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「慶喜」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「 親鸞聖人は、救われたよろこびをあらわすのに「歓喜」という場合と「慶喜」という場合とで意味を変えられていた。どち...」)
 
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 親鸞聖人は、救われたよろこびをあらわすのに「歓喜」という場合と「慶喜」という場合とで意味を変えられていた。どちらも身も心もよろこびに満ち溢れるような状況を表す言葉であるが、「歓喜」を、
 
 親鸞聖人は、救われたよろこびをあらわすのに「歓喜」という場合と「慶喜」という場合とで意味を変えられていた。どちらも身も心もよろこびに満ち溢れるような状況を表す言葉であるが、「歓喜」を、
:「歓喜は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり」([[一多#no10|一多 P.684]])
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;将来のよろこび
といわれるように、まだ実現してはいないが、必ず実現することに決定している事柄を期待をこめてよろこぶ場合の用語であるといわれる。したがって浄土に往生して悟りを得しめられることをかねてからよろこぶという未来形の喜びを表すというのである。<br>
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:「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。([[一多#no10|一多 P.684]])
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といわれるように、まだ実現してはいないが、必ず実現することに決定している事柄を期待をこめてよろこぶ場合の言葉であるといわれるのである。将来(まさにきたるべき)、往生成仏のよろこびを歓喜というのである。したがって浄土に往生して悟りを得しめられることをかねてからよろこぶという未来形の喜びを表すというのであった。<br>
 
それにひきかえ「慶喜」とか「慶楽」は、
 
それにひきかえ「慶喜」とか「慶楽」は、
:「慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたちをあらはすなり」([[一多#P--685|一多 P.685]])
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といわれるように、既にわが身の上に実現している事柄をよろこぶ場合に用いられるのであった。実現しなければならないことが、すでに実現して今も持続している現在形の喜ぶことばであるといわれるのである。
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といわれるように、既にわが身の上に実現している事柄をよろこぶ場合に用いられるのであった。[[慶喜]]とは、実現しなければならないことが、すでに実現して今も持続している現在形の喜ぶ言葉であるといわれるのである。
 
(梯實圓和上著『一念多念文意講讃』を参照した)
 
(梯實圓和上著『一念多念文意講讃』を参照した)

2018年2月1日 (木) 20:38時点における版

 親鸞聖人は、救われたよろこびをあらわすのに「歓喜」という場合と「慶喜」という場合とで意味を変えられていた。どちらも身も心もよろこびに満ち溢れるような状況を表す言葉であるが、「歓喜」を、

将来のよろこび
「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。(一多 P.684)

といわれるように、まだ実現してはいないが、必ず実現することに決定している事柄を期待をこめてよろこぶ場合の言葉であるといわれるのである。将来(まさにきたるべき)、往生成仏のよろこびを歓喜というのである。したがって浄土に往生して悟りを得しめられることをかねてからよろこぶという未来形の喜びを表すというのであった。
それにひきかえ「慶喜」とか「慶楽」は、

現在のよろこび
「慶」はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたちをあらはすなり。(一多 P.685)

といわれるように、既にわが身の上に実現している事柄をよろこぶ場合に用いられるのであった。慶喜とは、実現しなければならないことが、すでに実現して今も持続している現在形の喜ぶ言葉であるといわれるのである。 (梯實圓和上著『一念多念文意講讃』を参照した)