「聞此法歓喜信心無疑者 速成無上道与諸如来等」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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::この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、 | ::この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、 | ||
− | :速成無上道 與諸如來等 | + | :<kana>速成無上道(そくじょうむじょうどう)</kana> <kana>與諸如來等(よしょにょらいとう)</kana> |
::すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん。 | ::すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん。 | ||
と読むのだが、御開山は、 | と読むのだが、御開山は、 | ||
:聞此法歡喜 信心無疑者 | :聞此法歡喜 信心無疑者 | ||
− | :: | + | ::この法を聞きて信心を歓喜して、疑なき者は、 |
:速成無上道 與諸如來等 | :速成無上道 與諸如來等 | ||
::すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し。 | ::すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し。 | ||
− | + | と訓まれ、如来の回向された信心を歓喜する「信心歓喜」の意に転じられた。これは本願成就文に、 | |
− | + | :<kana>諸有衆生(しょうしゅじょう)</kana>、<kana>聞其名号(もんごみょうごう)</kana>、<kana>信心歓喜(しんじんかんぎ)</kana>、<kana>乃至一念(ないしいちねん)</kana>。<kana>至心廻向(ししんえこう)</kana>。 | |
+ | ::あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。 | ||
+ | とある「信心歓喜」の文の意を洞察されて、如来から回向された「信心を歓喜して、疑なき者は」と訓じられたのであろう。<br /> | ||
+ | 「聞此法(この法を聞きて)」の法とは「入法界品」の当面では善財童子に代表される修行者の菩提心の法である。これを転じて、この法とは阿弥陀如来因位の法蔵菩薩の菩提心(本願)であり、これが私に於いては回向された[[願作仏心]]であり、還相の[[度衆生心]]であるとされた。浄土真宗の横超の菩提心とは、私が発起するのではなく阿弥陀如来の菩提心に包摂されていることをいうのである。この意味において「もろもろの如来と等し」とされたのである。念仏の信心のg唐者は、諸仏と等しいとされる、現生正定聚説の根拠の一でもあった。<br /> | ||
+ | これを「諸経和讃」の前半の句で、 | ||
+ | :(94) | ||
+ | :信心よろこぶそのひとを | ||
+ | : 如来とひとしとときたまふ | ||
+ | : 大信心は仏性なり | ||
+ | : 仏性すなはち如来なり | ||
+ | と、和讃されたのであった。 | ||
+ | なお、後半の句は『涅槃経』の、 | ||
+ | :大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。 ([[信巻本#P--237|信巻 P.237]])で引文 | ||
+ | からとられたのである。御開山が学んでおられたのは、天台教学であった。その天台の教判では、釈尊一代の教をその説かれた時を五時に分類して考察している。いわゆる、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時の五時教判である。もっともこの分類法は現在の仏教教理史上では受け入れられていないのだが、天台僧として二十年にわたって学ばれた御開山にとっては当然のことであったと思われる。<br /> | ||
+ | 前掲の和讃や引文などを窺うと、釈尊の最初の説法とされる『華厳経』と最後の説法であるとされる『涅槃経』を挙げることによって全仏教を、[[誓願一仏乗]]([[行巻#no84|行巻p195]])に総摂するという意図もあったのであろう。 | ||
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2017年5月3日 (水) 21:10時点における版
もんしほうかんぎ しんじんむぎしゃ そくじょうむじょうどう よしょにょらいとう
「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」(信巻訓) (消息 P.777)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
菩提心を説く華厳経』「入法界品」(晋訳)にある文。『教行証文類』(信巻 P.237)で引文されておられる。
通常は、
聞此法歡喜 信心無疑者 - この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、
速成無上道 與諸如來等 - すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん。
と読むのだが、御開山は、
- 聞此法歡喜 信心無疑者
- この法を聞きて信心を歓喜して、疑なき者は、
- 速成無上道 與諸如來等
- すみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し。
と訓まれ、如来の回向された信心を歓喜する「信心歓喜」の意に転じられた。これは本願成就文に、
諸有衆生 、聞其名号 、信心歓喜 、乃至一念 。至心廻向 。- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。
とある「信心歓喜」の文の意を洞察されて、如来から回向された「信心を歓喜して、疑なき者は」と訓じられたのであろう。
「聞此法(この法を聞きて)」の法とは「入法界品」の当面では善財童子に代表される修行者の菩提心の法である。これを転じて、この法とは阿弥陀如来因位の法蔵菩薩の菩提心(本願)であり、これが私に於いては回向された願作仏心であり、還相の度衆生心であるとされた。浄土真宗の横超の菩提心とは、私が発起するのではなく阿弥陀如来の菩提心に包摂されていることをいうのである。この意味において「もろもろの如来と等し」とされたのである。念仏の信心のg唐者は、諸仏と等しいとされる、現生正定聚説の根拠の一でもあった。
これを「諸経和讃」の前半の句で、
- (94)
- 信心よろこぶそのひとを
- 如来とひとしとときたまふ
- 大信心は仏性なり
- 仏性すなはち如来なり
と、和讃されたのであった。 なお、後半の句は『涅槃経』の、
- 大信心はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。 (信巻 P.237)で引文
からとられたのである。御開山が学んでおられたのは、天台教学であった。その天台の教判では、釈尊一代の教をその説かれた時を五時に分類して考察している。いわゆる、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時の五時教判である。もっともこの分類法は現在の仏教教理史上では受け入れられていないのだが、天台僧として二十年にわたって学ばれた御開山にとっては当然のことであったと思われる。
前掲の和讃や引文などを窺うと、釈尊の最初の説法とされる『華厳経』と最後の説法であるとされる『涅槃経』を挙げることによって全仏教を、誓願一仏乗(行巻p195)に総摂するという意図もあったのであろう。