「十善」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
22行目: | 22行目: | ||
#不邪見(ふじゃけん) (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持たない。 | #不邪見(ふじゃけん) (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持たない。 | ||
− | + | キリスト教などにおける善は、自己に対してして欲しいことは人にもしなさい、という積極的な行為の肯定なので独断の善の押し売りになりやすい。自分がして欲しいことは、そのまま必ずしも他者の望むものではないからである<ref>マタイの福音書7章12節には「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい」とあり、日本ではこの影響からか「己の欲する所を人に施せ」という慣用句になっている。いわゆる己の思ふ善は推進せよという思想であろう。</ref>。<br /> | |
− | それ対して、仏教にとっての善とは、自分にして欲しくないことは人にもするな、という否定形をとるので価値(善)の押し付けにはなりにくい。このような意味で仏教での十善は否定形で云ふのであろう<ref>『論語』顔淵第十二の二には「己所不欲。勿施於人(己の欲せざる所は人に施すなかれ) | + | それ対して、仏教にとっての善とは、自分にして欲しくないことは人にもするな、という否定形をとるので価値(善)の押し付けにはなりにくい。このような意味で仏教での十善は否定形で云ふのであろう<ref>『論語』顔淵第十二の二には「己所不欲。勿施於人(己の欲せざる所は人に施すなかれ)」とあり、東洋における善とは抑制的にとらえるのであり、仏教における善も十善の例示のように否定的な表現をとるのであろう。ある意味では、人に迷惑をかけるな、という日本の道徳律のように善の押し売りによって他者を煩わせることを抑制する立場なのであろう。</ref> |
− | + | 。浄土真宗は社会に対して積極性に欠けるとの批判があるのだが、仏教における自己の行為から生じる[[業]](行為と意思による形成作用)を否定し避けようとする立場であり、それは否定で表現される十善に通じるものであったといえるであろう。 | |
:→[[ノート:十善]] | :→[[ノート:十善]] |
2018年7月25日 (水) 00:04時点における版
じゅうぜん
身・口・意の三業の中でとくに顕著な善い行為のこと。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
仏教における十悪を抑止するため否定形で表現したもの。
身業
- 不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
- 不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを取らない。
- 不邪淫(ふじゃいん) みだらな性的関係を持たない。
口業
- 不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
- 不綺語(ふきご) 中身の無い飾った話をしない。
- 不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
- 不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるような言葉をいわない。
意業
- 不貪欲(ふとんよく) 激しい欲をいだかない。
- 不瞋恚(ふしんに) 激しい怒りを持いだかない。
- 不邪見(ふじゃけん) (因果、業報、輪廻等を否定する)間違った見解を持たない。
キリスト教などにおける善は、自己に対してして欲しいことは人にもしなさい、という積極的な行為の肯定なので独断の善の押し売りになりやすい。自分がして欲しいことは、そのまま必ずしも他者の望むものではないからである[1]。
それ対して、仏教にとっての善とは、自分にして欲しくないことは人にもするな、という否定形をとるので価値(善)の押し付けにはなりにくい。このような意味で仏教での十善は否定形で云ふのであろう[2]
。浄土真宗は社会に対して積極性に欠けるとの批判があるのだが、仏教における自己の行為から生じる業(行為と意思による形成作用)を否定し避けようとする立場であり、それは否定で表現される十善に通じるものであったといえるであろう。