正行・雑行、定善・散善をおさめて往生を願う、他力の中の自力の菩提心である。横超とは、如来の本願力廻向による信心である。これが願作仏心、すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、すなわち他力の大菩提心である。これを横超の金剛心というのである。
 他力の菩提心も自力の菩提心も、菩提心という言葉は一つであって、意味は異なるといっても、どちらも真実にはいることを正しいこととし、またかなめとし、まことの心を根本とする。よこしまで不純なことを誤りとし、疑いをあやまちとするのである。そこで、浄土往生を願う出家のものも在家のものも、真には完全な信と完全でない信とがあるという釈尊の仰せの意味を深く知り、如来の教えを十分に聞き分けることのないよこしまな心を永久に離れなければならない。

(53)  『往生論註』にいわれている。

 「王舎城において説かれた『無量寿経』によれば、往生を願う上輩・中輩・下輩の三種類の人は、修める行に優劣があるけれども、すべてみな無上菩提心をおこすのである。この無上菩提心は、願作仏心すなわち仏になろうと願う心である。この願作仏心は、そのまま度衆生心である。度衆生心とは、衆生を摂め取って、阿弥陀仏の浄土に生れさせる心である。このようなわけであるから、浄土に生れようと願う人は、必ずこの無上菩提心をおこさなければならない。もし、人がこの心をおこさずに、浄土では絶え間なく楽しみを受けるとだけ聞いて、楽しみを貪るために往生を願うのであれば、往生できないのである。だから『浄土論』には<自分自身のために変ることのない安楽を求めるのではなく、すべての衆生の苦しみを除こうと思う>と述べられている。<変ることのない安楽>とは、浄土は阿弥陀仏の本願のはたらきによって変ることなくたもたれていて、絶え間なく楽しみを受けることができるということである。

 総じて、回向という言葉の意味を解釈すると、阿弥陀仏が因位の菩薩のときに自ら積み重ねたあらゆる功徳をすべての衆生に施して、みなともにさとりに向かわせてくださることである」

(54)  元照律師が『阿弥陀経義疏』にいっている。

 「『阿弥陀経』には、釈尊がこの五濁の世に出られて仏となり、阿弥陀仏の教えを説かれたことを<甚難希有>と示されているが、他の仏がたのできないことであるから甚難であり、この世で今までになかったことであるから希有である」

(55)  また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。

 「念仏の教えは、愚者と智者、止めるものと貧しいもののへだてなく、修行期間の長短や行の善し悪しを論じることなく、ただ決定の信心さえ得れば、臨終に悪相をあらわしても、たとえば十声念仏して往生をとげる。これこそは、煩悩に縛られた愚かな凡夫でも、また、生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを跳び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである」

(56)  また次のようにいっている(阿弥陀経義疏)。

 「この五濁の世で修行して仏になるということは難しい。多くの衆生のために阿弥陀仏の教えを説くことも難しい。この二つの難事をあげて、仏がたが釈尊をほめたたえられることが無意味でないことを明らかにされている。これは衆生に教えを聞かせて信を得させるためである」

(57)  律宗の用欽がいっている。

 「阿弥陀仏の教えを信じることが難しいと説くのは、まことにこの教えは、凡夫を転じて仏とすることが、ちょど手のひらを返すようだからである。きわめてたやすいから、かえって浅はかな衆生は多くの疑いを生じる。そこで『無量寿経』には、<浄土は往生しやすいにもかかわらず、往生する人がまれである>と説かれている。このようなわけで信じることが難しいと知られる」

(58)  『聞持記』にいっている。

 「『阿弥陀経義疏』の文に、<愚者と智者のへだてなく>とあるのは、人々の性質に賢愚の違いがあることをいう。<富めるものと貧しいもののへだてなく>とあるのは、人々の生活に貧富の違いがあることをいう。<修行期間の長短を論じることなく>とあるのは、修行の功に浅深の違いがあることをいう。<行いの善し悪しを論じることなく>とあるのは、行いに善悪の違いがあることをいう。<決定の信心を得れば、臨終に悪相をあらわしても>とあるのは、『観無量寿教』の下品下生の文に<地獄の猛火が一斉に押し寄せてくる>などと説かれているありさまをいう。<煩悩に縛られた愚かな凡夫>とあるのは、見惑と思惑の煩悩をすべて持っているものをいう。<生きものを殺し、酒を売って生活し、賤しいとされるものであっても、たちどころにすべてを飛び超えて仏になる教えである。まことに世間の常識を超えた信じがたい尊い教えというべきである>とあるのは、生きものを殺すもの、酒を売るものなど、このような悪人でも、たとえば十声念仏して、たちまち飛び超えて浄土に往生することができるのであって、まことに信じがたいすぐれた教えではないか、という意味である。

 阿弥陀仏は、真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・无等等・不可思議光と申し上げる」

(59)  『楽邦文類』の後序にいっている。

 「浄土に往生するために行を修する人は常に多いが、他力真実の教えに出会い、ただちに浄土に往生したものはほとんどいない。浄土の教えを論じる人は常に多いが、その要を得て正しく教えるものは少ない。今まで、自らさとりへの道をさまたげ、自ら正しい道をおおい隠すということについて説いたものを聞いたことがない。今わたしは、これを知ったから述べよう。自らさとりへの道をさまたげるのは、貪愛の煩悩に及ぶものはなく、自ら正しい道をおおい隠すのは、疑惑の煩悩に及ぶものはない。ただ、この貪愛と疑惑の二つの煩悩をさまたげとしないのは浄土の教えだけである。阿弥陀仏の大いなる本願は、このような煩悩をそなえた衆生をわけへだてなく、常に摂め取ってくださる。これは本願のはたらきによる必然の道理である」




(60)

 さて、まことの信楽について考えてみると、この信楽に一念がある。一念というのは、信心が開きおこる時のきわまり、すなわち最初の時をあらわし、また広大で思いはかることのできない徳をいただいたよろこびの心をあらわしている。

(61)  そこで『無量寿経』に説かれている。

 「すべての人々は、その名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき(信心歓喜乃至一念)、その信は阿弥陀仏がまことの心をもってお与えになったものであるから、浄土へ生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである」

(62)  また『如来会』に説かれている。

 「他方の国のすべての人々が、無量寿如来の名号のいわれを聞いて、一念の清らかな信をおこして歓喜するであろう」

 また『無量寿経』に説かれている。

 「その仏の本願のはたらきにより、名号のいわれを聞いて往生を願う」

 また『如来会』に説かれている。

 「仏の名号の尊い功徳のいわれを聞く」

(63)  『涅槃経』に説かれている。

 「完全な聞でないとは、どのようなことであろうか。如来の説かれた教えは十二部経である。その中の六部の教えだけを信じて後の六部を信じないのは、完全な聞ではない。また、この六部の教えを受けたといっても、読んで理解することもできずに人に説くのであれば、何のためにもならない。それは、完全な聞ではない。また、この六部の教えを受けて、議論のために、他の人よりもすぐれたいために、利益のために、世俗的な目的のために、それを読んで人に説くのは、完全な聞ではない」

(64)  善導大師は『観経疏』に「一心専念」(散善義)といわれ、また「専心専念」(散善義)といわれている。

(65)

 ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのは、わたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは、如来の本願力より与えられた信心である。「歓喜」というのは、身も心もよろこびに満ちあふれたすがたをいうのである。「乃至」というのは、多いのも少ないのも兼ねおさめる言葉である。「一念」というのは、信心は二心がないから一念という。これを一心というのである。この一心が、すなわち清らかな報土に生れるまことの因である。
 金剛の信心を得たなら、他力によって速やかに、五悪趣・八難処という迷いの世界をめぐり続ける世間の道を超え出て、この世において、必ず十種の利益を得させていただくのである。十種とは何かといえば、一つには、眼に見えない方々にいつも護られるという利益、二つには、名号にこめられたこの上ない尊い徳が身にそなわるという利益、三つには、罪悪が転じて善となるという利益、四つには、仏がたに護られるという利益、五つには、仏がたにほめたたえられるという利益、六つには、阿弥陀仏の光明に摂め取られて常に護られるという利益、七つには、心によろこびが多いという利益、八つには、如来の恩を知りその徳に報謝するという利益、九つには、常に如来の大いなる慈悲を広めるという利益、十には、正定聚に入るという利益である。

(66)

 善導大師が「専念」といわれたのは、念仏一行である。「専心」といわれたのは、二心のない一心のことである。すなわち、本願成就の文に「一念」とあるのは二心のない心、すなわち専心である。この専心は深い心、すなわち深心である。この深心は深く信じる心、すなわち深信である。この深信は固く信じる心、すなわち堅固深信である。この堅固深信はゆるぎない心、すなわち決定心である。この決定心はこの上なくすぐれた心、すなわち無上上心である。
この無上上心は真実の徳を持った心、すなわち真心である。この真心は生涯もたれる心、すなわち相続心である。この相続心は純朴で飾り気のない心、すなわち淳心である。この淳心は常に仏を思う心、すなわち憶念である。この憶念はまことの徳をそなえた心、すなわち真実一心である。この真実一心は広大な法を受けた喜びの心、すなわち大慶喜心である。
この大慶喜心はまことの心、すなわち真実信心である。この真実信心は金剛のように堅く決して砕かれることのない心、すなわち金剛心である。この金剛心は仏になろうと願う心、すなわち願作仏心である。この願作仏心は衆生を救おうとする心、すなわち度衆生心である。
この度衆生心は衆生を浄土に往生させる心である。この心は大菩提心である。この心は大慈悲心である。なぜなら、はかり知れない阿弥陀仏の智慧によって生じるからである。阿弥陀仏の本願が平等であるから、阿弥陀仏より回向された信心も平等である。信心が平等であるから、その信心にそなわる智慧も平等である。智慧が平等であるから、慈悲も平等である。
この大慈悲をそなえた信心が、浄土に至ってさとりを開く正因なのである。

(67)  そこで『往生論註』にいわれている。

 「浄土の往生を願う人は、必ず無上菩提心、すなわち信心をおこさなければならない」

(68)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「<是心作仏>とは、信心がさとりを開く正因であるという意味である。<是心是仏>とは、この信心を離れて仏がはたらいておられるのではないということである。たとえば、火は木について木を離れることはない。木を離れないから火は木を焼くことができる。木は火に焼かれて火となるようなものである」

(69)  善導大師が『観経疏』にいわれている(定善義)。

 「この信心がさとりを開く正因である。この信心は仏心である。この信心を離れて仏がはたらいておられるのではない。

(70)

 こういうわけであるから、衆生の一心は、如実に行を修め、本願に相応するといわれるのである。これが正しい教であり、正しい義であり、正しい行であり、正しい領解であり、正しい行業であり、正しい智慧である。

(71)

 本願の三心はすなわち一心であり、その一心はすなわち金剛の真心であるということについて答えおわった。よく知るがよい。

(72)  『摩訶止観』にいっている。

 「<菩提>とはインドの言葉であり、中国の言葉では道という。<質多>とはインドの言葉であり、中国の言葉では心という。心とは思慮分別する心である」

(73)

 さきに引いた善導大師の『観経疏』に「横超断四流」(玄義分)といわれている。横超というのは、横とは、竪超・竪出に対し、超とは遠まわりに対する言葉である。竪超というのは聖道門の中の大乗真実の教えである。竪出というのは聖道門の中の大乗方便の教えであり、二乗・三乗の区別を立てるものであって、さとりを開くまで遠まわりしなければならない教えである。横超というのは、本願が成就して、すべての衆生が平等にさとりを開く唯一の真実円満の教え、すなわち真宗である。また、浄土門の中に横出がある。それは三輩・九品の機が定善・散善を修め、方便化土である懈慢界に往生する遠まわりの善の教えである。本願によって成就された清らかな報土は、三輩・九品の別を問わない。往生すると同時に、速やかにこの上ないさとりを開くから横超というのである。

(74)  『無量寿経』に説かれている。

 「この上なく超えすぐれた願いをおこされたのである」

(75)  また次のように説かれている(無量寿経)。

 「わたしは世に超えすぐれた願いをたてた。必ずこの上ないさとりを得よう。わたしの名号を広くすべての世界に響かせよう。もし聞えないところがあるなら誓って仏にはなるまい」

(76)  また次のように説かれている(無量寿経)。

 「必ずこの生死の流れを超え離れて浄土に往生し、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界に戻ることなく、この上ないさとりを開くことができる。浄土は往生しやすいにもかかわらず、往く人がまれである。しかしその国は、間違いなく本願のはたらきのままに、すべての人々を受け入れてくださるのである」

(77)  『大阿弥陀経』に説かれている。

 「生死の流れを超え離れることができる。阿弥陀仏の浄土に往生すれば、ただちに輪廻を断ち切って、迷いの世界に戻ることなく、この上ないさとりを開くことができる。浄土は往生しやすいが、往く人がまれである。しかしその国には、間違いなく本願のはたらきのままに、すべての人々が受け入れられるのである」

(78)

 断というのは、往生してさとりを開く他力の信心をおこすのであるから、もはや未来に迷いの世界の生を受けることがない。すでに迷いの世界を輪廻する因が消され、果もなくなるのであるから、速やかにその迷いの世界の輪廻を断絶してしまう。だから断というのである。四流というのは、迷いの因である四暴流、すなわち煩悩であり、また、迷いの果である四苦、すなわち生老病死である。

(79)  『無量寿経』に説かれている。

 「必ず仏のさとりを開いて、広く迷いの流れを超えるであろう」

(80)  また『平等覚経』に説かれている。

 「必ず後に仏になって、すべての迷いを超えるであろう」

(81)  『涅槃経』に説かれている。

 「涅槃を島という。なぜなら涅槃は、四つの大きな煩悩の河にも、押し流されないからである。その四つの河とは、一つには欲暴流、二つには有暴流、三つには見暴流、四つには無明暴流である。だから涅槃を島というのである」

(82)  善導大師が『般舟讃』にいわれている。

 「すべての行者たちにいう。凡夫の迷いの世界に執着することなく、これを厭うべきである。阿弥陀仏の浄土を軽んじることなく、これを願い求めるべきである。厭えば娑婆世界、すなわち迷いの世界を永久に離れ、願えば浄土、すなわちさとりの世界にいつもいる。迷いの世界を離れると、迷いの因も滅し、迷いの果もおのずから滅することになる。因も果もすでに滅したのであるから、迷いのかたちも言葉もたちまちになくなってしまうのである」

(83)  また『往生礼讃』にいわれている。

 「どうか、往生を願うすべての人々よ、よく自分の能力を考えていただきたい。今、この一生をもって浄土への往生を願うものは、いついかなるときも、心を励ましておこたらず、昼も夜も念仏を捨ててはならない。命終るまで一生の間行を修めることは、いささか苦しいようでもあるが、この世の命が終って後、ただちに浄土に生れて、常にいつまでもさとりの楽しみを受け、仏となっても、もはや迷いの世界に輪廻しないのである。なんと楽しいことではないか。よく知るがよい」

(84)

 善導大師の『観経疏』に「真の仏弟子」(散善義)といわれている。真という言葉は偽に対し、仮に対するのである。弟子というのは釈尊や仏がたの弟子であり、他力金剛の信心を得た念仏の行者のことである。この他力回向の信と行によって、必ずこの上ないさとりを開くことができるから、真の仏弟子という。

(85)  『無量寿経』に説かれている。

 「わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの光明に照らされて、それを身に受けたなら、身も心も和らいで、そのようすは人々や神々に超えすぐれるであろう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい。

 わたしが仏になるとき、すべての数限りない仏がたの世界のものたちが、わたしの名号を聞いて、菩薩の無生法忍と、さまざまな深い智慧を得られないようなら、わたしは決してさとりを開くまい。

(86)  『如来会』に説かれている。

 「わたしがになるとき、広くすべての数限りない世界のものたちが、わたしのすぐれた光明を受けたなら、身も心も安らいで、そのようすは人々や神々に超えすぐれるであろう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開くまい」

(87)  また『無量寿経』に説かれている。

 「教えを聞いてよく心にとどめ、仏を仰いで信じよろこぶものこそわたしのまことの善き友である」

(88)  また次のように説かれている(無量寿経)。

 「信心を得て安楽国に往生したいと願うものは、明らかな智慧とすぐれた功徳を得ることができるのである」

(89)  また『如来会』に説かれている。

 「他力信心の人は、広大ですぐれた智慧をそなえたものである」

(90)  また次のように説かれている(如来会)。

 「このように信を得た人々は、すぐれた徳をそなえたものであり、広大なさとりが得られる無量寿仏の浄土に往生することができる」

(91)  また『観無量寿経』に説かれている。

 「もし念仏するものがあれば、まことにその人は、人々の中でもっともすぐれた尊い人であって、泥の中に咲く白い蓮の花のようであると知るがよい」

(92)  『安楽集』にいわれている。

 「いくつかの大乗教典によって、教えを説くものと聞くものとの心得を明らかにすれば、『大集経』には<法を説くものは、自らをすぐれた医者であると想え。相手の苦しみを取り除くのであると想え。説き与える法については、甘露の味わいであると想え。醍醐の妙薬であると想え。その法を聞くものは、仏法を深く理解し味わう心が成長していくと想え。病が治ると想え。このように法を説くもの、また法を聞くものは、みな仏法を盛んにすることができ、いつも仏の前にあるであろう>と説かれている。

 また、『涅槃経』によれば<仏は、«もし人が心から常に念仏三昧を修めるなら、すべての世界の仏がたが、あたかも目の前におられるかのように、いつもこの人を見ていてくださる»と仰せになる>と説かれている。

 そこで、同じく『涅槃経』に<仏が迦葉菩薩に、«もし善良なものが、常に心からひとすじに念仏するなら、山の中にいようと村の中にいようと、昼も夜も、座っていても臥していても、仏がたはあたかも目の前におられるかのように、いつもこの人を見ていてくださる。そして、いつもこの人の供養をお受けになってくださる»と仰せになる>と説かれている。

 また、『大智度論』によれば、念仏三昧について次のような三つの解釈がある。<第一には、仏は無上の法王であって、菩薩はそれに仕えるものである。したがって尊び重んじるべきものはただ仏のみである。だから、常に仏を念じなければならない。第二には、多くの菩薩がたが自ら、«わたしたちは、はかり知れない昔から、仏にわたしたちの法身・智身・大慈悲身を養い育てていただいた。そして禅定と智慧、数限りない願いと行を、仏によって成就することができたのである。その恩に報いるために、常に仏の側にお仕えすることを願っている。ちょうど大臣が、王の慈しみを受けて、常にその王のことを想うようなものである»という。第三には、多くの菩薩がたがまた、«わたしたちは因位のとき、悪知識に遇って仏法を謗り、迷いの世界に落ちた。そこで数限りなく長い間、さまざまな行を修めたけれども、そこから出ることはできなかった。後に、あるとき善知識に遇い、念仏三昧を行じることを教えられた。そのときに、多くのさわりから解き放たれたのである。このような大きな利益があるから、仏のおそばを離れまいと願うのである»と、このようにいう>

 また、『無量寿経』には<浄土の往生を願うものは、必ず信心すなわち菩提心をおこすということがもとになる。なぜなら、菩提とは浄土に往生して得られるこの上ないさとりのことだからである。信心をおこして仏になろうと思うなら、この信心は広大であって、すべての世界にあまねく行きわたり、また、この信心は長久であって、はかり知れない未来にまでわたる。また、この信心は声聞や縁覚に落ちるさわりをすべて遠ざける。ひとたびこの信心をおこすなら、はかり知れない昔から繰り返してきた輪廻を断ち切るのである>と説かれている。

 また、『大悲経』には<どのようなことを大いなる慈悲というのであろうか。もし、もっぱらねんぶつしてやむことがなかったなら、その人は、命を終えると間違いなく浄土に往生するであろう。この念仏を次々に人々に勧めて行じさせるなら、このような人をすべて大いなる慈悲を行じる人というのである>と説かれている」

(93)  善導大師が『般舟讃』にいわれている。

 「ただ嘆かわしいことは、衆生が疑ってはならないことを疑うことである。浄土はわたしたちの前にあって何ものも拒むことなく受け入れてくださる。阿弥陀仏がお救いくださるかどうかを論じる必要はない。ただ、わたしたちがひとすじに浄土に往生しようと願うかどうかによるのである。(中略)あるいはいう。これからさとりを開くまで、長く仏の徳をたたえて、大いなる慈悲の恩に報いていこう。阿弥陀仏の本願のはたらきを受けることがなかったなら、はたしていつ迷いの世界を出ることができようか。(中略)どうしてこのたび浄土に往生することを期待できようか。実にこれは釈尊のお力によるものである。釈尊のお勧めがなければ、阿弥陀仏の浄土にどうしてはいることができようか。

(94)  また『往生礼讃』にいわれている。

 「仏が世に出現されている時に生まれあわせることはきわめて難しく、人が信心の智慧を得ることも難しい。すぐれた尊い法を聞くことは、またもっとも難しいことである。自ら信じ、そして人に教えて信じさせることは、難しい中でもとくにむつかしい。仏の大いなる慈悲によって広く人々を教え導くことは、まことに仏の恩に報いることになる」

(95)  また次のようにいわれている(往生礼讃)。

 「阿弥陀仏のお体は黄金の山のようである。その光明はすべての世界を照らす。ただ本願念仏の行者だけが、その光明に摂め取られる。まさに本願のはたらきが最もすぐれているのを知るがよい。すべての世界の仏がたは広く舌相を示してこのことが真実であることを証明してくださる。ひとすじに阿弥陀仏の名号を称えて西方浄土に生れ、蓮の花の台座の上で尊い法を聞き、十地の菩薩の徳がおのずと身にそなわるのである」

(96)  また『観念法門』にいわれている。

 「ただ阿弥陀仏を信じて念仏する衆生だけを、仏の光明は常に照らし、摂め取ってお捨てにならない。他の雑行を修めるものを照らして摂め取るとは、まったくいわれていない。これもまたこの世で信心の行者をお護りくださるすぐれた力なのである」

(97)  また『観経疏』にいわれている(序分義)。

 「『観無量寿経』に、<心が喜びに満ちて無生法忍を得る>と説かれているが、これは阿弥陀仏の浄土の清浄な光明がたちまち目の前に現れると、踊りあがるほどの喜びに満ちあふれ、その喜びによって、無生法忍を得るということを明かされるのである。この無生法忍を喜忍ともいい、悟忍ともいい、信忍ともいう。『観無量寿経』の序分では、まだそれがどこで得られるかということをはっきりとあらわさず、ただ韋提希などにこの利益を願わせようとされるのである。心を励ましてただひとすじに、自らの心のうちに仏を見たてまつろうとするとき、まさしくこの無生法忍を得るのである。だから『観無量寿経』に説かれる無生法忍は、凡夫の位で得るものであって、高位の菩薩が得るものではない」

(98)  また次のようにいわれている(散善義)。

 「『観無量寿経』の<もし念仏するものは>から<諸仏の家に生ずべし>までは、念仏三昧の功徳が超えすぐれていて、雑行とくらべることなどできないことをあらわすのである。この文は五つの内容に分れる。

 一つには、もっぱら阿弥陀仏の名号を称えることを明かす。二つには、その念仏の人をたたえることを明かす。三つには、念仏し続ける人はきわめてまれな尊い人であって、まったくこれとくらべられるものがないことを明かす。だから清らかな白い蓮の花によってたとえているのである。白い蓮の花というのは、人の世に咲くすばらしい花であり、またたぐいまれな花であり、またすぐれた花であり、また美しい花である。この花は、古くからめでたい花といい伝えられている。すなわち念仏する人は、人々の中のすばらしい人であり、美しい人であり、すぐれた人であり、たぐいまれな人であり、もっともすぐれた人なのである。四つには、ひとすじに阿弥陀仏の名号を称える人には、観音・勢至がいつも影のようにつきそって護ってくださり、親しい友となてくださるということを明かす。五つには、この世ではすでにこのような利益を受け、命を終えれば仏の家、すなわち浄土に生れ、いつも尊い法を聞き、また仏がたの世界をめぐって供養し、成仏の因も果も満たされる。すなわち浄土に生れてさとりを開くことは決して遠いことではないことを明かす。

(99)  王日休が『龍舒浄土文』にいっている。

 「『無量寿経』をうかがうと、<すべての人々は、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜ぶまさにそのとき、浄土に生れようと願うたちどころに往生すべき身に定まり、不退転の位に至るのである>と説かれている。不退転の位とは、インドの言葉では阿惟越致という。『法華経』には、<弥勒菩薩が長い間行を修めて得られた位である>と説かれている。信じ喜ぶまさにそのとき往生する身に定まれば、すなわち弥勒菩薩と同じくらいになる。仏のお言葉にいつわりはない。この『無量寿経』はまことに往生の近道であり、迷いを離れることができる不可思議な方法である。みなこの経を信じるべきである。

(100)  『無量寿経』に説かれている。

 「釈尊が弥勒菩薩に、<この世界からは、不退転の位にある六十七億の菩薩が阿弥陀仏の浄土に往生するであろう。その菩薩たちはみなすでに数限りない仏がたを供養しており、その位は、弥勒よ、そなたと同じである>と仰せになる」

(101)  また『如来会』に説かれている。

 「釈尊が弥勒菩薩に、<この娑婆世界に七十二億の菩薩がいるが、その菩薩たちは数限りない仏がたのもとで多くの功徳を積んで不退転の位を得ており、みな阿弥陀仏の浄土に生れるであろう>と仰せになる」

(102)  律宗の用欽師がいっている。

 「教えの深いことは、『華厳経』の説く至極の法、『法華経』の説く至妙の法に及ぶものはない。しかしながら、すべての衆生が将来さとりを得ることを約束されているのではない。すべての衆生がこの世の命を終えて後に、みなこの上ないさとりを得ることを約束されるのは、まことに阿弥陀仏の不可思議な功徳による利益である。

(103)

 いま、まことに知ることができた。弥勒菩薩は等覚の金剛心を得ているから、竜華三会のときに、この上ないさとりを開くのである。念仏の衆生は他力の金剛心を得ているから、この世の命を終えて浄土に生れ、たちまちに完全なさとりを開く。だから、すなわち弥勒菩薩と同じ位であるというのである。そればかりでなく、他力の金剛心を得たものは、韋提希と同じように、喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができる。これは往相回向の信心をいただいたからであり、阿弥陀仏の不可思議な本願によるからである。

(104)  禅宗の智覚が『楽邦文類』に、念仏の行者をほめていっている。

 「不可思議なことである。仏の力は思いも及ばないものであり、いまだかつてない尊いものである」

(105)  律宗の元照師がいっている。

 「ああ、智者ほど教義と実践に通じていたものはいない。彼もまた臨終には『観無量寿経』を仰ぎ、阿弥陀仏の浄土をたたえてこの世を去った。杜順ほど法界の教理に達していたものはいない。彼もまた出家や在家の人々に勧めて念仏し、臨終に奇瑞を感得して、西方浄土に往生した。高玉や智覚ほど禅定に入って自己の本性を見たものはいない。彼らもまた仲間とともに念仏し、すぐれた往生をとげた。劉程之や雷次宗、柳子厚や白楽天ほど儒学者の中で学識のあったものはいない。ところが彼らもまた、誠実な心を文にあらわして、浄土に生れたいと願った」

(106)  さきに仮といったのは、聖道門の人々、および浄土文における自力の人々のことである。

(107)  そこで善導大師が『般舟讃』にいわれている。

 「仏教には八万四千の法門といわれる多くの教えが説かれている。これはまさに衆生の資質がさまざまに異なっているからである」

(108)  また『法事讃』にいわれている。

 「方便仮門の教えも、その目的は等しくて異なることがない」

(109)  また『般舟讃』にいわれている。

 「衆生の資質に応じてさまざまに説かれた教えを漸教というが、一万劫の長い間行を修めて、はじめて無生法忍を得るのである」

(110)

 さきに偽といったのは、六十二種の誤った考えを持つ人々や九十五種のよこしまな教えにしたがう人々のことである。

(111)  『涅槃経』に説かれている。

 「釈尊は常に、<九十五種のよこしまな教えを学ぶものは、みな地獄や餓鬼や畜生の世界に落ちる>と仰せになる」

(112)  善導大師が『法事讃』にいわれている。

 「九十五種のよこしまな教えはみな、世の人々を惑わしている。ただ仏の教えだけが清らかである」

(113)

 いま、まことに知ることができた。悲しいことに、愚禿親鸞は、愛欲の広い海に沈み、名利の深い山に迷って、正定聚に入っていることを喜ばず、真実のさとりに近づくことを楽しいとも思わない。恥しく、嘆かわしいことである。

(114)  さて、仏は治しがたい病のものについて、『涅槃経』に説かれている。

 「迦葉よ、世の中にはその病を治しがたい三種類の人がいる。一つには大乗の法を謗るもの、二つには五逆罪を犯すもの、三つには一闡提である。このような三種の人の病は、この世でもっとも重く、これらはみな声聞や縁覚や菩薩などの教えでは治すことができるものではない。善良なものよ、たとえばそのままでは治すことができずに必ず死んでしまう病にかかった時、適切な看病と名医と良薬があるようなものである。適切な看病と名医と良薬がなかったなら、これらの病は決して治すことはできず、この人が必ず死ぬことは疑いないのである。善良なものよ、いまの三種類の人もまたこの通りである。これらの人は仏・菩薩にしたがって、すべてのものをさとりに至らせる尊い法を聞いてその病が治り、無上菩提心をおこすであろう。声聞や縁覚や菩薩などは法を説く説かないにかかわらず、これらの人に無上菩提心をおこさせることができない」

(115)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「そのとき、王舎城に阿闍世という王がいた。その性質は凶悪で好んで生きものを殺し、乱暴な言葉遣いをし、二枚舌を使い、嘘をつき、きれいごとを並べ、心は貪りと怒りと愚かさばかりがただ激しく盛んであった。(中略)悪い仲間にしたがい、この世のさまざまな欲望にとらわれ、その楽しみにふけって、罪もない父の王を非道にも殺害した。父を殺したことにより、後悔の念にさいなまれ、熱を出して苦しむことになった。(中略)そのために、全身にできものができた。そのできものは汚くて悪臭を放ち、側へよることもできないほどであった。そこで王は自ら<わたしは今この身に、すでに悪い報いを受けた。地獄へ堕ちて苦しみを受けるのも、遠いことではないだろう>と考えた。

 そのとき、王の母親の韋提希が、さまざまな薬を阿闍世王に塗ったけれども、そのできものはただ増えるばかりで、少しも減らなかった。王は母に<このできものは心から生じたものであって、からだからおこったものではありません。もし治せるというものがいても、そのような道理はありません>といった。

 そのとき月称という大臣がいて、王のもとへ行き、傍らに立って<王さま、なぜ憂え悲しんで、お顔の色がすぐれないのですか。体の苦しみでしょうか、心の苦しみでしょうか>といった。王は月称に<どうして身も心も苦しまずにおられようか。わが父には罪がないのに、非道にも殺害してしまったのである。わたしはかつて智慧ある人から次のように聞いたことがある。«世の中には五種の悪人がいて、そのものは地獄に堕ちることを免れない。それは五逆罪をおかした人である»と。わたしは今すでに、はかることのできない多くの罪がある。どうして身も心も苦しまずにおられようか。このようなわたしの身と心とを治す良い医者はいないであろう>と答えた。それを聞いて月称は王に次のようにいった。<どうが王さま、あまりお悩みなさいますな。詩にも«いつも憂え苦しんでいると、憂いはだんだん増すものである。人が眠りを好むなら、眠りはますます多くなる。色を好み酒を好むことも、またこの通りである»といわれています。王は«世の中には五種の悪人がいて、そのものは地獄に堕ちることを免れない»といわれますが、だれか地獄へ行って見てきた上で、王に申しあげたのでしょうか。地獄というのは、ただ世間で知恵者といわれている多くのものたちがいっているだけのことです。王は、«世の中にわたしの身と心とを治す良い医者はいないであろう»といわれますが、今すぐれた医者がいます。富蘭那といいます。この方はすべてのことがらに通じ、すべてに自在であり、清らかな行を修め尽し、常に数限りない人々のために、この上ないさとりへの道を説いています。そしてたくさんの弟子たちに対して、次のように教えを説いております。«悪い行いというものはないから悪い行いの報いもない。善い行いというものはないから善い行いの報いもない。すなわち善い行いも悪い行いもないのであるから善い行いや悪い行いの報いもないのである。行いにすぐれているとか劣っているとかはないのである»と。この方が今王舎城内にいます。どうか王さま、その方のもとへ足をお運びいただいて、王さまの身と心とを治してもらってください>そこで王は<間違いなくこのわたしの罪が除かれるなら、わたしはその方に帰依しよう>と答えた。

 また蔵徳という大臣がいて、この人も王のもとへ行き、<王さま、どうしてお顔の色がすぐれず、口も渇いて、お声も弱々しくなっておられるのですか。(中略)どこが苦しいのですか。体の苦しみでしょうか、心の苦しみでしょうか>といった。そこで王は<どうして身も心も苦しまずにおられようか。わたしは愚かものであり智慧の眼がなかったのである。多くの悪い友達に近づき、しかも悪人の提婆達多の言葉にしたがい、正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。わたしは昔、智慧ある人が次のような詩で教えを説くのを聞いた。«もし父や母、仏やその弟子に対して、善くない心をおこし、悪い行いをするなら、その報いとして無間地獄に堕ちる»と。そこで、わたしは心に恐れをいだき、大いに苦しみ悩んでいるのである。そしてまた、わたしを治してくれる良い医者はいないであろう>と答えた。それを聞いて、蔵徳がまた次のようにいった。<どうか王さま、あまりお悩みなさいますな。法というものには二通りあります。一つには出家の法であり、二つには王法であります。王法というのは、自分の父を殺して、すなわち国の王となるのです。これは逆罪といわれても、その実は罪ではないのであります。たとえば迦羅羅虫が、必ず母の腹を破ってから生れるようなものです。この虫にそなわった生れ方がこの通りなのですから、母の身を破っても罪はありません。騾馬は子をはらんで死ぬといいますが、これらのこともまた同じであります。父や兄を殺したといっても罪があるわけではありません。出家の法はこれと違って、蚊や蟻のようなものを殺すことでさえ、罪になるのです。(中略)王は«世の中にわたしの身と心とを治すような良い医者はいないであろう»といわれましたが、今立派な方がいます。末伽梨拘賖梨子といます。この方はすべてのことがらに通じており、衆生を赤子のように哀れみ、すでに自らは煩悩を離れていて、衆生の身に突き刺さっている三毒の鋭い矢を抜き取ってくださいます。(中略)この方が、今王舎城にいます。どうか王さま、そこへおいでになってください。この方に会われたなら、王さまのすべての罪がなくなるでしょう>そこで王は<間違いなくこのわたしの罪が除かれるなら、わたしはその方に帰依しよう>と答えた。

 また実徳という大臣がいて、やはり王のもとへ行き、詩を詠んで<王さま、どのようなわけで、身につけた飾り物を取り、髪もそれほどまでに乱れているのでしょうか。どうしてそのような姿をしておられるのでしょうか。(中略)それは心の苦しみでしょうか、体の苦しみでしょうか>といった。そこで王は次のように答えた。<どうして身も心も苦しまずにおられようか。わが父である先王は、情深い方で、とくに人々を哀れみ、少しも罪のない方であった。わたしが生れるとき、父が占い師に見てもらったところ、占い師は«この子は生れて後、必ず父を殺すでしょう»と答えた。父はこの言葉を聞いたけれども、それでも大事に育ててくださったのである。わたしはかつて智慧ある方がこのようにいわれたのを聞いたことがある。«もし人が母と通じ、比丘尼を汚し、教団のものを盗み、無上菩提心をおこした人を殺し、また父を殺すなら、このような人は必ず無間地獄に堕ちるに違いない»と。今、身も心もどうして苦しまずにおられようか>それを聞いて、実徳がまた次のようにいった。«どうか王さま、お悩みなさいますな。(中略)すべての衆生には、過去になした行いのうち、まだその結果のあらわれていないものがあります。それが縁となって、生死を繰り返すのです。もし先王が過去の世になした行いがもととなって死ぬのであれば、王さまが今先王を殺したといっても、王さまに難の罪がありましょうか。どうか王さま、気を楽にして、お悩みなさいますな。«いつも憂え苦しんでいると、憂いはだんだん増すものである。人が眠りを好むなら、眠りはますます多くなる。色を好み酒を好むことも、またこの通りである»という詩もあることですから。(中略)刪闍耶毘羅胝子という方がいます。

 また悉知義という大臣がいて、王のもとへ行き、このようにいった。(中略)そこで王は<どうして身も心も苦しまずにおられようか。(中略)先王には罪がないのに非道にも殺害してしまったのである。わたしはかつて智慧ある方がこのように説かれたのを聞いたことがある。«もし父を殺すようなことをすれば、はかり知れない長い間大きな苦悩を受けなければならない»と。わたしはそう遠くないうちに、必ず地獄に堕ちるであろう。そしてまた、わたしの罪を除き治してくれるような良い医者はいないであろう>と答えた。それを聞いて、悉知義が次のようにいった。<どうか王さま、お悩みなさいますな。王はこういうことを聞かれなかったでしょうか。昔、羅摩という王がいました。この王は、その父を殺して王位を継ぎました。跋提大王・毘楼真王・那睺沙王・迦帝迦王・毘舎佉王・月光明王・日光明王・愛王・持多人王など、これらの王はみな、その父を殺して王位を継ぐことができたのです。ところが独りの王も地獄に堕ちたものはありません。今現に毘瑠璃王・優陀邪王・悪性王・鼠王・蓮華王などがいますが、これらの王は、みなその父を殺しました。しかしだれ独りとして憂え悩んでいる王はありません。地獄や餓鬼や神々の世界などというけれども、だれか見たものがいるのでしょうか。王さま、この世の生には二つしかありません。一つには人間であり、二つには畜生であります。この二つがありますけれども、人間・畜生として生れ死ぬことは、因縁によるのではありません。因縁によるのでなければ、そのようなものに善や悪があるといえるのでしょうか。どうか王さま、お悩みなさいますな。«いつも憂え苦しんでいると、憂いはだんだん増すものである。人が眠りを好むなら、眠りはますます多くなる。色を好み酒を好むことも、またこの通りである»という詩もあるのですから。(中略)阿耆多翅舎欽婆羅という方がいます>(中略)

 また吉徳という大臣がいて、(中略)次のようにいった。<地獄というのはどのような意味であるのか、わたしが説明しましょう。地とは大地の地のことであり、獄とは破ることです。地獄を破っても罪の報いはありません。地獄とはこのような意味なのです。また、地とは人間のことであり、獄とは神々のことなのです。父を殺すことによって人間や神々の世界に生れます。このようなわけで、婆蘇仙人は«羊を殺して人間や神々の世界の楽しみを得る»といっております。地獄とはこのような意味なのです。また、地とは命のことであり、獄とは長いということです。生きものを殺すことで長い寿命を得るのです。地獄とはこのような意味なのです。王さま、このようなわけですから、実際には地獄というものはありません。王さま、麦を植えれば麦を得、稲を植えれば稲を得られるように、地獄を殺せばまた地獄に生れ、人を殺せばまた人に生れるのであります。王さま、これからわたしが申すことをお聞きください。そもそも殺害ということはないのであります。もし不滅の実体というものがあるなら、それを殺すことはできません。もし不滅の実体というものがないなら、それが殺されるということもないのです。なぜなら、不滅の実体というものがあれば、それは常に変りません。変らない永久の存在であるから、殺害することはできないのです。破られも壊されもせず、つながれも縛られもせず、怒りも喜びもないのは、ちょうど虚空のようであります。どうして殺害の罪がありましょうか。また、不滅の実体というものがなければ、すべてのむのは無常であります。無常であるから一瞬一瞬に滅び去ります。すべては一瞬一瞬に滅び去るのですから、殺したものも殺されたものも一瞬一瞬に滅び去るのです。もし一瞬一瞬に滅び去るなら、だれに罪がありましょうか。王さま、それは火が木を焼いても火には罪がなく、斧が木をきっても斧には罪がなく、釜が草を刈っても釜には罪がないようなものです。また、刀が人を殺しても、刀は人ではないのだから、刀には罪がないようなものです。人にもどうして罪がありましょうか。また、毒が人を殺しても、毒は人ではないのだから、毒薬には罪がないようなものです。人にもどうして罪がありましょうか。すべてのものはみなこの通りです。もとより殺害ということはないのです。どうしてその罪がありましょうか。どうか王さま、お悩みなさいますな。«いつも憂え苦しんでいると、憂いはだんだん増すものである。人が眠りを好むなら、眠りはますます多くなる。色を好み酒を好むことも、またこの通りである»という詩もあることですから。(中略)今立派な方がいます。迦羅鳩駄迦旃延といいます>

 また無所畏という大臣がいて、次のようにいった。<今立派な方がいます。尼乾陀若提子といいます>(中略)

 そのとき耆婆というすぐれた医者がいて、王のもとに行き<王さま、安らかに眠れますか、どうでしょうか>といった。王は詩をもって答えていった。(中略)<耆婆よ、わたしは今重い病にかかっている。正しく国を治めていた王を非道にも殺害してしまったのである。どのような名医も良薬も呪術も行き届いた看病も、この病を治すことはできない。なぜなら、わたしの父は王として正しく国を治めており、まったく罪はなかったのに、非道にも殺害してしまったからである。今のわたしは魚が陸ににいるようなものである。(中略)わたしは昔、智慧ある人が次のように教えを説かれるのを聞いた。«身・口・意の三業が清浄でないなら、この人は必ず地獄に堕ちるのである»と。わたしもまたそうなるのである。これがどうして安らかに眠ることができようか。どのようにすぐれた医者でも、今のわたしを治すことはできない。病を治す薬となる教えを説いてわたしの苦しみを除くことはできないのである>と。耆婆が答えていう。<善いことを仰せになりました。王さまは罪をつくりましたが、深く後悔して慚愧の心をいだいておられます。王さま、仏がたは常に次のように説いておられます。二つの清らかな法があって、衆生を救うことができます。その法とは、一つには慚であり、二つには愧であります。慚とは自分が二度と罪をつくらないことであり、愧とは人に罪をつくらせないことです。また慚とは心に自らの罪を恥じることであり、愧とは人に自らの罪を告白して恥じることです。また慚とは人に対して恥じることであり、愧とは天に対して恥じることです。これを慚愧といいます。慚愧のないものとは人とは呼ばず、畜生と呼びます。慚愧があるから父や母、師や年長のものを敬い、慚愧があるから父や母、兄弟姉妹の関係ももたれるのです。今王さまが十分に慚愧の心をいだいておられるのは、実に善いことです。(中略)王は、«この病を為すことはできないであろう»といわれますが、王さま、迦毘羅城に浄飯王の王子で、姓は瞿曇、名は悉達多といわれる方がおられます。師につかずに、おのずからこの上ないさとりを開かれました。(中略)この方は仏・世尊であります。金剛の智慧をそなえておられ、衆生のすべての罪悪を破ることができます。王さまの病を治せないという道理はありません。(中略)王さま、この如来の従弟には提婆達多というものがいます。彼は教団の和を乱し、仏の体に傷をつけて出血させ、蓮華比丘尼を殺して、五逆罪の中の三つまで犯しました。しかし、如来はこの人のためにさまざまな尊い法を説いて、その重い罪を軽くしておやりになりました。だから、如来は実にすぐれた医者なのであります。これまでにお聞きになった六人の師などとは違います>(中略)

 そのとき<王よ、一つの逆罪を犯せば間違いなくそれに相当する罪の報いを受ける。もし二つの逆罪を犯せばその二倍の報いを受けることになる。五逆罪をすべて犯せばその報いもまた五倍になるのである。王よ、よいか、そなたの悪い行いの罪は決して免れることはできないものと知れ。王よ、速やかに仏のもとに行くがよい。仏の他にはだれも救うことはできない。わたしは今そなたを哀れむからこそ、このように勧め導くのである>という声が聞えた。王はこの言葉を聞き終わって、身も心も恐れおののき、さながら芭蕉の樹のように全身を震わせた。そして、空を仰いで<天におられるのはどなたです。姿は見えずにただ声だけが聞えますが>といった。すると<王よ、わたしはそなたの父、頻婆娑羅である。そなたは今耆婆のいったことにしたがうがよい。誤った考えを持つ六人の大臣の言葉にしたがってはならない>という声がした。

 その声を聞きおわって、阿闍世王は悶え苦しみ気絶して大地に倒れた。できものは体中に増え広がり、前にも増して汚くなりひどい悪臭を放った。薬を塗って冷し、できものを治療したけれども、それはじくじくして毒のためにますます熱を持ち、増えることはあっても減ることはなかった」

(116)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊は次のように仰せになった。<善良なものよ、わたしはさきにいった通り、阿闍世のために涅槃に入らない。このことの深い意味を、そなたはまだ理解できないであろう。それはどういう意味かといえば、わたしが«ために»というのは、すべての凡夫のためにということである。«阿闍世»とは、広くすべての五逆罪を犯すもののことである。また«ために»とは、迷えるすべての衆生のためにということである。わたしは迷いを離れて真理をさとった衆生のために世にとどまっているのではない。なぜなら、真理をさとったものはもはや衆生ではないからである。«阿闍世»とは、あらゆる煩悩をそなえたもののことである。また、«ために»とは仏性をさとっていない衆生のためにということである。わたしは仏性をさとっているもののために長く世にとどまるのではない。なぜなら、仏性をさとっているものはもはや衆生ではないからである。«阿闍世»とは、まだ無上菩提心をおこさないすべてのもののことである。(中略)また、«ために»とは仏性のことである。«阿闍»とは不生のことであり、«世»とは怨のことである。仏性を生じないから煩悩の怨が生じ、煩悩の怨が生じるから仏性を知らないのである。あるいは、煩悩の怨を生じないから仏性をさとり、仏性をさとるから無上涅槃に安住することができるのである。これを不生というのである。これが«阿闍世のために»ということの意味である。善良なものよ、また«阿闍»とは不生のことであり、不生とは涅槃のことである。«世»とは世間のことがらのことである。«ために»とは汚されないということである。仏はさまざまな世間のことがらに汚されることがないから、はかり知れない長い間涅槃に入らない。そこで、わたしは«阿闍世のためにはかり知れない長い間涅槃に入らない»というのである。善良なものよ、如来の奥深い言葉は不可思議である。仏・法・僧の三宝もまた不可思議である。菩薩もまた不可思議である。『涅槃経』もまた不可思議である>

 そのとき、慈悲に満ちた導師である釈尊は、阿闍世のために月愛三昧にお入りになり、三昧に入りおわって大いなる光明を放たれた。その光は清らかですがすがしく、王のもとへ至ってその身を照らすと、全身のできものはたちまち癒えたのである。(中略)王は耆婆に、<あの方は神々の中でもっとも尊い方である。どのようなわけでこの光明を放たれたのであろうか>といった。<王さま、今如来が光明を放たれたのは、王さまのためになさったことと思われます。王さまがご自身の体と心とを治す良い医者は世の中にいないといわれましたので、如来は、この光明を放ってまず王さまの体を治してくださったのです。その後王さまの心をお救いくださるのです>と耆婆がいった。王が耆婆に、<如来は、わたしのようなものにも会ってくださり、心をかけてくださるのであろうか>と尋ねた。耆婆は答えた。<たとえばあるものに七人の子がいたとしましょう。その七人の子の中で一人が病気になれば、親の心は平等でないわけはありませんが、その病気の子にはとくに心をかけるようなものであります。王さま、如来もまたその通りです。あらゆる衆生を平等に見ておられますが、罪あるものにはとくに心をかけてくださるのです。放逸のものに如来は慈しみの心をかけてくださるのであり、不放逸のものにとくに心をかけられることはないのです。不放逸のものとはどういうものかというと、初地から六地までの位にある菩薩のことです。王さま、仏がたはあらゆる衆生に対して、その生れや老若や貧富の違い、また、生れた日の善し悪しなどを見られるのでもなく、手仕事をしているとか低い身分であるとか召使いのものであるとかを見られるのでもありません。たとえば王さまのおこされた慚愧の心のように、善の心のある衆生を、ただご覧になるのです。そして、もし善の心があるなら、慈しみの心をかけてくださるのであります。王さま、この光明は如来が月愛三昧に入って放たれたものに違いありません>

 王は<月愛三昧とはどのようなものをいうのか>と尋ねた。

 耆婆が答える。<たとえば月の光がすべての青い蓮の花を鮮やかに咲かせるようなものであります。月愛三昧もまた同じです。衆生に善の心をおこさせます。だから月愛三昧というのです。王さま、たとえば月の光がすべての路行く人の心に喜びをおこさせるようなものであります。月愛三昧もまた同じです。さとりへの道を修めるものの心に喜びをおこさせます。だからまた、月愛三昧というのです。(中略)あらゆる善の中でもっともすぐれたものであり、甘露の味わいであり、すべての衆生が願い求めるものであります。だからまた、月愛三昧というのです>(中略)

 そのとき、釈尊は弟子たちに、<どのような衆生もこの上ないさとりに近づくためには、まず善き友を縁とするに越したことはない。阿闍世が、耆婆の言葉にしたがわなかったなら、来月の七日には必ず命が尽きて無間地獄に堕ちるところであった。だから、この上ないさとりに近づくためには、善き友を縁とするに越したものはない>と仰せになった。

 阿闍世はまた、釈尊のもとへ行く途中で、<舎衛国の毘瑠璃王は、船に乗って海に出かけたけれども火事に遇って死んだ。また瞿伽離比丘は、大地が裂けて生きながら無間地獄に堕ちた。また須那刹多は、さまざまな悪をつくったけれども、仏のもとに行き、そのすべての罪が消滅した>ということを聞いた。阿闍世はこの話を聞いて、耆婆に<わたしは今、このような二つの話を聞いたけれども、まだ不安でならない。そなたが来たからには、耆婆よ、わたしはそなたと同じ象に乗りたいと思う。わたしが無間地獄へ堕ちそうになっても、どうかつかまえて、わたしが堕ちないようにしてくれ。なぜなら、わたしは以前に、<道を得た人は地獄に堕ちない»と聞いているからである>といった。(中略)

 釈尊が仰せになる。<どうして、きっと地獄に堕ちてしまうというのか。王よ、すべての衆生がつくる罪には、総じて二つある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口と心とにつくる罪は重いのである。王よ、心に思い、口にいうだけで、身に行わないなら、その報いは軽い。王は昔、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。王がもし家来に、父王の首を切れと命じたなら、家来はただちにそのようにしたであろう。そのとき父王の首を切ったとしても、命じただけでは王の罪にはならない。まして王はそのように命じてはいないのだから、どうして罪になろうか。王にもし罪があるなら、仏がたにもまた罪があるであろう。なぜなら、そなたの父である頻婆娑羅王は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、王位につくことはなかったのである。王位につかなかったなら、そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。そなたが父を殺し、それが罪に成るのなら、わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。仏がたに罪がないのなら、そなただけにどうして罪があろうか。

 王よ、頻婆娑羅王は昔、悪い心をおこしたことがある。すなわち毘富羅山に猟にでかけ、鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、そのとき、一頭の鹿も得ることができなかった。そこにはただ五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、悪い心をおこしたのである。«わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、このものが追い払って逃したからだ»と思い、そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、«わたしには何の罪もない。それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またお前がしたように、心と口とできっとお前を殺す»と誓いをたてた。父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、その亡骸を供養したのである。父王はこのようなわけで、罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。まして王は殺せと命じたわけでもないのに、地獄に堕ちるはずがあろうか。父王は自分で罪をつくって、自分でその報いを受けたのである。王には父を殺したという罪はない。王は、父王に罪がないというけれども、どうして罪がないといえようか。罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもないであろう。そなたの父に罪がないなら、どうして殺されるという報いがあろうか。頻婆娑羅王はこの世で、王になるという善の果報と、殺されるという悪の報いとを得た。だから、父王は、善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。殺したことが善悪不定なら、どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。

 王よ、衆生の錯乱に総じて四通りがある。一つには貪欲によるもの、二つには薬によるもの、三つには呪われたことによるもの、四つには過去の行いによるものである。王よ、わたしの弟子たちの中にも、この四つの錯乱がある。錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、わたしはこの人が戒律を犯したとはしない。錯乱したものが作った悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。もし正気に戻ったなら、そのものが戒律を犯したとはいわないのである。王は、かつて国王の位につきたいという心から父王を殺害した。それは貪欲による錯乱からしたのであるから、どうして罪になろうか。王よ、人が酒によって母を殺し、酔いが醒めてから後悔するようなものである。この行いもまた報いを受けないものと知るがよい。王は今貪欲による錯乱から王を殺害したのであって、正気でしたことではない。正気でしたことでないのなら、そうして罪になろうか。

 王よ、たとえば幻術師が、街の四つ角でさまざまな男女、象や馬、飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。愚かな人はそれを真実と思うが、賢い人は真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また山びこのようである。愚かな人は真実の声と思うが、賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。愚かな人は本当に親しくなったように思うが、賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。愚かな人はそれが真実の顔と思うが、賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また逃げ水のようである。愚かな人はこれを水であると思うが、賢い人はそれが水ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また蜃気楼のようである。愚かな人は真実と思うが、賢い人はそれが真実のものではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また夢の中で五欲の楽しみを受けるようなものである。愚かな人はこれを真実と思うが、賢い人はそれが真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。

 王よ、殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、わたしに罪があるのではない。王が殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、たとえば人が酒についてよく知っていても、のまなければ酔わないようなものである。王もまた同じである。殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、また月の出ているときには盗みを働き、そして、太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。この場合、太陽や月によって罪を犯すけれども、しかしこの太陽や月には罪があるのではない。殺害もまた同じである。(中略)

 王よ、またたとえば、涅槃が有でもなく無でもなくて、しかも有であるようなものである。殺害もまた同じであり、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである。慚愧の心がある人には有ではなく、慚愧の心がない人には無ではないのであって、その報いを受ける人からいえば有なのである。また、すべては空であると知った人には有ではなく、すべては有であると考える人には無ではないのであって、この有の考えにとらわれた人からいえば有なのである。なぜかというと、有の考えにとらわれた人は報いを受けるからである。有の考えにとらわれない人は報いを受けない。また、涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、それをさとらない人には無ではないのであって、涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることはできない。なぜかというと、変ることなく存在していることにとらわれている人には悪い行いの報いがあるからである。だから、涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることができないのである。このようなわけで、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである。王よ、衆生とは呼吸するもののことである。呼吸を断つから殺害というのである。衆生の本来は空であるから殺害も空であるが、仏がたも世間の考え方に合せて、殺害と説くのである>(中略)

 阿闍世が申しあげた。<世尊、世間では、伊蘭の種からは悪臭を放つ伊蘭の樹が生えます。伊蘭の種から芳香を放つ栴檀の樹が生えるのを見たことはありません。わたしは今はじめて伊蘭の種から栴檀の樹が生えるのを見ました。伊蘭の種とはわたしのことであり、栴檀の樹とはわたしの心におこった無根の信であります。無根とは、わたしは今まで如来をあつく敬うこともなく、法宝や僧宝を信じたこともなかったので、これを無根というのであります。世尊、わたしは、もし世尊にお遇いしなかったなら、はかり知れない長い間地獄に堕ちて、限りない苦しみを受けなければならなかったでしょう。わたしは今、仏を見たてまつりました。そこで仏が得られた功徳を見たてまつって、衆生の煩悩を断ち悪い心を破りたいと思います>と。

 釈尊が仰せになる。<王よ、よいことである。わたしは今、そなたが必ず衆生の悪い心を破ることを知っている>と。

 阿闍世が申しあげる。<世尊、もしわたしが、間違いなく衆生のさまざまな悪い心を破ることができるなら、わたしは、常に無間地獄にあって、はかり知れない長い間、あらゆる人々のために苦悩を受けることになっても、それを苦しみとはいたしません>と。

 そのとき、摩訶陀国の数限りない人々は、ことごとく無上菩提心をおこした。このような多くの人々が無上菩提心をおこしたので、阿闍世の重い罪も軽くなった。そして阿闍世とともに韋提希夫人や妃や女官たちも、ことごとくみな無上菩提心をおこしたのである。

 そのとき、阿闍世が耆婆にいった。<耆婆よ、わたしは命終ることなくすでに清らかな身となることができた。短い命を捨てて長い命を得、無常の身を捨てて不滅の身を得た。そしてまた、多くの人々に無上菩提心をおこさせたのである>と。いまや仏の弟子となった阿闍世は、こういいおわってから、さまざまな法幢をささげて仏がたを供養し、また、詩をつくり仏をほめたたえて次のようにいった。

 <如来の仰せははなはだすぐれている。説かれる言葉もその意味内容も、実に巧みであり、はかり知れない深い教えがこめられている。衆生のために、ときには広大な法義をあらわし、ときには略して説かれる。このような言葉で衆生の病を治してくださる。もし多くの衆生がこの言葉を聞くことができたなら、信じるものも信じないものも、必ず仏のおこころを知るであろう。仏がたは常にやさしい言葉で説かれる。しかし、ときには相手に応じてきびしい言葉でも説かれる。きびしい言葉もやさしい言葉も、みな第一義諦から離れることはない。このようなわけでわたしは今世尊に帰依したてまつる。如来の言葉はどれも同じ真実の味わいであり、ちょうど大海の水のようである。これを第一義諦というのである。だから如来の言葉には何一つ無意味なものがない。老若男女を問わず、如来が今お説きになったさまざまなはかり知れない法を聞いたものは、みな同じく第一義諦を得るであろう。因もなければ果もなく、生もなければ滅もない。これを大涅槃というのである。このことを聞いたものは煩悩の束縛を離れる。如来はすべての人々のために、常に慈悲の父母となってくださる。よく知るがよい。あらゆる人々はみな如来の子なのである。世尊が大慈悲をもって衆生のために苦行を修められるようすは、ちょうど人が魔ものにとりつかれて、錯乱してさまざまなことをするようである。わたしは今仏を見たてまつることができ、身・口・意の三業の善をいただいた。願わくはこの功徳をこの上ないさとりにふり向けたい。わたしは今仏・法・僧の三宝を供養したてまつった。願わくはこの功徳によって、三宝がいつまでも世にあってほしいと思う。わたしが今得るであろうさまざまな尊い功徳で、衆生の四趣の悪魔を砕きたい。わたしはかつて悪知識に遇い、過去・現在・未来にわたる罪をつくった。今仏の前にこれを懺悔する。願わくはふたたびこのような罪をつくるまい。願わくはあらゆる人々がことごとく菩提心をおこし、すべての世界の仏がたを心にかけて常に念じてほしいと思う。また願わくはあらゆる人々が永久に煩悩を離れ、文殊菩薩のように明らかに仏性をさとってほしいと思う>

 そのとき、世尊は阿闍世をほめたたえて仰せになる。<よろしい。もし人が菩提心をおこすなら、その人は仏がたとその大衆をうるわしくととのえるものであると知るがよい。王よ、そなたは昔、毘婆尸仏のもとで、はじめて無上菩提心をおこした。それ以来、わたしが世に出るまでの間、まだ一度も地獄に堕ちて苦しみを受けたことはない。王よ、菩提心にはこのようなはかり知れない果報があると知るがよい。王よ、今より後は常にまごころこめてさとりを求め努め励むがよい。なぜなら、この因縁によって無量の罪悪を消滅することができるからである>

 この仰せを聞いて、阿闍世および摩訶陀国のすべての人々は、その場を立ち、うやうやしく仏のまわりを三度めぐって退出し、王は宮殿に帰ったのである」

(117)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、王舎城の王である頻婆娑羅の太子を善見という。過去の行いがもとになって邪悪な心をおこし、父を殺害しようと思っていたが、その機会がなかった。ときに悪人の提婆達多もまた過去の行いがもととなって、わたしに対して悪い心をおこし、わたしを殺害しようと思っていた。そこで提婆達多は五つの神通力を身にそなえ、ほどなく善見と親しい友達となることができた。そして善見のために神通力でさまざまな不思議をあらわして見せた。門でないところから出て門から入ったり、門から出て門でないところから入ったり、またあるときには、象・馬・牛・羊・男・女などの姿を示したりしたのである。善見はこれを見て、提婆達多を愛し、喜び、敬い信じる心をおこした。そこで、さまざまな品物をそろえ、彼にささげて供養したのである。そしてまた提婆達多に向かって、<わが師よ、わたしは今曼陀羅の花を見たいと思います>といった。

 すると提婆達多は、すぐさま神通力をもって利天に行き、そこの神々に曼陀羅の花を求めたけれども、彼の功徳が尽きていたので、だれも与えてくれない。花が得られなかったので、提婆達多は<曼陀羅の樹は草木であるから、自分とか自分のものとかを考えるような心などない。もしわたしがこれを取っても何の罪があろうか>と考えた。そこで、花に近よって取ろうとすると、すぐさま神通力を失った。ふと気がついてわが身を見ると、王舎城にいたのである。提婆達多は恥しく思って、善見に会うことができなかった。そして、このような考えをおこした。<わたしは今、釈尊のもとへ行って、その弟子たちをわたしにまかせるようにいおう。釈尊がもし許したなら、わたしは思い通りに舎利弗らに指図することができるであろう>

 そして提婆達多はわたしのところに来てこのようにいった。<どうか如来よ、この弟子たちをわたしにまかせてください。わたしはさまざまに法を説いて教え導き、弟子たちの心身をととのえましょう>わたしはこの愚かものに対して答えた。<舎利弗らはすぐれた智慧をそなえており、世の人々から信頼されている。その彼らにさえ、弟子たちをまかせないのである。まして、そなたのような愚かもので、人のつばをなめるようなものに、どうしてまかせられようか>すると提婆達多はわたしに対してますます悪い心を募らせ、このようにいった。<瞿曇よ、あなたは今多くの弟子たちの心身をととのえているけれども、その勢いも遠からず滅びてしまうだろう>と。こういいおわると同時に、大地が六度打ち震えた。提婆達多はそのとき地面に倒れると、その身のまわりに激しい風がまきおこって砂塵を吹きあげ、提婆達多の体を汚したのである。提婆達多は自分の見苦しい姿を見て、またこういった。<もし、わたしが生きながらに必ず無間地獄に堕ちるということなら、わたしもそれと同じひどい仕返しをしてやろう>

 そういいおわると提婆達多は立ちあがって、善見のところへ行った。善見は提婆達多を見て尋ねた。<師よ、あなたはなぜ、そんなにやつれたご様子で、憂いに沈んでおられるのですか>提婆達多がいう。<わたしはいつもこの通りです。ご存じないのですか>善見が答えていう。<どうかそのわけをお話ください。なぜそうなのですか>と。提婆達多がいう。<わたしは今、あなたときわめて親しくしています。宮廷の外では人々があなたのことをののしって、道理からはずれたものといっています。わたしがそれを聞いて、どうして憂えずにいられましょうか>善見がまたいう。<この国の人々は、どのようにわたしをののしっているのですか>提婆達多がいう。<この国の人々はあなたをののしって未生怨と呼んでいます>善見がまたいう。<どうして、わたしを未生怨と呼ぶのですか。だれがそのような名をつけたのですか>提婆達多がいう。<あなたが生れる前に、すべての占い師がみな次のようにいいました。«この子は生れてから、きっとその父を殺すであろう»と。だから宮廷の外ではみな、あなたのことを未生怨というのであります。宮殿内の人々はみな、あなたのこころを荒立てないために、善見と呼んでいるのです。また、韋提希夫人は占い師の言葉を聞いて、あなたを、高い建物の上から地面へ生み落としたのですが、あなたは一本の指を折っただけでした。このようなわけで人々は、あなたのことを折指とも呼んでいます。わたしはこれを聞いて悲しみ、また憤って、今までそれをあなたにお話しすることができなかったのです>提婆達多は、このようなさまざまな悪事を善見に吹きこんで父を殺すようにしむけ、<もしあなたが父を殺せば、わたしもまた沙門瞿曇を殺しましょう>といった。

 善見は、雨行という一人の大臣に問うた。<父王は、なぜわたしを未生怨と呼ばれるようにしたのか>と。大臣はそこで、その一部始終を説いたが、それは提婆達多の説くところと相違しなかった。

 善見はこれを聞くと、ただちのこの大臣を連れていき、父の王を捕え、城外の建物に閉じこめて四種の兵にきびしく見晴らせた。韋提希は、このことを聞いてすぐさま王のもとに行ったが、王を見張っているものがさえぎって、入ることを許さなかった。そのとき韋提希は怒って見張りのものを叱りののしった。そこで、見張りのものたちは善見に尋ねた。<韋提希夫人が父王に会いたいといわれますが、どうなのでしょうか。お許ししてもよろしいでしょうか>と。善見はこれを聞いてまた怒り、すぐに母のところへ行って、その髪をつかんで引き倒し、刀を抜いて切ろうとした。そのとき耆婆が善見に向かって<この国ではこれまで、どれほど罪が重くても、女性を処刑したことは一度もありません。まして、生みの母ではありませんか>といった。善見はこの言葉を聞いて、耆婆のいう通りに母を放したが、父王に対しては衣服も寝具も食べものも飲みものも薬も与えるのを禁じた。そして七日が過ぎ、王の命が尽きたのである。

 善見は父王が亡くなったのを知り、後悔の心をおこした。大臣の雨行が、またさまざまなよこしまな教えを善見のために説いた。<王さま、どのような行いにも罪はありません。なぜ後悔の心をおこされるのですか>と。そこでまた耆婆がいった。<王さま、お気づきください、王さまのなさったことには二重の罪があります。一つには、父である王を殺したという罪であり、二つには、聖者の位に達していた王を殺したという罪であります。このような罪は、仏以外にはだれも除いてくださる方はありません>と。善見がいった。<如来は清浄であって、汚れのない方である。わたしのような罪深いものが、どうしてお会いすることができようか>と。

 善良なものよ、わたしはこのことを知っており、阿難に対して、<三月を過ぎた後に、わたしは涅槃に入る>と告げた。善見はこれを聞いて、すぐさまわたしのもとに来た。わたしは、善見のために法を説いてその重い罪を軽くし、無根の信を得させたのである。

 善良なものよ、わたしの弟子たちの中には、この教えを聞いても、わたしの真意を理解しないで、次のようにいうものがいるであろう。<如来は、必ず涅槃にお入りになると説かれた>と。

 善良なものよ、二種類の菩薩がある。一つには本当の意味での菩薩であり、二つには名ばかりの菩薩である。名ばかりの菩薩は、わたしが三月の後に涅槃にはいると聞いて、みな心がくじけて、次のようにいうであろう。<もし如来が無常であって、この世にとどまられないのなら、わたしたちはどうすればようだろうか。この身が無常であるために、はかり知れない長い間、大いに苦しみ悩み続けてきたのである。如来ははかり知れない功徳を成就して身にそなえておられるのに、それでも、この死という悪魔を打ち破ることができない。まして、わたしたちのようなものがどうして打ち破ることができようか>と。善良なものよ、だからわたしはそのような菩薩のために、次のようにいうであろう。<如来は常に世にとどまられて変ることはない>と。わたしの弟子たちの中にはこの教えを聞いても、わたしの真意を理解しないで、きっと次のようにいうものがいる。<如来はいつまでも世にとどまられ、決して涅槃にお入りにならない>と」

(118)

 このようなわけで、いま釈尊の真実の教えによると、救われがたい五逆・謗法・一闡提のもの、すなわち、治しがたい重病人とたとえられたものも、阿弥陀仏の大いなる慈悲の誓願にまかせ、他力回向の信心に帰すれば、如来は深く哀れみ、救ってくださる。たとえば、醍醐の妙薬がすべての病を治すのと同じである。五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々は、何ものにも砕かれない他力金剛の信心をいただき、尊い本願の妙薬をしっかりとたもたねばならない。よく知るがよい。

(119)

 さて、さまざまな大乗の教典によると、救われがたい人々について説かれている。いま『無量寿経』には、「ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と説かれ、『如来会』には、「ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」と説かれている。また『観無量寿経』には、五逆のものの往生は説かれているが、謗法のものについては説かれていない。『涅槃経』には、治しがたい病の人々とその病とが説かれている。これらの仏の教えについて、どのように考えたらよいであろうか。

(120)  答えていう。『往生論註』にいわれている。

 「問うていう。『無量寿経』には、<浄土の往生を願うものは、みな往生することができる。ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる>と説かれている。『観無量寿経』には、<五逆・十悪など多くの善くない行いをしてきたものもまた往生できる>と説かれている。この二つの経の意をどのように解釈すべきであろうか。

 答えていう。『無量寿経』では、二種の重罪を両方ともそなえているから除くと説かれたのである。二種の重罪とは、一つには五逆の罪を犯すこと、二つには正しい法を謗ることである。この二種の重罪があるから往生することができないのである。『観無量寿経』では、ただ十悪・五逆などの罪を犯すことだけをあげ、正しい法を謗ることはあげていない。正しい法を謗らないから往生することができるというのである。

 問うていう。経には、ある人がたとえ五逆の罪を犯しても、正しい法を謗らないなら往生することができるとある。では、ただ正しい法を謗るだけで、五逆などの罪を犯さないものが浄土の往生を願うなら、往生することができるのであろうか。

 答えていう。ただ正しい法を謗るだけで、他に罪は何一つなくても、決して往生することはできない。なぜかといえば、経に、<五逆の罪を犯した人は無間地獄に堕ちて、一劫の間その重い罪の報いを受ける。正しい法を謗った人は無間地獄に堕ちて、一劫が尽きると、また続いて他の無間地獄に堕ちる。このようにして次々と、数多くの無間地獄をめぐるのである>と説かれていて、仏はこの人がいつ地獄から出ることができるのかを明らかにされていない。それは、正しい法を謗る罪がもっとも重いからである。また正しい法というのは、すなわち仏法である。この愚かな人は、すでに仏法を謗っているのであるから、どうして仏の浄土の往生を願うはずがあろうか。たとえ、浄土は安楽なところだから生れたいという貪りの心で往生を願っても、その願いは、水でない氷や煙の出ない火を求めるのと同じであって、往生することができるはずはないのである。

 問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。

 答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

 問うていう。このように考えることは、ただ自分にだけ関わることである。他の人に対してどのような苦しみを与えることで、五逆の重罪より重い罪であるというのであろうか。

 答えていう。もし、世の中のことや仏法について、善い教えを説いて人々を導く仏や菩薩がたがおられなかったなら、どうして仁・義・礼・智・信という人の道があると知ることができようか。そうなると世の中のすべての善もたたれてしまい、仏道を歩むすべての尊い方々もいなくなってしまうであろう。あなたはただ、五逆の罪が重いということを知っているだけで、五逆の罪は正しい法がないことからおこるということを知らないのである。このようなわけで、正しい法を謗る人は罪がもっとも重いのである。

 問うていう。業の道理を説いた教典の中に、<業の道理は秤のようなものであって、まず重い方に引かれる>と説かれている。一方『観無量寿経』には、<五逆・十悪の罪を犯し、多くの善くない行いをしてきたものは、地獄・餓鬼・畜生という世界に落ちて、限りなく長い間、はかり知れない苦しみを受けなければならない。ところが、そのものの命が終ろうとするとき、善知識に出会い南無阿弥陀仏と称えよと教えられたとしよう。そこで、まことの心で、たとえば十声念仏し続けるなら、浄土に往生する身に定まり、ただちに大乗の正定聚に入って、もはやその位から退くことはない。そして、地獄・餓鬼・畜生という世界のさまざまな苦しみから、永久に離れるのである>と説かれている。そうすると、まず重い方に引かれるという業の道理はどうなるのか。また、はかり知れない昔から、人々は多くのさまざまな行いをしてきたが、煩悩にもとづいた行いは、その人々を迷いの世界につなぎとめるものである。それが、たとえば十声、阿弥陀仏を念じることによって迷いの世界を出るとするなら、煩悩にもとづいた行いが人々を迷いの世界につなぎとめるという道理はどうなるのであろうか。

 答えていう。あなたが、五逆・十悪の罪や、人々を迷いの世界につなぎとめている行いなどは重く、下品下生の人がたとえば十声念仏する、その念仏は軽いと考えて、犯した罪に引かれて、まず地獄に堕ち、迷いの世界につなぎとめられるというのなら、ここで筋道を立ててどちらが軽いか重いかをくらべてみよう。重いか軽いかを定めるものは、心にあり、縁にあり、心の決定にあるのである。時間の長い短いや、多い少ないにあるのではない。

 まず心にあるとはどういうことか。それらの人が犯す罪は、真実に背いた誤った考えによって生じるのである。この十声の念仏は、善知識がさまざまな手だてによって心を安らかにさせ、真実そのものの教えを聞かせることによって生じるのである。一方は真実であり、他方は虚仮である。どうしてこれをくらべることができようか。たとえば、千年もの間闇に閉されていた部屋に、少しでも光が入れば、ただちに明るくなるようなものである。千年もの間部屋の中にあったからといって、光が入っても闇が去らないなどとどうしていえようか。これを心にあるというのである。

 次に縁にあるとはどういうことか。それらの人が犯す罪は、自分の妄想の心によっており、また煩悩にまみれて真実に背いている衆生によって生じる。この十声の念仏は、この上なく尊い信心によっており、また阿弥陀仏の真実の慈悲より成就した清らかな尊い名号によって生じるのである。たとえば、人が毒矢にあたって、筋が切れ骨が折れたとしよう。しかし滅除という名の薬を塗った鼓の音を聞けば、矢が抜け毒が消えるようなものである。

 『首楞厳経』には、<たとえば、滅除という名の薬があって、戦いのときにこれを鼓に塗っておくと、その音を聞けば矢が抜け毒が消えるようなものである。菩薩もまた同じように、首楞厳三昧に入ってその三昧の名を聞けば、三毒の煩悩の矢がひとりでに抜ける>と説かれている。その矢が深く刺さって毒がはげしいからといって、鼓の音を聞いても、どうして矢を抜き毒を消すことができないといえようか。これを縁にあるというのである。

 さらに心の決定にあるとはどういうことか。それらの人が犯す罪は、まだ後があるという心、雑念のまじった心によって生じる。この十声の念仏は、もはや後がないという心、専念の心によって生じる。これを心の決定にあるというのである。

 この三つの道理から考えると、十声の念仏の方が重い。そこでまず重い十声の念仏に引かれて、この迷いの世界を出ることができる。このようなわけで、『観無量寿経』と業の道理を説いた教典との内容に相違はないのである。

 問うていう。一念とはどのくらいの時間をいうのか。

 答えていう。百一の消滅を一刹那といい、六十刹那を一念というのであるが、いまここでいう念は、このような時間の長さをいうのではない。ただ、阿弥陀仏を心に念じて、その全体のすがたでも、またそれぞれの部分のすがたでも、その観ずるところにしたがって、心に他の想いをまじえず、十回念じ続けるのを十念というのである。ただ名号を称えることについても、また同じである。

 問うていう。もし心が別のことに移るなら、それから元へ戻すので、何回念じたかがわかる。しかし、何回念じたかがわかるのなら、間が切れているので念じ続けることにはならない。想いを集中して念じ続けるときは、どうすれば何回念じたかを知ることができるのか。

 答えていう。『観無量寿経』に十声の念仏と説かれているのは、これによって浄土に往生することが決定することを明かしているのであって、必ずしもその念仏の数を知らなければならないということではない。たとえば、<蝉は春や秋を知らない。だから、この虫は夏ということも知らない>というようなものである。ただ春夏秋冬を知っている人間が、蝉が鳴くのは夏だというだけである。たとえば十声念仏することによって往生が決定するということも、神通力を持っている仏が仰せになるだけである。衆生においては、ただ念仏し続けて、心が別のことに移らなければ、それでよいのである。どうして念仏の数を知る必要があろうか。もし、数を知る必要があるというなら、また方法がある。しかし、それは口づてに伝えるべきことであって、書き記すべきことではない」

(121)  善導大師が『観経疏』にいわれている(散善義)。

 「問うていう。『無量寿経』の四十八願の中に、五逆の罪を犯すものと正しい法を謗るものとが除かれるとあり、往生を許されていない。しかし、この『観無量寿経』の下品下生の文には、謗法のものだけを除いて、五逆の罪のものを摂め取るとある。それは、どのような意味なのであろうか。

 答えていう。このことは、如来が罪をつくらせまいとして抑え止められる意味と理解される。四十八願の中に、謗法と五逆とを除くとあるのは、この二つの行いは、そのさわりがきわめて重いからである。衆生がもしこの罪を犯せば、ただちに無間地獄に堕ち、限りなく長い間もがき苦しむばかりで逃れ出ることができない。そこで如来は、この二つの罪を犯すことをおそれ、慈悲の心から抑え止めて、<五逆と謗法の罪を犯すなら往生ができない>と仰せになったのである。摂め取らないということではない。また、下品下生の文に、五逆のものは摂め取って謗法のものを除くとするのは、五逆の罪はもうすでに犯しているのであり、その罪人を見捨てて、迷いの世界に生れ変わり死に変りし続けさせてはならないと、さらに慈悲をおこし、摂め取って往生させてくださるのである。しかし、謗法の罪はまだ犯していないから、<もし謗法の罪を犯すなら往生することはできない>と止められるのである。これはまだ犯していない罪のことと理解される。もし犯したなら、またこのものを摂め取って往生させてくださるのである。ただし浄土に往生することができたとしても、蓮の花の中に包まれて、非常に長い間その中から出ることができない。これらの罪を犯した人には、花の中にいるとき、三つのさわりがある。一つには、仏や菩薩がたに会うことができない。二つには、仏の教えを聞くことができない。三つには、他の世界の仏や菩薩がたを供養することができない。この三つのさわりを除けば、<ちょうど、比丘が第三禅の世界の楽しみを受けるようなものである>と説かれている。よく知るがよい。花の中に包まれていて、非常に長い間その花が開かないといっても、無間地獄の中で限りなく長い間さまざまな苦しみを受けるのにくらべたなら、はるかにすぐれている。以上のように、このことはまだ犯していない罪を抑え止める意味と理解することができた」

(122)  また『法事讃』にいわれている。

 「浄土では永久に、謗りきらわれるようなことがなく、平等であって、憂い悩むことは何もない。善いものも悪いものもみな往生することができ、浄土に往生すれば平等のさとりを開き、二度と迷いの世界に退くことはない。どのようなわけでそうなるかといえば、それは阿弥陀仏が因位のときに、世自在王仏のもとで王位を捨てて出家し、智慧と慈悲の心をおこして、広く四十八願をたてられたことによる。この本願のはたらきにより、五逆や十悪のものの罪を滅して往生を得させてくださるのである。謗法のものや一闡提であっても、心をひるがえして如来の本願を信じれば、みな往生することができる」

(123)  五逆と言うことについて、次のようにいっている。

 「淄州によれば五逆罪に二種類がある。第一には三乗のすべての教えに通じる五逆罪である。すなわち、一つには、故意に父を殺すこと、二つには、故意に母を殺すこと、三つには、故意に阿羅漢を殺すこと、四つには、間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、五つには、悪い心をいだいて仏の体を傷つけて血を流すことである。これらは父母や仏や僧などから受けた恩や徳に背くから、逆罪というのである。この逆罪を犯したものは命が終れば間違いなく無間地獄に堕ち、果てしなく長い間、間断なく苦しみを受けるから、無間業ともいう。

 また、『倶舎論』の中に、無間地獄に堕ちるこの五逆罪と同類の行いをあげている。すなわちその偈の文に、<母や無学果の比丘尼を汚すことは母を殺す罪と同類、無漏定に住する菩薩を殺すことは父を殺す罪と同類、有学果・無学果の聖者を殺すことは阿羅漢を殺す罪と同類、教団の和の縁となるものを奪うことは教団の和を乱す罪と同類、仏塔を壊すことは仏の体を傷つけて血を流す罪と同類>といっている。

 第二には大乗の五逆罪である。これは『薩遮尼乾子経』に、<一つには、仏塔を壊し、教典を焼き、三宝の財物を盗むこと、二つには、声聞・縁覚・菩薩の教えを謗って仏教ではないといい、仏法の流布をさまたげ、危難を加え、仏法の光をおおいかくして広まらないようにすること、三つには、持戒・無戒・破戒にかかわらず、すべての出家した人に対して、ののしり打って苦しめ、過失を並べ立てて閉じこめ、還俗させて、かりたてて使い、重税を課して、ついに命を断つまでに追い込むこと、四つには、父を殺し、母を害し、仏の体を傷つけて血を流し、教団の和を乱し、阿羅漢を殺すこと、五つには、因果の道理を否定して、常に十悪の罪を犯すこと>と説かれている通りである。

 『大方広十輪経』には、<一つには、善くない心をおこして縁覚を殺すこと、これは殺生である。二つには、阿羅漢のさとりを得た比丘尼を犯すこと、これは邪淫である。三つには、施された三宝の財物を横領すること、これは偸盗である。四つには、間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、これは妄語である>と説かれている」