「即」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:即時有二種。一者同時。二者雖久更無異法。即是心而得修七覺亦名即時。 | :即時有二種。一者同時。二者雖久更無異法。即是心而得修七覺亦名即時。 | ||
::即時に二種有り、一には同時、二には久しといえども、更に異法無し。即ちこの心にして、而も[[七覚]]を修むることを得るも、また即時と名づく。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1509_.25.0313c25.html (*)] | ::即時に二種有り、一には同時、二には久しといえども、更に異法無し。即ちこの心にして、而も[[七覚]]を修むることを得るも、また即時と名づく。[http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT2012/T1509_.25.0313c25.html (*)] | ||
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2018年9月25日 (火) 04:13時点における版
そく
別々のものが本来的には一つであることをいう。不二、不離などに同じ。 天台教学では3種に分けて説明する。
二物相合 の即。二つの物が離れない関係にあることをいう。背面相翻 の即。表と裏のように一見異なっているが、その本質からいえば一であることをいう。当体全是 の即。あるものがそのまま違うものと同じであることをいい、「権即実(方便のままが真実である)」などと用いられる。
また、「即」の時間的関係をいうものに
(73)
- 煩悩具足と信知して
- 本願力に乗ずれば
- すなはち穢身すてはてて
- 法性常楽証せしむ (高僧 P.591)
とあるように、信心がおこることと穢身を捨てることは時間的な隔たりがあり異時である場合をいう。〔浄土真宗辞典〕
『智度論』には、
- 即時有二種。一者同時。二者雖久更無異法。即是心而得修七覺亦名即時。
と、同時即と異時即を論じている。
- →乃至