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「つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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原文では、仏道を成じた諸仏の修された必定と希有の行を念ずるのであるが、御開山は、諸仏(第十七願の名号を讃嘆される諸仏)が諸仏の大法(本願の名号を教示された仏)の示される、[[必定]]希有の行である〔なんまんだぶ〕を行ずることが、成仏の法であるとされ、それ故に「[[念仏成仏]]」の法の歓喜の思いが多いとされた。
 
原文では、仏道を成じた諸仏の修された必定と希有の行を念ずるのであるが、御開山は、諸仏(第十七願の名号を讃嘆される諸仏)が諸仏の大法(本願の名号を教示された仏)の示される、[[必定]]希有の行である〔なんまんだぶ〕を行ずることが、成仏の法であるとされ、それ故に「[[念仏成仏]]」の法の歓喜の思いが多いとされた。
 
:希有の行を念ずといふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたはざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざるところなり。([[行巻#P--149|行巻 P.149]])
 
:希有の行を念ずといふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたはざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざるところなり。([[行巻#P--149|行巻 P.149]])
である。『愚禿鈔』で、
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である「[[第十七願]]」の諸仏による[[能詮]]の教・[[所詮]]の行であるから「一切凡夫の」及ばない「一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざる」「[[大行]]」なのである。『愚禿鈔』で、
 
: 本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。'''第一希有の行なり'''。([[愚禿上#no21|愚禿上 P.507]])
 
: 本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。'''第一希有の行なり'''。([[愚禿上#no21|愚禿上 P.507]])
 
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2018年6月7日 (木) 11:35時点における版

つねにしょぶつおよびしょぶつのたいほうをねんずれば、ひつじょうしてけうのぎょうなり

 通常は「つねに諸仏および諸仏の大法と、必定と稀有の行を念ず」と読む。(行巻 P.148)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『十住毘婆沙論』の当面は、

常念於諸仏 及諸仏大法
常に諸仏および諸仏の大法と、
必定希有行 是故多歓喜
必定と稀有の行を念ず。この故に歓喜多し。(*)

とある偈文を御開山は以下のように訓じられた。

常念於諸仏 及諸仏大法
常に諸仏および諸仏の大法を念ずれば、
必定希有行 是故多歓喜
必定して稀有の行なり。この故に歓喜多し。(行巻 P.148)

原文では、仏道を成じた諸仏の修された必定と希有の行を念ずるのであるが、御開山は、諸仏(第十七願の名号を讃嘆される諸仏)が諸仏の大法(本願の名号を教示された仏)の示される、必定希有の行である〔なんまんだぶ〕を行ずることが、成仏の法であるとされ、それ故に「念仏成仏」の法の歓喜の思いが多いとされた。

希有の行を念ずといふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたはざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざるところなり。(行巻 P.149)

である「第十七願」の諸仏による能詮の教・所詮の行であるから「一切凡夫の」及ばない「一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざる」「大行」なのである。『愚禿鈔』で、

 本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。第一希有の行なり。(愚禿上 P.507)

とされる所以である。