「浄信」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2018年6月24日 (日) 15:28時点における版
じょうしん
Ⅱ 『交名牒(きょうみようちょう)』には「七条次郎入道洛中居住弟子」とある。また『末灯鈔』の諸本には「高田門人」と伝えるものもある。(消息 P.778)
第二十通の浄信との同異不明。(消息 P.794)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
- 浄信
きよらなか信心の意で、他力信心のこと。衆生の顛倒・うそいつわりの心からではなく、真如にかなった阿弥陀仏の清らかな願心から起こり、衆生に回向された信心であるからこのようにいう。
『浄土文類聚鈔』には、
- 「浄信といふは、すなはち利他深広の信心なり。すなはちこれ念仏往生の願より出でたり」(p.480)
とある。(浄土真宗辞典)
浄信という語の出拠は『無量寿経』の成就文の
- 「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」(大経 P.41)
の一念を、異訳の『無量寿如来会』では、
- 「無量寿如来の名号を聞きて、乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽し」(如来会)
とあることから、法然聖人が行の一念とされた一念とは、信を発起する意味の言葉であり、浄信をしめす意味であると御開山は領解された。
- →信の一念