現代語 真巻

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(1)

 つつしんで、真実の仏と浄土をうかがうと、仏は思いはかることのできない光明の如来であり、浄土はまた限りない光明の世界である。すなわち、それは法蔵菩薩のおこされた大いなる慈悲の誓願の果報として成就されたものであるから、真実の報仏・報土というのである。その誓願とは、すなわち光明無量の願(第十二願)と寿命無量の願(第十三願)である。


(2)  第十二願は、『無量寿経』に次のように説かれている。

 「わたしが仏になったとき、光明に限りがあって、数限りない仏がたの国々を照らさないようなら、わたしは決してさとりを開くまい」


(3)  また第十三願は、次のように説かれている(無量寿経)。

 「わたしが仏になったとき、寿命に限りがあって、はかり知れない遠い未来にでも尽きることがあるようなら、わたしは決してさとりを開くまい」


(4)  第十二・十三願の成就文は、次のように説かれている(無量寿経)。

 「釈尊は、阿難に仰せになる。<無量寿仏の神々しい光明はもっとも尊いものであって、仏がたの光明のとうてい及ぶところではない。(中略)このため無量寿仏を、無量光仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・無称光仏・超日月光仏と申しあげるのである。

 この光明に照らされるものは、三毒の煩悩が消え去って身も心も和らぎ、よろこびに満ちあふれて善い心が生れる。もし地獄や餓鬼や畜生の苦悩の世界にあってこの光明に出会うなら、みな安らぎを得て、ふたたび苦しみ悩むことはなく、命を終えて後にすべて迷いを離れることができる。無量寿仏の光明は明るく輝いて、すべての仏がたの国々を照らし尽し、その名号の聞えないところはない。わたしだけがその光明をたたえるのではなく、すべての仏がたや声聞や縁覚や菩薩たちも、みな同じようにたたえておいでになるのである。もし人々がその光明のすぐれた功徳を聞いて、まごころをこめて日夜それをほめたたえ、絶えることがなければ、願いのままに阿弥陀仏の国に往生することができ、菩薩や声聞などのさまざまな聖者たちにその功徳をほめたたえられるであろう。そして後に仏のさとりを開いたときには、今わたしが阿弥陀仏の光明をたたえたように、すべての世界の仏や菩薩たちにその光明をたたえられるであろう>と。

 釈尊は、<阿弥陀仏の光明の気高く尊いことは、わたしが一劫の間、昼となく夜となく時続けても、なお説き尽すことができない>と仰せになる。

 釈尊はさらに阿難に、<阿弥陀仏の寿命は実に長くて、とてもはかり知ることができない。そなたもそれを知ることはできないだろう。たとえ、すべての世界の数限りない衆生がみな人間に生れて、残らず声聞や縁覚となり、それらの聖者がすべて集まって、思いを静め、心を一つにしてさまざまな智慧を尽し、百千万劫の長い間、力を合せて数えても、その寿命の長さを知り尽くすことはできない>と仰せになる」


(5)  『如来会』に説かれている。

 「阿難よ、このようなわけで、無量寿仏にまた異なった名がある。すなわち、無量光・無辺光・無碍光・光照王・嘆厳光・愛光・喜光・可観光・不可思議光・無等光・不可称量光・暎蔽日光・暎蔽月光・掩奪日月光である。その仏の光明は清らかで広大であり、あらゆる衆生の心身によろこびを与える。また、他のすべての仏国にいる神々・竜・夜叉・阿修羅などにもみなよろこびを得させるのである」


(6)  『平等覚経』に説かれている。

 「阿弥陀仏の安楽国に、速やかに往くことができる。限りない光明の世界に至って、無数の仏を供養する」


(7)  『大阿弥陀経』に説かれている。

 「釈尊は、<阿弥陀仏の光明はもっとも尊いもので並ぶものがなく、どのような仏がたの光明も及ぶことのないものである。すべての世界の数限りない仏がたの中には、その光明が七丈を照らすものがあり、一里を照らすものがあり、(中略)二百万の仏国を照らすものがある>と仰せになる。

 続いて、<すべての世界の数限りない仏がたの光明が照らすところは、みなこのようである。阿弥陀仏の光明が照らすところは千万の仏国である。仏がたの光明の照らすところに遠近の違いがあるのはどういうわけであろうか。かつて仏がたが過去の世に菩薩として修行していたとき、願い求めた功徳にもともと大小の違いがあった。そして後に仏となり、それぞれ功徳を成就したのである。だから、光明もまた異なっているのである。仏がたのすぐれた力は同じであり、仏がたが心のままに求めるところは、あらかじめはかり知ることができない。阿弥陀仏の光明の照らすところは最大であって、仏がたの光明のみな及ぶところではない>と仰せになる。

 また釈尊は、阿弥陀仏の光明のきわめてすぐれていることをほめたたえられる。<阿弥陀仏の光明はきわめてすぐれていて、実に明るく美しい。その快いことは並ぶものがなく、超えすぐれてきわまりがない。阿弥陀仏の光明は、清らかであって汚れなく欠けるところがない。阿弥陀仏の光明は、太陽や月の明るさよりも百千億万倍もすぐれている。仏がたの光明の中でもっとも明るいものであり、美しいものであり、傑出したものであり、快いものである。阿弥陀仏は仏がたの王であり、その光明はもっとも尊いものであり、明るくきわまりないものである。無数の暗闇を照らして、みな常に明るくなる。あらゆる人々をはじめとしてさまざまな虫のたぐいにいたるまで、阿弥陀仏の光明を見たてまつらないことがない。見たてまつるもので、敬う心をおこしてよろこばないものはないであろう。三毒の煩悩にまみれたどのようなものでも、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、善い行いをしないものはない。地獄や畜生や餓鬼などのさまざまな苦しみの世界において、阿弥陀仏の光明を見たてまつれば、その苦しみはみな治まる。そこで苦しみを除き去ることはできないけれども、命を終えて後に苦しみから解き放たれないものはない。阿弥陀仏の光明と名号とは、すべての世界の数限りない仏がたの国々に至り届く。あらゆるものはみなこれを聞いて信じないことがなく、聞いて信じるものは迷いを離れないことがない>と。

 そして、<わたしだけが、阿弥陀仏の光明をほめたたえるのではない。すべての世界の数限りない仏・縁覚・菩薩・阿羅漢もみな、このようにほめたたえているのである>と仰せになり、さらに、<善良なものが、阿弥陀仏の名号を聞いて光明をほめたたえ、朝夕にそのすぐれていることをまごころをこめてほめたたえ、絶えることがなければ、願いのままに阿弥陀仏の浄土に往生する>と仰せになる」


(8)  『不空羂索神変真言経』に説かれている。

 「そなたが未来に生れるところは、阿弥陀仏の清らかな報土である。蓮の花から化生して、常に仏がたを見たてまつり、さまざまなさとりを得るであろう。寿命は限りなく、百千劫に及ぶであろう、ただちにこの上ないさとりに至り、決して退くことはない。わたしはそなたを常に護ろう」


(9)  『涅槃経』に説かれている。

 「釈尊は、<また、さとりはとらわれを離れた無という。とらわれを離れた無はすなわちさとりである。さとりはすなわち如来である。如来はすなわちとらわれを離れた無である。これははからいを離れたあるがままのはたらきである。(中略)真実のさとりは生じることも滅することもない。だからさとりはすなわち如来である。如来もまたそうであって、生じることも滅することもなく、老いることも死ぬこともなく、破れることも壊れることもなく、変化するものではないのである。このようなわけで、如来は大涅槃に入るというのである。(中略)また、さとりはこの上なくすぐれたものという。(中略)この上なくすぐれたものはすなわち真実のさとりである。真実のさとりはすなわち如来である。(中略)この上ないさとりを成就することができれば、貪りや疑いの思いはない。貪りや疑いの思いがないのはすなわち真実のさとりである。真実のさとりはすなわち如来である。(中略)如来はすなわち涅槃である。涅槃は尽きることのないものである。尽きることのないものはすなわち仏性である。仏性はすなわち決定である。決定はすなわちこの上ないさとりである>と仰せになる。

 迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、もし涅槃と仏性と決定と如来とが同じ意味の言葉であるのなら、どうして仏・法・僧の三宝に帰依すると説かれるのですか>と申しあげる。

 釈尊は迦葉菩薩に、<善良なものよ、すべての衆生は、生れ変り死に変って絶えることのない迷いの世界をおそれるから三宝に帰依しようとする。三宝に帰依することにより仏性と決定と涅槃とを知るのである。善良なものよ、言葉は同じで意味が異なるものがあり、また言葉も意味もともに異なるものがある。言葉は同じで意味が異なるというのは、仏が常住であり、法が常住であり、僧が常住であるというようなことである。涅槃も虚空もまたみな常住である。これを、言葉は同じで意味が異なるという。言葉も意味もともに異なるというのは、仏を覚、すなわちさとるものといい、法を不覚、すなわちさとられるものといい、僧を和合、すなわちなごやかに親しむことといい、涅槃を解脱、すなわちさとりといい、虚空を非善、すなわち善悪を超えたものといい、また無碍、すなわちさまたげのないものという。これを、言葉も意味もともに異なるという。善良なものよ、仏・法・僧の三宝に帰依することもまたこの通りである>と仰せになる」


(10)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「光明とはいつまでも衰えないものである。いつまでも衰えないものを如来という。また、光明を智慧という」


(11)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、すべての有為はみな無常である。虚空は無為であるから常住である。仏性は無為であるから常住である。虚空はすなわち仏性である。仏性はすなわち如来である。如来はすなわち無為である。無為はすなわち常住である。常住はすなわち法である。法はすなわち僧である。僧はすなわち無為である。無為はすなわち常住である。(中略)

 善良なものよ、たとえば、牛は乳を出し、次に乳から酪をつくり、次に酪から生蘇をつくり、次に生蘇から熟蘇をつくり、最後に熟蘇から醍醐をつくる。この醍醐はもっともすぐれたものである。もしそれを飲めば、さまざまな病がすべて治る。あらゆる薬がことごとくその中に収まっているようなものである。善良なものよ、仏もまた同じである。仏は『華厳経』を説き、次に<阿含経典>を説き、次に<方等経典>を説き、次に<般若教典>を説き、最後に『涅槃経』を説く。『涅槃経』はもっともすぐれた醍醐と同じである。醍醐とは仏性をたとえたものである。仏性はすなわち如来である。善良なものよ、このようなわけで、<如来のあらゆる功徳は限りなく、はかり知ることができない>と説いたのである」


(12)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、道に二種がある。一つには常住であり、二つには無常である。菩提の相にまた二種がある。一つには常住であり、二つには無常である。涅槃もまた同じである。仏教以外の道は無常であり、仏教の道は常住である。声聞や縁覚の菩提は無常であり、仏や菩薩たちの菩提は常住である。仏教以外の教えでの解脱は無常であり、仏教の解脱は常住である。善良なものよ、道と菩提と涅槃とは、すべて常住である。すべての衆生は、常に多くの煩悩におおわれて智慧の眼がないから、これらを見ることができない。そこで、多くの衆生はこれらを見ようとして戒・定・慧の三学を修め、その修行によって道と菩提と涅槃とを見るのである。これを、菩薩が菩提と涅槃とを得るというのである。道の本性もすがたも、もとより消滅がない。このようなわけでとらえることはできない。(中略)道はかたちはないけれども、見ることができるし、はかり知ることもできるのであって、まさにはたらきがあるのである。(中略)衆生の心も、物質ではなく、長くも短くもなく、粗くも細かくもなく、縛られることも解かれることもなく、見えるものではないが、確かに存在する」


(13)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、大いなる楽があるから大涅槃という。涅槃には凡夫の思うような楽はないが、四つの大いなる楽があるから大涅槃というのである。その四つとは何であろうか。

 一つには、さまざまな世間の楽を断っていることであり、それを大いなる楽という。世間の楽を断っていないのは苦である。苦があれば大いなる楽とはいわない。世間の楽を断っているから苦のあることはない。世間の苦も楽もないのを、大いなる楽というのである。そもそも涅槃の本性には苦も楽もない。だから涅槃を大いなる楽という。このようなわけで大涅槃というのである。また善良なものよ、楽には二種があり、一つには凡夫の楽、二つには仏がたの楽である。凡夫の楽は、無常でありこわれるものであるから、楽ではない。仏がたの楽は、常住であり変ることがないから、大いなる楽という。また善良なものよ、凡夫が苦楽を感じるのに三種がある。一つには苦であると感じること、二つには楽であると感じること、三つには苦でも楽でもないと感じることである。この苦でも楽でもないというのも、実は苦である。涅槃も、苦でも楽でもないということは同じであるが、大いなる楽という。大いなる楽であるから大涅槃というのである。

 二つには、煩悩を滅した究極の平安を得ていることであり、それを大いなる楽という。そもそも涅槃の本性は究極の平安である。なぜなら、身心を乱し悩ませるすべての煩悩を遠く離れているからである。究極の平安を得ているから大涅槃というのである。

 三つには、すべてのことがらの真実を知る智慧を得ていることであり、それを大いなる楽という。すべてを知る智慧を得ていないのを大いなる楽とはいわない。仏がたはすべてを知る智慧を得ているから大いなる楽という。大いなる楽であるから大涅槃というのである。

 四つには、その身が損なわれないことであり、それを大いなる楽という。その身が損なわれるならば楽とはいわない。如来の身は金剛のように堅固であって損なわれることがない。煩悩の身ではなく無常の身ではないから、大いなる楽という。大いなる楽であるから大涅槃というのである」


(14)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「はかり知ることも考えることもできないから、大涅槃ということができる。また完全な清浄であるから大涅槃という。完全な清浄とはどのようなことであろうか。清浄に四種がある。その四つとは何であろうか。

 一つには、迷いの世界を不浄といい、これを永久に断ち切ることである。だから清浄ということができるのである。この清浄がすなわち涅槃である。このような涅槃はまた存在するものであるということができる。しかし、凡夫の考えるような存在ではない。仏がたは世間の考え方に合せて涅槃は存在するものであると説かれたのである。たとえば、世間の人が父でないものを父といい、母でないものを母といい、実際は父母でないのに父母というようなものである。涅槃もまた同じである。世間の考え方に合せるから、仏がたは存在するものであって、そのまま大涅槃であると説かれたのである。

 二つには、行いが清浄であるということである。すべての凡夫の行いは清浄でないから涅槃はない。仏がたは行いが清浄であるから大いなる浄という。大いなる浄であるから大涅槃というのである。

 三つには、その身が清浄であるということである。その身が無常であるなら、不浄という。如来の身は常住であるから大いなる浄という。大いなる浄であるから大涅槃というのである。

 四つには、心が清浄であるということである。心が煩悩に汚されているなら不浄という。仏の心は煩悩に汚されていないから大いなる浄という。大いなる浄であるから大涅槃というのである。善良なものよ、このように大涅槃を得るものを善良なものたちというのである」


(15)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、仏がたには煩悩がおこらない。これを涅槃という。仏がたのそなえておられる智慧は、すべてに通じて何者にもさまたげられることがない。これを如来という。如来は凡夫や声聞や縁覚や菩薩などの因位のものではない。これを仏性という。如来の身心にそなわる智慧は、数限りない国土に行きわたりさまたげられることがない。これを虚空という。如来は常住であって変ることがないから実相という。このようなわけで、如来は涅槃にとどまることなく、まさに迷いの世界で活動されているのである。これを菩薩というのである」


(16)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「迦葉菩薩が、<世尊、仏性が常住であって、虚空のようであるのなら、どうして仏性を未来のこととして説かれるのですか。また、一闡提のものには善がないと仰せになるなら、一闡提のものは、友達や師匠や父母や親族や妻子に対して、愛する心がおこらないのでしょうか。もし愛する心がおこるのなら、それは善ではないでしょうか>と申しあげた。

 仏が、<よろしい、善良なものよ、それはよい問いである。仏性は虚空のように常住であって、過去でもなく未来でもなく現在でもない。しかし、すべての衆生には三種の身がある。いわゆる過去・未来・現在の身である。衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができるであろう。だから、わたしは仏性を未来のことといったのである。善良なものよ、仏は衆生のために、あるときは因のことを果で説き、あるときは果のことを因で説く。だから、経には、命は食をとった結果であるが、命という結果を食において説き、また物質は感覚によって認知された結果であるが、物質という結果を感覚において説く。そのように衆生も未来にはその身が清浄であるから、仏性と説くのである>と仰せになった。

 そこで迦葉菩薩は、<世尊、お説きになられた通りであります。そうであるなら、すべての衆生にはことごとく仏性があると、どうして説かれるのですか>と申しあげた。

 釈尊が次のように仰せになった。<善良なものよ、衆生の仏性は、現在には見ることはできないけれども、ないということはできない。虚空のようである。その本性はとらえることができないけれども、現在にないとはいえない。すべての衆生は、また無常であるけれども、仏性は常住であって変らない。だから、わたしはこの経に、«衆生の仏性は、内にあるのでも外にあるのでもなく、それは虚空のようである»と説くのである。内にあるのでも外にあるのでもなく、虚空のように存在するのである。内とか外とかいうのなら、虚空のようだといっても、一であるとも常住であるともいうことができず、すべてのところに存在するということもできない。虚空は、また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、すべての衆生にことごとくある。衆生の仏性もまた同じである。

 そなたのいう一闡提のものなどは、その身心におこすすべてのはたらきも行いも、それらはことごとくよこしまなものである。なぜなら、因果の道理を信じようとしないからである。善良なものよ、訶梨勒は、根も幹も枝も葉も花も実もすべて苦いようなものである。一闡提のものの行いもまたその通りである>」


(17)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

 迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。

 釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅睺羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。(中略)善良なものよ、如来はこのように衆生の資質がすぐれているか劣っているかを知っている。だから仏のことを、衆生の資質を知る力をそなえたものと称するのである>と。

 迦葉菩薩が釈尊に申しあげる。<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられます。だから、すぐれているか劣っているかなど、すべての衆生の資質の違いを知って、その人に応じ、その心に応じ、そのときに応じて法を説かれるから、如来のことを、衆生の資質を知る力をそなえた方、と申しあげるのです。(中略)あるときは、四重禁戒を破ったもの、五逆罪を犯したもの、一闡提などにも、みな仏性がある、とお説きになるのです>(中略)

 釈尊が仰せになる。<如来は、それぞれの世界に応じて、それぞれの時に応じて、それぞれの使っている言葉に応じて、それぞれの人に応じて、それぞれの資質に応じて、一つのことがらについて違った解き方をするのである。一つの名を持つことがらを数限りない名で説き、一つの意味を数限りない名で説き、数限りない意味を数限りない名で説く。

 一つの名を数限りない名で説くとは、どのようなことかというと、涅槃を説くようなものである。煩悩を滅しているから涅槃といい、生じることも滅することもないから無生ともいい、ふたたび迷いの世界に出ないから無出ともいい、はからいなくはたらくから無作ともいい、つくられたものでないから無為ともいい、すべてのよりどころであるから帰依ともいい、堅固なところであるから窟宅ともいい、迷いの束縛を離れているから解脱ともいい、智慧が明らかであるから光明ともいい、迷いの闇を照らすから灯明ともいい、迷いのこの世界を超えているから彼岸ともいい、何ごとにも恐れることがないから無畏ともいい、迷いに退転しないから無退ともいい、安らかなところであるから安処ともいい、煩悩を滅して静かであるから寂静ともいい、あらゆる相を離れているから無相ともいい、何ものにもくらべられないから無二ともいい、ただ一つのまことのはたらきであるから一行ともいい、煩悩を離れて涼しく清らかであるから清涼ともいい、迷いの闇を離れているから無闇ともいい、何ものにもさまたげられないから無礙ともいい、何の争いもないから無諍ともいい、煩悩の濁りがないから無濁ともいい、すべての世界に満ちわたっているから広大ともいい、すぐれた功徳を味わうことができるから甘露ともいい、めでたいものであるから吉祥ともいう。これを、一つの名を数限りない名で説くというのである。

 一つの意味を数限りない名で説くというのは、どのようなことかというと、帝釈天を説くようなものである。

 数限りない意味を数限りない名で説くとは、どのようなことかというと、仏・如来を説くようなものである。真如より現れきたったものとして如来といい、供養を受けるにふさわしいものとして阿羅漢といい、平等のさとりを得たものとして三藐三仏陀という。これらは意味も異なり名も異なる。また迷いの岸からさとりの岸へ渡すものとして船師ともいい、衆生をさとりへ導くものとして導師ともいい、真実をさとったものとして正覚ともいい、智慧と行とがともに完全であるものとして明行足ともいい、すべてのものの王として大獅子王ともいい、善い行いを勧め悪をとどめるものとして沙門ともいい、清らかな行を修めるものとして婆羅門ともいい、煩悩を滅して心が静まったものとして寂静ともいい、人々に功徳を施すものとして施主ともいい、さとりの岸に到ったものとして到彼岸ともいい、すべての煩悩の病を治すものとして大医王ともいい、すべてのものを巧みに降伏させるものとして大象王ともいい、不可思議な力をあらわすものとして大竜王ともいい、人々に智慧の眼を施すものとして施眼ともいい、すぐれた力をそなえたものとして大力士ともいい、何ごとにも畏れることがないものとして大無畏ともいい、功徳の宝を集めたものとして宝聚ともいい、隊商の長にたとえられるものとして商主ともいい、迷いの束縛を離れたものとして得解脱ともいい、雄々しく努め励むものとして大丈夫ともいい、神々や人々を導くものとして天人師ともいい、煩悩の泥に汚されないものとして大分陀利華ともいい、世に並ぶものなく独り尊いものとして独無等侶ともいい、人々の供養を受けて功徳を得させるものとして大福田ともいい、海のように広大な智慧を持つものとして大智海ともいい、あらゆる相を離れたものとして無相ともいい、八智をそなえたものとして具足八智ともいう。これらはすべて意味も異なり名も異なる。善良なものよ、これを、数限りない意味を数限りない名で説くというのである。

 また、一つの意味を数限りない名で説くことがあるとは、いわゆる陰のようなものである。陰といい、また顛倒ともいい、また諦ともいい、また四念処ともいい、また四食ともいい、また四識住処ともいい、また有ともいい、また道ともいい、また時ともいい、また衆生ともいい、また世ともいい、また第一義ともいい、また三修ともいい、また因果ともいい、また煩悩ともいい、また解脱ともいい、また十二因縁ともいい、また声聞・縁覚・仏ともいい、また地獄・餓鬼・畜生・人間・天上ともいい、また過去・現在・未来ともいう。これらはみな陰なのである。これを、一つの意味を数限りない名で説くというのである。

 善良なものよ、如来は衆生のために、広く説かれたものを簡潔に示し、簡潔に示されたものを広く説く。第一義諦を説いて世俗諦とし、世俗諦を説いて第一義諦とするのである>」


(18)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「迦葉菩薩がまた申しあげる。<世尊、第一義諦をまた道といいます。また菩提ともいい、また涅槃ともいうのであります>(以下略)」


(19)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「善良なものよ、わたしは教えの中で如来の身についておおむね二種を説く。一つには生身、二つには法身である。生身というのは、衆生を救済するために現れた身である。このような身には、生老病死の変化があり、長短や黒白の相があり、あれとこれとの区別があり、なお学ぶべき余地を残す段階やもはや学ぶべきことのない境地とがあるということができる。弟子たちがこの教えを聞いて、わたしの真意を理解しなかったなら、<如来は仏身が消滅変化するものであるとはっきりとお説きになった>というであろう。

 法身というのは、常楽我浄の徳のすべてをそなえた身である。これは永久に、生老病死の変化、黒白や長短の相、あれとこれとの区別、なお学ぶべき余地を残す段階ともはや学ぶべきことのない境地との違いなど、これらすべてを超え離れていて、仏が世に出られても出られなくても、常にゆるぎなく変ることがない。善良なものよ、弟子たちがこの教えを聞いて、わたしの真意を理解しなかったなら、<如来は仏身が消滅変化しないものであるとはっきりとお説きになった>というであろう」


(20)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「わたしが説いた十二部経には、あるいは仏自らの意にしたがって説いた教えがあり、相手の意にしたがって説いた教えがあり、あるいは水からの意にも相手の意にもしたがって説いた教えがある。(中略)

 善良なものよ、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くが、このように説くのを相手の意にしたがって説いた教えというのである。なぜ少ししか見ないと説くのか。第十地の菩薩は首楞厳三昧などの三昧を得、すべての教えに通じている。そのため、明らかに自分がこの上ないさとりを得るということは知っているが、すべての衆生がこの上ないさとりを得るということは知らない。このようなわけで、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くのである。善良なものよ、わたしは常にすべての衆生には仏性があると説く。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生にはことごとく仏性があるが、煩悩におおわれているから見ることができないのである。このように説くのは、わたし自らの意にも、そなたたちの意にもかなっている。これを自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えというのである。善良なものよ、如来は一つのことを明らかにするために数限りない教えを説くことがある」


(21)  また次のように説かれている(涅槃経)。

 「<すべてをさっとったものを仏性という。第十地の菩薩はすべてをさとったものとはいえないから、仏性を見るといっても明らかに見るのではない。善良なものよ、見るということに二種がある。一つには眼見、二つには聞見である。仏がたは手のひらに置いた阿摩勒菓を見るように、はっきりと仏性をご覧になる。第十地の菩薩は仏性を聞見するけれどお、それほど明らかに見るのではない。第十地の菩薩は、ただ自分が間違いなくこの上ないさとりを得ると知ることができるが、すべての衆生にみな仏性があると知ることはできないのである。善良なものよ、仏性を眼見するのは、仏がたである。第十地の菩薩は、少しは眼見もするが聞見もする。すべての衆生は、第九地の菩薩にいたるまで、みな仏性を聞見する。ただし菩薩が、すべての衆生にみな仏性があると聞いても、それを信じなければ、聞見とはいわないのである>(中略)

 獅子吼菩薩が申しあげる。<世尊、すべての衆生は如来のお心を知ることができません。どのように観察してそのお心を知ることができるのでしょうか>と。

 善良なものよ、すべての衆生は本当に如来の心を知ることはできない。もし観察して知りたいと思うなら、二つの方法がある。一つには眼見、二つには聞見である。如来の身業を見たてまつり、これが如来であると知ることを眼見という。如来の口業を観察して、これが如来であると知ることを聞見という。如来のおんすがたを見たてまつると、そのおすがたはすべての衆生に超えすぐれている。そこでこれが如来であると知る。これを眼見という。如来の声を聞くと、この上なくすぐれており、衆生の声とは異なっている。そこでこれが如来であると知る。これを聞見という。如来の不可思議なはたらきを見たてまつり、それが衆生のためなのか、如来ご自身のためなのかというと、それは衆生のためなのであってご自身のためではない。そこでこれが如来であると知る。これを眼見という。如来を観察すると、如来が他心通により衆生のありさまを知られて教えを説かれている。それは如来ご自身のためなのか、衆生のためなのかというと、衆生のためであってご自身のためではない。そこでこれが如来であるとしる。これを聞見という>」


(22)  『浄土論』にいわれている。

 「世尊よ、わたしは一心に帰命尽十方無碍光如来に帰命したてまつり、安楽国に生れようと願うのである。浄土のあり方を観ずると、迷いの世界を超えている。はかり知れないことは虚空のようであり、広大であってきわまりがない」


(23)  『往生論註』にいわれている。

 「<清浄功徳成就とは、願生偈に、«浄土のあり方を観ずると、迷いの世界を超えている»といっていることである>と『浄土論』に述べられている。これがどうして不可思議なのであろうか。あらゆる煩悩をそなえた凡夫が、阿弥陀仏の浄土に生れると、迷いの世界につなぎとめるこれまでの行いも、もやはその力を失う。これは、自ら煩悩を断ち切らずに、そのまま浄土で涅槃のさとりを得るということである。どうして思いはかることができようか」


(24)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「<正道の大慈悲は、少しも汚れのない出世間の善根から生じる>と願生偈に述べられている。この二句を性功徳成就という。(中略)

 性とは、まず根本という意味である。それは、浄土がすべての根本である真如法性にかなっていて、これに背かないという意味である。これは、『華厳経』の宝王如来性起品に説かれている性起の意味と同じである。

 また次に、修行を積んで得た功徳によって性を成就するということである。法蔵菩薩が、多くの修行を積み重ねて性を成就されたことをいうのである。

 また次に、性とは聖種性のことである。法蔵菩薩が因位のとき、世自在王仏のもとで無生法忍をさとられた。そのときの位を聖種性という。この聖種性の位において四十八の大いなる願をおこされて、浄土をおたてになったのである。すなわちこの浄土は、因位の聖種性における願によって得られたのである。いま、果においてその因を説くから、性というのである。

 また次に、性とは、必ず他を自身と同じにするという意であり、自身の本質は変らないという意味である。たとえば、海水は一つの塩味であって、そこに流れこむ水を同じ塩味にし、海水の味は流れこむ水によって変らないという性質があるようなものである。また、人間の体は本来不浄であるから、さまざまなよい色や香りや美味しいものも、人間の体に入ったなら、みな不浄になるようなものである。浄土では、往生する人はみな、不浄の身も不浄の心もなく、ついに消滅変化を離れた、真如そのものである清浄なさとりの身を得るのである。それは浄土に清浄という性質が成就されているからである。

 <正道の大慈悲は、少しも煩悩の汚れのない善根から生じる>というのは、この正道とは平等の大いなるさとりである。平等のさとりを正道というのは、平等がすべてのものの本体のあり方だからである。すべてのものの本体が平等であるから、法蔵菩薩のおこされた願心も平等である。願心が平等であるから、さとりの智慧も平等である。智慧が平等であるから、大慈悲も平等である。この大慈悲が仏のさとりの正因であるから、<正道の大慈悲>といわれたのである。

 慈悲には三縁がある。一つには衆生縁であり、これは小悲である。二つには法縁であり、これは中悲である。三つには無縁であり、これは大悲である。この大悲は、少しも煩悩の汚れのない善である。浄土は、法蔵菩薩の大悲によりたてられたのであるから、この大悲を浄土の根本という。だから<少しも煩悩の汚れのない善根から生じる>といわれたのである」


(25)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「問うていう。法蔵菩薩の誓願(第十四願)や龍樹菩薩が阿弥陀仏をほめたたえられているのをみると、どれもみな浄土に声聞が多いのをすぐれたありさまとされているようである。これはどのような意味があるのだろうか。

 答えていう。声聞は、ただ自分が迷いの世界を離れるだけでさとりとする。考えてみると、声聞にはさらに仏のさとりを求める心はおこらないのである。それを阿弥陀仏の不可思議な本願のはたらきにより、摂め取って浄土に往生させ、またそのはたらきで、必ず無上菩提心をおこさせるのである。たとえば、鴆鳥が水の中にはいると魚や貝などはすべて死んでしまうが、犀が触れると、死んだ者がみな生き返るようなものである。このように菩提心をおこすことのできないものに菩提心をおこさせるから、これを不可思議とするのである。だから五種の不可思議の中で仏法がもっとも不可思議なのである。阿弥陀仏は声聞にふたたび無上菩提心をおこさせる。まことに不可思議のきわみである」


(26)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「不可思議なはたらきとは、総じて浄土の十七種の功徳のはたらきが思いはかることのできないことを指すのである。さまざまな経の中に、五種の不可思議が説かれている。一つには衆生の数の不可思議、二つには業のはたらきの不可思議、三つには竜のはたらきの不可思議、四つには禅定のはたらきの不可思議、五つには仏法力の不可思議である。この『浄土論』の中には、阿弥陀仏の浄土の不可思議なはたらきについて二種の力があると説く。一つには、業のはたらき、すなわち法蔵菩薩の少しも煩悩の汚れのない善根と大いなる本願のはたらきという因の力により、成就されているということである。二つには、この上ないさとりを開かれた阿弥陀仏にそなわる住持のはたらきという果の力により、よくたもたれているということである」


(27)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「自利利他のはたらきをあらわすということについて、<略して阿弥陀仏の国土にそなわる十七種の功徳を説いて、阿弥陀仏には、仏ご自身のための功徳のはたらきと、衆生のための功徳のはたらきとがそなわっていることをあらわすのである>と『浄土論』に述べられている。<略して>というのは、浄土の功徳ははかり知ることができず、わずか十七種だけではないことをあらわしている。須弥山が芥子粒に収まり、大海が毛穴の中に収まるといわれるが、須弥山や大海に不思議な力があるのではなく、また芥子粒や毛穴に不思議な力があるのでもない。ただ、不可思議な力をそなえた仏のはたらきをあらわしているのである」


(28)  また次のようにいわれている(往生論註)。

 「<不虚作住持功徳成就とは何か。願生偈に、«阿弥陀仏の本願のはたらきに遇って、いたずらに迷いの生死を繰り返すものはなく、速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださる»という>と『浄土論』に述べられている。<不虚作住持功徳成就>とは、つまり阿弥陀仏の本願のはたらきである。(中略)この<不虚作住持>すなわち仏力がいつわりでなく変らないのは、因位の法蔵菩薩の四十八願と、果位の阿弥陀仏の自由自在な不可思議な力とにもとづくのである。願は力を成り立たせ、力は願にもとづいている。願は無駄に終わることがなく、力は目的なく空転することがない。果位の力と因位の願とが合致して、少しも食い違いがないから成就というのである」


(29)  曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』にいわれている。

 「南無阿弥陀仏(この偈を『無量寿傍経』ともいう。浄土をたたえて安養ともいう)

 阿弥陀仏は、仏となられてからすでに十劫を経ておられる。その寿命は限りなく、はかり知ることができない。さとりの身から放たれる光はすべての世界に満ちみちて、迷いの闇の衆生を照らす。だから阿弥陀仏を礼拝したてまつる。
智慧の光明ははかり知ることができないから、仏をまた無量光と申しあげる。迷いの世界のものはみな、その光に照らされる。だから真実の智慧の光の如来を礼拝したてまつる。
さとりの光は限りがないから、仏をまた無辺光と申しあげる。その光に照らされたものはすべてのとらわれを離れる。だからすべてが平等であるとさとった如来を礼拝したてまつる。
光は虚空のように何ものにもさまたげられないから、仏をまた無碍光と申しあげる。迷いの世界のものはすべてその光のはたらきを受ける。だから衆生の思いを超えた如来を礼拝したてまつる。
清らかな光は並ぶものがないから、仏をまた無対光と申しあげる。この光に遇えば、迷いの世界につなぎとめる行いも、その力が失われる。だから衆生の究極のよりどころである如来を礼拝したてまつる。
仏の光はその輝きがもっともすぐれているから、仏をまた光炎王と申しあげる。苦しみの世界の闇もその光によって除かれる。だからあらゆる供養を受けるにふさわしい如来を礼拝したてまつる。
さとりの智慧の光は明るく輝き、すべてのものに超えすぐれているから、仏をまた清浄光と申しあげる。この光にひとたび照らされると、罪が除かれみなさとりを得ることができる。だから礼拝したてまつる。
慈悲の光は広くすべてのものを照らして安らぎを与えるから、仏をまた歓喜光と申しあげる。この光の届いた人々は、仏の恵みに喜びの心をおこす。衆生に大いなる安らぎと慰めを与える如来を礼拝したてまつる。
仏の光は無明の闇をすべて破るから、仏をまた智慧光と申しあげる。すべての仏も菩薩も縁覚も声聞もことごとくこの仏をたたえる。だから礼拝したてまつる。
その光はいつも絶えることなくすべてを照らすから、仏をまた不断光と申しあげる。この光のはたらきすなわち仏の本願を聞き信じるものは、その信が一生を通して絶えることはなく、みな往生することができる。だから礼拝したてまつる。
その光は仏でなければはかり知ることができないから、仏をまた難思光と申しあげる。すべての仏は阿弥陀仏による衆生の往生をほめ、この仏の功徳をたたえる。だから礼拝したてまつる。
この不可思議な光は姿かたちを超えていて、どのような言葉でも説き示すことができないから、仏をまた無称光と申しあげる。光に限りがないようにと誓われて仏となられ、その光はこの上なく輝き、仏がたはみなたたえておいでになる。だから礼拝したてまつる。
仏の光の輝きは日や月の光に超えすぐれているから、仏をまた超日月光と申しあげる。その徳をどれほど説いても説き尽すことはできないと釈尊はたたえられる。だからわたしはくらべようもなく超えすぐれた如来を礼拝したてまつる。(中略)

わたしが師と仰ぐ龍樹菩薩は像法の時代のはじめにお生まれになり、崩れてきた仏法のかなめをととのえ、よこしまな教えを閉じて正しい道を明らかにされた。龍樹菩薩こそ、この世界のすべての人々を教え導く智慧の眼である。
釈尊のお言葉を承り、歓喜地の位にあって、阿弥陀仏に帰依して浄土に往生された。わたしははかり知れない昔から迷いの世界にあって、生れ変り死に変りし続けている。わたしの行いはすべて、わたしの足を迷いの世界につなぎとめ、苦しみの世界にとどまらせる。願わくは仏の慈悲の光がわたしを護って、わたしに菩提心を失わせないようにしていただきたい。わたしは仏の智慧と功徳の名号をほめたてまつる。願わくは、縁のあるすべての人々にこれを聞かせて、浄土に往生したいと思うものが、みな思いのままに往生することができ、さまたげのないようにしたい。あらゆる功徳をすべての人々に施して、みなともに往生させよう。思いはかることのできない光明の如来に帰依し、ひとすじに信じて礼拝したてまつる。
過去・現在・未来のすべての仏は、同じく一如にかなってまことのさとりを得られた。智慧も慈悲もまどかにそなえてそのさとりは平等である。ただそれぞれの衆生の縁に応じて救うから、その数は実に多い。わたしが阿弥陀仏の浄土に帰依することは、そのまますべての仏に帰依することなのである。わたしは一心に阿弥陀仏一仏をほめたたえ、これがすべての仏をたたえるものとなることを願う。このようにしてすべての数限りない仏がたをみな、まごころこめて礼拝したてまつる」


(30)  善導大師が『観経疏』にいわれている(玄義分)。

 「問うていう。阿弥陀仏の浄土は、報土であろうか、化土であろうか。

 答えていう。報土であって化土ではない。どのようにしてそれを知ることができるか。『大乗同性経』に、<西方浄土は報土であり、阿弥陀仏は報身である>と説かれている通りである。また、『無量寿経』には、<法蔵菩薩が世自在王仏のもとで菩薩の行を修められたときに四十八の願をおこされて、それぞれの願に«わたしが仏になったとき、あらゆる人々が、わたしの名号を称えてわたしの国に生れようと願い、それがたとえば十声ほどの念仏であっても、すべてわたしの国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開くまい»ということを誓われた>と説かれている。その法蔵菩薩が今すでに阿弥陀仏として成仏しておられるのであり、これは因位の願の果報として成就された報身である。また『観無量寿経』には、上品の三種のものが命を終えようとするときに、等しく<阿弥陀仏が化身の仏とともにこのものを迎える>と説かれている。これは、報身である阿弥陀仏が化身の仏を伴い、迎えに来て手をさしのべてくださるということである。だから<ともに>というのである。これらの文により、阿弥陀仏は報身であり、その浄土は報土であることが明らかに知られる。

 報身といっても応身といっても、それは眼と目のように同じものの表現の違いである。時代や訳者によって、同じ仏身のことを報身としたり応身としたりしている。報というのは、因位の行が無駄に終ることなく、必ず後に果を導き、その果が因に応じたものであるから報というのである。また、はかり知れない長い間修めたすべての行は、必ずそれに応じてさとりを得るものであり、すでにそのさとりを成就したのであるから応身ともいうのである。すなわち、過去・現在のすべての仏は法身・報身・化身のどれかであり、これらの他に別の仏身があるわけではない。たとえ迷いの世界において、さとりを開くすがたがはかり知れないほど多く、また数限りない仏の名があろうとも、これらの仏身はすべて化身に収まる。このようなわけで、浄土の阿弥陀仏は報身なのである。

 問うていう。阿弥陀仏が報身であるというなら、その身は常住であて、永久に滅したりすることはない。それではなぜ『観音授記経』に、<阿弥陀仏もまたその身を滅して涅槃に入られるときがある>と説かれているのか。これをどのように解釈すればよいのか。

 答えていう。身を滅して涅槃に入るとか入らないとかは、ただ仏のさとりの世界でいわれることであって、声聞・縁覚・菩薩などの浅い智慧によってうかがい知ることはできない。まして愚かな凡夫にはたやすく知ることなどできるはずがない。しかしながら、是非とも知りたいのであれば、経文を引いて、明らかな証拠としよう。それはすなわち、『大梵般若経』の如化品に説かれている通りである。<釈尊が須菩提に仰せになる。«そなたはどう思うか。幻の人がいて幻の人をつくり出したとすると、この幻の人は実在するものであるか、実在しないものであるか»と。

 須菩提が申しあげる。«世尊、実在するものではありません»と。

 仏が須菩提に仰せになる。«体はすなわち幻である。心とそのはたらきもすなわち幻である。完全なさとりの智慧にいたるまですべて幻である»と。

 須菩提が仏に申しあげる。«世尊、世俗のことがらが幻なら、仏道におけることがらもまた幻でしょうか。いわゆる四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚分・八聖道分・三解脱門・仏の十力・四無所畏・四無碍智・十八不共法並びに、それぞれの修行によって得る果およびおよび賢聖人、いわゆる須陀洹・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏・菩薩・仏がた、これらもまた幻でしょうか»と。

 仏が須菩提に仰せになる。«すべてのことがらはみな幻である。声聞に現れることがら、辟支仏に現れることがら、菩薩に現れることがら、仏がたに現れることがら、煩悩に現れることがら、行いの因縁に現れることがらもまた、幻である。こういう因縁によるのであるから、須菩提よ、すべてのことがらはみな幻である»と。

 須菩提が仏に申しあげる。«世尊、このさまざまな煩悩を断じたもの、いわゆる須陀果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果・辟支仏果は、またさまざまな煩悩の習気をも断ち切っています。これらもみな幻でしょうか»と。

 仏が須菩提に仰せになる。«生じたり滅したりするものは、みな幻である»と。

 須菩提が申しあげる。«世尊、どのようなことがらが、幻でないのでしょうか»と。

 仏が須菩提に仰せになる。«生じたり滅したりしないものは幻ではない»と。

 須菩提が申しあげる。«どのようなものが生じたり滅したりしないものであり、幻でないものなのでしょうか»と。

 仏が仰せになる。«いつわりのない涅槃は幻ではない»と。

 «世尊、ご自身がお説きになったように、すべてのものの本性は平等であって、声聞がつくったものでもなく、縁覚がつくったものでもなく、菩薩がつくったものでもなく、仏がたがつくったものでもありません。仏がおいでになっても、おいでにならなくても、すべてのものの本性は常に空であります。その本性が空であることがすなわち涅槃です。どうして涅槃だけが幻のようではないのですか»と。

 仏が須菩提に仰せになる。«その通りである。すべてのものの本性は平等であって、声聞や他のものがつくったものではなく、本性は常に空であって、その本性が空であることがすなわち涅槃である。もし菩提心をおこしたばかりの菩薩が、すべてのものはみな本性はすなわち空なのであり、涅槃もまた幻のようであると聞いたなら、驚き恐れるであろう。このような菩提心をおこしたばかりの菩薩のために、あえて、生じたり滅したりするものは幻のようであり、生じたり滅したりしないものは幻のようでないと分けたのである»>と。

 今すでにこの聖教によって、確かに阿弥陀仏は報身であると明らかに知ることができた。後に身を滅して涅槃にはいるとしても、阿弥陀仏が報身であることに差し支えがない。智慧のある人々はこれがわかるであろう。

 問うていう。阿弥陀仏が報身であり、その浄土が報土であるというなら、報身・報土は非常にすぐれたものであり、高い位の菩薩でなければ入ることはできない。煩悩のさわりにまみれた凡夫など、どうして入ることができようか。

 答えていう。衆生の煩悩のさわりを考えると、阿弥陀仏の浄土への往生を願い求めることなどできないが、阿弥陀仏の本願にまかせると、その不可思議な強いはたらきによって、凡夫も聖者もみな往生させてくださるのである」


(31)  また次のようにいわれている(序分義)。

 「『観無量寿経』の<われいま極楽世界の阿弥陀仏のところに生ぜんことを楽(ねが)ふ>とは、まさしく韋提希が、とくに阿弥陀仏の浄土を選んで、そこに往生したいと願ったことをあらわすものである。これは阿弥陀仏の浄土が四十八のすぐれた願によりおこされたことをあらわしている。すなわち、願のそれぞれがみなすぐれた因を生じ、その因によってすぐれた行をおこし、その行によってすぐれた果を受け、その果によって因位の願に報いたすぐれたあり方を成就し、そのすぐれたあり方によって極楽世界を成就し、そしてこの成就された極楽世界によってすべての衆生を救う慈悲のはたらきをあらわし、その慈悲のはたらきによって智慧のはたらきをあらわすのである。この慈悲は尽きることがなく、その智慧もまたきわまりがない。阿弥陀仏は慈悲と智慧とをともにはたらかせ、尊い浄土の法門を広く開かれたのである。このようにして法のうるおいが行きわたり、すべての衆生を救ってくださる。他の数多くの経典にも、阿弥陀仏の浄土へ往生することが勧められている。仏がたは、みな同じ心で等しく阿弥陀仏をほめたたえられるのである。このような因縁があって、釈尊が深い思召しによって、とくに阿弥陀仏の浄土を韋提希に選ばせられたのである」

(32)  また次のようにいわれている(定善義)。

 「西方浄土は煩悩を滅し尽した変ることのないさとりの世界であって、すべてのとらわれを離れ、はからいがない。西方浄土に生れると、大いなる慈悲の心をおこしてあらゆる世界に行き、さまざまなすがたを現して人々を等しく救済する。さあ帰ろう、迷いの世界にとどまるべきではない。はかり知れない昔からさまざまな迷いの世界を生れ変り死に変りし続けてきた。どこにも何の楽しみもなく、ただ嘆き悲しみの声ばかりである。この一生を終えた後には、さとりの浄土に往こう」


(33)  また『法事讃』にいわれている。

 「極楽は変ることのないさとりの世界である。人それぞれの縁にしたがって修めるような自力の善根によっては生れることができない。だから釈尊は本願の名号を選びとって、ただひとすじに信じ念仏して往生せよと教えてくださった」


(34)  また次のようにいわれている(法事讃)。

 「仏にしたがい、はからいを離れて、さとりの世界に帰る。さとりの世界とは阿弥陀仏の浄土である。煩悩の汚れがなく変ることのない真実の世界である。すべての行いはいつも仏とともにあり、この上ないさとりの身を得るのである」


(35)  また次のようにいわれている(法事讃)。

 「阿弥陀仏のすぐれたさとりをこの上ない涅槃という」


(36)  憬興が『述文賛』にいっている。

 「<無量光仏>とあるのは、はかり知ることができないからである。<無辺光仏>とあるのは、照らさないところがないからである。<無碍光仏>とあるのは、何ものにもさえぎられることがないからである。<無対光仏>とあるのは、どのような菩薩も及ぶことができないからである。<光炎王仏>とあるのは、光明の自由自在なはたらきはこれを超えるものがないからである。<清浄光仏>とあるのは、貪りを離れた善根より現れるからであり、また衆生の汚れた貪りの心を除くのであり、汚れた貪りの心がないから清浄という。<歓喜光仏>とあるのは、怒りを離れた善根より生じるから、また衆生の怒りに満ちた心を除くからである。<智慧光仏>とあるのは、愚かさを離れた善根より起るのであり、また衆生の愚かな迷いの心を除くからである。<不断光仏>とあるのは、恒に絶えることなく衆生を照らし導くからである。<難思光仏>とあるのは、声聞や縁覚には推しはかることができないからである。<超日月光仏>とあるのは、日夜常にすべてを照らし、この世界の日や月と異なるからである。

 この光明に照らされるものはみな、身も心も和らぐという願の利益を受けるのである。


(37)

 このようなわけであるから、釈尊が説かれた真実の教えや、祖師方が示された解釈には、阿弥陀仏の浄土は真実報土であることが顕されていると、明らかに知ることができた。煩悩にまみれた衆生は、この世界では仏性を見ることができない。それは煩悩におおわれているからである。『涅槃経』には「わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説く」と説かれている。このようなわけで知ることができる。浄土に往生すれば、そこで必ず仏性をあらわすのである。それは阿弥陀仏の本願力の回向によるからである。また『涅槃経』には「衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができる」と説かれている。


(38)  『念仏三昧宝王論』にいっている。

 「『大乗起信論』に<もし、真如を説くといっても、どのように説いても説くことができず、また、どのように念じても念じることができないと知るのを随順という。さらにそのようなすべての念を離れるのを、真如をさとり、その世界に入るという>と述べられている。

 真如をさとり、その世界に入ることを真如三昧という。まして、真如そのものになるのは仏の位であり、そこにおいて無明の始まりを知るのである。すなわち、この無明のはじまりを知るとは真如そのものになることであり、それは十地の菩薩でも知ることができない。ところが、今の人は十信の位にさえ至っていないのであって、馬鳴菩薩の言葉にしたがう他はない。すなわち、<仏の説かれた言葉により、言葉を超えた世界に入り、仏を念じることにより、すべての念を超えた世界に入る>と仰せになっている」


(39)

 さて、報ということを考えると、如来が因位においておこされた願の果報として浄土は成就されたのである。だから報というのである。ところで、如来の願に真実と方便とがある。だから、成就された仏と浄土にも真実と方便とがある。
 第十八願を因として真実の仏と浄土が成就されたのである。真実の仏とは、『無量寿経』には「無辺光仏、無碍光仏」と説かれ、また『大阿弥陀経』には「仏がたの王であり、その光明はもっとも尊い」と説かれている。『浄土論』には「帰命尽十方無碍光如来」といわれている。
 真実の報土とは、『平等覚経』には「限りない光明の世界」と説かれ、また『如来会』には「あらゆる智慧をそなえた世界」と説かれている。『浄土論』には「はかり知れないことは虚空のようであり、広大であってきわまりがない」といわれている。
 往生とは、『無量寿経』には「浄土の清浄の人々は、みな阿弥陀仏のさとりの花から化生する」といわれ、また『往生論註』には「同じ念仏によって浄土に生れるのであり、その他の道によるのではないからである」といわれている。また『法事讃』に「難思議往生」といわれているのがこの往生である。
 方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。これが浄土のまことの教えである。釈尊の経説、龍樹菩薩や天親菩薩の説示、浄土の祖師方の解釈を、仰いで敬い信じ、つつしんで承るべきである。よく知るがよい。