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顕智

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

けんち

 (1226-1310)親鸞聖人面授(めんじゅ)の弟子。専修寺(せんじゅじ)第三代。親鸞聖人が関東から帰洛後は、たびたび下野(しもつけ)(現在の栃木県)と京都を往復して聞法(もんぽう)を怠らなかった。「自然法爾章(じねんほうにしょう)」などの聖人の著述や経釈文を多く書写している。聖人の臨終にもあい、大谷廟堂(びょうどう)の造営維持に力を尽し、初期真宗教団の重鎮として活躍した。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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顕智(けんち、嘉禄2年(1226年) - 延慶3年7月4日1310年7月30日)?)は、鎌倉時代中期の浄土真宗

略歴

初め比叡山出家・修行し、賢順と号したという。浄土真宗の祖とされる親鸞の弟子真仏に師事し、その後親鸞の直弟子となって顕智と改めたという。多く親鸞に随行し、親鸞が京都に戻る際にも従った。

親鸞による善鸞義絶によって東国真宗教団の動揺と危機がほぼ落着した正嘉2年(1258年)、真仏が没した事もあり、真宗高田派の本山である専修寺の3世を継ぎ、また、この年、顕智をはじめとする東国教団の指導者たちは上洛して京都の親鸞に面した。その京都からの帰り、高田門徒の指導者の一人であった顕智は三河国の「権守トノ」こと和田円善宅に滞在し、円善を弟子とし、ここを拠点に三年にわたって布教を行なった(「三河念仏相承日記」)。こうして和田門徒が形成されていき、後に円善は三門徒派如道の師となった。

親鸞死後もその娘の覚信尼を助けて大谷廟堂(後の本願寺)の造営に力を注いだ。一説によれば浄土真宗で初めて法印・大僧都に叙任されたと伝えられる。