一念多念証文

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親鸞聖人が、同じ法然上人門下の隆寛律師が著された『一念多念分別事』に引証された経釈の要文、および関連する諸文を、一念・多念の問題に関する証文としてあげ、それに註釈を施されたものである。本書の親鸞聖人真蹟本の表紙には「一念多念文意」と題されており、『一念多念文意』『一多文意』とも称され、また『一多証文』『証文』とも称される。

 全体を2段にわけ、前段は「一念をひがごととおもふまじき事」として、一念に関する要文を13文引証し、また後段は「多念をひがごととおもふまじき事」として、多念に関する要文を8文引証されている。そして専修念仏は一念・多念のいずれにも偏執しない念仏往生の義であることを明らかにされている。

 法然上人門下におこった一念・多念の諍論に対して、一念や多念に偏執してはならないことを諭されたのが隆寛律師の『一念多念分別事』であり、その意をうけたのが本書であるが、前段に引かれる13文の証文のうち、『一念多念分別事』からの引文はわずかに3文であり、また、後段では8文のうちの5文ほどが同書からの引文であることなどからも、本書が単なる『一念多念分別事』の註釈書ではないことが知られるのである。


一念多念証文

   一念多念文意

【1】 一念をひがこととおもふまじき事。

 「恒願一切臨終時 勝縁勝境悉現前」(礼讃)といふは、「恒」は、つねにといふ、「願」はねがふといふなり。いまつねにといふは、たえぬこころなり、をりにしたがうて、ときどきもねがへといふなり。いまつねにといふは、常の義にはあらず。常といふは、つねなること、ひまなかれといふこころなり、ときとしてたえず、ところとしてへだてずきらはぬを常といふなり。「一切臨終時」といふは、極楽をねがふよろづの衆生、いのちをはらんときまでといふことばなり。「勝縁勝境」といふは、仏をもみたてまつり、ひかりをもみ、異香をもかぎ、善知識のすすめにもあはんとおもへとなり。「悉現前」といふは、さまざまのめでたきことども、めのまへにあらはれたまへとねがへとなり。

【2】 『無量寿経』(下)のなかに、あるいは「 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」と説きたまへり。「諸有衆生」といふは、十方のよろづの衆生と申すこころなり。

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり。

「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。「乃至」は、おほきをもすくなきをも、ひさしきをもちかきをも、さきをものちをも、みなかねをさむることばなり。

一念」といふは、信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり。「至心回向」といふは、「至心」は真実といふことばなり、真実は阿弥陀如来の御こころなり。「回向」は、本願の名号をもつて十方の衆生にあたへたまふ御のりなり。「願生彼国」といふは、「願生」は、よろづの衆生、本願の報土へ生れんとねがへとなり。「彼国」はかのくにといふ、安楽国ををしへたまへるなり。「即得往生」といふは、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をもへだてぬなり。

また「即」はつくといふ、その位に定まりつくといふことばなり。「得」はうべきことをえたりといふ。真実信心をうれば、すなはち無碍光仏の御こころのうちに摂取して捨てたまはざるなり。摂はをさめたまふ、取はむかへとると申すなり。をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚(ワウジヤウスベキミトサダマルナリ)の位につき定まるを「往生を得」とはのたまへるなり。

【3】 しかれば、必至滅度の誓願(第十一願)を『大経』(上)に説きたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」と願じたまへり。また『経』(如来会・上)にのたまはく、「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」と誓ひたまへり。

この願成就を、釈迦如来説きたまはく、「其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚」(大経・下)とのたまへり。

これらの文のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚にも住して、かならず滅度に至らずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるこころなり。

またのたまはく、「もしわれ仏に成らんに、国のうちの有情、もし決定して、等正覚を成りて、大涅槃を証せずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるなり。

かくのごとく法蔵菩薩誓ひたまへるを、釈迦如来、五濁のわれらがために説きたまへる文のこころは、「それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり」とのたまへり。

この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆゑに、「等正覚を成る」とも説き、「阿毘跋致にいたる」とも、「阿惟越致にいたる」とも説きたまふ。「即時入必定」とも申すなり。この真実信楽は他力横超の金剛心なり。

【4】 しかれば、念仏のひとをば『大経』(下)には、「次如弥勒」と説きたまへり。弥勒は竪の金剛心の菩薩なり、竪と申すはたたさまと申すことばなり。

これは聖道自力の難行道の人なり。横はよこさまにといふなり、超はこえてといふなり。これは仏の大願業力の船に乗じぬれば、生死の大海をよこさまにこえて真実報土の岸につくなり。

「次如弥勒」と申すは、「次」はちかしといふ、つぎにといふ。ちかしといふは、弥勒は大涅槃にいたりたまふべきひとなり。このゆゑに「弥勒のごとし」とのたまへり。

念仏信心の人も大涅槃にちかづくとなり。つぎにといふは、釈迦仏のつぎに五十六億七千万歳をへて、妙覚の位にいたりたまふべしとなり。「如」はごとしといふ。ごとしといふは、他力信楽のひとは、この世のうちにて不退の位にのぼりて、かならず大般涅槃のさとりをひらかんこと、弥勒のごとしとなり。

【5】 『浄土論』(論註・下)にいはく、「経言〈若人但聞彼国土清浄安楽 剋念願生 亦得往生 即入正定聚〉此是国土名字為仏事 安可思議」とのたまへり。

この文のこころは、「もしひと、ひとへにかの国の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生れんと願ふひとと、またすでに往生を得たるひとも、すなはち正定聚に入るなり。

これはこれ、かの国の名字を聞くにさだめて仏事をなす。いづくんぞ思議すべきや」とのたまへるなり。安楽浄土の不可称不可説不可思議の徳をもとめず、しらざるに、信ずる人に得しむとしるべしとなり。

【6】 また王日休のいはく(龍舒浄土文)、「念仏衆生便同弥勒」(意)といへり。「念仏衆生」は、金剛の信心をえたる人なり。「便」はすなはちといふ、たよりといふ。信心の方便によりて、すなはち正定聚の位に住せしめたまふがゆゑにとなり。「同」はおなじきなりといふ、念仏の人は無上涅槃にいたること、弥勒におなじきひとと申すなり。

【7】 また『経』(観経)にのたまはく、「若念仏者 当知此人 是人中分陀利華」とのたまへり。「若念仏者」と申すは、もし念仏せんひとと申すなり。

「当知此人是人中分陀利華」といふは、まさにこのひとはこれ人中の分陀利華なりとしるべしとなり。これは如来のみことに、分陀利華を念仏のひとにたとへたまへるなり。

この華は、「人中の上上華なり、好華なり、妙好華なり、希有華なり、最勝華なり」(散善義・意)とほめたまへり。光明寺の和尚(善導)の御釈(散善義)には、念仏の人をば上上人・好人・妙好人・希有人・最勝人とほめたまへり。

【8】 また現生護念の利益ををしへたまふには、「但有専念 阿弥陀仏衆生 彼仏心光常照是人摂護不捨 総不論照摂余雑業行者 此亦是現生護念増上縁」(観念法門)とのたまへり。

この文のこころは、「但有専念阿弥陀仏衆生」といふは、ひとすぢに弥陀仏を信じたてまつると申す御ことなり。「彼仏心光」と申すは、「彼」はかれと申す、「仏心光」と申すは、無碍光仏の御こころと申すなり。

「常照是人」といふは、「常」はつねなること、ひまなくたえずといふなり。「照」はてらすといふ、ときをきらはず、ところをへだてず、ひまなく真実信心のひとをばつねにてらしまもりたまふなり。

かの仏心につねにひまなくまもりたまへば、弥陀仏をば不断光仏と申すなり。「是人」といふは、「是」は非に対することばなり。真実信楽のひとをば是人と申す、虚仮疑惑のものをば非人といふ。

非人といふは、ひとにあらずときらひ、わるきものといふなり、是人はよきひとと申す。「摂護不捨」と申すは、「摂」はをさめとるといふ、「護」はところをへだてず、ときをわかず、ひとをきらはず、信心ある人をばひまなくまもりたまふとなり。まもるといふは、異学・異見のともがらにやぶられず、別解・別行のものにさへられず天魔波旬にをかされず、悪鬼・悪神なやますことなしとなり。

「不捨」といふは、信心のひとを、智慧光仏の御こころにをさめまもりて、心光のうちにときとして捨てたまはずと、しらしめんと申す御のりなり。

「総不論照摂余雑業行者」といふは、「総」はみなといふなり、「不論」はいはずといふこころなり。「照摂」はてらしをさむと、「余の雑業」といふはもろもろの善業なり、雑行を修し雑修をこのむものをば、すべてみなてらしをさむといはずと、まもらずとのたまへるなり。これすなはち本願の行者にあらざるゆゑに、摂取の利益にあづからざるなりとしるべしとなり。

この世にてまもらずとなり。「此亦是現生護念」といふは、この世にてまもらせたまふとなり。本願業力は信心のひとの強縁なるがゆゑに、増上縁と申すなり。信心をうるをよろこぶ人をば、『経』(華厳経・入法界品)には「諸仏とひとしきひと」(意)と説きたまへり。

【9】 首楞厳院の源信和尚のたまはく、「我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無倦常照我身」(往生要集・中)と。この文のこころは、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさへて、みたてまつるにあたはずといへども、大悲ものうきことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」とのたまへるなり。

10】 「其有得聞彼仏名号」(大経・下)といふは、本願の名号を信ずべしと、釈尊説きたまへる御のりなり。「歓喜踊躍乃至一念」といふは、「歓喜」は、うべきことをえてんずと、さきだちてかねてよろこぶこころなり。

「踊」は天にをどるといふ、「躍」は地にをどるといふ、よろこぶこころのきはまりなきかたちなり、慶楽するありさまをあらはすなり。

慶はうべきことをえてのちによろこぶこころなり、楽はたのしむこころなり、これは正定聚の位をうるかたちをあらはすなり。「乃至」は、称名の遍数の定まりなきことをあらはす。

一念」は功徳のきはまり、一念に万徳ことごとくそなはる、よろづの善みなをさまるなり。「当知此人」といふは、信心のひとをあらはす御のりなり。「為得大利」といふは、無上涅槃をさとるゆゑに、「則是具足無上功徳」とものたまへるなり。

「則」といふは、すなはちといふ、のりと申すことばなり。如来の本願を信じて一念するに、かならずもとめざるに無上の功徳を得しめ、しらざるに広大の利益を得るなり。自然にさまざまのさとりをすなはちひらく法則なり。法則といふは、はじめて行者のはからひにあらず、もとより不可思議の利益にあづかること、自然のありさまと申すことをしらしむるを法則とはいふなり、一念信心をうるひとのありさまの自然なることをあらはすを法則とは申すなり。

【11】 『経』(大経・下)に「無諸邪聚及不定聚」といふは、「無」はなしといふ、「諸」はよろづのことといふことばなり。「邪聚」といふは、雑行雑修・万善諸行のひと、報土にはなければなりといふなり。「及」はおよぶといふ、「不定聚」は自力の念仏、疑惑の念仏の人は、報土になしといふなり。正定聚の人のみ真実報土に生るればなり。

 この文どもは、これ一念の証文なり。おもふほどはあらはしまうさず。これにておしはからせたまふべきなり。

【12】 多念をひがこととおもふまじき事。

 本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。この誓願はすなはち易往易行のみちをあらはし、大慈大悲のきはまりなきことをしめしたまふなり。

【13】 『阿弥陀経』に、「一日乃至七日、名号をとなふべし」と、釈迦如来説きおきたまへる御のりなり。この『経』は無問自説経と申す。この『経』を説きたまひしに、如来に問ひたてまつる人もなし。これすなはち釈尊出世の本懐をあらはさんとおぼしめすゆゑに無問自説と申すなり。弥陀選択の本願、十方諸仏の証誠、諸仏出世の素懐恒沙如来の護念は、諸仏咨嗟御ちかひ(第十七願)をあらはさんとなり。

【14】 諸仏称名の誓願(第十七願)、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」と願じたまへり。この悲願のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、仏に成らじ」と誓ひたまへるなり。「咨嗟」と申すは、よろづの仏にほめられたてまつると申す御ことなり。

15】 「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

「行住座臥不問時節久近」といふは、「行」はあるくなり、「住」はたたるなり、「座」はゐるなり、「臥」はふすなり。「不問」はとはずといふなり、「時」はときなり、十二時なり、「節」はときなり、十二月、四季なり。「久」はひさしき、「近」はちかしとなり。ときをえらばざれば不浄のときをへだてず、よろづのことをきらはざれば不問といふなり。「是名正定之業順彼仏願故」といふは、弘誓を信ずる報土の業因と定まるを正定の業となづくといふ、仏の願にしたがふがゆゑにと申す文なり。

【16】 一念多念のあらそひをなすひとをば、異学・別解のひとと申すなり。異学といふは、聖道・外道におもむきて、余行を修し、余仏を念ず、吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり、これは外道なり、これらはひとへに自力をたのむものなり。

別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

17】 「上尽一形」(法事讃・下)といふは、「上」はかみといふ、すすむといふ、のぼるといふ、いのちをはらんまでといふ。「尽」はつくるまでといふ、「形」はかたちといふ、あらはすといふ、念仏せんこといのちをはらんまでとなり。

「十念・三念・五念のものもむかへたまふ」といふは、念仏の遍数によらざることをあらはすなり。「直為弥陀弘誓重」といふは、「直」はただしきなり、如来の直説といふなり。諸仏の世に出でたまふ本意と申すを直説といふなり。「」はなすといふ、もちゐるといふ、さだまるといふ、かれといふ、これといふ、あふといふ、あふといふはかたちといふこころなり。「重」はかさなるといふ、おもしといふ、あつしといふ。誓願の名号、これをもちゐさだめなしたまふことかさなれりとおもふべきことをしらせんとなり。

【18】 しかれば『大経』(上)には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。

この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。

「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。

しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。

しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。

この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

いま一乗と申すは本願なり。円融と申すは、よろづの功徳善根みちみちてかくることなし、自在なるこころなり。無碍と申すは、煩悩悪業にさへられず、やぶられぬをいふなり。真実功徳と申すは名号なり。一実真如の妙理、円満せるがゆゑに、大宝海にたとへたまふなり。

一実真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来なり。宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなくへだてず、みちびきたまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。

これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。

この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。

【19】 『浄土論』にいはく、「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまへり。

この文のこころは、「仏の本願力を観ずるに、まうあうてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」とのたまへり。「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり。

「遇」はまうあふといふ、まうあふと申すは本願力を信ずるなり。「無」はなしといふ、「空」はむなしくといふ、「過」はすぐるといふ、「者」はひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。

「能」はよくといふ、「令」はせしむといふ、よしといふ、「速」はすみやかにといふ、疾きことといふなり、「満」はみつといふ、「足」はたりぬといふ。「功徳」と申すは名号なり、「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに大宝海とたとへたるなり。

20】 「致使凡夫念即生 」(法事讃・下)といふは、「致」はむねとすといふ、むねとすといふはこれを本とすといふことばなり、いたるといふ、いたるといふは実報土にいたるとなり、「使」はせしむといふ、「凡夫」はすなはちわれらなり、本願力を信楽するをむねとすべしとなり、「念」は如来の御ちかひをふたごころなく信ずるをいふなり、「即」はすなはちといふ、ときをへず、日をへだてず、正定聚の位に定まるを「即生」といふなり、「生」はうまるといふ、これを「念即生」と申すなり。

また「即」はつくといふ、つくといふは位にかならずのぼるべき身といふなり。世俗のならひにも、国の王の位にのぼるをば即位といふ、位といふはくらゐといふ、これを東宮の位にゐるひとはかならず王の位につくがごとく、正定聚の位につくは東宮の位のごとし、王にのぼるは即位といふ、これはすなはち無上大涅槃にいたるを申すなり。信心のひとは正定聚にいたりて、かならず滅度に至ると誓ひたまへるなり。これを「致」とすといふ、むねとすと申すは涅槃のさとりをひらくをむねとすとなり。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。諸仏出世の直説、如来成道の素懐は、凡夫は弥陀の本願を念ぜしめて即生するをむねとすべしとなり。

21】 「今信知弥陀本弘誓願 及称名号」(礼讃)といふは、如来のちかひを信知すと申すこころなり。

「信」といふは金剛心なり、「知」といふはしるといふ、煩悩悪業の衆生をみちびきたまふとしるなり。また「知」といふは観なり、こころにうかべおもふを観といふ、こころにうかべしるを「知」といふなり。

「及称名号」といふは、「及」はおよぶといふ、およぶといふはかねたるこころなり、「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。

【22】 これは多念の証文なり。おもふやうには申しあらはさねども、これにて一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし。   南無阿弥陀仏


 ゐなかのひとびとの文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりなきゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをとりかへしとりかへし書きつけたり。こころあらんひとは、をかしくおもふべし、あざけりをなすべし。しかれども、ひとのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚かなるひとびとを、こころえやすからんとてしるせるなり。

   [康元二歳丁巳二月十七日]        [愚禿親鸞八十五歳これを書く。]