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度衆生心

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

どしゅじょうしん

 衆生を救済しようとする心。曇鸞大師は無上菩提心を規定して願作仏心度衆生心とした、→菩提心

【左訓】

①「衆生をわたすこころなり」(高僧 P.581) 

②「よろづの有情を仏ほとけになさんとおもふこころなりとしるべし」(異本)(正像 P.603)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

御開山は引文されておられないのだが、源信僧都は『往生要集』上巻で四弘誓願菩提心を述べ、

知りぬべし、念仏・修善を業因(ごういん)となし、往生極楽を華報(けほう)となし、証大菩提を果報(かほう)となし、利益衆生を本懐(ほんがい)となす。 たとへば、世間に木を植うれば(はな)を開き、華によりて(このみ)を結び、菓を得て餐受するがごとし。 (要集 P.930)

と、「利益衆生を本懐」となすが故に浄土へ往生するのであるとされている。源信僧都には、「我だにも まづ極楽に 生まれなば 知るも知らぬも 皆むかへてむ」(『新古今和歌集』)という句があり、衆生済度の為に往生をするとされた。
なお、ここでの修善は浄土真宗では、本願に選択された〔なんまんだぶ〕と称える以上の善はないのであるから念仏=修善を業因としてもよいであろう。
この言葉の出拠となった天台大師智顗の撰といわれる『淨土十疑論』の第「一疑」では、

問いて曰く。諸仏菩薩は大悲をもって業となし、もし衆生を救度せんと欲せば、ただ三界に願生して、五濁三塗の中において 苦の衆生を救うべし。何によりて浄土に生ずるを求むや。 自らその身を安んじ衆生を捨離す、則ちこれ大慈悲無くして専ら自利の為にして菩提の道を障(さ)ふ。 (『淨土十疑論』一疑)

と、浄土へ往生しようとする輩は、利他の大悲を忘れた自利の行者ではないのかとの疑いを出し、それに対して答えている。参照→『淨土十疑論』
御開山は本願力回向による往生即成仏をいわれるので少しく趣旨が違うのだが、先達の往生浄土に対する「還相の利益は利他の正意を顕すなり」(証巻 P.335) の考察を学ぶのも面白いものであろう。
なお、御開山は本願力回向の「願作仏心」「度衆生心」を横超の浄土の菩提心であるとされ、浄土真宗は正覚を求めるご法義であるとされておられた。

(17)

尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまへ (高僧 P.581)

(18)

願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり (高僧 P.581)
慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
願作仏心
度衆生心
還相
無住処涅槃
菩提心
願作仏心
済度