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「前念命終」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:信受本願 前念命終 <sub>即入正定聚之数文</sub>
 
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:即得往生 後念即生 <sub>即時入必定文 又名必定菩薩也文</sub>
 
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:他力金剛心也応知
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:他力金剛心也 応知
 
:便同弥勒菩薩 <sub>自力金剛心也応知 大経言次如弥勒文</sub>
 
:便同弥勒菩薩 <sub>自力金剛心也応知 大経言次如弥勒文</sub>
信受本願は、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」の意であり、即得往生は「即得往生 住不退転」の意である。<br />
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信受本願は、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」の意であり、即得往生は「即得往生 住不退転」の意である。即得往生の語は現生正定聚の信益同時の徳をあらわす語とみられた。[[トーク:一念多念証文#.E5.8D.81.E4.BA.8C.E3.80.80.E5.8D.B3.E5.BE.97.E5.BE.80.E7.94.9F.E8.AB.96|(*)]]<br />
 
梯實圓和上は、この意を『一念多念文意講讃』で、<br />
 
梯實圓和上は、この意を『一念多念文意講讃』で、<br />
 
 また本願を信受することを「命終」といわれたのは自力疑心が滅したことをいい、即得往生を後念即生といわれたのは、信心の利益として摂取不捨にあずかれば、正定聚に入り如来の慈光中に生きるものとなるからである。
 
 また本願を信受することを「命終」といわれたのは自力疑心が滅したことをいい、即得往生を後念即生といわれたのは、信心の利益として摂取不捨にあずかれば、正定聚に入り如来の慈光中に生きるものとなるからである。
 
私はそれを如来の智慧と慈悲の秩序の中に包摂せられ、自己の存在が如来によって意味づけられることであるというのである。<br />
 
私はそれを如来の智慧と慈悲の秩序の中に包摂せられ、自己の存在が如来によって意味づけられることであるというのである。<br />
 
と、云われていた。
 
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2017年4月15日 (土) 04:18時点における版

ぜんねんみょうじゅう・後念即生(ごねんそくしょう)

  善導大師(ぜんどうだいし)の『礼讃(らいさん)』に出る語。念仏行者は前念に命が終れば、後念にただちに浄土に往生するという意であるが、親鸞聖人は、現世において信心を獲得(ぎゃくとく)すると同時に正定聚の位に入る意とした。(愚禿上 P.509)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

原文:

真実浄信心 内因 摂取不捨外縁
信受本願 前念命終 即入正定聚之数文
即得往生 後念即生 即時入必定文 又名必定菩薩也文
他力金剛心也 応知
便同弥勒菩薩 自力金剛心也応知 大経言次如弥勒文

信受本願は、本願成就文の「聞其名号 信心歓喜」の意であり、即得往生は「即得往生 住不退転」の意である。即得往生の語は現生正定聚の信益同時の徳をあらわす語とみられた。(*)
梯實圓和上は、この意を『一念多念文意講讃』で、
 また本願を信受することを「命終」といわれたのは自力疑心が滅したことをいい、即得往生を後念即生といわれたのは、信心の利益として摂取不捨にあずかれば、正定聚に入り如来の慈光中に生きるものとなるからである。 私はそれを如来の智慧と慈悲の秩序の中に包摂せられ、自己の存在が如来によって意味づけられることであるというのである。
と、云われていた。